تسجيل الدخول今度は、朱里からの返事がしばらく来なかった。たぶん、こっちの気持ちを察したんだろう。 もう少し間を置いて、一つのスタンプが飛んできた。【朱里:(ぎゅー)】【澪:大丈夫】【朱里:昨日さ、凛也と本邸に戻ったんでしょ。なにもなかった?】【澪:もう離婚した。なにが起きるっていうの】【朱里:男ってさ、愛と体はべつで動くものだから。とにかく、損だけはしないで】【澪:平気】短く返して、澪は画面を閉じた。次の瞬間、内線が鳴った。受話器を取ったとたん、早川編集長の声が耳に突き刺さる。「西園寺。ちょっと来い」「はい、編集長」電話を切って、澪は椅子を押し出す。編集長室のドアをノックして入ると、デスク前に誰かが立っていた。編集長は、その相手と話している。「ようこそ。入社おめでとう」編集長の顔つきは、いつもの冷えたそれとは別人みたいだ。営業スマイルを貼りつけ、まるで福の神でも迎え入れるみたいに。相手は上品に笑った。「これから、よろしくお願いいたします。編集長にも、いろいろご指導いただけると嬉しいです」「いやいや。神崎社長がいるんだ、俺がどうこう言える立場じゃない。むしろ、こっちが頼りたいくらいだよ」そんなやり取りの途中で、早川編集長が澪に気づいた。手で呼んで、笑いながら声を上げる。「西園寺。紹介する。こちら、新しく来たチーフ記者の牧野晴香(まきの はるか)さん」続けて、晴香に視線を移し、澪のほうへ手を向けた。「で、こっちは西園寺澪。これまでチーフを張ってきた。これからは二人で、週刊ルミナスを回してもらう。看板だからな。頼むぞ」二枚の看板、二本の腕。言い方は立派でも、空気は正直だった。「左腕」扱いの自分より、「右腕」扱いの晴香のほうが優先されているらしい。編集長が目で促す。先に挨拶しろ、と。晴香が振り向いて、二人の視線が絡んだ。澪は口元だけで、薄く笑う。「お久しぶりです」「澪ちゃん。ひさしぶり」仲良さげに聞こえるのに、どちらも手を差し出さない。さっき同窓グループをざわつかせていたあの「主役」、凛也の初恋相手はまさにこの晴香だ。椅子に座ったままの編集長が、今さら気づいたように目を丸くして、笑みを浮かべた。「……まさか、知り合いなのか?」「同窓です」澪はさらっ
澪の返事はさらりとしていた。逃げる気配も、はぐらかす気配もない。言い終えると、手にしていたスマホをセンターコンソールに置いて、凛也を見つめながら告げた。「お手すきの際に、ご連絡ください。できれば一週間以内でお願いします」胸の奥に、よく分からないものがじわりと膨らむ。それでも体裁だけは崩したくない。凛也は喉の奥から言葉を絞り出した。「安心しろ。長引かせない」それ以上、澪は留まらなかった。ハンドルを切って、そのまま車を走らせた。しばらく進んでから、バックミラー越しに後ろを見た。凛也はまだ、その場に立っている。澪は唇をきゅっと結び、視線を前に戻した。報われないと分かっている相手に、期待なんてしないほうがいい。向けた気持ちがまるごと空振りする痛さは、もう知っている。あれは、二度と味わいたくない。……一時間後。車は週刊ルミナスの編集部に着いた。駐車を済ませて社内へ入ると、助手の結城杏奈(ゆうき あんな)がやけに神妙な顔で寄ってきた。「澪さん」澪は薄く笑った。「どうした?」杏奈が声をひそめる。「聞きました?うちにチーフ記者が上から送り込まれたらしいですよ」澪はそういう話に首を突っ込むタイプではない。けれど、少しだけ引っかかった。「いつの話?」「今朝です」話しながら、二人は澪のオフィスへ入る。杏奈は長く澪についてきた助手で、真面目で実直。ただ、口が軽いのが惜しい。部屋に入るなり、杏奈はさっとドアを閉めた。二人きりになったとたん、彼女は息もつかずに続けた。「それで、早川編集長が昇進するって噂で……その新任のチーフ記者、恐らく澪さんと編集長の職位を争うことになります……」澪はデスクにバッグを置き、目尻だけを上げた。「誰から聞いたの?」「みんなそう言ってます」みんな。便利な言葉だ。それを口に出した瞬間、意見は勝手に「多数派」の顔をする。澪の反応をうかがいながら、杏奈は悔しそうに眉を寄せた。「澪さん、腹立たないんですか?こんなに長く頑張ってきたのに、急に上から送り込まれた人に編集長の座まで狙われるなんて……」澪は水を注ぎ、ひと口だけ飲んで、落ち着いたまま振り返る。「実力のある人が上に立つ。健全な競争よ」杏奈の目が丸くなった。「それ、頼もしいです。
