Share

第4話

Author: 森の小鹿
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。

「地震です!地震が来たんですよね?」

そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。

……

しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。

それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。

「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」

香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、震えた声で叫んだ。「奥様、やめてください!赤ちゃんが怖がってしまいます!」

赤ちゃんの悲痛な泣き声が耳に入ると、奈緒は全身の力が抜けたように、ぐにゃりと崩れ落ちた。

彼女はついに手の中の陶器の花瓶を置き、赤ちゃんに歩み寄ると、その体を強く抱きしめた。

一方、赤ちゃんは顔を真っ赤にして泣いていて、両方の小さなこぶしを固く握りしめていた。

そこへ香織が近づいてきて、焦ったように言った。「きっとお腹が空いてるんです。ミルクを作ったのに飲んでくれなくて、母乳じゃないとダメみたいです!奥様、早く授乳してあげてください!」

奈緒はほとんど迷わず、無意識に服の裾をめくり上げようとした。

でも次の瞬間、彼女ははっと何かに気づいた。

顔を上げると、案の定、何とも言えない表情をしている充と視線が合った。

充はこの数年、いつも仕事ができて、メイクも完璧な奈緒の姿ばかり見てきた。こんなだらしない格好で、人前で服をめくって授乳する姿なんて、見たこともなかった。

この瞬間、充だけでなく、奈緒自身でさえ気まずさを感じていた。

でも赤ちゃんの泣き声はやまない。彼女はそんなことを気にしていられず、充に背を向けて服の裾をめくり、赤ちゃんの小さな顔をそっと胸に近づけた。

途端に空気が静まりかえり、赤ちゃんがごくごくと母乳を飲む音だけが響いた。

充はその場に立ち尽くし、授乳する奈緒の後ろ姿を見つめていた。その表情は複雑で、瞳の奥深くには読み取れない何かが渦巻いていた。

そして、恵が、散らかった床を黙々と片付け始めた。

一方、香織が近づいてきて、授乳する奈緒を見ながら、そっと言った。

「奥様、本当に大変でしたね。赤ちゃんに母乳を飲ませてあげるために、胸が張る痛みに耐えて、2週間も頑張って……それでやっと母乳が出るようになったんですものね。

赤ちゃんは母乳を飲むようになってから、日に日に元気に育っていますよ。見てください、このほっぺ。ぷくぷくでしょう」

……

奈緒は何も言わなかった。だが、心はすっかり冷え切っていた。

それでも、彼女の耳は無意識に背後の物音を気にしていた。心は失望でいっぱいなのに、なにか慰めの言葉を期待せずにはいられなかった。

しばらくして、ようやく後ろから微かな足音が聞こえてきて、だんだん近づいてきた。

充は奈緒の前に立つと、まず彼女を一瞥し、それから腕の中で夢中で乳を吸う赤ちゃんに視線を落とした。

その時、赤ちゃんが乳を飲むのをやめたので、奈緒は素早く服を整えた。

充はかがみ込むと、ほとんど無意識に、そしてとても慎重に、奈緒の手から赤ちゃんを受け取った。

「パパだよ。やっと会えたね」

彼は腕の中の赤ちゃんをじっと見つめ、いつもは厳しい顔に、珍しく優しい表情を浮かべていた。

「皆この子が旦那様にそっくりだって言ってますよ。本当に瓜二つです」と香織がそばで微笑ましそうに言った。

「そうか?」

充は笑みを浮かべて顔を上げると、たまらず赤ちゃんをさらに強く抱きしめた。

一方、奈緒は、そっくりな二人の顔を見つめていると、思わず鼻の奥がツンとした。

