穂乃果は「はじめまして」と声をかけると、「こんばんは、穂乃果さん?」と、拓海は口角を上げて微笑んだ。彼女は「はい、桔梗穂乃果です」と返す。彼はテーブルに身を乗り出し、「敬語はやめてくれないか」と照れ臭そうに眉を吊り上げ、小さく笑った。シダーウッドのフレグランスがふわりと香り立つ。穂乃果の胸は甘くざわめき、恥ずかしさで目を逸らした。
「穂乃果さん、この店の名前の意味………知ってる?」
「ランコーントル?ですか」
穂乃果が首を傾げると、拓海は「出会いっていうんだよ」と、目を細めた。「出会い・・・」、あぁ、マッチングアプリを利用している男性らしい発言だな、と思った。きっと誰にでもこうやって呟くのだろう。穂乃果は少し興醒めしてしまった。
「出会い、素敵ですね」
精一杯の作り笑いの仮面を貼り付けた。そこへタイミング悪く、バーマンがオーダー品を運んで来る。拓海は肘をついて溜め息をついた。バーマンは自分の間の悪さに困り顔をした。
「こちら、和牛のローストビーフになります」
山椒の実が彩る一品を差し出した。穂乃果はピックでローストビーフを口に運び、赤ワインを傾けた。肉の旨味とワインの深い味わいが溶け合い、幸福感が広がる。
「穂乃果さん、飲むピッチ早くない?」
「大丈夫です。私、こう見えてもお酒、強いんです」
穂乃果は髪を掻き上げ、頬を染めた。
「それなら良いけど、飲み過ぎは禁物ですよ?」
拓海が軽く笑う。バーマンは箸休めにと、フリルレタス、ブロッコリー、黄色いパプリカ、薄切りラディッシュのサラダを置き、ハニーマスタードのドレッシングと赤いイチゴを添えた。
「写真、撮っても良いですか?」
「どうぞ、ご自由に」とバーマンが応じる。穂乃果はあまりの彩りの美しさにスマホで数枚撮影したが、ふと気づいた。周囲は落ち着いた紳士淑女ばかりで、カメラを構える客は彼女だけだった。気恥ずかしさで頬が熱くなった。酔いも回っているのかもしれない。
「女の人は……よくそうやって撮るよね?」
拓海が何気なしに和かに微笑む。その言葉は穂乃果の胸にチクリと刺さった。彼はマッチングアプリで一夜の恋の相手を探しに来たパートナーだ。彼女は何を浮かれていたのかと、静かに我に返った。
「あ、深い意味はないよ」
拓海が穂乃果の気配を察し、ワイングラスをテーブルに置いた。「いえ、良いんです」と、彼女は動揺を隠せず震える声で答えた。拓海はサラダを皿に取り分けながら、彼女の顔を覗き込む。その目は真剣な色を帯び、店のキャンドルの柔らかな光に映えていた。
「穂乃果さん、今日、誕生日なんでしょう?」
彼は静かに告げた。穂乃果は息が止まった。まさか、彼がそこまでチェックしてくれていたなんて、思いも寄らなかった。「安物だけど」と、拓海は小さなショップバッグを取り出し、穂乃果の前に置いた。キャンドルの炎が揺らめいた。
陽光が降り注ぐ石川県立中央病院のロビー。穂乃果は一瞬沈黙し、母子手帳のクマのイラストを思い浮かべた。子の鼓動が胸を熱くする。「…はい、拓海さん。私、帰ります。あなたと、この子と、家族になるために」彼女の声は震えながらも力強かった。拓海の目が光り、笑顔が広がる。患者や看護師の雑踏が温かく見送る中、二人は駐車場へと歩を進めた。拓海は「車止めがあるから」「そこ、段差だから気を付けて」と穂乃果の手を優しく握った。汗ばんだその手は熱く、彼の緊張と愛情が伝わってくる。穂乃果の心に、満月の夜の記憶と新たな希望が重なった。「そっちじゃない、こっちだ」穂乃果が黒いセダンの助手席に乗り込もうとすると、拓海は後部座席のドアを開けた。「お腹の子に何かあったらどうするんだ」真剣な眼差しに、穂乃果は小さく微笑んだ。拓海にエスコートされ、腹を庇いながら後部座席にゆっくり座る。ふと視線を感じて振り仰ぐと、拓海がかがみ込み、穂乃果の唇にそっと口付けた。シダーウッドの香りが彼女を包み、温かい雫が頬に落ちる。穂乃果は拓海の手を握り返した。子の鼓動と彼の温もりが、家族の始まりを確かに感じさせた。黒いセダンは穂乃果が宿泊していたホテルから荷物を引き上げ、織田の邸宅へと向かった。車窓に流れる金沢の街並みは、陽光に照らされ温かく、あの冷たい満月の夜の記憶を優しく塗り替えていく。ルームミラー越しに映る拓海の視線は、穏やかな海のように柔らかく、穂乃果の心を満たした。「気分は悪くないか?」「大丈夫です」穂乃果は微笑み、そっとお腹に手を置いた。銀縁眼鏡の奥の拓海の瞳は、彼女と子の未来を見守るように温かかった。母子手帳のクマのイラストが脳裏に浮かび、子の鼓動が幸
