INICIAR SESIÓN「婚約者の兄だと知らずに、私は彼に抱かれた――」 父の会社を救うため、御曹司・慶吾と政略婚約した大学生の真鍋杏莉。幼い頃の恐怖から男性に触れられると身体が震えてしまい、慶吾から「芋女」と蔑まれる日々を送っていた。 ある雷雨の夜、慶吾の浮気現場を目撃して部屋を追い出された杏莉は、ずぶ濡れのまま大学の研究室へ向かう。そこにいたのは、憧れの准教授・烏丸貴斗。彼の腕の中でだけ、身体は震えず、涙もこぼれなかった。 しかし結ばれたあとに告げられたのは、貴斗が婚約者の実の兄だという事実だった。 罪悪感に苛まれながらも、甘く包み込む彼の愛から逃れられない。そして貴斗には、八年間ひそかに抱き続けてきた想いがあって――。
Ver más窓ガラスを打ち据える雨音が、静まり返った室内でやけに大きく響いていた。
六月。梅雨特有の重く湿った空気が、同棲マンションの寝室に淀んでいる。高校を卒業してすぐに始まった慶吾との生活は、すでに二年余りが経過していた。その間、二人はまだ一度も身体を重ねられていない。
薄暗い部屋の中で、杏莉はひんやりとしたシーツを強く握りしめた。
扉が開く鈍い音とともに、廊下の明かりが細長く床に伸びる。慶吾が寝室へ足を踏み入れてきた。微かに漂うアルコールの匂いと、彼の纏う鋭くスパイシーな香水の香りが鼻をついた。
「おい、芋女」
無造作に放たれた冷たい声の直後、強い力で肩を掴まれ、杏莉はベッドへ押し倒された。
背中に柔らかなマットレスの感触が広がる。見上げると、端正な顔立ちに傲慢さを滲ませた慶吾が、杏莉を見下ろしていた。
乱暴な手つきで衣服のボタンが外されていく。布擦れの音が耳元で響き、室内の空気が剥き出しになった肌を冷たく撫でた。
(応えなければ――)
杏莉は固く目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
これは父の会社を救うための、大切な政略婚約だ。烏丸家からの出資と援助がなければ、真鍋精機はとうの昔に倒産していた。父を安心させるためにも、婚約者である慶吾との関係を深め、妻としての務めを果たさなければならない。彼から向けられる冷淡な態度も、家政婦のような扱いも、すべては応えられない自分が悪いのだ。慶吾を責めるつもりはない。婚約者として、身体を開くのは当然の義務なのだから。
彼の指先が鎖骨をなぞり、下着ごと布が剥ぎ取られていく。
自分から受け入れようと、杏莉は深呼吸を繰り返し、身体の力を抜こうと試みた。頭では痛いほど理解している。「怖い」という感情はとっくに眠っているはずだ。彼に身を委ねて、ただ流されればいいだけだと、自分に言い聞かせる。
だが、慶吾の大きく重い身体が覆い被さり、彼の滾る熱が直接肌に押し当てられた瞬間――。
杏莉の身体は、自らの意思を完全に裏切った。
全身の筋肉が意思に反して石のように硬直する。皮膚に粟が立ち、冷たい悪寒が波のように広がっていく。血の気が引き、指先から急速に体温が奪われていくのが分かった。
呼吸が浅くなり、肺が空気を拒絶する。喉の奥が痙攣したように塞がり、掠れた息が漏れた。
(だめ、どうして)
受け入れたいのに。応えなければならないのに。
歯の根が合わず、小さく鳴る音が鼓膜を打つ。身体の芯から湧き上がるような激しい震えが止まらない。関節が軋み、筋肉が強張る。恐怖など感じていないはずなのに、心は空っぽのままなのに、身体だけが明確な拒絶反応を示して暴走している。
視界が急速に歪み、熱い滴が頬を伝い落ちた。
溢れ出した涙は、どれだけ瞬きをしても次から次へと止め処なく流れ続ける。シーツに濃い染みを作り、冷たい雨の夜の空気に触れて冷えていく。
止まってほしい。こんなところで泣いて、また彼を失望させたくない。
杏莉の痛切な願いとは裏腹に、身体の震えは激しさを増すばかりだった。彼に触れられているという事実だけで、皮膚が焼け焦げるような錯覚に陥り、防衛本能が警鐘を鳴らし続ける。
