LOGIN三年間に及ぶ過酷な妊活の末、川澄鈴音(かわすみ すずね)はようやく新しい命を授かった。 しかし、その幸せは一瞬で打ち砕かれる。 夫・伊藤章臣(いとう あきおみ)との婚姻関係そのものが、最初から存在していなかったという衝撃の事実を知ってしまう。 真相を問いただそうとした鈴音だったが、その矢先、章臣が別の女性を連れて妊婦健診に訪れている現場を目撃する。生まれてくる子どもを私生児にしないため、彼はその女性と正式に籍を入れていたのだ。 怒りも悲しみも胸の奥へ押し込み、鈴音は静かに復讐の計画を進め、ついに章臣との決別を果たす。 しかし章臣は異常なまでの執着を見せ、鈴音を再び自分のもとへ縛りつけようと狂気じみた行動に出る。 さらには、章臣が別の女性との子どもを優先し、鈴音を見捨てたことで、彼女は流産してしまう。その瞬間、二人の関係は完全に終わりを迎えた。 そして再会の日――鈴音はすでに、財界を牽引する大富豪・雨宮巽(あまみや たつみ)の妻となっていた。オーダーメイドの豪華なドレスをまとい、最高級のジュエリーを身につけた彼女は、誰もが目を奪われるほど気品に満ちあふれていた。 周囲の人々は皆、鈴音と巽の仲睦まじい夫婦ぶりを羨望のまなざしで見つめ、惜しみない賛辞を送る。 かつてあれほど尊大で傲慢だった章臣は、その場で目を真っ赤にし、鈴音に戻ってきてほしいと何度もすがりついた。 そんな彼を鈴音は冷ややかに見下ろし、静かに言い放つ。 「手遅れになってからの愛なんて、何の価値もないのよ」
View More鈴音は、復讐のために自分やお腹の子を危険にさらすつもりはなかった。晴香はなおも尋ねた。「でも、もし章臣に子どものことが知られたら、あの人がすんなり別れてくれると思う?」鈴音はふっと微笑んだ。「私の手元には、彼が『婚姻届を出した』と偽って私を騙した証拠があるの。たとえ彼と優衣が法的な夫婦だったとしても、私と付き合っている間に不倫していた事実は変わらないわ。もし彼が私を手放す気がないなら、この証拠を全部公表するだけ。世間体を何より気にする伊藤家なら、章臣も私を手放さざるを得ないはずよ」……章臣が帰宅すると、鈴音の姿はなかった。まだ怒って叔母の家へ帰ったのだろう。機嫌が直る頃を見計らって謝れば、それで済む――章臣はそう考えていた。この五年間、二人が喧嘩をしたことは何度もある。だが、そのたびに章臣が頭を下げれば、鈴音は最後には折れ、いつも彼のもとへ戻ってきた。だから今回も同じだと、章臣は疑っていなかった。日曜日は鈴音の誕生日だった。金曜日の夜、鈴音から「日曜日に食事へ行こう」というメッセージが届いていた。二人が正式に付き合い始めたのも、鈴音の誕生日。章臣のプロポーズを受けた日も、同じ誕生日だった。そして、「婚姻届を出した」と偽って鈴音を騙した日もまた、この日だった。鈴音は思っていた。二人の関係に終止符を打つなら、この日以上にふさわしい日はない、と。章臣はそのメッセージを見て、ほっと胸をなで下ろした。やはり鈴音は、自分のことを簡単には吹っ切れないのだ。そう思った彼はすぐに了承の返事を送り、アシスタントにレストランの予約を取らせ、その住所を鈴音へ送った。送られてきたのは、二人がよく通っていたレストランだった。もっとも、彼とそこで食事をするのは、もうずいぶん久しぶりのことだった。日曜日の夜。鈴音は水色のワンピースを身にまとい、約束の時間どおりレストランを訪れた。艶やかな黒髪に透き通るような白い肌。上品で落ち着いた佇まいに、周囲の男性たちは思わず視線を奪われていた。席に着くと、鈴音は章臣から贈られた指輪をテーブルの上へそっと置いた。今夜、この指輪を彼へ返すつもりだった。窓の外では、湖面がまるで星屑を散りばめた絹のようにきらめいている。夜十時になっても章臣は
