菊池の母の顔色が、一瞬にして険しくなった。どうやら、菊池海人が河崎来依を守る決意は、誰にも揺るがないようだ。一人の女のために、自分の将来を犠牲にするなんて、彼女はますます河崎来依に不快感を抱いた。河崎来依は人の顔色を読むのが得意だった。幼い頃から、父親がどの程度酔っ払ったら自分が殴られるかを知っていた。菊池の母が自分を嫌っているなら、無理に話す必要はない。今は菊池海人とも別れたし。たとえこの未来の義母に取り入ろうとしても、相手は明らかに受け入れる気はないだろう。彼女は無駄な努力をするつもりはなく、必要な礼儀だけを保ちながら、言った。「他に何かご用ですか?なければ、そろそろ帰りますが」菊池の母は迷っていた。この結婚式が成立するのは望んでいないが、菊池海人が河崎来依とよりを戻すのも望んでいない。それに、菊池海人は「結婚式を邪魔するな、さもないと......」と言っていた。河崎来依は菊池の母が言いたげな様子を見て取ったが、彼女が何かを言う前に、神崎吉木の手を引いて立ち去った。マンションの入り口に着いた時、菊池の母に呼び止められた。「あなたは海人と結婚したいの?」河崎来依は笑った。「おばさん、もう菊池さんとは別れましたよ。今さらそんなことを聞かれても遅いですよ」そう言いながら、彼女は神崎吉木の腕を抱いた。「こちらは私の新しい彼氏です。これからは菊池さんのことで私を探さないでください。彼氏が不機嫌になりますから」「......」菊池の母は言葉を失い、河崎来依がマンションに入っていくのをただ見送るしかなかった。菊池の母の車の後ろで、菊池一郎は菊池海人の表情を伺い、幾分か恐れを抱いていた。確かに守るためとはいえ、誤解が生まれてしまえば、苦しむのは自分自身だ。自分の若様の恋がこんなにうまくいかないとは、彼ら側近も予想していなかった。「あら!」菊池の母が近づいてきて驚いた。「あなた、ここで何をしてるの?」菊池海人は何も答えず、その場を去った。菊池一郎は菊池の母に軽く会釈し、急いで後を追った。菊池の母は心配で、皺が何本も増えたような気がした。彼女はすぐに家に戻り、菊池おじいさんに状況を報告した。「新しい彼氏ができた?」菊池おじいさんの目は曇っていたが、鋭さを失っていなかった。「あの男
菊池おばあさんは数珠を手に取りながら、言った。「私たちにも過ちがあったね」菊池の母は菊池おばあさんを見つめた。菊池おばあさんは続けた。「物事は極まれば反転する。冷静で理性的な人ほど、情に溺れやすいものだよ」菊池の母は唇を噛みしめ、悔やんだ。「彼が成長する頃に、良家のお嬢さんと結婚させるべきだった。ここ数年、彼を自由に遊ばせたのは間違いだった」......菊池の父は一日仕事を終え、夜になってようやくこのことを知った。しかし、彼は良い知らせを持って帰ってきた。「病院の監視役から連絡があった。晴美は海人との結婚式を拒否したそうだ」......一楽晴美は菊池海人と対峙し、もはやイメージを気にしていなかった。病院で暴れ、壊せるものは全て壊した。菊池海人はそこに座り、冷静に彼女の暴れを見守り、手を軽く上げると、菊池一郎がすぐに賠償金を差し出した。院長も何も言えなかった。全部ぶち壊した後、彼女は息を切らしながら窓際に座る男を見つめた。彼の美しい顔は冷たく、瞳には何の感情もなく、まるでさっきの騒動が些細な出来事だけだったかのようだった。まぶたすら動かさなかった。そんな冷血な男が、河崎来依に対してはあれほど熱烈だったのか。河崎来依のために、彼女の命さえ顧みないほど。「菊池海人、私と結婚式を挙げたら、私は一生あなたに纏わりつくわよ。河崎とはもう二度と一緒になれないわよ?」「ならない」男は冷たく、簡潔に否定した。一楽晴美は笑いながら涙を流したが、全身に喜びの色はなかった。ほら、河崎来依の話になると口を開くなんて。彼女が半日暴れても、彼は一言も発しなかった。「あの夜の真相を知りたいんでしょ?私に自由をくれたら教えてあげる」「遅い」一楽晴美もそれが遅いとわかっていた。彼女はただ試してみただけだ。菊池海人が本当に承諾したとしても、彼女は話さないつもりだった。もし話したら、彼女は完全に終わりだ。菊池海人を騙せる者はほとんどいない。たとえ偶然騙せたとしても、その結末は悲惨だ。河崎来依を溺れさせかけた者は、家族ごと消え、大阪から姿を消した。彼女は今、河崎来依の盾となって敵からの攻撃を防いでいる。もしあの夜の真相を話したら、盾となるだけでなく、骨までしゃぶり尽くす敵に投げ