ふっと、杏莉を覆っていた重みと熱が消えた。
涙で滲む視界の先、慶吾がベッドの端に立ち上がり、見下ろすような視線を向けていた。あからさまに興醒めした冷ややかな瞳。そこには、杏莉への侮蔑と苛立ちが色濃く浮かんでいる。
「最悪だな、お前。まじで使えねえし」
冷酷な声が、胸の奥を鋭く抉った。
吐き捨てるように言い放つと、慶吾は乱れた衣服を苛立たしげに整え、振り返ることもなく寝室を出ていく。乱暴に扉が閉められた。
暗い寝室に取り残され、杏莉は小さく身を縮こまらせた。彼の言葉が刃となって何度も心を切り裂く。胸が締めつけられ、息をするのすら苦しい。応えられない自分が情けなくて、惨めで仕方なかった。
静まり返った部屋に、ドア越しに慶吾の声が響いてきた。
「今から会いにいっていい? 婚約者の女が拒絶しやがって」
誰かに電話をかけている声。甘えるような、それでいて苛立ちを隠しきれない響き。電話の相手が誰なのか、杏莉には分からない。ただ、自分ではない誰かに慰めを求めていることだけは確実だった。裏切られているという悲しみよりも、彼をそこまで追い詰めてしまった自分への失望が重くのしかかる。
やがて、玄関へ向かう重い足音が聞こえ、重厚な金属の扉が開いて閉まる音が響いた。
家を出ていく足音。
慶吾は去ってしまった。この激しい雨の中、別の誰かの元へ。
完全な静寂が降りた暗い寝室。聞こえるのは、窓を打つ無機質な雨音だけ。
広くて冷たいベッドの上で、杏莉はゆっくりと身を起こした。冷え切った両腕で自らの肩を抱きしめる。
どれだけ自分を責めても、勝手に流れ続ける涙は止まってくれない。杏莉は震える手の甲で、何度も何度も頬を濡らす滴を拭った。皮膚が擦れて痛むが、身体の奥で暴れる得体の知れない震えに比べれば些細なことだった。
(どうして、いつもこうなってしまうの)
男性に触れられ、熱を向けられるたびに、身体が悲鳴を上げて萎縮する。理由も分からず、ただ恐怖だけが細胞に刻み込まれているかのように。
暗闇の中で、ふいに脳裏をよぎる光景があった。
ずっと奥底に蓋をしてきたはずの、十二歳の鮮烈な記憶。
豪華なシャンデリアの眩い光。むせ返るような甘ったるい香水の匂い。大人の男の粘ついた視線。そして――。
六月の湿った空気が、開け放たれた窓から重たく流れ込んでいた。 見上げる空はどんよりとした厚い雲に覆われ、今にも光を吸い尽くしてしまいそうなほど薄暗い。 ゼミ室の中央では、大きな机を囲むようにして学生たちが着席していた。各自が広げたノートパソコンの画面を見つめ、静かな緊張感が部屋を満たしている。 入口の扉から悪びれもせずに入ってきたのは、同じゼミの兵藤美玲だった。 明るく染め上げられた髪、身体の線に張り付くような腹出しの短いトップスに、極端に短いスカート。香水の甘い匂いが、湿った空気の中に混ざり込む。 周囲の視線を集めながら歩いてきた美玲は、杏莉の席の真横を通り過ぎる瞬間、小脇に抱えた大ぶりの革製バッグの角を、わざと杏莉の横顔へと打ち当てた。 硬い金具が頬の骨を強かに打ち、じんと熱い痛みが走る。「ああ、ごめん。見えなくて、当たっちゃった?」 見下ろしてくる美玲の瞳には、薄暗い嘲笑が浮かんでいた。 杏莉はずれた眼鏡のブリッジに指を添えて押し上げ、小さく頭を下げた。「……大丈夫です」 その時、ホワイトボードの前に立つ烏丸貴斗の、低いため息が静かな室内に届いた。冷徹な響きを帯びた声が美玲を射抜く。「兵藤、また遅刻か」 美玲は唇を尖らせてしたり顔を作った。「今度は五分ですから。追い出されないですよね?」 貴斗は無言のまま冷ややかな視線を送る。 美玲はつまらなそうに肩をすくめると、杏莉の隣の空席へ荷物を放り出し、腰を下ろそうとした。杏莉の耳元へ顔を寄せ、含み笑いを零す。