水の中でもがいていた優衣を助け上げたのは、章臣だった。一方、晴香はすぐに溺れている鈴音に気づき、自らプールへ飛び込んで彼女を助け出した。その様子を見ていた二人の男性客はすぐに上着を脱ぎ、晴香と鈴音の肩へそっと掛けてくれた。鈴音はようやく呼吸を整え、ゆっくりと顔を上げる。その視線の先では、章臣が優衣を横抱きにしたまま、足早に屋敷へ向かっていた。なんとも皮肉で、あまりにも滑稽な光景だった。晴香もそれを目にすると、「最低な男」と悪態をつきながら、鈴音を支えて屋敷の中へ入っていった。ほどなくして屋敷の家政婦が清潔な着替えを二人分届けてくれた。鈴音と晴香は服を着替え、髪を乾かしてから部屋を出ようとした。ドアを開けると、そこには章臣が立っていた。晴香は今にも食ってかかりそうになったが、鈴音は手を軽く上げてそれを制した。「晴香、先に行っていて。章臣と少し話があるの」晴香は章臣を鋭く睨みつけると、そのまま部屋を出ていった。章臣は鈴音の後について部屋へ入り、言い訳をするように口を開いた。「さっきはお前が見えなかったんだ。だから先に優衣を助けた。鈴音、変な誤解はしないでくれ」鈴音は淡々と言い返した。「さっき私にぶつかってきたのは優衣よ。そして、私をプールに突き落としたのも彼女」章臣は一瞬言葉を失ったが、すぐに困ったようにため息をついた。「鈴音、優衣は事故だったって言ってる。まだ若い子なんだから、そこまで目くじらを立てなくてもいいだろう」鈴音はふっと口元をゆるめ、鋭い視線を向けた。「防犯カメラの映像、確認してみる?」章臣は不機嫌そうに眉をひそめた。鈴音が大げさに騒ぎ立てているようにしか思えなかったのだ。彼も白羽では名の知れた人物だ。社交の場で、こんな些細な揉め事のために主催者へ防犯カメラの開示を求めれば、笑い話になるだけだった。章臣はスマートフォンを取り出し、その場で鈴音の口座へ送金手続きをした。「プールに落ちたのに先に助けられなくて、嫌な思いをさせたな。2000万円振り込んだから、晴香と買い物でもして好きなものを買ってくれ……」そう言うと、彼は優しく鈴音の頭を撫でた。「余計なことは考えるな。いいな?」鈴音は静かに一歩身を引き、その手を避けた。まるで自分を拒むようなその
巽はヘアピンをひと目見ると、そのままポケットへしまい込んだ。帰宅したら処分しよう、そう思っただけだった。……章臣が入院している間も、鈴音はいつも通り会社へ通い続け、一度も見舞いには行かなかった。けれど、病院へ足を運ばなくても、優衣のインスタを見れば二人の様子は手に取るように分かった。章臣が優衣に雑炊を食べさせ、髪をとかし、さらには仕事をしながら片手でタブレットを支え、彼女がドラマを見やすいよう気遣っている。写真には手しか写っていなかったが、鈴音にはそれが章臣の手だとひと目で分かった。不思議なことに、鈴音の心は自分でも驚くほど穏やかだった。章臣の裏切りを知ったばかりの頃は、胸が引き裂かれるような痛みに襲われた。毎日、自分を傷つけたい衝動や、いっそ章臣を道連れにして破滅したいという衝動を抑えきれずにいた。それでも今は、少しずつその暗闇から抜け出しつつあった。もう章臣の言動一つで、心をかき乱されることもない。