LOGIN玲央side
「祐実も見つかったことだし、ひとまず宿に行こう。……話をしなくてはいけないことが、山ほどある」
父が璃子の母親を「祐実」と名前で呼ぶと、彼女は子供のように無邪気に小さく頷いた。そして、吸い寄せられるように父の手に自らの手を重ね、引っ張られるままに歩き出した。その背中を、璃子は幽霊でも見るかのような虚ろな目で見つめていた。最愛の母の瞳に自分が映っていないという事実は、彼女の心を粉々に打ち砕くに十分だった。
「玲央、運転を代わるよ。お前は璃子ちゃんと後ろに乗って、様子を見てやってくれ」
父に言われるがまま、僕と璃子は後部座席に座った。車が走り出すと、璃子は糸が切れた人形のように僕の肩に深くもたれかかった。海風に当たり氷のように冷たくなった彼女の身体を温めるように手を握ると、極限の緊張から解放されたせいか、璃子は微かな寝息を立てて眠り始めた。
バックミラー越しに見える運転席の父と助手席の祐実さんは、一言の言葉も交わさない。時折、祐実さんが熱っぽい視線を父に送るが、父は一切それに応えることなく、ただ険しい表情で前方の闇だけを凝視していた。車内は、湿り気を帯びた不穏で重苦しい空気に支配され、エンジンの音だけが不気味に響いていた。
十五分ほど車を走らせ、予約していた奥伊豆の古い料亭宿に到着すると、仲居さんが手際よく、隣同士の二部屋を用意してくれる。襖を開けると、い草の香りが漂う静かな和室が広がっていた。
「今日こそは、ちゃんと話をしよう
佐奈side日曜日の昼前、蓮が家の前まで迎えに来てくれた。せっかくの休みだというのに、今すぐ激しい雨が降りそうな黒く重そうな雨雲をチラリと見て、助手席に乗り込む。木曜日の昼に送った会いたいというメールの返信が届いたのは、金曜日の夜だった。以前なら数時間で返ってきたはずの言葉が、丸一日以上も返ってこないことに蓮の心が離れてしまったような気がしてこのところ溜め息ばかりが続いていて、私の心は今日の空と同じようにどんよりと曇りきっていた。「最近、連絡くれたのに返事遅くなってごめん」車が走り出してすぐ、蓮は前を向いたままそう言った。(会って早々に謝罪の言葉を口にしてくれたことは嬉しいけれど、できるなら正面から顔を見て言ってほしかったな……)でも、蓮が仕事が忙しいのは分かっているし、理解のある婚約者でいたいと思う私は、自分の中の寂しさを飲み込んで「大丈夫」と短く返事をした。いつもは何かしら話をしているはずだけれど、どんな話をしているか思い出せない。何故だか今日は、沈黙が気まずく感じていた。「佐奈、怒ってる?」信号待ちで不意に尋ねられ、言葉に詰まった。今の気持ちに怒りは一ミリもない。ただ、そう思われたことへの悲しさに似た感情が入り交じっていた
佐奈side「連絡、遅くなってごめん。少し仕事が立て込んでいて……」そう蓮から連絡が来たのは、私が連絡してから三日後の深夜二時だった。そんな時間に起きているはずもなく、朝、温かい布団にくるまれながら手を伸ばしてスマホを取りメッセージを呼んだが、すぐに返事をする気になれなかった。アプリを閉じて、まだ眠い目をこすりながら伸びをして仕事のために仕方なく布団を出た。顔を洗いメイクをして身支度を整えてから、通勤電車を待っている間に再びスマホを取り出して蓮へと返事を打った。「遅くまで大変だったね、お疲れさま。あと二日でお休みだし頑張ろうね」普段と変わらないありきたりな返事をしてから、蓮のことは一旦忘れようと自分に喝を入れてぎゅうぎゅうに人が乗っている電車に吸い込まれるように足を踏み入れた。無心になって最寄り駅まで揺られているこの時間が、今日はなんだか心地がいい。仕事は経営部門で直接的な関わりはないため、目の前の数字を追うことだけに集中をした。しかし、それでも休憩室や遠くから聞こえてくる役員たちの話の中で支店の新たな人事や対応策についての話が聞こえてきて、まだこの問題が解決されていないことを思い知らされる。(電話やメールじゃなくて、蓮と直接話がしたいな……)昼休み、昼食を食べに出掛ける前に、蓮に『週末に会えない?』とメ