「もうさ、彼氏のアレが強いと大変で。真鍋さんもわかるでしょう?」 耳朶に触れるほどの距離で囁かれ、杏莉は身を強張らせて首を傾げた。「さ、さあ……」「え? だってこれ――」 美玲の尖った爪先が、杏莉の首元へ伸びる。 朝の講義後に貴斗から指摘され、購買の化粧室で隠した絆創膏。その下にある熱い痕跡へ向けられた視線に、全身の血が引いていく。「兵藤、お前はこっちだ」 遮るように響いたのは、貴斗の鋭い声音だった。机の上座、自身の席の隣にある空いた椅子を指し示している。「は? ここがいいんですけど」 不満を露わにする美玲を、貴斗は威厳に満ちた眼差しで一瞥した。「私語は厳禁だ。俺の隣でみっちりと勉強しろ」 美玲は舌打ちをひとつ残し、椅子を引いて立ち上がった。 その背中
梅雨特有の湿気を帯びた空気が、肌を重く包み込んでいた。 六月の冷たい雨が窓ガラスを打ち据える朝。杏莉は大学の大講義室で、いつものように最前列の席に座っていた。分厚い丸眼鏡を指で押し上げ、質素なブラウスの襟元を無意識のうちに引き寄せる。 昨夜、婚約者である慶吾に強いられた痛みが、未だに肌の奥にこびりついているようだった。無理やりつけられた鎖骨の痕。恐怖で身体が強張り、ただ涙を流すことしかできなかった己の不甲斐なさが、胸を苦しく締めつける。 重く沈んだ心を抱えながらも、杏莉はこの講義の時間を心待ちにしていた。 烏丸貴斗准教授が教壇に立つと、講義室の空気が一瞬にして引き締まる。長身で引き締まった体躯を上質なスーツで包み込んだ彼は、学生たちから「鬼准教授」と恐れられる冷徹な美男子だった。 漆黒の瞳が冷ややかに室内を見渡し、講義が始まる。 マイクを通して響く彼の声は、心地よい低音だった。鼓膜を震わせ、胸の奥深くまで染み渡るようなその声色に、杏莉は小さく息を吐き出す。 厳格で冷たいはずの彼から発せられる声は、なぜかどこかで聞いたことがあるような、不思議な安心感を孕んでいた。記憶の底にある柔らかな熱を呼び起こすようなその響きに包まれていると、冷え切った身体が少しずつ温まっていく。(ずっと、聞いていたい……) 板書をノートに書き写しながら、杏莉は密かにそう願ってしまう。辛い現実を忘れさせてくれるこの時間だけが、今の杏莉にとって唯一の救いだった。 講義が中盤に差し掛かった頃、静寂を破って前方の扉が無遠慮に開かれた。 教壇のすぐ脇から悪びれもせずに入ってきたのは、同じゼミの兵藤美玲だった。明るく染め上げられた髪、身体の線に張り付くような腹出しの短いトップスに、極端に短いスカート。香水の甘い匂いが、湿った空気の中に混ざり込む。 空いている席に座ろうと歩き出した彼女を、マイクを通した低く冷たい声が引き留めた。「兵藤、遅れた理由は?」 貴斗の声音に感情の色はない。ただ純粋な事実を問うような鋭さが、講義室の空気を凍りつかせる。 足を止めた美玲は、悪びれる様子もなく肩をすくめた。「え? あー、寝坊しました。彼氏とついついアレが盛り上がっちゃって」 講義室に数人の失笑が漏れる。下世話な言い放ちに、杏莉は息を飲んだ。その瞬間、振り返った美玲と杏莉の視線が鋭くぶつ
叩かれた頬の芯に熱い痺れが残る中、杏莉は震える指先で、着ているオーバーサイズの服のボタンにゆっくりと手をかけた。 一つ、また一つと外していくたびに、指先から血の気が引いていく。 肩から滑り落ちた質素な布地が、床に音もなく崩れ落ちた。 ひんやりとした空気が剥き出しの肌を撫でる。下着姿になり、身を守るものをすべて剥ぎ取られたような心細さに苛まれながら、杏莉は慶吾の前に立つ。 ソファに深く腰掛けた慶吾は、杏莉の華奢な身体を値踏みするように舐め回した。その視線に、婚約者への愛情や慈しみなど微塵もない。「まじ色気ねえな」 吐き捨てられた言葉が、見えない刃となって胸の奥を鋭く抉った。 杏莉は反論することなく、ただじっと床を見つめ、両腕で自らの身体を抱きしめるように縮こまった。