河崎来依は電話を切り、これ以上聞きたくないと思った。これからは大人の間のことだから。彼女はキッチンに行き、尋ねた。「何を作ってるの?」......麗景マンションで。清水南は近づいてきた男を押しのけて聞いた。「菊池さんはどういうつもりなの?」服部鷹は正直に説明した。清水南は軽く眉をひそめ、「気持ちはわかるけど、やり方は......来依の性格は自由奔放で、あまり細かいことは気にしないけど、菊池さんのやり方はちょっと間違ってると思うわ」「気にしないで」服部鷹は彼女の手を掴んでキスをした。「俺のことをもっと気にかけてよ」「......」......神崎吉木は四品の料理とスープを作った。全て河崎来依の好物だった。河崎来依は早速スパアリブを一口食べ、親指を立てて言った。「美味しい!」神崎吉木は彼女にスープをよそった。河崎来依は一口飲んで、尋ねた。「いつ料理を覚えたの?」この腕前、確かに上手だ。神崎吉木はうなずいた。「レストランでバイトしてたんだ」河崎来依は彼の家庭の事情を思い出した。「じゃあ、私があなたを雇うわ。食材は私が用意するから、手間賃は別途払う」神崎吉木は目を伏せた。「姉さん、僕を哀れんでるの?」「哀れむなんてしてないわ」河崎来依は茄子の炒め物を食べながら言った。「努力には報酬があるべきよ。これが労働の価値ってものだわ」神崎吉木は唇を噛んで笑った。「姉さん、これは僕がやるべきことだよ。だって、僕は姉さんの彼、彼氏だって言ったじゃないか」ああ、河崎来依はそれを忘れていた。「私はあなたを利用してるの、わかってるでしょ?」神崎吉木はうなずいた。もし彼が先に自分を裏切っていなかったら、河崎来依は自分がかなりひどい人間だと思っていただろう。「正直に言うと、菊池さんとは別れたけど、今日の彼のやり方には傷ついた。でも、まだ完全に諦めてはないの」「わかってる。でも姉さん、彼はあなたに真心を捧げる価値はないよ」河崎来依は笑った。「一楽の件のせい?」神崎吉木はうなずいた。「もし将来またこんなことがあったら?菊池のような家庭で育った彼は、将来どうしても色々な家柄の結婚相手と縁組することになると思うんだ。姉さん、僕はあなたが傷つくのを見たくないから、あんなことをしたんだ。
菊池一郎は何か言いたそうにしたが、菊池海人の冷たい視線に触れると、すぐに逃げ出した。一楽晴美は起き上がり、彼を見て言った。「菊池さん、あなたはまだ女性のことを理解してないわね。河崎のような人が、心から誰かを好きになるのは簡単なことじゃない。もし今回あなたが彼女を傷つけたら、もう二度と彼女が心を開いてくれることはないでしょう。私の本心からのアドバイスだけど、今すぐ彼女をなだめるのが最善の解決策よ」菊池海人はパソコンのファイルを見続けていた。一楽晴美は彼が無言でも話をやめなかった。「たとえ私を使って彼女を守ったとしても、私が死んだ後はどうするつもり?また別の女を探して彼女を守らせるの?敵のことを言うまでもなく、菊池家だってそんなことを許さないわ。それに、あなたの敵だってバカじゃない。彼らはまるで蝗害のようだよ。決して消えないわ。菊池さん、あなたがその道を進む限り、河崎と一緒になることはできないの。彼女は狙われるだけでなく、更にあなたの人生で唯一の汚点になるでしょう」バン!菊池海人は灰皿を投げつけた。ほんの1ミリの差で、一楽晴美の頭に当たるところだった。彼女はこれが菊池海人の警告だとわかっていた。そうでなければ、彼は確実に彼女の頭を狙ったはずだ。「自分が卑劣だからって、他人までそのように考えるな。来依は俺の汚点じゃない。俺が好きな人だ。それよりお前。もしお前に価値がなかったら、お前こそが俺の人生の汚点だっただろう。一楽、俺はただ自分を責めてる。昔、お前の純粋そうな外見の下に隠された汚さを見抜けなかったことを。だがこれから、もし来依のことを一言でも悪く言ったら、俺はお前に容赦しない」一楽晴美は腹立って布団を引き寄せて自分を覆った。彼はここで彼女を見張り、昼も夜も一言も話さない。河崎来依の話になると、次から次へと口を開く。それなら、共倒れになればいい。彼女が死ぬなら、河崎来依も道連れにする!......河崎来依が朝起きたとき、神崎吉木はもう起きていて、キッチンから朝食を運んでいた。彼女はソファを見て尋ねた。「ソファで寝るのはあまり良くなかった?」「俺は昔、公園のベンチで寝たこともあるんだ。このソファは柔らかくて十分快適だよ。早起きには慣れてるから」神崎吉木は陽気で清
