憲一はある高級レストランを予約していた。料理の味も良く、雰囲気も最高だった。一度の食事で由美の心を取り戻そうとは思っていなかった。ただ、彼女とゆっくり向き合う時間を持ちたかったのだ。時間が経てば、すべてが変わる――そう信じていた。由美の考えでさえも。だが、理想はよくても、娘はまったく協力してくれなかった。料理が運ばれてきた瞬間から、星はずっと泣き続けた。どうあやしても、なだめても、泣きやまない。憲一が抱っこしてもダメ。由美が抱っこしてもまだ泣く。仕方なく、憲一は星を抱いて外に出た。「先に食べてて。俺があやすから」しかし外に出ても、星の泣き声は止まらなかった。由美も食事どころではなく、彼のところへ出てきた。「……帰りましょう。星、たぶん環境に慣れてないわ」「大丈夫。君は食べて。俺が抱いてるから」憲一は言った。「……食欲ないわ。帰りましょう」憲一は言いかけたが、その固い態度を見て、結局頷いた。「……行こう」彼が星を抱いていたが、由美が手を伸ばした。「私が抱くわ。あなたは運転しないと」憲一は顔を上げ、少し黙ってから、娘を差し出した。由美が受け取るとき、指先が偶然彼の指に触れた。彼女は思わず手を引こうとした。だが憲一が素早く彼女の手を押さえた。「放したら、星が落ちるだろ!」視線がぶつかり、由美はすぐに逸らした。そして目を伏せ、小さな声で言った。「……分かったわ。手を離して」憲一は名残惜しかったが、無理はしなかった。嫌われたくなかったからだ。由美は娘を抱きしめ、車に乗り込んだ。憲一は運転席に座り、無言のまま車を走らせた。結局、食事はできなかった。不思議なことに、家に帰ると星は泣き止んだ。ミルクを飲ませると、すぐに眠りについてしまった。泣き通しで疲れたのだろう。すやすやと、とても気持ち良さそうに眠りについていた。憲一は娘のほっぺをつつきながら、苦笑した。「……親不孝だぞ。泣きわめいて、パパもママも食事もできやしない」その「パパとママ」という言葉が、妙に生々しい響きを帯び、空気を一気に甘くした。由美は一言も返さなかった。今口を開けば、それは彼の言葉に応じることになる――そう思うと、何も言えなかった。星は眠ったが、二人はまだ食事をし
憲一は娘をあやしながら笑った。「ママはこんなにきれいなのに、引っ張って禿げちゃったら、将来きれいなママが見られなくなるぞ」由美は顔を背け、台所へと向かった。彼との親しいやり取りを避けたかったのだ。「料理はいい。外で食べよう」憲一が声をかけた。由美は背を向けたまま、小さく「うん」とだけ答えた。星が戻ってきても、彼との距離を大きく取ったままだった。憲一も無理に近づこうとはしなかった。──時間が経てば、彼女もきっと分かってくれる。長く一緒に過ごせば、感情はまた芽生える。彼は自ら歩み寄り、娘を由美に差し出した。「俺たちの娘を抱いててくれ。車を出してくる」由美は彼に触れないよう気をつけながら、腕の中に星を受け取った。そして部屋に戻り、おむつと粉ミルクを用意した。赤ちゃんを連れて外出するには、持ち物が山ほどある。彼女は肩に大きなバッグを掛け、娘を抱きしめて外へ出た。そして後部座席に乗り込み、わざと憲一と距離を取った。憲一はバックミラー越しにちらりと彼女を見たが、何も言わず、エンジンをかけて走り出した。……F国。双が休暇を迎えた。香織は一度帰国するよう提案した。圭介は彼女の意図を察し、すぐに口を開いた。「S国に行こう」「……」香織は言葉を失った。「S国って楽しいの?」双が尋ねた。圭介は息子の頭を撫でた。「S国ではスキーができるぞ」「スキー!やりたい!」双の目は一気に輝いた。香織は圭介を意味ありげに見つめ、静かに言った。「……わざとでしょ?」