穂乃果の目は驚きと戸惑いで拓海を凝視した。「…んで」か細い声が、まるで鋭い刃のように拓海の胸を冷たく抉った。穂花との婚約が破棄となった今、都合よく現れた男を、彼女はどう思うだろうか。穂乃果の瞳には、あの夜の傷と裏切りが宿っているようだった。拓海は自身の不様な姿に耐えきれず、目を逸らした。産婦人科フロアの穏やかな静けさ、ウサギのぬいぐるみが並ぶ窓辺、ドレープのカーテンが揺れる光景が、彼の後悔をいっそう際立たせる。「桔梗さん」受付の看護師が穏やかに呼び、次回の健診予約を促した。拓海は緊張で顔を強張らせ、力なく長椅子に座り込んだ。母子手帳を届けた安堵と、彼女の冷たい視線が心を締め付けた。「ありがとうございました」穂乃果が看護師に応じ、振り向いた。一瞬、彼女の目が迷うように拓海を捉えたが、すぐに踵を返し、エレベーターホールへと向かった。拓海は慌てて長椅子から立ち上がり、彼女の華奢な背中を追った。吹き抜けのガラス天窓から柔らかな陽光が降り注ぎ、川のせせらぎのバックミュージックが静かな空間を満たす。だが、穂乃果の早足と、彼女を追う拓海の周りだけは、冷ややかな空気が漂っていた。あの満月の夜、契約解消の冷たい言葉を浴びせた自分の愚かさが、胸を刺す。穂乃果と子を守りたい。拓海は息を整え、エレベーターに滑り込む彼女の背中に声をかけようとしたが、言葉は喉に詰まった。「穂乃果、聞いてくれ」
石川県立中央病院は、金沢市郊外にレンガの外壁を暖かく照らす陽光に映えていた。午後の診察開始が迫る駐車場は満車で、拓海の運転する黒いセダンも列に並ぶ。穂乃果の健診時刻は刻々と迫る。拓海の胸は焦りで締め付けられた。穂乃果は車を運転しない。妊娠中の彼女なら、なおさら慎重になるはずだ。タクシーかバスしか考えられない。彼は玄関の駐車スペースに停まるタクシーの降車客を凝視した。だが、高齢者や家族連ればかりで、穂乃果の華奢な後ろ姿は見当たらない。駐車場の警備員が手で空きスペースを案内し、セダンが数メートルずつ進む。苛立ちが募り、ハンドルを握る手が汗で滑る。ふと、金沢駅発のバスが一台、病院のロータリーに滑り込んだ。埃っぽい窓から降りる乗客の中に、彼女がいるかもしれない。「はい、こちらに駐車してください」丁度いいタイミングで駐車スペースに案内された。拓海は車を急いで停め、ドアを勢いよく開けた。母子手帳をセカンドバッグに握り、バスから降りる人波に目を凝らすが、穂乃果の姿はまだ見えない。彼女と彼女のお腹の子を守るため、今度こそ間に合わなければならない。拓海は息を整え、バス停へと急いだ。心臓の鼓動が、午後三時の健診を刻む秒針と重なった。(穂乃果、穂乃果は!?)穂乃果はそのバスには乗っていなかった。拓海は踵を返し、病院の総合案内受付へと急いだ。レンガの外壁に陽光が映えるロビーは、患者や家族のざわめきで満ちていた。「産婦人科の場所を教えてください」と息を切らせて尋ねると、受付の職員が穏やかな笑顔で答えた。「産科は四階になります」拓海は軽く会釈し、エスカレーターを二段跳びで駆け上がった。二階のエレベーターホールに辿り着く頃、脇に
