FAZER LOGIN会社の忘年会に出席していた社長である夫、高橋悠楓(たかはし はるか)から、突然電話がかかってきた。 「今、何をしている?」と彼は問う。 「あなたのパンツを洗っているのよ」 私、松本凪咲(まつもと なぎさ)は答えた。「何かご用?洗い終わったら乾燥機にかけて、あとでスーツのアイロンがけもしなきゃいけないの」 電話の向こうから、どっと沸く哄笑と拍手が聞こえてきた。 通話はすぐに切れた。 深夜になってようやく帰宅した彼は泥酔しており、立ち込める酒臭さと女の香水の入り混じった匂いが、ツンと鼻を突く。 私は起き上がり、彼のためにしじみの味噌汁を作ってやろうとした。 すると、彼は私の手を強く掴んだ。その目は充血して赤く染まっている。 「凪咲、お前のあの気の強さはどこへやったんだ?意地もプライドも、全部捨てちまったのか?」 私はただ、淡く微笑んだだけだった。 かつて誇り高かった私は、もう死んだのだ。 人生をやり直すこの世界では、愛する人たちがただ無事に生きていてくれれば、それでいい。
Ver mais私は娘を連れて、海外に行った。日増しに丈夫になっていく娘の姿を見て、胸にのしかかっていた罪悪感は少しずつ薄れていった。私自身も、抗うつ薬を一回たりとも飲み忘れることはしなかった。あの悲劇を、二度と繰り返すわけにはいかないから。一年後。悠楓の弁護士から、彼がどうしても私に会いたいと懇願しているという連絡が入った。私は拒絶した。二度目の連絡で、弁護士は彼からの伝言を告げた。「あいつは俺で、俺はあいつだったと分かった」私の心臓が、ドクリと大きく跳ねた。再会した彼は、見る影もないほどに痩せこけ、人相まで変わっていた。かつての意気揚々とした面影はどこにもない。瞳は濁りきり、光の一欠片も宿っていなかった。「凪咲、一体何が現実で、何が虚構なんだ?これは全部、俺の脳が見せている幻覚なのか?お前は……とっくに『お前』じゃなくなっていたんだな?だから急に態度が変わり、あんなに必死になってお義母さんを検査に連れて行こうとした……それなのに、お義母さんは……」彼は両手で顔を覆った。指の隙間から、止めどなく涙が溢れ出した。「もっと早くお前を自由にしてあげていたら、こんなことにはならなかったんだろうか。俺が人殺しだ。俺が全ての元凶なんだ。……気づくのが、あまりに遅すぎた」半月前、あの「別の世界の悠楓」がビルから身を投げた日。悪夢のような記憶が、濁流となって今の悠楓の脳内に流れ込んだ。「凪咲、頼むから何か言ってくれ」彼は私に哀願した。「娘は元気か?ずいぶん大きくなったんだろう?一緒に連れてきたのか?写真だけでも……ひと目見せてはくれないか?」私は終始、仮面でも被ったかのように無表情を貫いた。そして無言のまま、娘が言葉を覚え始めた頃の録音データを再生した。「……マ、ママ……マ……ママ……」「あの子の姿も、声も、あの時のまま……あなたも、覚えているでしょう?」私を病院へ迎えに来た、あの日の光景が脳裏をよぎったのだろう。彼は再び崩れ落ち、激しく打ち震えながら慟哭した。「すまない……ただ、お前が俺の元を去るのが耐えられなかったんだ。どうしても、お前を俺のそばに繋ぎ止めておきたかった。お前を、愛しすぎていたんだ……」私は静かに首を横に振った。「あなたはただ、独占欲が強すぎただけ。
私は拘置所へ赴き、ガラス越しに悠楓と対面した。彼はひどく激昂しており、顔から首筋までを赤く染めていた。刑務官から二度の警告を受け、ようやくいくらかの冷静さを取り戻したようだった。「凪咲、頼む……教えてくれ。一体何が起きているんだ?」私はただ力なく微笑み、瞳に深い落胆を滲ませた。「私だって聞きたいくらいよ。どうしてあなたが、急にあんな風に変わってしまったのか。てっきり、あなたが過去を悔いて、私に罪滅ぼしをしようとしてくれているのだとばかり思っていたわ……どうやら、私の思い上がりだったみたいね」彼は力なく首を横に振り、何かを言いかけては飲み込んだ。結局、最後まで言葉は出てこなかった。「……赤ちゃんは、元気か?」彼はもう、自分に起きた不可解な出来事を追及する気力も失せたようだった。私は頷いた。「ええ。ミルクも、前より十ミリ多く飲めるようになったわ」彼は安堵したように、微かに笑った。「そうか、ならよかった。……すまない、凪咲。なぜ自分がこうなったのか、未だに理解できない。だが、これも全て俺の自業自得なのだろう。娘と二人で、幸せに生きてくれ。俺のことは忘れていい」そう言う彼の目尻が、涙で濡れていた。「お前の言う通りだ。俺がお前を不幸にするべきじゃなかった。もし人生をやり直せるなら、もう二度とお前を追いかけたりしない。俺さえいなければ、お前はきっと、もっと幸せになれたはずだから」私はただ、苦い自嘲の笑みを浮かべることしかできなかった。私たちが出会ったのは、大学対抗のディベート大会だった。私は肯定側の第二弁士、彼は特別審査員。大会が終わり、会場を後にしようとした私を、彼は足早に追いかけてきた。「肯定側の二番手さん。『愛の美しさは瞬間に宿る』――お前のその言葉に心底痺れたよ。もしよかったら連絡先を交換して、その瞬間を二度、三度……いや、数え切れないほどの瞬間に変えていかないか?」一目惚れという名の、鮮烈で美しい記憶。けれど、それは始まったその瞬間から、永遠にはなり得ない運命だったのだ。ただ私が、幸福という名の目隠しをされていたに過ぎなかった。私が希望に胸を膨らませて足を踏み入れたのは、お伽話の城などではなく、巧妙なまやかしに彩られた人喰い鬼の棲家だったのだから。裁判の結果、悠楓には懲