赤ちゃんを見る充の眼差しは、輝いていた。

奈緒の張り詰めていた心は少しだけ和らぎ、怒りもいくらか収まった。

だがその時、けたたましいスマホの着信音が突然鳴り響いた。

充がスマホを取り出すと、画面に表示された「美紀」の文字が、奈緒の目を鋭く突き刺した。

彼はすぐに脇へ移動して電話に出た。すると、向こうから女性の焦った声が聞こえてきた。

「充さん、裕弥がミルクを吐いちゃったの!たくさん!私、もうどうしたらいいのか……わからなくて、どうしよう?」

それを聞いて、充は顔をこわばらせて言った。「落ち着いて。すぐそっちへ行くから」

そして、彼は何も躊躇うことなく、ソファのコートを掴んで行こうとしたが、ふと何かを思い出したように足を止めた。

「奈緒、美紀は新米ママで何も分からないんだ。様子を見てすぐに戻ってくるから」

奈緒は黙り込んだ。

そして心が、更に冷え切っていった。

大股で去っていく充の後ろ姿を見ながら、奈緒はたまらなく皮肉な気持ちになった。

家に帰ってきて30分も経たないうちに、美紀からの電話一本で、彼はすぐに出て行ってしまった。

充があんなに美紀の面倒を見るのは、本当に仁哉のためなのか、それとも……彼自身がそうしたいからなのか?

一方、香織も赤ちゃんを抱いて、困惑した表情を浮かべた。

「奥様、旦那様は行ってしまわれたんですか?さっき新米ママがどうとかって……新米ママは奥様なのに、旦那様は……」

充が奈緒をないがしろにしているのは、周りの誰の目にも明らかだった。

傍らで見ていた恵は慌てて目配せし、香織にそれ以上言うなと合図した。

逆に奈緒は深く息を吸い込んで、そして冷たい眼差しで言った。

「黒崎さん、赤ちゃんの荷物をまとめて。私も2階で準備するから。もうこの家から出よう」

香織は驚いて口をあんぐり開け、恵もぎょっとして、慌てて奈緒を引き留めた。

「奥様、どうか早まらないでください。旦那様は普段は奥様にとても優しいじゃないですか?彼は……ただ忙しすぎるだけなんです。

妊娠中もあまりそばにはいてくださいませんでしたが、毎週お花を届けてくれていましたし。ほら、テーブルの上のひまわり、まだこんなに綺麗ですよ」

ひまわりは、奈緒が一番好きな花だった。なぜなら、いつも上を向き、必死に成長し、何にも頼らないところがあるから。

でも充は、美紀にあれこれ尽くしながら、妊娠中の自分にはひまわりを数本送るだけ。まるで、一人で強くあれと励むように……奈緒は突然、この花に激しい嫌悪感を抱いた。

彼女は恵を振り払い、冷たく言い放った。

「捨てて。見てるだけで吐き気がする」

そして、奈緒は怒りを抑えきれず、憤然と2階へ上がっていった。

恵は恐れおののきながらも、言われた通りに今日届いたばかりのひまわりをゴミ箱に捨てた。

一方、2階に上がった奈緒は、あっという間に荷造りを終えた。

階下に下りようとしたその時、スマホがブーブーと鳴った。親友の山田蛍(やまだ ほたる)からの電話だった。

奈緒は少し気持ちを落ち着けて、電話に出た。「蛍」

「奈緒、聞いたよ。娘さんの出産祝いのお披露目パーティー。友達をたくさん呼んだって。なんで私を呼ばなかったの?私たちの友情ってその程度だったわけ?」

奈緒は言った。「あれはうちの娘の出生祝いじゃないわ。他の人の息子のために執り行われたものよ」

蛍はそれを聞いてカッとなった。「どういうこと?青木社長は外に女がいるの?しかも息子までいるってわけ?」

妊娠から出産まで、奈緒がずっと一人で乗り越えてきたことを、蛍は誰よりもよく知っていた。

蛍はとっくの昔から充に不満を抱いていたが、まさかここまで馬鹿げているとは思わなかった。

すると、奈緒は口の端を引きつらせ、悲しげに笑った。

「従妹と、親友の息子だって。栗原仁哉という人、覚えてるでしょ?昔、私たちの学校の秀才だった。今は海外で大事なプロジェクトをやってて帰って来られないから、充は彼の息子の世話をするのが当然の務めだと思ってるのよ」