澪は首筋を噛まれて、息がひゅっと詰まった。でも身をよじるより先に、凛也はすっと身を起こして二歩ほど離れ、なにもなかったみたいにネクタイを締め始めた。整ったスーツ姿。見た目だけは、やけに立派だ。さっき噛みついた男とは思えない。だから余計に腹が立つ。……朝食の席でも、二人はほとんど口を開かなかった。勘のいい絹代は、澪の首元の痕にすぐ気づいた。テーブルの下で凛也のすねをこつんと蹴り、顔を上げて、視線で問いかけた。「……?」その視線を追って、凛也は目を細める。けれど黙ったまま。絹代が小声で言う。「あとで後悔するわよ」凛也は眉を上げて、口元だけで笑う。声を出さずに、口の形だけで返した。「ぜったいしない」「ふん」二人のやり取りは、まるでスパイの合図みたいだった。澪はぼんやりしていて、それにまったく気づかなかった。食後。澪と凛也が本邸を出て、車に乗り込む。エンジンをかける前に、澪のスマホが震えた。実家からの電話だ。画面に視線を落とし、指先で受話のボタンをスライドした。「……もしもし。母さん」電話口の静江が、いきなり言葉を刺してきた。「誰が、凛也と離婚していいって言ったの?」澪は答えない。沈黙に苛立ったのか、静江の声がさらに硬くなった。「離婚なんて大事なこと、どうして家に一言もないの?あなた、私を母親だと思ってるの?」ハンドルに添えた手が、わずかに力がこもった。「母さん。私と凛也は——」言い終える前に、氷みたいな声が被さった。「どんな手段でもいい。とにかく、その離婚だけは絶対に許さない」ピッ。ツーツーと、無機質な音だけが耳に残る。スマホを目の前に持ち上げ、通話終了の画面を見て、澪は思わず唇を噛みしめた。物心ついたころから、母さんはずっとこうだ。独断で、強引で。彼女にとって自分は娘じゃない。都合のいい手駒だけだ。どこへ打つか、どう打つか、決めるのは彼女。澪の気持ちなんて、どうでもいいことだ。車内、スマホを握ったまま固まっていると、窓を外から叩く音がした。こん、こん、こん。顔を上げると、外に凛也が立っている。二人の視線がぶつかった。小さく息を吐いて、澪は窓を半分だけ下ろす。「……何よ?」凛也もスマホを手にして、目を細めて笑ってい
凛也は子どものころから、やたらとモテモテだった。顔がいいし、実家も太い。外見も条件も、いちいち揃っている。だから、それを狙って近づいてくる女も、何人も見てきた。ところが、最初から計算して、自分の隣を離れようとする女は、澪が初めてだった。……なんだこれ。遊ばれた気がした。ふと、胸の奥がモヤモヤし始めた。凛也がまだその感覚を噛みしめている間に、澪はもう床に横になっていた。気づいたときには、すでに寝息を立てている。「……ふん」その寝顔を目にして、凛也は思わず鼻で笑った。立ち上がって浴室へ入る。ドライヤーの音だけが、夜を切った。……翌朝。起きるタイミングも、二人は同じだった。洗面を済ませ、身支度を整える。澪は髪をまとめながら、さらりと横目で凛也を見た。「離婚協議書、サインした?」ネクタイを結んでいた手が、ぴたりと止まった。昨夜の「遊ばれた」という感覚が、またぶり返した。「チッ……したぞ」凛也は舌打ちする。「うん。ならいい」澪は淡々と続けた。「親にも早めに言って。でないと面倒になるから」ネクタイを指先に引っかけたまま、凛也は振り返った。口元だけが笑っている。「なにが面倒なんだ?」その問い返しに、澪は顔を上げる。体にぴったりと合ったベージュのワンピースが、彼女の美しいシルエットをきれいに際立たせた。「離婚したあとも同居してるなんて、説明がつかない」澪は細い。なのに、必要なところだけはちゃんと形がある。凛也の視線が、勝手に腰から下へ落ちる。彼の視線に気づいて、澪は半歩、後ろへ引いた。——何をしようとしているのか、もうわかってる。たったの半年でも、凛也の癖はすでに覚えている。彼は、こういうとき、そこに手を置くのが好きだったんだ。空気が、妙に詰まる。艶っぽくて、けれど居心地が悪い。澪がその空気から逃げようと、体をひねりかけたそのとたん、凛也が大きく一歩詰めて、澪の背中を壁際に追い詰めた。そのまま、耳元に声が落ちる。「今は言えないよ」澪の背中が壁に当たり、熱が頬に上る。「母さんは、おまえをかわいがってるんだ。西園寺家がこんな状況になったいま、俺が『離婚する』なんて言ってたら……どう思われる?」顔を首筋に埋めようとするみたいに、凛
