Masuk犯人たちがもともと狙っていたのは奈緒で、美紀は巻き込まれただけ。だったら、まず美紀を解放させて、自分が残って交渉すればいい。そして、美紀を人質にしている男を見据え、ゆっくり口を開く。「彼女を離せ。先に逃がしてやれ」やっぱり、充が選んだのは美紀だった。今回も、何一つ変わらない。奈緒は不思議なくらい、驚かなかった。「いいだろう。お前がそう決めたんだからな」男は嫌な笑みを浮かべると、美紀のこめかみに押しつけていた銃を下ろした。美紀は待ってましたとばかりに、その場から飛び出す。しかし、美紀と男の視線が交わった一瞬、二人の目に同じような満足げな色が浮かんだことに、誰も気づかなかった。美紀が100メートルほど走って振り返ると、充はその場に留まっており、去ろうとはしていなかった。遠くからでも、充の声ははっきり聞こえた。「お前たちのボスが誰で、なぜ俺の妻を狙うのかは知らない。でも、金が目的なら、妻より俺のほうが持っている。だから俺を連れて、妻のことは解放しろ」美紀は耳を疑った。充は自分を助けただけではなく、奈緒まで何としてでも守ろうとしている。どうして?黎が自分の娘ではないと知ったはずなのに、それでもまだ、奈緒を手放せないというの?いつから奈緒が、充にとってこれほど大切な存在になったというのだ?美紀は悔しさに足を踏み鳴らした。そして唇を噛みながら、再び充のもとへ走っていく。「充さん!狙われてるのは奈緒さんで、私たちじゃないでしょ!なのに、なぜこんなことに関わるの?早く逃げなきゃ、間に合わなくなるよ!」美紀は、何としてでも充をここから連れ出したかった。犯人たちの注意も、一瞬そちらにそがれる。じっと好機をうかがっていた奈緒は、まさにこの一瞬を見逃さなかった。地を蹴って跳ね起きるやいなや、奈緒は油断していた男の手から銃を鮮やかに奪い取った。続けざまに相手の股間を強烈に蹴り上げると、その勢いで握りしめていた石を、もう一人の男の腕に向けて全力で投げつけた。相手が激痛に顔をしかめた隙に、銃が手から落ちる。驚いた充だったが、素早く反応し、転がってきた銃を拾い上げた。だがその時、奈緒の逃走を阻もうとして、美紀が奈緒に突然飛びかかり、その足にしがみつこうとした。しかし、奈緒が反射的に身
ちょうど奈緒が助けを求めて叫んだとき、充たちもちょうどそのガソリンスタンドを通りかかっていたのだ。奈緒の声は、充にはすぐ分かった。そして、奈緒を乗せた車が猛スピードで走り去るのを見て、充は何も考えずに追いかけていた。そのとき、頭にあったのは一つだけ――奈緒に何かあってはいけない。ただ、それだけだった。だが相手の車は、どんどん人気のない道へ入っていく。このままでは、奈緒がどこへ連れていかれるか分からない。だから充は覚悟を決め、あえて犯人の車の後部に自車を追突させて、相手を強制的に停車させたのだった。胸が締めつけられるように痛む。充は美紀の手を振りほどくと、車内の隠しスペースから拳銃を取り出した。「妻が目の前で連れ去られるのを黙って見てるつもりはない!」充はそう言うと、迷うことなくワゴン車へ近づいていく。ワゴン車の中には煙が充満していた。運転席の男は追突の衝撃でフロントガラスに頭を打ち、流血して意識を失っていた。もう一人の男が、状況を確認しようと車から降りようとしたその瞬間……こめかみに冷たい感触が当たった。黒い拳銃が、ぴたりと向けられている。充の表情は冷え切っていた。「お前らは誰だ?なぜ俺の妻をさらった?答えろ!」「妻?」男の声が震えた。目の前にいる人物は高そうなスーツ姿で、どう見てもただの一般人ではない。さらに後ろを見れば、前部が大きく凹んだベントレー。自分たちはただ命令されたとおりに女を連れ去っただけ。ただ、「女を連れ去って楽しめ」と言われただけだったのに。まさか、女に指一本触れる前にその旦那が追いかけてくるとは思ってもいなかった。「俺は……知らない。ただボスに連れ去ってから、襲って写真や動画を撮れって言われただけで……」男は両手を高く挙げ、恐怖に震えながらすべてを白状した。充の口元が冷たく歪む。「お前に指示を出しているのは誰だ?答えろ!」充の恐ろしい眼差しに押され、犯人は強張った表情で口ごもった。「それは……その……」男が名前を口にしようとしたとき、背後から美紀の叫び声が聞こえた。「充さん!助けて!」冷ややかに振り返った充は、目を見開く。もう一人の犯人が車から出てきており、今度は美紀の額に銃口を押し当てていたのだ。充の顔から完全に表情が消えた。「彼