駐車場の出口の横に、一台のSUVが停まっていた。菊池海人はボンネットに寄りかかり、長い指先に煙草を挟んでいた。彼の冷たい視線は、車のフロントガラスを通して河崎来依の顔に注がれていた。河崎来依は彼を一瞥もせず、ハンドルを切り、メインストリートに合流して疾走していった。菊池一郎は、何故自家の若様がこんな朝早くにここで自ら苦しみを求めるのか、全く理解できなかった。菊池海人は車に乗り込んだ。菊池一郎は慌てて助手席に座り、シートベルトを締めた。次の瞬間、車は矢のように飛び出した。彼は慌てて取っ手を握り、体を安定させた。黒いSUVは、朝のラッシュの車の流れの中でもひときわ目立っていた。しばらくすると、菊池海人は河崎来依の車に追いついた。信号待ちの交差点で、彼は河崎来依の車の横にぴたりと停まった。こんな寒い日なのに、菊池海人は窓を開け、腕を窓枠に乗せ、手首の時計が冷たい光を放っていた。助手席に座っていた神崎吉木はそれを見て、河崎来依に尋ねた。「彼、朝早くからここで姉さんを待ち伏せして、どういう意味?」河崎来依は前方を見つめたまま、言った。「待ち伏せなんてしてないよ。たまたま通勤で同じ方向なんでしょう」「でも、彼は......」「彼は私のマンションに住んでるんだ。向かいの部屋を買った」河崎来依は言葉を遮った。「金持ちは暇なんだね」神崎吉木は河崎来依が菊池海人の話をしたくない様子を見て、口をつぐんだ。信号が青に変わり、二台の車はほぼ同時に発進し、並走し続けた。空港への道が狭くなるまで、菊池海人は河崎来依の後ろに回り込んだ。「中まで送らないよ。もう少ししたら、南が片付けたら、一緒に行こう」「わかった、待ってるよ」神崎吉木は荷物を持って空港の中へ入っていった。彼は河崎来依の後ろに停まったSUVを見て、彼女に向かって明るく手を振った。河崎来依は窓を下げて手を振り返し、彼が中に入るのを見届けてから、車を走らせた。彼女は途中で店に寄った。車を地下駐車場に停め、降りた瞬間、菊池海人に立ち塞がれた。彼女は無視して横に進もうとしたが。男もまた横に一歩動いた。河崎来依はイラつき、彼を睨みつけて罵ろうとしたが、彼の目が鋭くなり、彼女の顎を掴んで引き上げた。細い首が伸び、その赤い痕が
菊池の母は彼の表情を見て、尋ねた。「河崎と喧嘩したの?」菊池海人は答えなかった。菊池の母は昨日、彼が自分の車の後ろにいたことを思い出した。おそらく河崎来依が彼女の彼氏を紹介したとき、彼もそれを聞いていたのだろう。昨日は彼が何も行動を起こさなかったので、本当に冷静でいられると思っていたが、朝早くに彼女のところへ駆けつけたんだ。「その首の傷は......河崎にやられたの?」菊池海人は感情を抑えながら言った。「母さん、何か言いたいことがあるなら、はっきり言ってください」菊池の母は無駄な話をせず、告げた。「晴美との結婚式をキャンセルしなさい」菊池海人は拒否した。「もしこれだけの話なら、お付き合いできまない」菊池の母は彼が立ち去ろうとするのを見て、彼を押し止め、苦言を呈した。「海人、あなたはまだ若いから、女性の心理がわかってないのよ。もし今回一楽と結婚式を挙げたら、河崎はあなたを許さないわよ」菊池海人は無感情に、返した。「それはあなたたちが望んでたことじゃないか?」菊池の母は言葉に詰まった。彼らは確かに彼と河崎来依が続くことを望んでいなかったが、彼が一楽晴美と結婚式を挙げるのを許すつもりもなかった。以前は一楽晴美が彼の子供を妊娠していたから同意したが、今は子供がいないのだから、結婚式は必要ない。一楽晴美のような計算高い性格では、もし結婚してしまえば、今後彼女がどんなに菊池海人にふさわしいお嬢様を紹介しても、順調に結婚することはできないだろう。気性の荒い相手と一楽晴美が揉めれば、菊池家の面子はどこに置かれるのか。「海人、晴美もあなたと結婚したくないのよ。彼女を無理やり結婚させれば、後で逆にあなたに跳ね返ってくるわ。それでは損をするだけよ。母さんの考えでは、彼女を海外に送ればいいの。彼女のお腹の子供もあなたの子ではないことが証明されたんだから。河崎と別れるのもいいわ。あなたたちは視野が違うから、きっと揉めるわよ。その時は母さんがあなたにぴったりの奥さんを選んであげるから」これらの言葉は、菊池海人がこの頃ずっと聞かされていた。「母さん、俺はもう十代の頃じゃないんだ。あなたたちが俺を荒野に放り出した時、俺は生きるために前に進むしかなかった」「でも、それでたくさんのことを学んだでしょう?もしあなたが
清水南は招待状を取り出し、言った。「まだ行けないわ、菊池さんの......三日後の結婚式があるから」菊池海人の幼なじみである服部鷹は、出席しないわけにはいかない。河崎来依は招待状をちらりと見て、言った。「じゃあ、私が先に行って待ってるわ」「しばらく滞在するつもり?それとも、嫁ぐつもり?」清水南の冗談に、河崎来依は髪をかき上げ、意味深に言った。「さあね」清水南は言った。「あなたが何をしようと、私は応援するわ。あなたが幸せならそれでいいから」......河崎来依は会社の仕事を整理し、チケットを予約して長崎へ飛んだ。離陸前に神崎吉木にメッセージを送った。ちょうど携帯をしまって寝ようとしたとき、隣の人が立ち上がり、また別の人が座った。