「……恋というのはさ。無理しても、結果が出ないんだよ」その一言で、絹代の喉の奥に引っかかっていた言葉が、ぜんぶ詰まった。傷つく言い方だ。けれど、否定もできない。好きじゃないものは、好きになれない。ホルモンだの何だの、首に刃を当てたって動かない。追い詰めたら、むしろ逆効果だ。ここまで来たら、もう話は噛み合わない。絹代は凛也をひと睨みして、ショールを抱え直し、すっと屋内へ引っ込んだ。その背中を見送った凛也は、もう少しだけ冷たい風で頭を冷やしてから、澪との寝室へと戻った。寝室。風呂を上がった澪はベッドに座り、パソコンを打ちまくっている。凛也が入ってきても、ちらりと視線を上げただけで、何も言わなかった。カタカタと、乾いた音だけが部屋の中で響き渡っている。ウォークインクローゼットから部屋着を取り出して、凛也はその音を背に浴室へ入った。服が床に落ち、鏡みたいに映るタイルに、引き締まった胴体がぼんやりと浮かぶ。蛇口をひねり、湯気が視界を曇らせた。凛也は手を上げて顔にかかった水をぬぐって、心がどうしても落ちない。澪の実家があんな状態になっていたのに、自分は何も知らなかった。——本当に、冷たい男だったな。自分は。けど、それ以上に冷たいのは、彼女のほうかもしれない。……浴室を出たとき、澪の作業がまだ続いていた。そのままベッドの端に腰を下ろし、髪を拭こうとしたそのとたん。背中から、澪の声が飛んできた。温度のない、きれいな声。「今夜は別々に寝る」凛也は振り返る。「……なんで?」澪はエンターキーを叩いて、何も答えずに次の質問を投げた。「元カノに未練があるの?」凛也は眉を寄せる。「だから……」言いかけた凛也を澪は制した。とんと、パソコンの画面を指先で叩く。「仕事」今日の取材で拾いきれなかった穴。そういう目だった。凛也は画面に目を落とす。そこにあったのは、自分の取材原稿。胸が、すっと沈む。細めた目で澪を捉え、吐いた息に、たばこの気配がかすかに滲んだ。「……まだ、取材してるのか」その声は、妙に冷たい。けれど澪は、その視線を逸らさない。感情を乗せずに、ただ事務的に言う。「今すぐ答えづらいなら、明日、秘書を通して別の時間を取っていただいても構わない」その丁
まさかと思った。西園寺家の揉め事が、こんなふうに凛也の目に触れることになるなんて。気づけば、視線が突き刺さるのを感じた。何もなかった顔でひと呼吸を置き、わざと足音を立てた。そばにいる凛也の目つきが、さらに一段暗くなった気がした。……西園寺の会長、西園寺誠司(さいおんじ せいじ)は、婿入りでのし上がった男だ。三十年前。西園寺家のひとり娘だった西園寺静江(さいおんじ しずえ)が、貧しい青年に惚れ込んで、周囲の反対を押し切って彼を婿に迎えた。しかし、それを恋だと思っていたのは、静江だけ。「いい人」だと信じていたのに、誠司にとって彼女は「近道」でしかなかった。誠司は演じるのが上手かった。何十年も、いい夫の仮面を被り続けてきた。その間に、老いた当主から株の半分を奪い取り、静江についてきた腹心も全部追い払った。そしてようやく、誠司は尻尾を出した。気づいたときには、もう遅い。会社の中で、彼の足場はすでに固まっていた。……いちばん早く澪たちに気づいたのは、神崎家の家政婦だった。視線ひとつで合図を送ると、凛也の母、神崎絹代(かんざき きぬよ)が襖をさっと引き開いた。一瞬、空気が固まった。けれど絹代は立ち上がり、ため息をついて、意を決したように口を開いた。「……聞こえちゃったわよね」澪は浅く笑って、無言で返す。わざわざお義母さんの顔を潰す必要はない。絹代は澪の手を取って、その上に自分の手をそっと添えた。温かかった。「大丈夫よ。たいしたことじゃない。神崎家も、あなたの味方だから」澪は小さくうなずく。「ありがとうございます、お義母さん」「礼などいらないわ。私たち、家族なんだから」そう言い切ってから、絹代の視線が凛也へ飛ぶ。表情は穏やかなままなのに、声だけが妙にとげる。「……ねえ?凛也」凛也はちょうど、座布団を出しているところだった。名指しされても、目だけを上げた。「うん」返事はそれだけだった。夕食の席では、凛也の両親が澪に次々と言葉を投げた。困ったことがあったら言いなさい、と。こちらで何とかする、と。澪はそのたび丁寧に返す。けれど心底では、本気にしていない。この世界は、情より先に風向きが変わる。政略結婚も、愛情ではなく利害の釣り合いで成り立







