LOGIN「もう二十五なんだから、そろそろ結婚しなさい。湊人は悪くないわよ。あの子だって、私たちが小さい頃から見てきたんだから。もう少ししたら、お父さんと一緒に向こうのご家族と話してみようと思ってる。あなたはどう?」「私はまだ結婚するつもりないから」中から聞こえてきた理沙の声は、柚香と電話していたときとはまるで違っていた。「お兄ちゃんだって、まだ結婚してないじゃない」「お兄ちゃんは会社を経営していて、結婚する暇がないのよ」理沙の母親は諭すように言った。「あなたは会社を継いでるわけでもないのに、いつまで先延ばしにするつもり?」それを聞いていた柚香は、ようやく理沙が自分を何に利用しようとしているのか分かった。柚香は手を上げ、「コンコン」とドアを軽く叩いた。中が一瞬で静かになった。ほどなくして、ドアが開く。柚香の姿を見た理沙の目に、かすかな笑みが浮かんだ。そのまま手を伸ばし、柚香をぎゅっと抱きしめる。「やっと来た。来てくれないのかと思った」「危うく間に合わないところだった」柚香も抱き返し、親しい友人同士の芝居にとことん付き合った。「はい、誕生日プレゼント」「何かしら?」理沙はきれいに包装された箱を受け取りながら、興味津々に尋ねた。「いいもの?」「当ててみて」理沙は笑うと、目を伏せたまま箱を開け始めた。「あなた、柚香でしょ?」理沙の母親は柚香に目を向け、穏やかな口調で声をかけた。「佳代おばさん、こんにちは」柚香は蒼海市の名家について最初から一通り調べていたので、理沙の母親のことも当然知っていた。「理沙から、優しくて上品なお母さんがいるってずっと聞いていました。今日はようやくお会いできました」「まあ、優しくて上品だなんて。あの子が勝手に言ってるだけよ」池田佳代(いけだ かよ)は満面の笑みを浮かべた。「二人でゆっくり話しててちょうだい。私は下に行って、理沙のおじいちゃんとおばあちゃんを迎えてくるから」「はい」柚香は微笑んだ。ほどなくして。部屋には柚香と理沙の二人だけになった。普段は生真面目なのに、さっきは驚くほど口が回った柚香を見て、理沙はドア枠にもたれながら、口元に笑みを浮かべた。「私、いつそんなこと言った?それに『理沙』って。私たち、そんなに親しかったっけ?」「誕生日だって、どうして教えて
「そんなにはっきり言って、私が傷つくとは思わないの?」理沙は相変わらず、からかうような口調だった。柚香はごく自然に答えた。「むしろ、私のほうが傷つくんじゃない?私を利用しようとしてるんだから」理沙はくすっと笑った。柚香はそのまま外へ向かいながら聞いた。「場所は?」「ホテル」車に乗り込みながら、柚香は言った。「私が聞いたのは、詳しい住所」理沙はチャットで住所を送ると、そのまま話を続けた。「ついでに来るとき、ジュエリーショップで限定品のネックレスを一点買ってきて。できれば八桁以上のものがいいわ」柚香「?」いつの間にか理沙ともすっかり打ち解けていた柚香は、すぐに返した。「お金ちょうだい」「これくらいのお金、柚香さんにとっては大したことないでしょ」理沙はのんびりした口調で言った。「理沙さんにとっては、もっと端金でしょ」柚香は住所を康平に送って車を出してもらいながら、電話越しに続けた。「お金が先、商品はそのあと」理沙「ケチね」柚香「理沙さんは太っ腹なんだから、九桁のものを私にプレゼントしてくれてもいいんじゃない?」「九桁どころか、あなたが必要になった日には、世界に一つしかないものを用意してあげる」理沙はさらりと答えた。ふと階下を見ると、人がどんどん増えている。「そうだ」「何?」柚香が尋ねる。「さっき話した、私があなたを利用するって話。覚えてる?」理沙の声に、自然と真剣さが混じった。柚香は「うん」と答えた。理沙は隠さずに言った。「あなたに私の友達のふりをして、そのネックレスを私に届けてほしいの」柚香は一瞬きょとんとしたが、迷うことなく答えた。「いいよ」このところネット上に柚香に関する情報が一切出ていないのは、理沙のおかげだった。お金をもらって仕事をしているとはいえ、理沙がきちんと役目を果たしてくれているのも事実だ。「どうしてって聞かないの?」今度は理沙のほうが、本気で不思議そうだった。「利用し終わったら、自然に教えてくれるでしょ」柚香は理沙の性格を、なんとなく分かってきていた。「部屋番号を教えて」「部屋番号はないわ」理沙は、深いブルーを基調にしたイブニングドレスを身にまとっていた。胸元には、きらめくパールが一列にあしらわれている。「会場は大広間。あなたが着いたら、迎えを寄こす