その慣れ親しんだ清々しいタバコの香りに、彼女は眉をひそめた。顔を向けると、いつも冷たい表情を浮かべた整った顔が目に入った。「......」河崎来依は仕事で成功し、ある程度の収入を得てから、自分を犠牲することは一切なかった。飛行機はもちろんファーストクラスを予約していた。もちろん、ファーストクラスで菊池海人を見かけることは珍しくないが、問題は、彼女の隣にはすでに誰かが座っていたことだ。彼が今、彼女の隣に座るのはおかしい。しかし、結局彼女は何も言わず、横向きになって眠った。目が覚めたとき、彼女の体には黒灰色のコートがかけられていた。しかし、彼女は飛行機に乗って座った後、すぐに客室乗務員に毛布を頼んでいた。振り返ると、彼は毛布をかけていた。毛布はどれも同じだから、彼女のものだとは言えない。しかし、彼女の体にかかっていたコートが誰のものかは言うまでもない。彼女はそれを取り上げて彼に投げ返した。菊池海人は彼女の動作で目を開けた。ちょうどその時、飛行機が着陸するというアナウンスが流れた。河崎来依は何も言わなかった。しかし、飛行機を降りても彼は彼女についてきたので、彼女は我慢できなくなった。「一体何がしたいの?昨日、私が結婚式をキャンセルするように言ったのに、あなたが『いや』と言ったんじゃない?それなら、私たちが別れたことを認めたってことよね。なんで今になって私に纏わり付いてるの?嫌われたいの?」彼女が長々と言い終えると、菊池海人は淡々と返
こいつ!毎回も強引にキスしてくるなんて。「姉さん、水を飲んで口をすすいで」河崎来依はそれを受け取り、まだ温かい水だった。彼女は口をすすぎ、さらに少し水を飲んだ。なんとか少しは怒りを抑えられた。神崎吉木は手を伸ばし、優しく彼女の背中を撫で、落ち着かせようとした。河崎来依は深く息を吸い込んだ。最後の息を吐ききる前に、車が急ブレーキをかけた。運転手は地元の言葉でブツブツと文句を言っていた。河崎来依は体勢を整え、前の席の間から外を見た。タクシーの前に2台の車が横たわっていた。彼女がまだ反応していないうちに、彼女の側のドアが開けられた。骨ばった手が彼女を外に引きずり出した。神崎吉木は慌てて彼を引き止めようとしたが、菊池一郎に押さえつけられた。「菊池海人、離して!」河崎来依はもがいたが、菊池海人は彼女を肩に担ぎ、黒い車に向かって歩き出した。彼女を後部座席に座らせ、運転手に発車を指示した。河崎来依は我慢できず、また彼を平手打ちした。菊池海人は舌で頬を押し、声に感情を込めずに言った。「まだ気が済まないなら、続けて殴ってもいい」河崎来依は怒りでいっぱいだった。「停めて、じゃないと飛び降りるわ」菊池海人は彼女の両手を掴み、何も言わなかったが、その意味は明白だった。彼女が飛び降りる機会を与えるつもりはない。河崎来依は彼を蹴った。「一体何がしたいの?」菊池海人は彼女をじっと見つめた。河崎来依はまた彼を蹴った。「あと2日で結婚式を挙げるんでしょ?今ここで私と何をしてるの?まさか、側室として迎えたいと思ってるんじゃないでしょうね?」菊池海人は河崎来依の怒りに比べ、冷静に見えた。しかし、内心はそうではなかった。彼は本当に深く後悔していた。河崎来依のためで、完璧な計画だと思っていた。しかし、彼女が神崎吉木と一緒にいるのを見て、もうその計画を続けることができなかった。「結婚式はやらない。あいつを海外に送り出す。その子は俺の子じゃない。来依、君と別れない。君も俺と別れることはできない」河崎来依は冷笑した。「何でお前の言う通りにするの?」「別れること以外なら、君の言う通りにする」「......」河崎来依は以前、「馬の耳に念仏」という言葉に深い感銘を受けたことはな
来依は彼の手をパシンと叩き落とした。「自分のテーブルに戻りなさいよ」そう言ってくるりと向き直り、女子チームに呼びかけた。春香は棒付きキャンディーを一本渡しながら、ひそひそ声で言った。「海人のこんな姿、初めて見たわ。前は誰のことも目に入ってなかったし、氷みたいに冷たかったのよ。それが今や、こんな感じだもん」紀香も小声で同意した。「昔、私を助けてくれたときなんて、上から見下ろして『バカ』って一言よ。それっきり、会話らしい会話もなかったし、私が何言っても『うん』しか返ってこなかった」来依も海人の冷淡だった時期を知っていたので、聞いて笑みを浮かべた。「それはちょっと大げさでしょ?さっき、ちゃんと話してたじゃない」「それは、来依さんの顔を立ててくれただけ」「だって清孝にだって、あそこまでしないよ。私のこと助けたときだって、私が清孝の妻だって知らなかったんだから。あとで知ってから、すぐ清孝に借りを作ったもん。あの目に浮かんだあの計算高さ、今でも忘れられない。