それを聞いて、蛍はさらに腹を立てた。

「だとしても、自分の娘をないがしろにして、よその家の息子の世話ばっかり焼くなんてありえないでしょ?妊娠中ほったらかしだったのはまだしも、娘が産まれたっていうのにこの仕打ち!奈緒、あなた一体あの男のどこがいいのよ?」

奈緒の瞳は冷たく、こみ上げてくる感情を必死に抑えていた。

「会ってから話すわ。まだ体調が万全じゃなくて、車の運転ができないの。私と赤ちゃんを迎えに来て。もうここにはいたくない」

今の奈緒はこの新居に嫌悪感しか抱いていなかった。そして、不快に感じさせる壁一面に飾られた、充との5年分のツーショット写真を見て、吐き気を催すほどだった。

そう思って、彼女は写真をすべて壁から外し、はさみで粉々に切り刻んだ。

それからハンマーを持ち出すと、壁一面のガラス棚を叩き割り、充から贈られた、まったく趣味に合わないバッグを、一つ一つ切り裂いていった。

こうして、奈緒はすべての「ゴミ」を箱に詰めると庭に引きずり出し、ガソリンをかけて火をつけた。

ここの物は、何一つ持っていきたくない。

その想いから、今の彼女はただ破壊したかった。すべてを。

ごうごうと燃える炎が黒煙とともに天に昇り、焦げ臭い匂いが立ち込めた。近所の人々は火事かと思って、次々に窓を開けて様子を窺っていた。

恵と香織は顔を見合わせ、奈緒が放つ冷たいオーラに圧倒されて、近づけずにいた。

その間、恵はこっそりトイレに駆け込んで充に電話したが、3回かけても、彼が出ることはなかった。

一方、蛍が車で駆けつけた時、奈緒は薄いパジャマ一枚で庭の真ん中に立っていた。炎の光が、彼女の青白く無表情な顔を照らしていた。

蛍は鼻の奥がツンとなり、すぐに自分のダウンジャケットを脱いで奈緒の肩にかけた。

「あなたバカなの?産後でまだ回復していないのに、上着も着ないでこんな所に立って!青木社長がいないのはともかく、使用人も気遣ってくれないわけ?」

蛍は悪態をつきながら奈緒を抱きしめ、その手からスーツケースを受け取った。

奈緒は蛍の腕の温かさを感じた途端、意識が遠のき、ぐにゃりと崩れ落ちて気を失った。

「奈緒、奈緒……」

意識が朦朧とする中、奈緒は誰かが自分の名前を呼ぶのが聞こえた。でも、まぶたが重くて、どうしても開けることができなかった。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Latest chapter

