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拓真をさらったのは、確かに直哉ではなかった。だが、直哉の指示を受けた者が拓真を殴り、気を失わせたのも事実だった。しばらく考えて、ようやく分かった。直哉はまた自分を賭け金にして、私の気持ちを試していたのだ。意識を取り戻した拓真は、真っ先に私を捜しに来た。額に汗を浮かべて部屋へ飛び込んでくると、私の手首をつかんで立ち上がらせた。「行こう。家に帰ろう」私はうなずいた。こんな場所には、もう一秒たりともいたくなかった。廊下の反対側には直哉が立っていた。拓真が私の手を引いて出口へ向かう様子を、壁にもたれたまま見つめていた。その姿は、ひどく寂しそうに見えた。直哉の前を通り過ぎようとしたとき、不意に声がした。「そいつと行けば、俺は死ぬ」足が止まった。「それとも、ここに残って、俺と昔に戻るか」振り返って直哉を見ると、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑いそうになった。「直哉、頭がおかしいんじゃない?さっき、私はもう答えを出したはずだけど。そもそも、私たちの関係を裏切ったのはあなたで、先に過ちを犯したのもあなたでしょう。今さら何をそんなに取り乱してるの?」その言葉が胸に突き刺さったのか、直哉は突然こちらへ歩み寄り、早口で言った。「最初の7回は、全部取引先に合わせただけの芝居だった。女たちは取引先との席であてがわれただけだ。部屋まで連れていっても、俺はすぐに出た。一度も触れていなかったし、お前を裏切るようなことは、何もしていなかった。8回目は、つい魔が差して……」直哉の声が震え始めた。「その後、莉奈が俺の子を妊娠したと言ったから、俺は……あのとき、ただ……」「ただ、私と一緒にいることに疲れた。莉奈となら、少しはまともに生きられるかもしれないと思った。そうでしょう?」私が続きを口にした。「直哉」直哉を見つめると、目の奥が熱くなった。「あの日、私が大量に血を流して担架に乗せられていたのに、あなたは床にひざまずいて、先に大事な莉奈を助けてくれと私に頼んだ。覚えてる?」「俺は……お前が妊娠していたなんて、知らなかった……」私は直哉の言葉を遮った。「あのときから、私の中であなたはもう死んでる。直哉、お願いだから、もう終わりにして。私はあなたを解放した。だからあなたも、私を解放して」直哉は呆然
それでも直哉は、拓真を放っておかなかった。誘拐を知らせる電話を受けたとき、私はすでに理性を失っていた。相手は住所を告げ、「一人で来い」と言っただけで電話を切った。その住所には見覚えがあった。直哉がここ数日、滞在していた場所だった。私は拳銃を持ち、そのままそこへ乗り込んだ。ドアを押し開けた瞬間、迷わず2発撃った。銃弾は直哉の耳元をかすめ、背後の壁にめり込んだ。砕けた壁の破片が辺りに飛び散った。「どこにいるの?」私は歯を食いしばり、一言ずつ絞り出した。「拓真はどこ?」直哉が連れてきたボディーガードたちが一斉に駆け寄り、十数人で半円を描くように私を囲んだ。直哉が軽く手を上げると、全員が引き下がった。直哉は黙ったまま、私を見つめていた。焦りに耐えきれず、私は駆け寄って胸ぐらをつかみ、顎の下へ銃口を押し当てた。「拓真はどこにいるのかって聞いてんのよ!」「紗月」直哉は口元をわずかにゆがめ、落ち着いた声で言った。「俺じゃないと言ったら、信じるか?」「しらばっくれないで!あなたがどんな人か、私は知ってる!」拳銃を握る手が震え、銃口も小刻みに揺れた。「何かあるなら、私にぶつけなさい!私たちはもうすぐ結婚するのに、どうして今さら邪魔するの!拓真に何かあったら、私は……」「どうする?」直哉は突然私を遮り、声を低くした。「また俺を2発撃つのか?」直哉は拳銃を握る私の手をつかみ、そのまま手首をしっかりと押さえ込んだ。「いいぞ。撃てよ」手を引き抜こうと力を込めたが、直哉はさらに強くつかんだ。口元に自嘲めいた笑みが浮かんだ。「紗月。昔の俺たちは、どれだけ争っても、刃物や銃口だけは互いに向けなかったはずだ」私は力任せに直哉の手を振りほどき、少し後ずさった。私が離れるのを見て、直哉の目から一瞬だけ光が消えた。「手を出したのは俺じゃない。だが、俺ならあいつを助け出せる」そこで言葉を切った。「ただし、あいつを助けたら……」直哉は不意に笑い、光のない黒い目で私を見つめた。「俺が死ぬとしても?」一歩近づき、再び自分の胸を銃口へ押し当てた。「お前はどちらを選ぶ?」「どういう意味?」「相手は、林原拓真と引き換えに俺の命を差し出せと言っている」直哉は私