でもね、それを清孝相手にやれる人なんて、そういないの。だから私は、逆にちょっと嬉しかった」彼女たちはすぐ隣で話していたが、いくら声を潜めたところで、大した意味はなかった。何より、あの二人の男の耳はとても良い。けれど、傍目にはただ笑みを浮かべているようにしか見えず、その目にあるのはどこか甘く柔らかい光だった。――なるほど。どうやら本物の「嫁」ってわけね。この日の来依は、やたらとツイていた。配牌からして、抜群に良かった。とはいえ、あまり勝ちすぎるのも気が引ける。紀香は自分より年下の「妹分」だ。だからいくつかの局では、あえて良い手を崩してまで打っていた。いつの間にか、海人が彼女の後ろに立っていた。それだけでなく、彼は来依の打とうとした牌を押さえ、自分で別の牌を選んで捨てた。来依は彼をにらんだ。「じゃあ代わりにあんたが打てば?」海人は彼女の頭をぽんぽんと叩いた。「お前がミスしそうでな」――このクソ野郎、絶対に気づいてるな。あの腹黒さは伊達じゃない。「いいからほっといて、打てるから!」今回は彼女の言葉にも従わず、来依が崩そうとしていた手をそのまま育てた。紀香が振り込んだ瞬間、彼は来依より早く口を開いた。「ロン」紀
海人はちらりと清孝を見やり、冷たい視線を投げた。――子どもを騙してばかり。それでいて、かつては何年も音沙汰なしで放浪していたくせに。今さら離婚されても、自業自得だ。紀香はもう、昔のあの素直な少女ではなかった。清孝の数言で操られるような存在ではない。「来依さん、海人と仲いいんだから。二人はカップルでしょ?私が付き合う必要ないじゃない」清孝の目に、一瞬、打算の光が走った。「今回のコラボも、宣伝用の撮影が必要だ。ふたりが仲いいなら、きっといい作品になる。ここでは彼女も慣れてないだろうし、手を貸してあげてくれ」来依が口を開こうとしたが、海人が手でそれを制した。来依は彼に向かって、目配せで訴えた。――ほんと仲いいわね、まるで悪だくみコンビって感じ。海人「……」「撮影なんて、あなたいくらでもできる人いるでしょ」紀香は少し揺れたが、清孝の提案に乗るのはどうしても気が進まなかった。「でも君ほど上手くはない」――ナイス、ヨイショにおだて。まるで教科書のような甘言。来依は思わず拍手したくなった。「でも、私も他の仕事があるし……」清孝はやんわりと説得を続けた。「親友のために、少しだけ調整することもできるんじゃないか?」紀香と来依は、実は知り合ってからそれほど時間は経っていない。けれど気が合って、すぐに友達になった。それでいて、来依に九割九分の割引をしてあげるほどだ。紀香がそんなことをするのは、本当に稀だった。しかも、来依がやろうとしている「無形文化財+和風スタイル」ファッションには、彼女自身も興味を持っていた。来依は口を挟んだ。「紀香、やりたいことをやればいい。自分の気持ちを大事にして」清孝の目に、不満の色が浮かんだ。海人が口を開いた。「ひと言、言ってもいいか?」紀香はうなずいた。「あなた、私の命の恩人だから」「じゃあ、うちの嫁さんにちょっと付き合ってくれない?」「……わかった」海人は清孝を見た。その表情には、誇らしげな勝ち誇りと軽蔑が入り混じっていた。清孝「……」来依は実は、裏でずっと「恋バナ」を聞きたくてたまらなかった。でも、女の子がつらい思いをしているのを見るのは気が引けた。だから立場的に何も言わなかったが、本人が残ると決めた以上、
来依はすぐに耳をそばだてた。さっき階下で海人が清孝を紹介したとき、自分が驚いたのは――そう、彼が錦川紀香の十歳年上の旦那だったからだ。まさかこんなに早く会えるとは思っていなかった。佐夜子の話は断片的で、真相は曖昧なままだったが、自分はこの「先に結婚、あとで恋に落ちる」長くて複雑な愛の物語に、強く好奇心を抱いていた。ちょうど何か聞こうとした瞬間、個室の扉が勢いよく開かれた。怒りに満ちた見覚えのある顔がこちらへと向かってきて、そのままテーブルの酒をつかんで清孝の顔にぶちまけた。「卑怯者!」三十代の清孝は、藤屋家のトップに立つ男。その手腕と策略の深さは、言うまでもなかった。その積み上げられた威圧感、所作ひとつにも堂々たる風格が滲み出ている。誰も彼と目を合わせようとせず、ましてや顔に酒をかけるなど、想像もつかないことだった。だが清孝は怒りの色を一切見せず、むしろその目には甘さが滲んでいた。顔を拭きながら、穏やかな声で言った。「来てくれて嬉しいよ」紀香はそのまま去ろうとしたが、清孝に手首を取られて止められた。「せっかく帰ってきたんだ。明日は一緒に本宅に帰ろう」紀香は拒んだ。だが清孝は相変わらず優しく、根気強く続けた。「家族の食事会だよ。君、両親に行くって約束してただろ」「……」紀香は清孝の手を振り払った。