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第555話

    今にも奈緒を取り囲もうとしていた男たちが、一斉に動きを止めた。次の瞬間、力強い腕によって奈緒の身体はそのまま軽く引き寄せられ、男のすぐ隣へ収められる。男は半歩前へ出ると、奈緒を庇うように立った。「何なのよ!あんた……」佳乃は目を吊り上げたが、奈緒を庇っているのが仁哉だと気づき、最後まで言い切る前に固まった。それまでどっしりと中央の席に座っていた謙造も、仁哉の姿を見た瞬間、勢いよく立ち上がる。すぐさま顔色を変え、両手を何度もすり合わせた。「栗原社長、本日は……一体、どのようなご用件で?ま、まさかお越しになるとは。いやあ、ご挨拶にも出ず失礼しました。どうぞ、こちらへ。お連れの方もぜひお掛けください」慌てて前へ出てくる謙造の姿は、先ほどまでの威圧感が嘘のようだった。奈緒は仁哉の背中を見ながら、少し意外に思う。いつもそばにいる仁哉は穏やかで話しやすく、偉ぶるところなどまるでないのに、今こうして自分の前に立つ姿には、誰も軽々しく逆らえないような圧があった。仁哉は表情ひとつ変えず、唇をしっかりと結んだまま前を見据えている。「庄野社長。客を食事に呼んでおいて、まず百発平手打ちをするのが庄野家のもてなしなんですか?」謙造は震え上がり、勢いよく首を横に振った。「い、いやいや、まさか!そんなわけありません。娘が冗談を言っただけです。なあ、佳乃?」謙造は必死に手を振り、振り向いて佳乃を見ると、鋭く目配せした。佳乃は長い爪が食い込むほど強く手を握っていたが、顔に引きつった笑みを貼りつけ、仕方なく前へ出る。「そうよ。冗談に決まってるじゃない。奈緒さんとは顔見知りだし、ちょっとからかっただけ。ねえ、奈緒さんも、まさか本気にしてないわよね?」そう言って、佳乃はわざと親しげに奈緒の腕を軽く叩いたが、奈緒は冷ややかに見返した。そして、冷たく言い放つ。「誰が気にしてないなんて言いました?私に許してもらって、このまま一緒に食事をしたいというのであれば、まず庄野さんが自分で十発くらい頬を叩いたらどうですか?せっかくあなたの地元に私を招いてくれたんですし、それくらいして私たちを歓迎してくれてもいいんじゃないですか?その一言で、佳乃も謙造も顔色を変えた。佳乃はもう取り繕うことすらできずに、鬼のような形相に変わる。

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第554話

    それなのに、なぜか運転席からは何度も熱い視線を感じる。これが一体どういうことなのだ?まさか、兄が妹を想う眼差しというやつなのか?奈緒の胸には道中ずっと、消したはずの甘い気持ちが懲りずに浮かんでは消えていた。けれど振り向く勇気はない。もし本当に仁哉と目が合ってしまったら――……時雨庵の最も広い個室では、周囲に何人もの人間を控えさせた謙造が、険しい顔で中央の席に座り、奈緒の到着を待っていた。その後ろでは、鮮やかな黄色のオフショルダーのタイトドレスを着た佳乃が、機嫌を取るように謙造の肩を揉んでいた。奈緒からの脅迫、そして例の動画。佳乃は昨日からずっと、そのことが頭から離れなかった。だが、脅す側に回ることはあっても、誰かに脅されて黙って従うような女ではない佳乃は、たった一日で、すでに反撃の手を考えていた。今回の建築文化サミットで2件の大型契約をまとめ上げ、謙造の機嫌を取った佳乃。だから、謙造はますます娘である佳乃の将来を高く評価するようになっていた。そこで佳乃は頃合いを見計らい、充との一件を――もちろん自分に都合のいい形に話を作り替えて、すべて打ち明けた。充と奈緒の夫婦関係はとっくに破綻しており、離婚を拒んで引き延ばしているのは奈緒のほうだということにする。そして、自分と充はすでに想い合っていて、昨夜は酒も入っていたこともあり、つい距離が近くなりすぎただけで、一線を越えるような関係にはなっていない。悪いのは、隠しカメラを仕掛けていた奈緒。自分と充を引き離そうと画策しているのも奈緒。さらには、あらゆる手を使って青木グループを庄野グループとの提携から追い出し、その座を奪おうとしているのも奈緒……佳乃は、そうやって謙造に説明した。最終的には、謙造を奈緒の策略に乗せぬよう釘を差し、自分たちのテリトリーに呼びつけて、奈緒にあの動画を提出させる計画だった。すべてを聞き終えた謙造の怒りは頂点に達していた。自分の娘がそんな目に遭わされたことが許せるはずもなく、すぐさまこの食事の席を設け、奈緒を呼び出す。青木家をあれほど掻き回している女とは、いったいどんな人間なのか、どれほどの力があれば、自分の大切な娘まで脅せるというのか、謙造は自分の目で確かめるつもりだった。20分ほど経った頃、個室の扉が開いた。チャコールグレ