必要な証拠も、このところで十分に集まった。そろそろ章臣と決着をつける時だ。彼のもとを完全に去り、受け取るべき経済的な補償はきちんと手に入れる。それは、章臣が彼女に償うべき当然の責任だった。……晴香は、最近鈴音がふさぎ込んでいることを気にかけ、気分転換にと誘ってくれた。「担当してた離婚訴訟で勝ったの。依頼人が旦那さんから財産の半分を勝ち取ってね。今夜、そのお祝いでプライベートパーティーを開くらしいの。御曹司や有名なアーティストも何人か来るんだって。招待状を二枚もらったから、一緒に行こうよ」鈴音は最初こそ気乗りしなかった。だが、大好きなアーティストが出演すると聞き、参加することにした。会場へ着くと、晴香は顔見知りのクライアントを見つけ、鈴音に声をかけた。「ちょっと挨拶してくるから、ここで待ってて」鈴音は小さく頷き、ジュースのグラスを手に取ってゆっくり口をつけた。プールサイドから、心に染み入る歌声が流れてくる。ステージでギターを抱え、弾き語りをしているのは、鈴音が大好きなアーティストだった。その歌声に引き寄せられるように、鈴音は自然と足を進めた。その瞬間、不意に誰かが勢いよくぶつかってきた。今日はハイヒールを履いていたため、バランスを崩して足首をひねってしまう
どうして何も聞いてこないんだ?まさか、少しも嫉妬していないというのか?章臣は理由の分からない焦りに胸を締めつけられた。彼はコップを脇へ置くと、鈴音の手をそっと握り締めた。「鈴音、もし何か思うことがあるなら、ちゃんと俺に言ってくれ」鈴音は静かに微笑み、その話題をさらりとかわした。「明日も工場へ行かなきゃいけないの。今夜は付き添えないから、山下さんを呼ぶわね」章臣は言葉を失い、その場で固まった。以前、彼が急性虫垂炎で入院したとき、鈴音は病院へ駆けつけるなり、心配のあまり涙を流し、付きっきりで身の回りの世話をしてくれた。口ではあれこれ小言を言いながらも、一瞬たりとも休むことなく看病してくれていたのだ。それなのに今の彼女は、ごく当たり前のように帰ると言っている。何かかけがえのないものを失いかけているような恐怖が、章臣の胸をよぎった。そのとき、病室の外から優衣の声が聞こえてきた。「章臣……」腕に包帯を巻いた優衣が病室の入り口に立ち、不安そうな眼差しで章臣を見つめていた。その姿を目にした鈴音は、静かに立ち上がってバッグを手に取ると、そのまま病室を後にした。章臣が呼び止める間もなく、彼女の姿は廊下の向こうへ消えていった。優衣はゆっくりと歩み寄り、章臣のベッドのそばへ腰を下ろした。章臣はもはや鈴音を引き止めることもできず、優衣へ視線を向けた。「大丈夫だったか?」優衣は小さく首を振る。「私は大丈夫。それより章臣、どこか痛くない?」章臣は手を伸ばし、優衣をそっと抱き寄せた。「俺は平気だ」優衣はその胸に飛び込むと、堰を切ったように泣き出した。「ぐすっ……章臣。本当に死んじゃうかと思った。あなたが意識を失ったって聞いて、私、どれだけ心配したか……」章臣は優しく彼女をなだめながらも、頭の中には鈴音の冷え切った表情が何度も浮かんでは消えなかった。彼は思わず眉間に深いしわを寄せる。まさか鈴音は、何か気づいているのだろうか。……病院を後にした鈴音は、突然胃に鋭い痛みが走り、顔色を青ざめさせた。最初から章臣が優衣と一緒に事故に遭ったと知っていたなら、わざわざ見舞いになど来なかったはずだ。しばらく車の中で休み、痛みが少し落ち着くのを待つと、近くのうどん屋へ車を走らせ、温かいう