もう二度と直哉に会うことはないと思っていた。ヨーロッパに来て3年目、私には新しい恋人ができた。穏やかで平凡な毎日を送り、あの10年間の狂気も血も、まるで前世の出来事のように遠ざかっていた。ダイビングスポットに凶暴な肉食魚の群れが現れたと知ったとき、私はコンビニで水を買っていた。手が大きく震え、持っていたペットボトルが遠くまで転がっていった。「あの辺りは普段なら安全なのに、いったい何があったんだろうね」「けがをしたのは、男の人らしいよ。片脚が駄目になりそうなほど噛まれたらしい。運が悪いよね」私は慌てて目の前の人混みをかき分け、後ろも振り返らずに海辺へ走った。浜辺には人だかりができていた。心臓が喉から飛び出しそうなほど激しく鳴った。そこで直哉を見つけた。直哉は、林原拓真(はやしばら たくま)の腕をつかんでいた。その瞬間、私はその場で凍りついた。視線を下げ、拓真の脚に残る傷を見た途端、頭の中が真っ白になった。何も考えずに駆け寄り、直哉の頬を力いっぱい平手打ちした。「拓真に何をするつもり!?」声が震えた。「言っておくけど、拓真を傷つけたら絶対に許さない!」そう言い放つと、すぐに拓真のそばへ駆け寄り、恐る恐る脚の傷を確かめた。裂けたダイビングスーツから血があふれ、海水と混じって流れ落ちていた。怖くて、今にも涙がこぼれそうになった。前年に雪崩が起きたとき、拓真は私を助けるため、何日も私を背負って雪山を歩き続けた。そのせいで、この脚を失いかけた。医師からも、切断を免れただけでも奇跡で、二度と大けがをしてはいけないと言われていた。「来るのはやめようって、あれほど言ったのに!拓真がどうしても来るって言うから!」声が涙で震えた。「痛い?今すぐ救急車を呼ぶから……」拓真は私の手を押さえ、目元を和らげた。「大丈夫。ただのかすり傷だよ」直哉のほうへ一度目を向けると、声を落とした。「あの人が助けてくれたんだ。あの辺りに突然、肉食魚の群れが押し寄せてきて、俺を引っ張り上げてくれた」私は言葉を失った。「俺の脚は大丈夫。本当に皮膚を少し噛まれただけだ。それより、あの人の脚が……」ようやく拓真の視線を追った。直哉はまだ同じ場所に立っていた。片方のズボンは膝から下が
直哉自身も、紗月を捜すために海外へ渡り、そのまま丸1年も滞在することになるとは思っていなかった。最初の3か月、直哉は怒りに燃えていた。部下からの電話に何度出ても、返ってくるのは「進展はありません」という報告ばかりだった。直哉は感情を抑えきれず、ホテルの部屋にあるものをほとんどすべて壊した。「捜し続けろ」煙草をくわえたまま、ぞっとするほど低い声で言った。「あいつが離婚すると言えば、それで離婚できるとでも思ってるのか?ふざけるな。俺は認めていない」当時の直哉は、本気でそう考えていた。紗月が本当に去るとも、自分を本当に捨てるとも信じていなかった。これまで紗月が見せてきた狂気じみた独占欲も、取り乱してまで続けた執拗な執着も、病的なほどの依存も、すべて直哉に向けられたものだった。紗月が自分から離れられないことは、誰よりも直哉が分かっていた。だが3か月を過ぎると、怒りは少しずつ消え、代わりに骨の髄から染み出すような焦りが直哉を襲った。部屋のテーブルには、空になった煙草の箱が山積みになっていた。直哉は自分でも止められないまま、腕に残る古い傷痕を、皮膚がぼろぼろになるまで掻きむしった。そのとき、ふと手が止まった。自分と紗月は、やはり同類なのかもしれない。追い詰められたときに取り乱すやり方まで、まったく同じだった。直哉は眠れなくなった。夜中、何度寝返りを打っても眠れないときには、以前紗月から送られてきたボイスメッセージを聞いた。「直哉、またあの女のところへ行ったんでしょ?」「私が死んでやるって言ったらどうする?今すぐあの女を殺しに行くって言ったら、どうするの!?」一つずつ聞いているうちに、直哉はあることに気づいた。紗月は脅すような言葉を吐きながら、ずっと泣いていたように聞こえた。最後まで聞き終えると、直哉はスマホを顔に押し当てたまま、長い間動かなかった。それをきっかけに、もっと恐ろしい考えが浮かび始めた。紗月はまさか……本当に自分を捨てたのではないか。その考えが頭をよぎった瞬間、直哉はほとんど反射的に否定した。そんなはずはない。たとえ自分ではもう生きたくないと思っても、紗月は直哉のためなら生き続ける。そんな紗月が、直哉を捨てるはずがなかった。「藤崎社長」秘書の声