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第553話

    電話をかけてきた相手は佳乃だった。奈緒はそのまま電話に出る。「もしもし」耳に飛び込んできたのは、相変わらず甲高く高圧的な声だった。「今どこにいるの?庄野グループと提携の話をしたいんでしょ?父にはもう話を通して、潮咲市の時雨庵で待ってるから、早く来なさい」佳乃は相変わらず、有無を言わせない、完全な命令口調。そして、奈緒の返事すら待たず、佳乃は彼女が必ず来ると決めつけたように一方的に電話を切った。車内が静かだったこともあり、仁哉にも会話はほとんど聞こえていた。彼は自然と奈緒に視線を向けた。「庄野さん?」奈緒は頷いた。「うん。あの口ぶりだと、もう庄野社長を説得したみたいだから、私が来るのを待ち構えてるんだと思う」仁哉は軽く微笑んだ。「じゃあ行ってみようか。どんな罠を用意して待ってるのか、見せてもらおう」奈緒も同じことを考えていた。「うん。仁哉さんが一緒なら、どこだって怖くない」あまりにも自然に口から出た言葉だった。ここ最近、奈緒はいつの間にか仁哉を一番信頼できるパートナーとして頼るようになっていた。しかし、そう言ってから、はっとする。今の言い方、ちょっと変だったかな?だから、仁哉が何か言うより先に、奈緒は慌てて付け足した。「今のは仕事でってことで、ほかに変な意味はないから。仁哉さん、勘違いしないでよ」仁哉の目に笑みが浮かぶ。「もう誤解しちゃったんだけど、どうしよう?」奈緒の顔が一気に赤くなった。返す言葉も見つからず、仁哉の顔を見ることさえできない。このところ仁哉が目にしてきた奈緒は、決断が早く、行動力があり、相手が誰であろうと一歩も引かない女性だった。だが近くで接するほど、その内面は意外なほど慎重で、控えめなところがあると分かってきた。特に人との距離感には敏感だった。まだ書類上は既婚者である以上、仁哉との間にも無意識に一線を引き、自分なりのけじめを守っている。仁哉は赤くなった奈緒を数秒見つめた。普段との落差があまりにも可愛くて、つい少しだけ困らせたくなる。声をわずかに落とした。「一つだけ、ちょっと子どもっぽいこと聞いてもいい?」「何?」「充と離婚したあと、もしまた誰かと恋愛する気になったら、僕に一番に立候補する権利をくれないかな?」この質問は……奈緒

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第552話

    一つの恋が、最後の最後でここまで惨めな形になるということが、どれほど苦しいか仁哉にも想像できた。仁哉自身、美紀を愛していたわけではないが、それでも離婚と裏切りは深い傷を残した。今でも夜、一人になると心が乱れることがある。まして奈緒は本気で充を愛し、何もかも捧げていたのだ。仁哉は溜息をついた。奈緒が目を閉じているのを見て、後部座席から柔らかなブランケットを取り、そっと身体に掛ける。いつの間にか、奈緒は眠っていた。ただ、頭を預ける場所がうまく定まらないらしく、何度か無意識に姿勢を変え、そのたびに眉間へ皺を寄せている。仁哉は車を路肩へ寄せて停めた。そして右手を伸ばし、奈緒の頭をそっと支える。安定した場所を見つけた途端、奈緒の眉間からすっと力が抜けた。眠ったまま、ほんのりと笑みまで浮かべるその表情には、幼い頃の無邪気で愛らしい面影が残っていた。仁哉は思わず携帯を取り出し、奈緒の寝顔をそっと一枚だけ撮った。そして、その写真をギルへ送る。【見て。寝顔は今でも子どもの頃と変わらなくて可愛い】ギルからはほとんど間を置かずに返事が来た。【惚れた?】仁哉は少し固まり、【……】とだけ返信をする。するとすぐに、今度は音声メッセージが届いた。「最近、A国の金融市場が不安定だろ。でも、国内のほうは投資先として悪くなさそうだから、向こうに置いてる資金を少しずつ戻そうと思ってる。何か面白そうな案件があったら探しておいてくれ」仁哉は少し考え、文字を打った。【総事業費が数千億円を超えるリゾート開発プロジェクトは?】「悪くない」仁哉は口元を緩め、隣で眠る奈緒へ目を向けた。頭の中で、一つの考えがはっきりと形になっていく。【了解。詳しく決まったら連絡する】……甘いものを食べたせいか、それとも最近の疲れが溜まっていたのか、奈緒は1時間ほどぐっすり眠った。目を覚まして初めて、自分が仁哉の腕を枕にしていたことに気づく。一気に顔が熱くなり、慌てて身体を起こした。「えっ、私ずっと仁哉さんの腕で寝てたの?ご、ごめん……痛くなかった?」仁哉は慌てる奈緒を見て笑った。「かなり痺れてる。肩も結構きつい」奈緒は気まずそうにぺろりと舌を出す。「どうしよう……」仁哉は眉を上げ、冗談めかして言う。「もう動かないから、揉んでくれる?