「明日、自分で戻るから」そう言って出ていこうとした時、ふと来依の存在に気づいた。「来依さん、なんでここにいるの?」来依は手を軽く振った。「ちょっとしたコラボの打ち合わせがあってね」「誰と?」紀香は目を丸くして清孝を指差した。「まさか……この男と?」来依はうなずいた。紀香はすぐに駆け寄り、来依の腕を取って引っ張った。「来依さん、藤屋清孝って男、あの人の話には罠しかないの。どうしてそんな人と組むの?いつの間にか足元すくわれて、後悔しても遅いよ!」「さあ、行こう!」来依の腕を引っ張るその瞬間、海人が来依の手を取って止めた。それを見て、紀香はようやく海人の存在に気づいた。「あなたもいたの?」海人は軽く頷いた。「来依は俺の婚約者だ」紀香は来依を見て、海人を見て、言いたげな顔をしたまま少し迷った末に口を開いた。「菊池様の人柄は問題ないと思う。
「あなた、前に根絶やしにするって言ってたじゃない。方法あるんでしょ?」海人の父はその言葉にため息をついた。「あれは、昔の話だ。藤屋清孝が新しい協力相手を見つけるなんて、一瞬のことだ。この世の中、河崎来依にしかできないって仕事でもない。たとえ俺たちが裏で何か仕掛けたとしても、藤屋清孝が正面から敵に回ってくるとは限らない。藤屋清孝なら、やる。俺の記憶が正しければ、彼は海人に借りがあるはず」海人の母は驚いた。「いつの話よ?私は聞いてない!」海人の父は彼女の肩をぽんと叩いた。「まずは落ち着け。俺も記憶が曖昧でな、確かじゃないんだが……どうやら、昔、藤屋清孝の妻が無人地帯で動物撮影をしてた時に、犯罪者に絡まれて、ちょうどその時、訓練中の海人が居合わせたらしい」海人の母は海人の訓練時期を思い返した。「その時って、彼女まだ学生だったでしょ?それに、当時はまだ奥さんじゃなかったはず」「今は妻だ」海人の父は海人の母をベッドの端に座らせながら言った。「それに、藤屋清孝は本気になってる」海人の母は枕を拳で何度も叩いた。「一体なんなのよ、これは……全部あなたのせいよ!「あなたが『高杉芹奈なら海人を繋ぎ止められる、河崎来依との関係を絶てる』なんて言うから、私も従ったのに……私、あの時……」「もういい」海人の父が遮った。「今さら何を言っても意味がない」本当に、何を言っても無駄だった。海人の母にできることといえば、二人が自ら衝突して別れるのを待つことだけだった。……海人はやはり、自分のジャケットを来依の肩にかけていた。その鋭い視線は周囲に飛び交い、来依を眺めていた者たちはバツが悪そうに視線を逸らした。今日の海人の働きはかなり大きかったので、来依も特に突っかかることはしなかった。清孝が一通りの挨拶を済ませて戻ってきた。「上に行くぞ」と海人を呼んだ。上の階にはまったく別の空間が広がっていた。下のフロアのように洗練された装飾とシャンパンが飛び交う宴会場とは異なり、そこは大型の娯楽スペースだった。ある個室には麻雀卓がいくつも並べられており、すでに対局が始まっていた。その脇ではポーカーが行われており、見たところ相当な金額が動いていた。来依がちらりと見ただけでも、その場の空気の重さを感じた。
来依は彼の相手をする気もなく、海人を押しのけて勇斗と一緒に食事をしながら話し始めた。海人も後を追おうとしたが、清孝に呼び止められた。清孝は秘書を来依のもとに向かわせ、いくつかの書類にサインさせた。そして、海人のグラスに軽く触れて乾杯の仕草をした。「頭の回転は早いな。俺を『婚約者の盾』に使おうとは。家族にバレたら怒りで倒れるんじゃないか?」海人は来依のいる方を見つめ、目に優しさと確固たる決意を宿していた。「今の俺の唯一の願いは、彼女と結婚することだ」清孝は海人とは長年の付き合いだったが、ここまで何かに執着し、手間を惜しまない彼の姿は初めてだった。その瞳にわずかに陰りが差した。「そうか。君にも弱点ができたわけだ」海人は淡々と返した。「彼女は俺の弱点じゃない」『弱点』とは、敵に利用され、脅され、自分を縛るものだ。彼はそんな状態を望んではいなかったし、来依をそんな危険にさらしたくもなかった。「彼女は、俺と肩を並べて歩ける愛しい人だ」清孝は若干引いたような顔をして、話題を変えた。「高杉家からは、娘の行方を探るために、何重にも人を通じて連絡が来てる君、高杉芹奈を石川に留めてるのは、『本命』のための盾にしてるのか?」海人は首を振った。「違う」「ただ、少し痛い目を見せてやってるだけだ」その目は冷たい光を放ち、鋭さを帯びていた。「全員に、だ」その頃、来依は書類にすべてサインを終え、藤屋家と暫定的にだが、がっちりと結びついた。菊池家がその情報を知ったときには、もう手遅れだった。「私、なんて言った?」海人の母は怒りで声を震わせ、普段の落ち着いた様子はどこにもなかった。「西園寺雪菜の一件があった以上、海人が高杉芹奈を受け入れるわけがない。タイプは違っても、手口は一緒。あんたでも騙されないのに、あんたの息子が騙されるわけがないでしょう!で、どうなったと思う?菊池家の掌握権まで渡しちゃって!河崎来依を藤屋清孝のビジネスパートナーに仕立てて、プロジェクトは藤屋家主導。私たちが手を出そうにも、もう動けない。「藤屋家を敵に回すわけにはいかないわ」海人の父の顔も、すっかり暗くなっていた。前回の雪菜の件では、道木家が介入し、菊池家にもそれなりのダメージが残った。だからこそ、