「ありがとう」千尋は頷いた。柚香は千尋を見つめた。「今回ここを離れたら、しばらく京原市には来ないと思う」「分かってる」本当に話したくないのだと分かり、柚香もそれ以上は聞かなかった。帰る前に、紗季の電話番号を千尋に渡した。紗季は母の友人だ。遥真すら恐れない人なら、修司を怖がるはずもない。「もし周りのボディーガードが修司さんに何か報告したとしても、適当にそれらしい理由をつけてごまかせばいいから」柚香はふと足を止め、最後に残っていた不安も取り除いた。千尋は「分かった」と答えた。そしてこの瞬間、千尋はさっき真実を話さなくて本当によかったと思った。柚香は優しくて思いやりのある性格だ。もし修司が妹を人質にして自分を脅していると知ったら、きっと何とかして助けようとするだろう。けれど、柚香自身も神崎家や黒崎家、それに遥真のことで抱えている問題が山ほどある。これ以上、自分のことで柚香に心配や不安を抱えさせたくない。弁護士を探してくれるだけでも、十分すぎるほどありがたいことだ。気持ちを落ち着かせて外へ出ると、まだ二歩ほど歩いただけなのに、アシスタントが小走りで追いついてきた。「千尋さん、さっき中で会ってたのって、柚香さんだよね?」「食事は持ってきた?」千尋は答えず、逆に尋ねた。美咲は頷いた。「持ってきた」千尋が短く返事をすると、美咲はまだ何か聞きたそうにしていた。けれど、千尋の沈黙した様子を見て、それ以上は聞かなかった。一方、柚香のほうでは。康平は車を空港へ向けて走らせながら、興味津々といった様子で尋ねた。「その顔を見る限り、あんまりうまく話せなかったみたいですね」「うまくいかなかったわけじゃないよ」柚香はもう考えないことにした。千尋の決断を尊重すると決めた以上、最後までその意思を尊重するつもりだった。「ただ、世の中には人間とは呼べないような人もいるんだなって、急に思っただけ」修司が千尋をそばに置いておくために、表には出せないような手段を使っていることは想像していた。それでも、千尋の生活まで監視しているとは思わなかった。そんな環境の中で、千尋はどうやって過ごしてきたのだろう。「それは、まだ世の中を知らなさすぎるんですよ」康平はむしろ淡々としていた。前を見ながら、左手をハンドルに置いている。「目の
監督がドアを閉めると、入口に立っていた千尋の視線がまっすぐ柚香へ向いた。「柚香さん……?」「こっちに来て座って」柚香は千尋の手を取ると、自分のそばへ連れてきた。千尋はまるで夢を見ているような気分だった。監督に呼ばれたときは、撮影について何か話があるのだと思っていた。まさか、柚香に会わせるためだったとは思わなかった。「挨拶はいいから」柚香は千尋の姿を上から下まで見て、ひとまず元気そうだと確認してから本題に入った。「今朝、私に送ってきたメッセージ、どういう意味?」千尋の動きが止まった。二、三秒ほど黙ったあと、複雑な表情で尋ねる。「そのためだけに、わざわざ来てくれたの?」柚香は頷いた。「うん」千尋は外の様子をちらりと確認した。監督に呼ばれて入ってきた以上、ボディーガードやアシスタントが中の会話を盗み聞きすることはないだろう。それでも、四六時中監視されている生活が長く続けば、どうしても無意識に警戒してしまう。「二人で話してください」康平は千尋の気持ちをすぐに察し、自分から声をかけた。「俺と慎吾は外に出て、見張ってますから」二人が出ていくと、千尋も少しだけ肩の力を抜いた。「修司を怖がらずに立ち向かえる弁護士を探してほしいの」千尋は自分の考えを柚香に話した。「証拠が全部揃ったら、あの人を訴えるつもり」柚香はすぐに頷いた。「分かった」千尋は胸につかえていたものが少しだけ軽くなった。「ありがとう」「どうして直接電話してこなかったの?」柚香はしばらく考えた末、やはり聞くことにした。「それと、LINEじゃなくてSMSで連絡してって言ったのはどうして?」千尋はしばらく黙っていた。「修司に、あなたとは連絡を取るなって言われてるの。私のそばにいるアシスタントもボディーガードも、みんな彼の人間だから」迷った末に、千尋は打ち明けた。「それとLINEだけど、彼が使ってるタブレットに私のアカウントがログインされたままなの」たったそれだけの話だった。それでも、柚香にはすべて分かった。修司は千尋の自由を制限しているだけではない。普段の生活まで監視しているのだ。「私に何か手伝えることはない?」「大丈夫」千尋はきっぱり断った。これ以上、柚香をこの問題に巻き込みたくなかった。「私に合う弁護士を探してくれるだけで、十分あ