佐奈side「婚約破棄したとか言ってるけれど、璃子に捨てられただけじゃないの? それで、会社にも居づらくなって困って私のところに縋ってきたんじゃないの?」蓮から連絡が来ないことの苛立ちを颯にぶつけるように、自分でも質が悪いと思いながらも、つい意地悪な言葉を投げかけてしまっている。「違う。決してそんなんじゃない。だけど、佐奈が俺のことを信用できなくなっても仕方ないとも思っている。俺は、その失った信用を回復するところから始めたいんだ。……佐奈は、もう結婚するのか? まだ、今からでも俺が入り込む余地はあるかな?」颯の声から弱々しさが消えた。璃子と一緒にいた時の顔色を伺うような情けない颯ではない。少し強引で力強く話しかける颯に思わず言葉が詰まる。「……まだ入籍はしていないけれど、そのうち結婚するわ。だから、もう無理なの。遅すぎるわ」「そうか。……それなら、まだ佐奈のことを想っていてもいいかな?」「そんなこと、私に聞かないで! もう電話切るから」これ以上、颯の言葉を聞いている余裕なんてない。電話を切ろうとしたその時、颯が焦ったような早口で尋ねてきた。「待って! ネットニュースで見たんだ&hell
佐奈side「伝えたいこと?」「佐奈、俺、すべて終わらせてきた。璃子との婚約を破棄してきたよ」「え、なんで?」「最後に会った時に、佐奈が言っただろう?『璃子の悪事を知っていながらも、未だに璃子の隣にいるのは璃子のことを想っているからだ。それに、被害者ぶっているけれど颯は何も失っていない』って……」「それはそうだけど……」「そう言われて気づかされたんだ。確かに俺は何も失っていない。それどころか、婚約してすぐに家は1DKのアパートから高級なマンションに変わって、会社のポストも上がった。婚約したままで佐奈のことを想っているなんて伝えても、説得力もないし本気だなんて思えないよなって。佐奈からしてみれば、結婚前にふらふらしている軽い男みたいに俺は映っているかもしれないと思ったんだ」颯の言葉をただただ無言で聞いていた。今言っている言葉は、私があの時感じた心のモヤモヤや苛立ちをしっかりと言語化してくれている。婚約している立場でありながら、声を掛けてくることにも、もしかしたらなびくかもしれないと私自身を軽く見られていたのかと思うと何をふざけた事を言っているのだろうと全く笑えなかった。「あの時、事情があって婚約者のフリをしていたんだ。でも、もうする必要がなくなった。だから璃子との婚約を正式に解消したよ。俺は、もう璃子とは関
佐奈side蓮から連絡が来ないまま二日が過ぎた。今までも、出張期間中など仕事が立て込んでいる時は返事が遅くなることもあったが、特別大切な内容でもなかったし仕事に集中して欲しかったので、特に気にしていなかった。だけど、今回は違う。(お互いの会社間でのトラブルが発生して、心配だから連絡をしていたいと言っているのに……蓮の声を聞いて今後の話をしたり、安心したかったのにな)蓮だってメッセージの内容を見れば重要かそうでないか位、分かるはずだ。ましてや、仕事では、たくさんの取捨選択をして方針を決定し、先頭に立って動かしていく立場だ。そんな蓮が見落としたり、後回しにするとは思えなかった。だからこそ、この空白の時間は、私の事を避けているのではないか、何かご両親から言われて、蓮自身が考え事をしているのではないか、と深い影を落として私の心を不安にさせていた。スマホをぼんやりと眺めては、蓮からの通知がないか確認する。しかし、通知が届くことはなく、現実逃避するようにSNSのタイムラインを指でなぞっていた。 犬が尻尾を振る可愛い動画を見つけ再生ボタンをタップした、その瞬間だった。画面を割り込むように表示された着信に、指が勝手に反応してしまった。(あ、間違えた。ワンちゃんの動画を見て、癒されたかったのに……)
佐奈side事件の波紋は、私の想像を遥かに超える速さで広がっていった。MURAKIの不祥事は連日ネットニュースやテレビのワイドショーでも取り扱われた。社内の空気は一変し、他支店の派遣社員からも「自分の残業代は正しく支払われているのか」という不安の声が殺到しているそうだ。そんな中、週刊誌の続報は決定打となった。紙面には、藤堂グループから派遣されていた女性の痛切な告白が書かれている、彼女は単に残業代を支払われなかっただけでなく、支店長から「派遣の分際で権利を主張するな」という言葉を投げつけられていたという。(あの時、蓮が元気なかったのは……このせいだったんだ)一週間前の電話の異変がようやく繋がった。派遣会社の創業者一族である蓮と、今回加害者側になってしまった私の会社。今のタイミングで入籍や結婚に向けた動きが周囲に知られれば、藤堂グループ内でも蓮への激しい反発を招くのは目に見えていた。もしかしたら、この事態を蓮は一週間前から把握していて、既に父親である社長から何か言われていたのかもしれない。その夜、私は震える指で蓮にメッセージを送った。『蓮、記事を見たよ。被害に遭っていたのは、蓮の会社に登録していた派遣さんなんだね。何か言われていない?今