「君に必要だって分かってたよ。礼はいらない」「……」清孝は海人が酒を受け取らなかったことに特に気にする様子もなく、顔を来依の方に向けて言った。「この件は来依さんに一任するよ。きちんと進めてくれれば、特に注文はない。ただ、いくつか注意点があるから、それは後で秘書から送らせる」来依は軽く腰を折って礼をした。「信頼いただき、ありがとうございます」清孝は他の招待客へ挨拶に行く予定があり、海人に向かって言った。「まず来依さんに何か食べさせてあげて。その後、上の階で麻雀でもしよう。来依さんの先輩も一緒に残って参加してくれ。これから付き合いのある人たちとも顔を合わせる機会だ。ちょうどいい」勇斗は感激で言葉も出なかったので、来依が代わりに礼を言った。清孝が去った後、来依は勇斗の背中を軽く叩いた。「先輩、ビビらないでよ! 私は無形文化財とか和風とか全然分かんないんだから、ちゃんと説明して、あんたの強みを伝えて」勇斗は頭を掻きながら答えた。「来依の言う通りだ。ちょっと緊張しちゃっててさ」そう言われると、来依も納得した。彼女自身、清孝の存在を知ったときには、かなり緊張していたのだ。だから、それ以上は何も言わずに笑って声をかけた。「何か食べよう。あっちで座ろう」「うん」勇斗は食べ物を取りに行った。来依が歩き出そうとした瞬間、腰をそっと抱き寄せられた。振り返ると、海人の冷たくもどこか拗ねたような目がそこにあった。「感謝、いるんじゃないの?」確かに、礼は礼として言うべきだった。助けてもらったことは事実。「ありがとうございます、菊池社長。じゃあ、今度ご飯ご馳走するわ」海人は一歩近づき、声を抑えてささやいた。二人にしか聞こえないように。「ベッドでの『ごちそう』なら、受け取るよ」「……」ちょうどそのとき、勇斗が料理を持って戻ってきた。二人が今にもキスしそうな距離だったのを見て、ようやく気づいた。「この前の食事、お前もいたのか!来依の彼氏だったのか!」海人は来依の手を取り、眩い輝きを放つダイヤの指輪を見せた。「婚約者だ」勇斗は「うわー!」と声を上げた。「おめでとう、来依!そんな大事なこと、先に言ってくれよ。ご祝儀の準備もしてない。まあいいや、結婚式には招待してくれよ。
「……」結局、来依はジャケットを羽織らなかった。彼女が宴会場に足を踏み入れた瞬間、周囲の視線を一身に集めたのは言うまでもなかった。一つには、彼女が石川では見かけない顔だったこと。もう一つは、今日の彼女の装いが、主催者の風格を奪うようなものではないにせよ、彼女自身にとても似合っていて、見る人すべての目を惹きつける鮮やかさを放っていたからだった。誰かが声をかけようと歩み寄ろうとした。だが、その腰を軽く抱く男の存在を見た瞬間、ピタリと足を止めた。「菊池家の若様の女か?」「間違いない。あの独占欲、尋常じゃないからな。それに彼の側には長年誰一人女の影がなかったし。あんな堂々とした態度、正妻じゃなきゃ説明つかない」「高杉芹奈じゃないの?今回、彼女を連れてきたって聞いたけど。菊池家と高杉家、縁談の話があるとか」「違うよ。高杉芹奈なら見たことある」「聞いてない?菊池様にはすごく愛してる女性がいるらしいけど、後ろ盾がなくてさ。名前は確か河……」「河崎来依だ」「そう、それ!」そう答えた人物が興奮気味に振り返ると、相手の顔を見て、慌ててお辞儀した。「ふ、藤屋社長……」藤屋清孝は軽くうなずくと、そのまま海人の方へ大股で向かった。彼に酒を一杯手渡す。「今回は一人でうちに来たんじゃないんだな。めでたいことだ」海人は自分の酒を来依に渡し、その背中を半身で覆うようにして紹介した。「藤屋清孝だ」来依はちょうど口元に酒を運んだところだったが、その名前を聞いて、思わず酒が逆流しそうになった。「藤屋清孝?あの藤屋清孝?」清孝の唇にはうっすらと笑みが浮かんでいたが、その瞳には冷たさが残ったままだった。整った顔立ちに、年月を経て自然と備わった威厳がにじみ出ていた。来依は感嘆の声を漏らしてから、ようやく気がついた。目の前に立っているのは、自分の力では一生関わることすらできないような人物なのだ。たとえ彼が海人の親友だったとしても、自分の今の態度はあまりにも無遠慮で、失礼だったかもしれない。急いで頭を下げた。「藤屋社長、失礼しました。さっきは少し無礼でした」清孝の視線にはどこか意味ありげな光が宿り、海人を一瞥してから、口を開いた。「弟分の嫁なんだから、そんなに堅くならなくていい。俺と海人は古い友人