陽光が障子を透かし、部屋に柔らかな光を投げかける。埃がキラキラと舞い、拓海の肩に静かに降り注ぐ。障子の笹の影は、彼の揺れる心を映すようにざわめいていた。ベッドルームの片隅に佇むローチェストの前に立ち、拓海は一瞬、息を止めた。穂乃果の行方への手がかりを求め、契約書の住民票に希望を託していた。彼は畳に片膝をつき、一番下の引き出しに手を掛けた。軋む音とともに引き出しが開くが、中は空っぽだった。なぜか安堵の息が漏れ、拓海はそっと引き出しを閉じた。二段目の引き出しには、万年筆と便箋が無造作に収まっていた。穂乃果の可愛らしい筆跡を思い出し、彼の胸が締め付けられる。拓海は立ち上がり、一番上の引き出しに手を掛けた。取っ手に重みを感じ、心臓が早鐘を打つ。こめかみが締め付けられ、冷や汗が背を伝った。ゆっくりと引き出すと、引き出しは軋み、中には織田コーポレーション企業紹介のパンフレットが現れた。契約を交わした日、「読むように」と穂乃果に手渡した冊子だ。彼女の戸惑った笑顔が脳裏をよぎり、拓海の指が震えた。「……………あった!」拓海は企業紹介のパンフレットをローチェストの引き出しから取り出すと、その下に分厚い契約書の束を見つけた。胸が高鳴り、汗がこめかみを伝う。「甲乙丙、これはなんですか?」契約を結んだ日、専門用語に目を白黒させながら愛嬌のある笑顔を見せた穂乃果の顔が脳裏によみがえる。拓海は急いで契約書のページを捲り、住民票を探した。時計の秒針が静かなベッドルームに響き、障子の向こうで笹の影が朝の陽光に揺れる。埃がキラキラと舞う中、住民票は程なく見つかった。だが、そこに記載されていたのは、穂乃果が住んでいたアパートの住所…&
穂花はメディカーネ(地中海性ハリケーン)のように金沢に現れ、鮮烈な笑顔と予期せぬ婚約解消の宣言を残して去って行った。その爪痕は、拓海の心に深い嵐を巻き起こした。「どうしてくれるんだ!」叔父は穂花との婚約が頓挫したことに激昂し、織田の本宅に乗り込んできた。畳の間には重い空気が漂い、叔父は抹茶碗を叩き割る勢いで座卓を拳で打ち、唾を飛ばしながらまくし立てた。「穂花との約束はどうなった!」彼の声が広間を震わせる。だが、拓海の両親は困惑の表情を浮かべた。彼らにとって、穂乃果こそが拓海の正式な婚約者だった。叔父の剣幕に意味が分からず、母は穏やかに微笑み、スーツケースを手に邸宅を出た穂乃果を思い、「穂乃果さんと些細な喧嘩でもしたの? 早く仲直りしなさい」と拓海に言った。拓海は言葉を失い、座卓の前に座ったまま視線を落とした。両親の誤解と、穂乃果が去った事実が胸を締め付ける。拓海は拳を握りしめた。障子の向こうで、朝の陽光が笹の葉を揺らし、まるで彼の揺れる心を映すようだった。穂乃果はどこにいるのか。両親の穏やかな笑顔と叔父の怒声が交錯する中、拓海の心は答えのない問いに囚われていた。その時、拓海はふと契約書のことを思い出した。穂乃果と交わした契約書には、住民票が添付されていた。彼女はアパートに住んでいたが、もしかしたら実
金沢駅のコンコースは、行き交う人の喧騒でざわめいていた。キャリーバッグを手に、北陸新幹線グランクラスの乗降口から降り立った女性、佐々木穂花。拓海の婚約者だ。彼女の優雅な足取りと、イタリアの香水が漂う姿は、駅の雑踏の中でひときわ目立っていた。拓海とその叔父は、コンコースの端で彼女の到着を待っていたが、二人の間には険悪な空気が漂い、言葉を交わすことすらなかった。「あの、偽の婚約者とは切れたんだろうな?」叔父が鼻息荒く詰め寄ると、拓海は視線を逸らし、「……はい、大丈夫です」と渋々答えた。その声には、どこか力がなかった。拓海の心には重い石が沈み、通り過ぎる女性の後ろ姿に穂乃果の面影を重ねるたび、胸に細い針が刺さるような痛みが走った。あれから拓海は、穂乃果の行方を追い続けた。彼女が立ち寄りそうな場所、かつての喫茶店、図書館、ワインバーを訪ね、調査会社にまで依頼して手がかりを探した。だが、穂乃果はまるで霧のように消えていた。ベッドルームのローチェストに残された母子手帳にはまだ気づかず、拓海の心は後悔と焦燥で軋んでいた。コンコースの喧騒の中、穂花が近づく足音が響く。彼女の微笑みが拓海に向けられた瞬間、彼の胸に新たな重圧がのしかかった。穂花の帰国は新たな始まりのはずなのに、なぜか穂乃果の不在が彼を縛りつけていた。「拓海! 久しぶり!」穂花はひまわりのような大輪の笑顔でコンコースを横切り、拓海へと軽やかに歩み寄った。「穂花、久しぶり」拓海は穏やかに応じたが、声にはかすかな