やばい、まずいことになった。二人の男は車から飛び降り、再び奈緒を車の中に引き摺り込もうとする。「お願い!助けてください!連れ去られそうなんです!警察を呼んでください!」切羽詰まった奈緒の叫び声に、何人かの男性客やガソリンスタンドの従業員が駆け寄ろうとした。ところが、なんと男の一人が突然拳銃を取り出したのだ。黒い銃口が照明を鈍く反射し、その場の空気が一瞬で凍りつく。「止まれ!動くな!こいつは俺の女だ、揉め事にかかわるな!俺たちの揉め事に首を突っ込むんじゃねえ!状況が悪化したと見た犯人たちは、形相を変え、拳銃を突きつけて周囲を威嚇した。さすがに銃を目の前にしては、誰も動けない。助けようとしていた人たちも、恐怖に顔を強張らせながら後ずさった。奈緒がもう一度助けを求めようとしたそのとき、冷たい銃口がこめかみに押しつけられた。「黙れ!これ以上騒いだら、今ここで殺すぞ!ったく、余計なことをしやがって!」男は悪態をつきながら、奈緒の腹を思いきり蹴りつけた。「っ……!」強烈な痛みに、奈緒は思わず身体を丸める。額に冷や汗が浮かび、息を吸うことすら苦しい。誰の助けも得られぬまま、奈緒は犯人に荒々しく車内へ引きずり込まれた。今度は口に布を押し込まれ、手足まで縄で縛られる。もう一人の男はすぐさま車を発進させ、逃げるようにガソリンスタンドを飛び出した。車が猛スピードで走り出す。その最中、男は再び電話をかけた。「ちょっとまずいことになりました……こいつ、薬が効きにくかったみたいで途中で起きて、ガソリンスタンドで助けを求めやがったんで。かなりの人数に見られました。どうしましょう?誰かが警察呼んでたら……」「この役立たずが!ったく、女一人まともに扱えねえのか!もう警察が動いてると思え!倉庫には連れてくるなよ、こっちまで足がつくからな。人気のない場所で、そのまま片づけろ。最初から最後まで全部、動画と写真に収めろ。いいな?今度失敗したら、ただじゃ済まさねえぞ!」それだけ言うと、電話は切れた。奈緒の背中を冷たい汗が流れた。どうやら相手の目的は、最初から殺すことではない。自分を徹底的に辱め、その証拠まで残すつもりなのだ。どうする?このまま本当に……そう考えた瞬間、奈緒は絶望するように目を閉じた。
激しい頭痛で目を覚ましたとき、奈緒は車の中にいた。胸がどきりと、大きく跳ねる。奈緒の隣に座る男が、ちょうど電話をしていた。「無事に車に乗せましたが、次はどうしますか?」スピーカー越しに、低く濁った男の声が響く。その声には、聞くだけで嫌悪感を覚えるような下卑た笑いが混じっていた。「港の倉庫まで連れてこい。今夜、お前らはたっぷり楽しめるぞ……」奈緒の背筋に冷たいものが走った。さりげなく車内を見回す。ごく普通のワゴン車だった。運転席に一人。そして、自分に注射器を打ち込んだ男が、すぐ隣に座っていた。強い麻酔を打ったから完全に動けないと思っているのだろう。幸い、手足は拘束されていなかった。ただ、手足は鉛を詰めたように重く、力が入らない。このまま港の倉庫に連れて行かれたら、最悪の事態になることは火を見るよりも明らかだった。奈緒はそっと左手を動かし、右手首にはめたブレスレットのボタンを3秒間押し続けた。これは真司から渡されたもので、3秒以上押せば危険信号と位置情報が発信される仕組みになっているのだ。1、2、3……奈緒は心の中で数えた。無事危険信号は送れた、そう思い奈緒はほっと胸を撫で下ろす。しかし、ブレスレットがよりによって小さな通知音を鳴らした。静かな車内では、その音がやけに大きく響いてしまい、奈緒の全身が強張った。隣の男の鋭い目が奈緒へ向けられる。奈緒はとっさに目を閉じ、呼吸を整え、まだ意識が戻っていないふりをした。男が顔を近づけてきて、容赦無く乱暴に奈緒の頬を何度か叩く。奈緒は痛みを堪え、完全に力を抜き、叩かれるたびに身体がぐったり揺れるようにした。「ちっ、びびらせやがって。今の音、こいつが何か発信機でも持ってんのかと思ったぜ」意識がないと判断したのか、相手は安心しきってそう吐き捨てた。運転していた男が振り返り、奈緒の右手にあるブレスレットに気が付く。「念のため、その右手のやつ取って捨てとけ。今回は絶対に失敗するなって言われてる。こいつにはきっちり痛い目見せろってな」ちょうどそのとき、車がガソリンスタンドへ入っていった。どうやら給油するらしい。隣の男は特に疑うこともなく、奈緒の手首へ手を伸ばした。今しかない。相手が触れた瞬間、奈緒はかっと目を見開き、男の頭を抱