悠楓が意識を取り戻したのは、車の中だった。割れるような頭痛に襲われ、激しい目眩と嘔吐感をねじ伏せるまでに、かなりの時間を要した。車が停まっていたのは、人影のない荒涼とした青空駐車場。ディスプレイに表示された日時は、あの墓参りの日から既に一週間も経過していた。あの晩、私を送り届けてくれた彼を、私は食事に誘った。彼は意外な幸運に酔いしれるように、私の差し出した麺を口にした。……私がそこに睡眠薬を仕込んだとも知らずに。記憶が蘇るにつれ、悠楓は煮え繰り返るような苛立ちをぶつけるように、ハンドルを拳で殴りつけた。憤怒、疑惑、そして拭い去れない不可解。凪咲にこれほどの手回しができるはずがない。何より、俺が一週間も姿を消していたというのに、なぜ誰一人として俺を捜していなかったのか。運転できるような体調ではなく、スマホも見当たらない。数キロの道のりをふらつく足で歩き通し、ようやくタクシーを拾って帰宅した。娘が連れ去られていることは、想定の範囲内だった。だが、その後に突きつけられた数々の事実は、彼の背筋を凍らせ、この現実そのものを疑わせるに十分な衝撃だった。なんと彼は、自らの手で依茉を自動車運転過失致死で刑事告訴していたのだ。それだけではない。取締役会で引責辞任を表明し、SNSでは自身の不倫と、妊娠中の妻に対する監禁の事実を公表して謝罪。さらには、自身の支配下にある全資産を、海外口座へ送金済みだった。防犯カメラの映像には、確かに自分の顔が映っていた。彼は雷に打たれたようにその場に立ち尽くし、血の気が引き、呼吸さえ忘れるほどの戦慄が彼を襲った。まるで見えない幽霊にでも取り憑かれたかのような、底知れない恐怖。……あり得ない。俺には一切の記憶がない。モニターの中の男は紛れもなく俺だ。でも、なぜだ?信じられない。彼は震える手でウイスキーを煽り、必死に動悸を鎮めようとした。窓ガラスに映る、幽霊のように青ざめた自分の姿を自嘲気味に見つめる。病んでいるのは凪咲ではなく、俺の方だったのか?人生で最も重要な二人の女性に対する罪悪感が、俺の人格を二つ引き裂いてしまったとでもいうのか?彼がソファに座り込み、映像の続きを見ようとしたその時だった。庭の闇を切り裂くように強烈なハイビームが走り、二台のパトカーが玄
その男の顔は、間違いなく悠楓だった。けれど、その表情や眼差し、語り口のすべてが、背筋が凍るような違和感を放っている。何より驚くべきは、私がこの手で刺し貫いたはずのあの瞳が、まるで何事もなかったかのように光を宿しているのだ。心臓が早鐘を打ち、混乱した頭が高速で回転する。思考の海を漂う一本の糸をようやく掴みかけたその時、彼は信じがたい言葉を口にした。「俺は、未来から来た悠楓だ」私は息を呑み、瞳が大きく見開かれた。改めて見ると、目の前の男は今の悠楓よりもはるかにやつれ、痩せ細っている。彼は急いで証明したいといった様子で、首元のネックレスを乱暴に引きずり出した。「この小瓶に入っているのは、お前と……娘の遺骨だ。母も娘も失い、絶望したお前は会社の屋上から飛び降りて死んだんだ」彼の瞳には、溢れんばかりの悲痛な色が宿っていた。「信じてくれ!」そして、恐る恐る尋ねてきた。「覚えているか?」私は立っていられず、彼の腕に必死にしがみついた。彼の首筋には、今もくっきりと歯型が残っている。手術室の前で、私を抱き止めた彼に、私が血が出るほど噛みついた――あの時の傷跡だ。彼はその傷跡をなぞり、哀切な響きを帯びた声で呟いた。「これはタトゥーだ。お前が俺の体に残してくれた、最後の痕跡だから。消えてなくなってしまうのが怖くて、こうして刻み込んだんだ」なんて滑稽な話だ。だが今の私には、この藁にもすがる思いしかなかった。「私を助けてくれると言うなら、娘を返して!」彼は頷いた。「安心してくれ。もう二度と誰にもお前を傷つけさせない……過去の俺自身にさえも」私は一人で邸宅に戻った。悠楓はリビングに座り、まるで私を待ち構えていたかのような様子だった。「あの子はどこ?」「もう寝たよ。シッターが付いている」私はすぐさま階段を駆け上がった。けれど、あろうことか子供の部屋から平然と姿を現したのは――依茉だった。逆上した私がまた彼女に掴みかかるのを恐れたのだろう、悠楓が背後から私を羽交い締めにし、その場に縫い付けた。私は奥歯が砕けるほどに噛み締め、煮え繰り返る憎しみを込めて彼を問い詰めた。「……どうして。どうしてこんな真似ができるのよ!」先に口を開いたのは依茉だった。「凪咲さん、今のあなたの精神状態