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第36話

Author: 楽恩
空気はまるで凝り固まったかのように張り詰め、私の心も宙に浮いたままだった。

どこかでまだ期待していたのかもしれない。彼が何かしらの言葉で説明してくれることを。

しかし、しばらくの沈黙の後、返ってきたのは冷たく硬い問いかけだった。

「そんなに離婚を急ぎたいのか?」

胸の奥に押し込めた感情が、まるで息をすることさえ許さないかのように重くのしかかる。私は天井の眩しいライトを仰ぎ、瞬きを繰り返した。どれほど心が崩れそうになっても、口から出た言葉は無情だった。

「そうよ、急いでる」

少なくとも、お腹が目立つ前には彼との関係を完全に断ち切らなければ。

この子を賭けに出した余裕なんて、私にはなかった。

背後の彼は、それ以上何も言わなかった。返ってきたのは、ドアが閉まる乾いた音だけだった。

まるで力を抜かれたように、私は玄関の靴箱にもたれながらゆっくりと座り込んだ。ぼんやりと天井を見つめた。

胸の奥にぽっかりと空いた穴は、どうしようもなく鈍く痛んだ。

その夜、私は珍しくつわりに悩まされることなく、ただひたすら眠れなかった。

秋の夜風が一晩中吹き荒れ、まるで身体の中まで吹き抜けるように冷たさが染み込んでいった。

――私は、彼が私を愛していないことは受け入れられた。彼が祖父の決めた縁談で私を娶ったことも、理解していた。

でも、私が三年間も願い続けたこの結婚が、彼にとっては別の誰かを守るための「犠牲」にすぎなかったという現実だけは、どうしても受け入れられなかった。

あんなに嬉しくて、掴んだつもりだった。天に輝く星を手に入れたと、そう思っていたのに。

翌朝、目が覚めるとすぐに来依から電話がかかってきた。

「足、大丈夫? 休み取る?」

私はベッドから降り、軽く足を踏みしめてみた。

完全に治ったわけではないが、歩くのに支障はなさそうだった。

「大丈夫」

そう伝えると、来依は「二十分後に迎えに行く」と言い放ち、一方的に電話を切った。

拒否権なんて、最初からなかったらしい。

身支度を整えてマンションのエントランスに降りると、ちょうど私のアイボリーホワイトのパナメーラが停まるところだった。

運転席の窓が下がり、来依が私の足元をじろりと見た。

「本当に大丈夫?」

「平気。昨日、山田先輩が買ってくれた薬が効いたみたい」

そう言いながら、私は助手席に乗
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