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第350話

Author: 結奈々
たった一言。

それだけで、ここしばらく柚香が抱いていたわずかな好意は、粉々に砕け散った。

心の中で自嘲気味に笑い、足を進めて彼の前に立つ。

「大人しく俺のそばにいれば、欲しいものは何でも与えてやる」遥真はそう言って彼女の手を引き、腕の中に座らせると、少し冷えた手のひらを握った。

柚香は何も言わなかった。

彼女の沈黙なんて、遥真にとっては問題でも何でもない。

どこか距離を置いた、感情の薄いその顔を見つめながら、彼の手は彼女の腰へと伸びていく。

「いいよな?」と問いかけた。

柚香は答える気力すらなかった。

いいかどうかなんて、自分に選ぶ権利があるのか?

少しでも彼の思い通りにいかなければ、すぐに周りの人を盾にして脅してくるくせに。

「黙ってるなら、そういうことにしておく」遥真の指先が、彼女のなめらかな肌をなぞるように上へと滑っていく。もう片方の手で後頭部を押さえ、そのまま唇にキスを落とした。

動きは優しかった。

彼女の体を知り尽くしている彼は、どんな些細な仕草でも簡単に柚香の敏感なところに触れてしまう。

けれど柚香は、あまりにも拒絶していた。そのキスが唇に触れた
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