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第551話

    充の顔が一気に険しくなった。「……」奈緒はそんな充をまっすぐ見つめる。「引き延ばすのが好きなんでしょ?だったら付き合ってあげるから、どっちが先に根を上げるか、最後までやってみようよ。充、あなたが400億円の借金を作るなら、私は800億円作ってもいい。どっちが最後に相手を巻き込むか、勝負しよう。だって、あなたに向ける情けは、もう全部使い果たしたから」それだけ告げると、奈緒は席を立ち、そのまま店を出ていった。充は呆然と取り残された。奈緒の言葉の意味が分かったような、分からないような……頭の中では耳鳴りが続き、胸には言いようのない息苦しさが広がっていく。仁哉もすぐに立ち上がった。店を出る直前、一度だけ足を止めて充を振り返る。何か言いかけたものの、結局は小さく首を振っただけで、そのまま外へ出た。もう仁哉でさえ、充に何を言っても無駄だと思っていた。まして奈緒なら、なおさらだった。奈緒は振り返ることなく、足早に店を離れた。あと少しでもこの場所にいたら、息ができなくなってしまう気がする。仁哉は奈緒に追いつくと、先回りして助手席のドアを開けた。奈緒が腰をかがめて乗り込む時には、とても自然な流れで、彼女が頭をぶつけないように、ドアの上へ手を添えた。車はいつの間にか遠隔でエンジンがかけられていたらしい。車内に満ちた冷房の涼しさが、奈緒の中に残っていた熱を少しずつ冷ましていく。奈緒は柔らかなシートへ深く身体を沈め、長く息を吐いた。仁哉も乗り込むと、車載冷蔵庫から小さなマンゴームースを取り出して奈緒へ差し出した。「気分が落ちてるときは、甘いものを食べると少し楽になるよ」奈緒は少し呆気に取られ、驚いた顔で仁哉を見つめる。「仁哉さんって、マジシャン?」仁哉は笑い、優しく奈緒の頭を撫でた。「ギルの代わりに面倒を見てるって思ってくれればいいから。ギルはしょっちゅう電話してきて、君がどうしてるかって僕に聞くんだ。だから、ちゃんと面倒見てないと、あとで僕が怒られるだろ?」仁哉は、またしても奈緒が断りにくい、もっともらしい理由をつけてくる。奈緒はムースを受け取り、一口すくって口へ運んだ。甘さが舌に広がり、そのまま全身に染み渡っていく。さっきまで胸の中に残っていた冷たいものが、少しずつ溶けていくようだっ