胡桃はそう言うと、重いため息をついた。「正直、この5年間を見ていて思ってたの。あなた、奈緒さんのことをちゃんと好きだったでしょ?奈緒さんはあなたにぴったりだったから、仕事でも私生活でも、心強いパートナーになれたはず。実際、奈緒さんがいなくなってから、仕事も私生活も全部ぐちゃぐちゃになってるって、自分でも分かってるんじゃない?」充は驚いて胡桃を見上げた。目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走る。胡桃は、家族の中でもいちばん物事の本質を見抜くことができる。「好きじゃなかったわけないだろ?」充は力なく笑った。「奈緒は知らないだろうけど、あいつは俺にとって初めての女だったんだ。結婚したのは好きだったからだし、奈緒が俺の人生に不可欠なのも分かってる」「じゃあ、今の美紀との距離の近さは何なの?一体どういうつもり?美紀が盛岡家に戻って、親族のしがらみがなくなったから、堂々と一緒になれるとでも思った?充、一度ちゃんと自分に聞いてみなさい。あなたが好きなのは本当に奈緒さんなのか、それとも美紀なのかをね」充は息をのんだ。あわてて否定する彼の耳元が、微かに赤くなる。「姉さん、美紀を好きになるわけがない。あいつを昔から妹みたいに思っているだけで……」胡桃は鼻で笑った。その瞳が、充を射抜くような鋭さを放つ。「本当に妹としか思ってないなら、どうしてそんなに動揺して顔まで赤くなるの?」充ははっとして、言い返そうとした。しかし、言葉が出てこない。「充、恋愛はあなた個人の問題。本来なら、姉の私が口を出すことじゃない。でも今は、その私情のせいで会社にまで悪影響が出てる。だから言わせてもらうね。ここまで来たら、奈緒さんとやり直せる可能性はかなり低いと思う。だったらいっそ、きっぱり離婚して、美紀と一緒になるのも一つの選択じゃないかしら?青木グループと盛岡グループが組めば、事業基盤はもっと強くなる。そうなれば充の社長としての地位も固まるし、お父さんが例の不倫相手をどれだけ甘やかしても、簡単には揺らがなくなるはず。あなたは、どう思う?」胡桃は充の目をじっと見つめ、反応を窺う。その瞬間、充の顔が強張った。「離婚」その二文字を聞いただけで、胸を内側から締めつけられる。ダメだ。自分にはできない。どうしても諦められないんだ。自分が離婚を受け
夢香の顔には得意げな笑みが浮かんでいる。奈緒が世間中から叩かれる姿を想像して、早くも満足そうだった。美紀も笑顔で夢香とハイタッチする。「そうよ、胡桃さん。あれこれ悩む必要なんてないわ。私たちがやっているのは、すべて充さんを助けるためなんだから。じゃなかったら、充さんは今でも奈緒さんに騙され続けて、離婚もできずに苦しんでたかもしれないでしょ?」美紀はそう言い切ると、痛ましげな表情で充を見つめた。「本当に、最近の充さん、すごく痩せちゃったし……これ以上苦しんでるところ、私は見たくないの」それを聞いて、胡桃も思わず充に同情の眼差しを向けた。言いたいことは山ほどあったが、もう起きてしまったことは元に戻せない。胡桃はそれ以上何も言わずに口を噤んだ。とはいえ、黎が本当に充の子ではないという話だけは、胡桃にはどうしても信じられない。充が生まれたばかりの頃、翠のそばでずっと世話を手伝っていたのは胡桃だった。だからよく覚えている。黎は、赤ん坊の頃の充によく似ていた。見れば見るほど、驚くほどそっくりなのだ。それに、以前、黎の保険の手続きをした際、黎の出生時の記録も確認していた。そこにあった血液型はB型。充と、自分と同じ血液型。力なくその場を立ち去る充の背中を追い、胡桃は急いで駆け寄った。彼女は助手席のドアを開けて乗り込むと、すぐに切り出した。「あの子、充と同じB型よ。なのに、DNA鑑定書には血の繋がりがないって書かれていたの?」「姉さん……それ、本当か?」充の顔色がさっと変わり、弾かれたように胡桃の方を向いた。胡桃は疑わしげな眼差しで問い返す。「知らなかったの?出生記録を取り寄せたことがあるんだけど、血液型はあなたと同じB型だった。それに、顔だってあなたが赤ちゃんだった頃とすごく似てる。正直、充の子じゃないって言われても、私はあまり信じられない」「本当に?」充の表情が険しくなる。そもそも今夜、あの話を記者の前で公表すること自体、怒りに任せた衝動的な判断だった。しかも奈緒があまりに潔く「自分の子ではない」と認めたことで、充の疑いはますます深まっている……「DNA鑑定は誰がやったの?充が直接サンプルをとった?それとも、また夢香や美紀に任せたんじゃないの?待ってよ、充……こんな大事なことなのに
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。「地震です!地震が来たんですよね?」そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。……しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。
パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…