圭介は片眉を上げ、否定もしなかった。──あからさまな策略だからだ。彼女を騙そうなどとは思っていない。どうせ騙せやしないのだから。「他人の問題は、その人たちが自分で解決するしかない。外からどんなに手を貸しても、結局は無駄だ。かえって悪化させることもある」圭介はすでに察していた。──香織が帰国したがっている理由は、由美のことだ。憲一と由美はどちらも大人だ。彼らがどうするかは、自分たちで決めることだ。下手に首を突っ込めば、むしろ事態をややこしくするだけだ。香織も理解していた。ただ、心配しているだけ。彼女は溜息をついた。「……分かったわ。あなたの言う通りね」「じゃあママ、S国行けるの?」双が期待
「キスされたり、噛まれたりした痕よ」憲一の瞳がわずかに赤くなり、喉仏が上下に揺れた。「私の体の隅々に残る傷痕は、あの時の出来事を思い出させるの。忘れられない。これは一生、私を縛る悪夢になる。……あなたも、そんな苦しみに苛まれたいの?私と抱き合うたびに、この痕が目に入る。そのたび、あなたは思い出すのよ、私に起きたことを。本当に、少しも心が揺れないの?少しも気にならない?……自分を騙さないで。あなたはただの人間よ。神様じゃないんだから」憲一は彼女を見据え、低く問いかけた。「俺がさっき、嫌だと言ったか?」由美は一瞬言葉を詰まらせ、それから吐き捨てるように言った。「ただ欲望に支配されてるだけよ」「いいさ、それなら欲望で構わない。俺は君を欲している。君を手に入れたい。それじゃ駄目か?」彼は由美の顎を指で掴んだ。「愛を語りたくないなら、やめよう。欲望だけでいい」由美は目を閉じ、静かに答えた。「……分かった。いいわ」──もう、はっきり言ったのに、それでも彼は諦めない。もう他の術はない。いずれ彼も飽き、自身の執着の正体に気づくだろう。「分かったわ。その代わり、星を連れてきて」由美は振り返り、床に落ちていた破れた服を拾ったが、とても着られる状態ではなかった。そこで、彼女はベッドのシーツを引き寄せ、体に巻き付けた。憲一は耳を疑った。あまりに突然の承諾――すぐには飲み込めなかったのだ。「約束だ……」その声は震えていた。抑えきれぬ昂ぶりが滲んでいた。「星に会わせて」由美は淡々と告げた。「少ししたら連れてくる」彼は彼女を見つめて言った。「……休め」由美はベッドに座ったまま、返事をしなかった。彼の心遣いには応えようとしなかった。憲一は、そんな態度を気にしなかった。──彼女が受け入れた。ということは、二人の関係がさらに進展する可能性を示している。それだけで十分だ。……由美は眠るつもりなどなかった。けれどもシーツにくるまったまま、いつの間にか眠りに落ちていた。目を覚ましたのは、憲一が星を連れて戻った時だった。物音に気づき、彼女は慌てて服を着替え始めた。彼女が手早く服を着ようとしているのを見て、憲一は言った。「ゆっくりでいい。焦るな。星はもう帰ってきた。これ
胸元にひやりとした感覚が走り、由美は本能的に身をすくめた。しかし女の力が、怒りに駆られた男にどうして敵うだろうか。憲一は彼女をベッドへ押し倒した。最初のうち、由美は必死に抵抗した。だが、やがて力を失い、されるがままになった。彼女はただ天井を見つめ、呆然とした表情のまま、受け入れるしかなかった。──目を閉じれば、あの時の光景が蘇る……彼女は恐怖で歯を食いしばり、シーツは引き裂かれそうなほど握りしめられ、身体はおののかずにはいられなかった。そして必死に自分に言い聞かせた。──彼は星の父親。かつて自分が心から愛した男。自分を弄んだあの者たちとは違う。憲一は懸命だった。けれど、どんなに求めても、由美は一切応えようとしなかった。