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第550話

    奈緒は、まるで夫婦の間になんのしがらみもなかったかのように、とても穏やかな雰囲気で充に話しかけた。充は明らかに戸惑った。なぜ急に奈緒の態度がここまで柔らかくなったのか、まるで分からない。そんな彼女の態度に、どうしたらいいのか分からなくなった充は、数秒ほど黙り込み、ゆっくりと口を開く。「両方教えてくれ」奈緒は微笑んだ。「じゃあ、まずいい知らせからね。黎の白血病って診断、あれは誤診だったの。実際は類白血病反応。病気ではあるけど治るもので、今はもうほとんど回復してる」その言葉を聞いた瞬間、充の心は激しく高鳴り、自然と声が大きくなった。「奈緒、本当か?黎はもう大丈夫なのか?それは本当によかった!」骨髄の適合検査をどう奈緒に説明するか、ずっと頭を悩ませていたところだったから、黎が白血病でなかったことは嬉しい知らせに他ならない。だが、充の口元に笑みが浮かんだのも束の間、奈緒はバッグから分厚い請求書の束を取り出し、目の前へ差し出した。「これ、黎が入院してから今までにかかった費用。それと、海外から専門医を呼んだ分も入ってるから。うちの家族がずっと付き添って面倒を見てたんだから、費用はあなたが出してね。薬は全部最高ランクの輸入品。病室も医療体制も一番いいものにしたので合計で1億5608万6000円だから、四捨五入して1億6000万円送金しておいて」充の笑顔はそのまま固まっていた。とはいえ、考えてみれば当然の話ではある。充はすぐに携帯を取り出し、何も言わず奈緒の口座へ送金した。「父親として当然だ。黎が無事ならそれでいいからな」振り込みを終えると、すぐ本題へ戻る。「送金したぞ。それで、離婚の話は……」「離婚は別に急がなくていいよ」奈緒は平然と遮った。「黎のここ数か月分の生活費もあとでまとめなきゃいけないし、これまで水鏡ヶ丘で私が負担してきたものも全部整理しておくから、きちんと払っておいてよね」静かにそう言い終えると、ゆっくりと立ち上がった奈緒。その穏やかな笑顔がかえって充には不気味に見えた。「まあ、こんなのは小さいものだけど。一番大事なのは……私、これからいくつか大きな投資をする予定なの。今日、あなたが教えてくれて本当によかった。私、今までちょっと優しすぎたみたいだから。だって、何年もあなたと結婚していて

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第6話

    それから、蛍は奈緒が傷つくのを心配して、充から返信ひとつないことは、結局言い出せなかった。そして、奈緒が退院するまで、充は結局、姿を見せなかった。退院後、二人は黎と香織を連れて、碧瀾郷へと引っ越した。そこは、奈緒が半年前に入手した、リノベーション済みのマンションの一室だった。蛍の家はその真向かいの部屋で、隣同士に住むのは大学時代からの二人の夢だったのだ。だから半年前、蛍の向かいの部屋が売りに出されたと聞いて、奈緒は迷わず購入した。部屋には家具や家電が揃っていたが、まだどこか殺風景だった。蛍はすぐに自分の家から布団やポットなどの日用品を運んできた。奈緒は買い物リストを

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第5話

    「産後の回復がかなり遅れていますね。出産時に出血が多かったですし、低血糖で倒れやすい状態です。しっかり栄養をとって、気持ちをあまり高ぶらせないようにしてください」診察が終わっても、奈緒はまだ眠ったままだった。医師は病室で蛍に病状を説明した。隣で聞いていた香織が、ため息をついた。「奥様は産後の肥立ちが悪くて……最初の2週間はお乳が張って痛くて食事が喉を通らなかったんです。その後は赤ちゃんが夜泣き続きで……それでも奥様は自分で母乳をあげていたから、夜もまとまって眠れていませんでした。昼間は仕事もしていて、体が回復する暇もなかったんですよ」それを聞いて、蛍は怒り心頭になりそうだった。

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第3話

    一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。

  • 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚   第2話

    パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って

More Chapters
Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status