「先生!」由美は憲一の言葉をまるで聞いていないかのように、再び医師の方を振り返った。「……この子、まだこんなに小さいのに、こんな状態になって……将来的に、何か後遺症が残ったりしませんか?」処方箋を記入していた医師は、ペンを止めて小さく首を振った。「今さら心配しても遅いですよ。あれだけ長く熱が続いていても、放っておいたじゃないですか?子どもってのはね、大人のちょっとした不注意で命を落とすことだってあるんです。あと一日遅れてたら、脳に影響が出てたかもしれないですよ。次は絶対に気をつけてください!」「はい……本当に、申し訳ありません……」由美は何度も深く頷いた。薬を受け取ると、その子はすでに注射を終えていた。小児科を出た頃には、由美の身体はもう力が入らず、ぐったりとしていた。その様子を見ていた憲一は、支えてあげたい気持ちはあったものの、立場的に簡単に手を差し伸べることはできなかった。我が子を必死に守ろうとする姿を見て、彼は思わずため息をついた。「俺が悪かった……前に雇った家政婦があまりにも頼りなくて……水原さんがいてくれれば、これからは安心できる」由美は振り返り、にっこりと微笑んだ。「こんなに良いお給料を頂いているのですから、子供の面倒も見られないようではいけませんよ」そして、さらりと話題を変えるように言った。「それに……松原さんと私の従兄は知り合いですし。もし何かあったら、従兄にも顔向けできませんから」二人の会話はどこまで行っても形式的だった。それが、二人の今の関係を如実に表していた。病院から家までは、まだ少し距離があった。帰り道、車内はしばらく無言だった。赤ちゃんは、ようやく落ち着いた表情で眠っており、真っ赤だった顔もすっかり元に戻っていた。その寝顔を見つめながら、由美の表情にはやわらかな愛情が浮かんでいた。「そういえば……」家の前にたどり着いたとき、憲一がふと思い出したように口を開いた。「水原さん、今どこに住んでます?」由美の胸がざわめいた。「……え?」彼女は思わず声が上ずった。「あ、別に深い意味はなくて」その様子に気づいた憲一は慌てて笑顔を作った。「俺は最近仕事で朝早くから夜遅くまで忙しくて、しかも不規則な生活だから……もし水原さんの住まいが
憲一の心には怒りが渦巻いていた。「今すぐ荷物をまとめて出て行け。うちにはもう君は必要ない!」短く冷たく言い放つと、すぐに自分の上着を手に取り、振り返った。「水原さん、行きましょう」由美は振り返ることなく、子供を抱いたまま外へ駆け出した。幸い車はガレージに入れておらず、すぐに出発できた。運転中、憲一が横顔を盗み見ると、由美の顔には心配と焦りがにじんでいた。「急いでください!」道中、由美は焦燥に駆られていた。憲一もまた、一瞬たりとも油断せず、ハンドルを強く握った。病院に飛び込むと、由美はようやく胸を撫で下ろした。大病院では、受付と診察の順番待ちが何よりも時間がかかる。憲一は病院へ入る前、自分の知り合いの医師に急いで電話をかけた。「小児科の緊急予約を取れないか?」電話口で、彼は明らかに焦りを露わにし、こめかみに青筋を浮かべていた。子どものことを本当に心配していた。ただ、こんな急に熱を出すとは思っていなかっただけなのだ。2分ほどの通話で、彼は無事に小児科の緊急予約を確保した。彼らは子どもを抱えて小児科の診察室へ急ぎ、そこで迎えてくれたのは経験豊富そうな年配の医師だった。「ご安心ください」聴診器を当てて様子を見たあと、医師は穏やかに言った。「恐らく、ちょっとした風邪によるものです。こちらでもう少し検査をしてみますので、少々お待ちください」その言葉を聞いた瞬間、由美は胸をなでおろした。ふらりと足元が揺らぎ、危うく転びそうになった。幸い手すりがあったため、どうにか体を支えられた。手術の後遺症で、まだ体力が完全には回復していないのだ。「親として、気づかなかった俺が悪かった」検査の待ち時間の間、憲一は深く反省していた。「仕事が忙しくて、子どもを家政婦に任せるしかなかったんだ……それが、まさかこんな信用できない相手だったとは……」由美は何も言わなかった。──子どものことは、些細なことでも見逃してはならない。もし自分が側にいれば、仕事を捨てても我が子を傷つけたりはしなかっただろう。憲一のことなど、今はどうでもよかった。彼女は、ただひたすら目の前の医師の動きを見守っていた。医師は手際よく検査を終えると、二人を部屋に呼んだ。「熱はすでに1~2日続いていた