3点の書類が並べられ、直哉の手に渡された。紗月の中期中絶・子宮内容除去術の実施記録、莉奈の胎児モニタリング検査報告書、そして離婚協議書だった。最初の2点を見ても、直哉は鼻で笑っただけだった。紗月が妊娠を装ったことは、これまでにもあった。最初の子どもを失ったとき、紗月の子宮はひどく傷ついていた。その後も子どもを授かるためにあらゆる方法を試したが、医師からはとうに、再び妊娠するのは難しいと告げられていた。直哉も、すでに諦めていた。莉奈の胎児モニタリング検査報告書を抜き出してゴミ箱へ放り込み、今回の紗月のやり方は、これまで以上に稚拙だと思った。だが、離婚協議書を開いた瞬間、直哉の呼吸が止まった。眉を寄せたまま何ページかめくるうちに、胸が大きく上下し始めた。また始まった紗月の狂気じみた芝居に苛立つと同時に、理由の分からない怒りが胸の奥からこみ上げた。どれほど激しく争い、互いに傷つけ合っても、紗月が離婚を口にしたことは一度もなかった。直哉自身も、離婚など考えたことさえなかった。紗月が自分から離れられるはずがないと確信していたからだ。紗月が自分にどれほど執着しているかは、長年繰り返してきた駆け引きの中で、手に取るように分かっていた。そう思いつつも、なぜか直哉はふと、最初の子どもを失ったあと、屋上に立っていた紗月の姿を思い出した。あのときの紗月の目に広がっていた底知れない虚無は、今思い出しても背筋が冷たくなった。直哉はスマホを取り出し、電話をかけた。だが、紗月は出なかった。続けてメッセージを送った。【LINEのブロックを解除しろ。話をしよう】【早まるな。俺がどうするかは分かってるだろ。お前が自分を傷つけるなら、俺はすぐにその倍、自分を傷つける】このやり方は、長年一度も失敗したことがなかった。直哉が自分自身を切り札にすれば、紗月は必ず先に折れた。紗月が自分よりも直哉を大切にしていることを、直哉はずっと知っていた。だが今回は、いくら待ってもトーク画面は静かなままで、返事は届かなかった。そばにいた医師がおそるおそる口を開いた。「藤崎さん、高梨社長はもう国際線の機内にいるはずです。今は電話に出られないかと……」直哉は勢いよく顔を上げた。「国際線?どこへ行った?」突然大き
私が入院していた1週間、直哉はずっと隣の病室で莉奈に付き添っていた。壁の向こうから聞こえてくる親密そうな声や物音にぼんやり耳を傾けていると、主治医がドアをノックした。「高梨社長、検査結果が出ました。小林莉奈さんのお腹の子と、藤崎さんとの間に親子関係は認められませんでした」私は何の反応も示さずに窓の外へ目を向け、差し出された検査結果を受け取らなかった。直哉のことは、もう私には関係なかった。莉奈の病室の前を通りかかると、直哉がお粥を食べさせようと、莉奈を優しくなだめていた。正直、こんな不器用でひたむきな直哉も、やはり私の知らない姿だった。ドアをノックしようと上げた手が、途中で止まった。結局、離婚協議書は医師から直哉へ渡してもらうことにした。そのまま空港へ向かい、二度と振り返ることなく、この街をあとにした。……このところ、直哉は少しも心が休まらなかった。直哉は紗月という人間を知り尽くしていた。紗月の直哉に対する独占欲は、偏執的で常軌を逸していた。ここまで完全に決裂した以上、これまでの紗月なら、必ず莉奈に手を出すはずだった。そのため、直哉は部下を総動員した。一部にはネット上の情報を抑え込ませ、莉奈の気分を害するような内容が広まらないよう徹底させた。残りは病院の周囲を固め、たとえ正面衝突になっても、少なくとも莉奈だけは無事に逃がせるよう備えさせた。紗月を脅すために使える情報まで、あらかじめすべてそろえていた。もし紗月の両親が3年前の飛行機事故で亡くなっていなければ、二人も直哉のもとへ連れていかれていたかもしれない。直哉は共倒れも辞さない覚悟を決め、病室の中にも事前にボディーガードを待機させ、いつでも動けるようにしていた。ところが紗月は病室の前で一度中を見ただけで、そのまま立ち去った。そのせいで、直哉は一日中落ち着かなかった。メッセージの履歴を開いた。以前なら、一日でも行動予定を報告しなければ、紗月からひっきりなしにメッセージが届いていた。それなのに、ここ数日はトーク画面が不気味なほど静かだった。直哉は戸惑いながらスマホをしまった。疑問を感じると同時に、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われた。その感覚は、莉奈を寝かしつけ、慌ただしく自宅へ戻ったときに頂点へ達した。