石川は大阪より少し暖かいとはいえ、年の瀬も近づき、また雪が降るかもしれなかった。どこが寒いのか?四郎は反論することもできず、おとなしくエアコンを入れた。設定温度は26度。来依は手で風をあおぎながら、わざとらしく言った。「この車、ダメね。なんかムシムシする」四郎も確かにそう思った。仕切り板すら付いていないのだ。海人が静かに笑った。「いいよ。お前の言うとおり、車を替えよう」「……」――来依はあるプライベートサロンに連れて行かれた。彼女は迷うことなく赤を選んだ。だが、海人は背中が大きく開いたデザインを見て、スタイリストに指示を出した。「ショールを足して。寒いから」スタイリストは少しためらった。「菊池さん、このドレスのポイントは背中の蝶モチーフのレースなんです。肩甲骨をあえて見せて、うっすらとウエストラインも……」海人の冷たい視線を浴びて、スタイリストはそれ以上言葉を続けられなかった。海人は石川の人間ではなかったが、石川のトップと繋がっている。このサロンは藤屋家の出資で運営されている。しかも、藤屋家からも海人とその奥様を丁重にもてなすよう指示が来ていた。とても粗末に扱える相手ではない。「ショールはいらないわ」来依は大きな姿見の前でくるりと一回転した。「すみません、アップスタイルでお願いします。この背中、しっかり見せたいの」海人の口元が、わずかに引き結ばれた。スタイリストはどちらを見ていいか分からず、動けなかった。来依が言った。「彼を見ないでください。着るのは私、決めるのも私ですよ」そう言って、回転式の椅子に腰を下ろした。「それと、メイクは少しレトロな感じにしてください。でも濃すぎないで。他人のパーティーですし、主役はあくまで他の人ですから」「かしこまりました!」スタイリストはすぐに準備に取りかかった。来依の要望どおりに仕上げた後、スタイリストの目が輝いた。「もしよければ、うちのモデルになってくれませんか?あるいはスタイリングのアドバイザーとして来ていただくとか……センスが抜群です!」来依は立ち上がってスカートの裾を整え、微笑んだ。「自分のことをよく分かってるだけですよ。アドバイザーなんて無理無理、そんな才能ありませんから」スタイ
来依は彼に白い目を向けた。海人の目には、深い笑みがじわじわと浮かんでいた。「ここで楽しんでて。俺は少し用事を済ませてくる。夜は一緒に宴会へ行こう」来依はむしろ、彼がいない方が気が楽だったので、手をひらひら振って追い払った。海人は彼女の頭を軽くぽんぽんと叩き、歩き出した。傍らにいた若い女性が笑いながら言った。「彼氏さんと、すごく仲が良さそうですね」「……」来依は一瞬、弁解しようか迷ったが、まあもうこの場所に来ることもないかもしれないと思い直した。仮にまた来るとしても、その時に言えばいい。彼女は笑って言った。「刺繍、教えてもらえますか?」相手は快く頷いた。刺繍は集中力と時間を要する作業だった。来依は、その日一日ほとんどを刺繍に費やした。食事とトイレの時間以外は、ずっと座って縫っていた。ひとつの刺し方を習得し、小さな作品を一枚仕上げた。立ち上がって、固まった背中と首をほぐしていると、海人がゆっくりと彼女の前に現れた。「楽しかった?」来依は手に持っていた刺繍布を彼に放り投げた。「あんたへの誕生日プレゼントよ。ここに連れてきてくれたお礼」それだけ言って、さっさと更衣室へ向かった。海人はその手の中のハンカチを見つめた。そこには竹と竹の葉が刺繍されており、対角に彼の名前が縫われていた。「お兄さん」近くの女の子が笑いながら言った。「ハンカチって、告白の意味があるんですよ」海人はそれをしまいながら、にこりと微笑んだ。「これ、彼女が自分で刺したの?」女の子は大きく頷いた。「すごく真剣でしたよ。きっと本気で好きなんですね」海人の全身が、喜びに染まっていた。来依が着替えて戻ってきた時、遠くからでも彼が妙に浮かれているのが分かった。近づくと、彼の視線はあまりにも熱っぽく、彼女は鳥肌が立った。ふと視線をそらすと、さっきの女の子がニコニコしていた。だいたい察しがついた。彼の腕を引っ張って車に乗せ、乗車後に言い訳を始めた。「私は初心者だから、ハンカチが一番簡単だったの。ただの練習用よ。名前を縫うのって、一番最初に習う基本なの」海人は意味深に「へえ」と返事した。「……」来依は説明するのが無意味だと感じ、顔をそむけて車窓の外を見た。だが海人は身を寄せ、半ば彼女を包み込むよ