「お嬢様、少し休んでいてください」康平は淡い色のラフな服を着ていて、短く整えた髪も爽やかでよく似合っていた。「俺が話して来ます」「お、おい……何するつもりですか?」康平が袖をまくるのを見て、スタッフは思わず唾を飲み込んだ。「ここは撮影現場です。騒ぎを起こしたら、警察を呼んで捕まえてもらいますからね」「なんで警察なんか呼ぶんだよ」康平は相手の肩に腕を回して、少し離れたところへ連れていった。そのついでに、何枚かの札を相手の手に握らせる。「ただちょっと、話をするだけだって」二人がどんどん離れていくのを見ながら、柚香は不思議そうに慎吾へ尋ねた。「何を話すつもりなんだろう」慎吾は無表情のまま答えた。「たぶん、金で買収します」柚香「……?」二人の視線の先で。康平がスタッフと五分ほど話すと、そのスタッフは小走りで中へ入っていった。「話がつきました」康平は口元に笑みを浮かべながら戻ってきた。「あいつが戻ってきたら、俺たちも中に入れますよ」その言葉は嘘ではなかった。ほどなくして、さっきのスタッフが再び走って戻ってきた。態度はさっきとは打って変わっている。「どうぞ、お三方ともお入りください。千尋さんは今撮影中なので、少しお待ちいただくことになると思います」「ありがとうございます」柚香は礼儀正しく頭を下げた。スタッフに案内され、三人は中へ入った。柚香が撮影現場に来るのはこれが初めてだった。周囲のセットや何台ものカメラを見て、少し新鮮な気持ちになる。さらに奥へ進むと、誰かと一緒に芝居をしている千尋の姿が見えた。「こちらへどうぞ」スタッフがすぐに声をかけ、三人を急ごしらえの控え室へ案内した。「千尋さんの撮影が終わったら、監督からこちらに来るよう声をかけてもらいますね」「……?」柚香は思わず首を傾げた。監督まで出てくるの?スタッフはそれ以上ここに留まらなかった。「私は外にいますので、何かあればいつでも呼んでください」柚香は頷いた。スタッフが出ていくと、今回の騒ぎの「元凶」である康平に視線を向ける。「何を言ったの?急にあんなに丁寧になったけど」「お嬢様の身元を教えました」康平は、この手の事情がどういうものかよく分かっていた。「大勢の人に注目されるのが嫌なのは知ってますから、騒がないこと
千尋はそれ以上何も言わず、撮影現場へ向かった。それから三十分ほどして、ようやく隙を見つけて柚香にメッセージを送った。京原市に来ているのかと尋ねる内容だった。柚香がそのメッセージを見たとき、ちょうど食事をしていた。メッセージの最後に添えられた一文を見て、思わず眉を寄せる。――LINEは使わず、SMSで連絡して。理由は分からなかったが、それでも返信した。【うん。でも、もう帰ろうと思ってるよ。何か用?】千尋が返信しようとしたところ、視界の端にアシスタントがこちらへ歩いてくるのが見えた。結局、慌てて数文字だけ打ち込む。【何でもないよ。今度京原市に来たとき、ご飯ごちそうするね】送信すると、千尋はすぐにすべてのメッセージを削除した。ちょうどそのとき、アシスタントが彼女の前までやって来た。「千尋さん」美咲が何気ない様子で声をかける。「あと三十分くらいしたら、メイクに行けるよ」千尋は「分かった」と答えた。けれど、視線はどうしてもスマホの画面へ向いてしまう。柚香から返信が来ませんようにと、心の中で祈った。さっき車の中で、美咲が目でカメラの存在を知らせてくれたとはいえ、彼女は結局のところ修司が自分のそばにつけた人間だ。まだ何も分からない今、美咲が細かいことまで修司に報告するのかどうか、判断できない。一方、柚香は千尋からのメッセージを見て、釈然としない気持ちになっていた。「どうしましたか?」食事の合間に、康平が柚香の様子がおかしいことに気づき、声をかけた。「何かありました?」「どういうときに、LINEじゃなくてSMSで連絡するの?」柚香はどうしても千尋のメッセージが引っかかっていた。会って食事をしたいだけなら、電話でもLINEでもいいはずだ。康平が答える。「携帯会社を乗り換えるときの確認じゃないですか?」慎吾は無表情のまま言った。「ブロックされたときです」柚香は一瞬、固まった。すぐに千尋との連絡先を確認する。特に変わったところはなく、友達登録もそのままだった。「気になるなら、メッセージを送ってきた本人に聞けばいいでしょう」康平はさっぱりした性格で、こういうことをいつまでも考え込むタイプではない。柚香はどうするか迷った。すると、何かありそうだと察した執事がすぐに近寄ってきた。この数か月、