二人は急いで部屋に入った。家政婦は子供を抱いてあやしていた。その姿を見た由美の表情は、一瞬で険しくなった。「ちょっと、あなた……何してるの?」「こんなに小さな赤ちゃんに、その抱き方は何ですか?基本の抱き方すら、教わっていないのですか?」そう言いながら、彼女は家政婦の腕から赤ちゃんをやさしく受け取った。泣きすぎたせいで、赤ちゃんの声はすっかりかすれていた。その顔を見た瞬間、由美の瞳が潤んだ。──この子は、私の子ども。十月十日、お腹の中で育てて、生み出した命。ずっと会いたかった娘が、ついに目の前にいる──「……旦那様……」家政婦は戸惑った様子で声を漏らした。──今まで誰も抱き方について、指摘したことはなかったのに……「私は……」当惑した家政婦は言葉に詰まった。「掃除をしてくれ」憲一は手を振って彼女を追い払った。彼は由美を見つめた。──確かに言っていることはもっともだ。仕草もまさに保育士のようだ。だが、どうして彼女はこんなにも緊張している?「よしよし……怖くないよ、もう大丈夫」憲一はドア枠にもたれかかった。窓から差し込む陽の光が、そっと彼女の肩に落ちた。由美は子供を優しくトントンと叩いていた。「よしよし……大丈夫よ、大丈夫……この抱き方なら楽でしょう?」かすかな声だが、憲一にははっきり聞こえた。──その背中を見ていると、どうしてもあの顔が思い出される……だが、この人は「彼女」ではない。「松原さん!」憲一が思いにふけっていたそのとき、由美が突然振り返った。「赤ちゃんのおでこが少し熱いです。子ども用の体温計はありますか?」ほんの少し娘とふれあっただけで、由美はすぐにその異変に気づいた。泣き続けていたのも、おそらく体調不良のせいだろう。「……熱い?」憲一は目を見開いた。そしてすぐさま家政婦に視線を向けた。彼女は呆然と立ち尽くしていたが、慌てて近くの棚から体温計を取り出した。「これは大人用です……まあ、赤ちゃん専用のものは、用意していないのでしょうね」通常、体温計は共用できるが、乳児の免疫力を考えれば別々が望ましい。体温計を手に取ると、彼女は自然な手つきでそれを赤ちゃんの脇に挟んだ。──数分後。体温計を確認した
「この給与、海外にいた頃よりも高いです。ご安心ください、必ず全力でお子さんをお世話いたします」由美はそう言いながら、店員にペンを頼み、手慣れた様子で署名欄に名前を書き入れた。ペンを置くと同時に、憲一が手を差し出した。「では、よろしくお願いします」その手を、由美は躊躇いなく握り返した。――娘に会える、その瞬間が、すぐ目の前にある。両手が触れ合った瞬間、憲一の心臓が再び高鳴ったが、何も語らなかった。「そうだ」契約書をカバンにしまいながら、憲一がふと思い出したように言った。「実は、うちの子ども、名前はあるんですが、正直ちょっと気に入っていなくて……何かいい名前の候補はありませんか?」突然の話に、由美は一瞬固まった。――あの子の名前は、自分と明雄がつけたものだ。だが今や彼は亡くなり、自分の顔も変わった。憲一が名前を変えようとしているのも、無理はない。むしろ、まだ幼い今のうちに変えてしまえば、過去との縁もすっぱり断ち切れるかもしれない。「そうですか……」少し悩むふりをしてから、由美は静かに首を振った。「私はただお子さんのお世話をする立場の人間ですから、命名のような大切なことは、ご家族で決めるのが良いと思います。でも、もしご希望でしたら……一つ、良い名前があります」憲一の瞳が、わずかに揺れた。「ぜひ聞かせてください」「『瑠璃』(るり)という名前はいかがでしょうか?松原さんも、お嬢さんが気品があって、しっかりした女性に育ってほしいと願っているはずでしょう」つい余計なことを口にしてしまった。元の名前も良かったが、せめて命名の提案をして、母親として少しでも関わりたいという本心が滲んだ。「松原瑠璃……か……」憲一はその名前を繰り返し、味わうように口にした。彼は由美に視線を向け、口元に笑みを浮かべた。「良い名前ですね」しばらく黙り込んだ後、憲一はふっと前方を見つめて笑った。「水原さんはきっと、よく本を読んでこられたのでしょうね。水原さんのような方に子どもを預けられるなら、安心できます」由美はそっと視線を落とし、控えめに言った。「ありがとうございます」「それで……いつから出勤可能ですか?」少し躊躇い、憲一は眉をひそめた。「今の家政婦では子どもの世話がうまくできなくて、掃除くらいし