彼に促されるまま、重い足を引きずるようにして寝室へと向かう。 広いベッドの上に横たわると、シーツの硬く冷たい感触が背中から全身へと伝わってきた。 直後、慶吾の大柄な身体が上から覆い被さってくる。アルコールと鋭い香水の匂いが混ざり合い、密閉された空間の空気を重く澱ませていた。 労りなど一切ない、乱暴な愛撫が始まる。 素肌を這う無遠慮な手が、杏莉の身体を確かめるように強く圧をかける。そのたびに皮膚が粟立ち、冷たい悪寒が背筋を駆け上がった。 十二歳のあの夜、暗い別室で押し殺された恐怖。 男性の熱を伴う愛撫を受けるたび、細胞の隅々に刻み込まれた防衛本能が警鐘を鳴らし始める。意志とは無関係に、全身の筋肉が石のように硬直した。関節が軋み、激しい震えが波紋のように身体の芯から外側へと広がっていく。 杏莉の尋常ではない震えに、慶吾の手が不快そうにピタリと止まった。「大丈夫です。続けてください」 杏莉は即座に声を絞り出し、真っ直ぐに慶吾を見つめた。 チッ、と慶吾の苛立った舌打ちが頭上から降ってくる。 それでも彼は行為を止めず、無理やり杏莉の足を開かせた。無防備に晒された柔らかな内側に、冷たい空気が触れる。 鋭い痛みが鎖骨のあたりに走った。 慶吾が容赦なく歯を立て、薄い皮膚を強く噛みちぎるように吸い上げたのだ。肉に食い込む鈍い痛みとともに、赤黒い痕が確実に刻み込まれていく感覚がある。 さらに、彼の手が太腿の内側を乱暴に撫で上げた。 その瞬間、耐えきれずに杏莉の身体が大きく跳ねた。
慶吾の父親からの電話は、いつもと同じ内容だった。「慶吾とはうまくやっているか。あいつは優柔不断な節があるから、杏莉さんのほうから入籍について話をするといい」 義父なるなる人の言葉に、杏莉は「はい……慶吾さんと相談します」と返すことしかできなかった。 通話を終え、冷たい洗面所のシンクに手をつく。 鏡の奥に映る自分の顔が、ひどく強張っているのがわかった。 結婚は確実なのだから、早いうちから一緒に暮らすべきだ――。父と慶吾の父、二人の意向によって、杏莉の高校卒業と同時にこの同棲生活は始まった。 最初は、それなりに関係は悪くなかった。慶吾も時折、杏莉を気遣う素振りを見せていた。 だが、杏莉が過去のトラウマからどうしても身体を重ねられないとわかると、彼の態度は一変した。「芋女」と蔑まれ、家政婦のような扱いを受けるようになり、冷え切った関係が日常となった。 夜、リビングのソファに腰を下ろし、杏莉は帰宅した慶吾がネクタイを乱暴に緩めるのを待って、静かに口を開いた。「お義父さまから電話があって……入籍のこと聞かれて」「うるせえな」 言葉を遮るように、鋭い音が響いた。 乾いた衝撃とともに、頬に焼け付くような痛みが走る。 弾き飛ばされたように顔が横を向き、視界が大きく揺れた。ジーンとした痺れが頬から耳の奥へと広がり、熱を持った痛みが遅れてやってくる。 杏莉は床を見つめたまま、微かに震える指先で頬に触れた。熱い。「今、人とメッセージのやり取りしてるの! 見てわからない?」 怒気を含んだ苛立たしい声で杏莉に言うと、鋭い視線で睨んでくる。 慶吾はスマートフォンを片手に持ち、もう片方の手で苛立たしげに髪を掻き上げていた。その画面には、誰かとのメッセージアプリが開かれている。「声かけたときはしてなかったから」「いちいちうるせぇって言ってんだよ」 慶吾はスマートフォンをソファに放り投げ、立ち上がると杏莉を見下ろした。「セックスもできない女と結婚? まじであり得ない。入籍したいならそこをクリアしろよ。親父に結婚してもらえない理由を説明してやれよ、セックスできなくて夫婦になれそうにないんですってね――ウケる」 嘲笑を含んだ薄ら笑いが、杏莉の胸を深く抉る。 その通りだ。婚約者として、妻として、彼に応えられない自分がすべての元凶なのだ。父の会社を救うため