「もちろん、大丈夫です」憲一は笑みを浮かべながら、そっとコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。カップを静かにソーサーに戻すと、彼はようやく顔を上げて言った。「誠から聞きました。あなたは海外でたくさんの子どもを見てきたようですね。どんなふうに子どもを世話してきたか、教えてもらえますか?」子供に関することは、何よりも慎重にならざるを得ない。夜中に泣き止まない娘のことを思い出し、憲一はため息をついた。「俺自身、仕事が忙しくて……この前なんか、子供が一日中泣き騒いでいて、どうにもならなくて、だから保育士を探そうと思ったんです。男じゃやっぱり、雑になってしまいますし、子どもの世話には限界があって……」その言葉を聞きながら、由美の胸には、ふとあたたかい感情がこみ上げた。──自分の不器用さを認めて、きちんと子どものために考えようとする父親。そういう姿勢があるだけでも、もう十分「良い親」だと思えた。「私は海外で、いくつかの家庭のお子さんの世話をさせていただきました。こちらに、そのときの評価やフィードバックをまとめた資料があります」そう言って、由美はあらかじめ準備していたファイルを差し出した。「長年海外にいましたが、そろそろ帰国しようと思い、いとこに手配してもらった次第です」ファイルは非常に整っており、内容もきちんと詳細に記載されていた。「水原文絵(みずはら ふみえ)……?」聞いたこともない名前に、憲一の顔に一瞬だけ失望の色がよぎった。履歴書も完璧に作り込まれており、隙がまったくない。「はい」由美は表情を変えず、淡々と答えた。──自分はもう、過去の安藤由美ではない。これからは「水原文絵」として、新しい人生を歩こう。「新生児の世話もしてたんですね。しかも、その家族からの評価もかなり高い」履歴書を丁寧に読みながら、憲一の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。「いいですね。ただ……海外の子どもと国内の子どもでは、育児のスタイルに少し違いがあると思いますが、そのへんは問題ありませんか?」生活習慣の違いは育児方法にも影響するはずだ。「大丈夫です」由美は微笑んだ。「実は、海外に行く前に、国内でもいくつかの家庭で育児の経験があります。もしご不安でしたら、以前の雇用主にお電話していただいてもかまいま
アドレスを開いた由美は眉をひそめた。その場所は、かつて憲一と会ったことのある場所だった。「わかりました」彼女は落ち着いて返信し、携帯をそっと置いた。F国。香織は由美との電話を終えた後も、心のどこかに不安を抱えていた。幾度もの手術を受け、十分な療養も取れていない由美の身体が心配だったのだ。「どうした?」早めに帰宅した圭介は、上の空の香織を見て眉をひそめた。香織はその声に我に返り、微笑んでごまかすように言った。「どうして今日は、こんなに早く帰ってきたの?」圭介は目を逸らしながら答えた。「仕事が終わったからだ」――本当は、君が帰ってきたから、少しでも一緒にいたかっただけ。そんなことは、恥ずかしくて言えなかった。そのとき、執事が現れて言った。「お食事の準備が整いました。お召し上がりになりますか?」「うん」圭介は香織の肩を軽く抱いて、ダイニングに向かった。道中、香織は問いかけた。「もしかして……私のために早く帰ってきたの?」圭介は少し鼻を鳴らし、そっぽを向いたまま言った。「仕事が早く終わっただけだ」香織は笑った。「本当?」「そんなことで嘘つく必要あるか?」彼は目をそらした。香織は彼の照れ隠しに気づいていたが、あえて深く追及せず、口元に微笑を浮かべた。食卓につくと、圭介は自然に彼女の皿に料理を取り分けた。「さあ、食べよう」香織は素直に箸を伸ばし、その料理を口に運んだ。「食べ終わったら、体をチェックするぞ。M国に行ってる間、痩せこけてないか確認しないと」その冗談混じりの一言に、香織の頬が一瞬で紅潮した。「痩せてなんかないもん……」彼女は小声で呟き、周囲をちらりと見回した。幸い、恵子が二人の子供を連れて外出中で、家には誰もいなかった。国内。由美は、約束の時間よりもずっと前に、窓際の席に静かに腰を下ろしていた。かつてお気に入りの席だった。窓の外を行き交う人々を眺めながら、彼女の心はふと過去へと引き戻された。何も起きていなかった、あの穏やかな日々へ――時計の針が、ぴたりと12時を指した。ひとりの男が、入口に姿を現した。「コーヒーを二つ」カウンターで注文すると、憲一はふと振り返った。その視線が、窓辺のシルエットでピタリと止まった。──あの