少しずつ、彼の心は冷えていった。やがて動きを止め、彼女を見下ろした。「……俺に、何も感じないのか?」由美はゆっくりと目を上げた。「……汚らわしく思わないの?」「思わない」彼女は唇を歪め、嘲りを浮かべた。「笑えるわ。本当に女を知らないのね。私みたいな壊れた女に手を出すなんて……男として恥ずかしくないの?」憲一は唇を噛んだ。──まだ彼女の味が残っている。甘く、香しく――心を惑わせる味。「……何を言われても、俺の気持ちは変わらない」憲一はシーツを引き寄せ、彼女の体を覆った。「休め。少し眠って、俺たちのことを考えてくれ。俺の思いは示した。お前も、そのくだらない自尊心を捨てろ」言い残し、彼は床に散らばった服を拾い上げた。そして、ドアノブを握り、部屋を出ようとした。「星をいつ戻すつもり?」憲一は振り返らず、低く答えた。「……分からない」「お願い……星を、返して」憲一は振り返り、彼女を見つめた。その瞬間、彼は自分の愚かさに気付いた。──そうだ。由美を縛れる唯一のもの、それは星だ。星が自分の手の中にある限り、彼女は離れない。「会いたいのか?」憲一が言った。「だが、戻すつもりはない」「瑞樹は男よ。赤ちゃんの世話なんてできない。星はまだ小さいのに……」「保育士ならいくらでも雇える。君一人じゃない。もっと優秀なのを用意できる」彼は問いかけた。「……まだ娘を気にかけてるのか?」由美は声を震わせた。「そこまでしなくてもいいで
しかし、由美は結局部屋を出なかった。こうして膠着した時間が一時間ほど流れた。やがて憲一はその女に金を余分に渡し、帰らせた。女にとって、今日の稼ぎはあまりにも楽なものだった。──男に媚びる必要もない。奇癖を持つ年配の客に耐える必要もない。彼女は笑顔で金を受け取った。「こんな仕事なら、またいつでも呼んでくださいね」憲一は一言も返さなかった。女も空気を読んで、すぐに立ち去った。彼女は夜の世界に身を置いてきた。金を持つ男を数えきれないほど見てきたし、相手をしてきた。自分がどんな立場かはよくわかっていた。──彼らに本気で愛されることなんてない。ただの遊び相手で終わるだけ。シンデレラのように王子様と結ばれる夢など、初めから持っていない。シンデレラにだって清らかな体がある。けれど、自分には何がある?何もない。現実は残酷で、夢のような物語は存在しない。今の願いはただ一つ――少しでも金を貯めて、いずれは真面目な男を見つけ、普通の暮らしを送ること。……トントン……由美は、自分がいつから泣いていたのかさえ気づいていなかった。涙が頬を伝っても、何の感覚もなかった。トントン……またノックの音が響いた。彼女は無意識にドアを開けた。憲一は、涙の跡が残る彼女の顔を見た瞬間、思わず手を伸ばしそうになった。だが、その冷ややかな表情を見て、ぐっと動きを止めた。「……何を泣いてる?」「泣いてないわ」由美は淡々と答えた。「じゃあ、その涙は何だ?まさか砂が目に入ったなんて、言うつもりじゃないだろうな」言われて彼女は頬をなぞり、ようやく自分が涙を流していたことに気づいた。──何を泣いていたのだろう。自分の冷たさに?憲一をここまで追い詰めたことに?それとも、彼が自分を翻意させるためにこんな愚かなことをしたから?わからない。彼女は小さく吐息をこぼし、淡々と告げた。「そうよ、砂が入っただけ」憲一の目尻がぴくりと動いた。──この女、本気でそんな嘘をついているのか?「さらに追い詰められたら……俺自身も信じられないようなことをするかもしれないぞ」「さっき以上に馬鹿げたことなんて、まだあるの?」彼女は顔を上げ、涙を含んだ瞳で見返した。──その顔は、もう昔のあの
憲一は、ひとりの女を連れて入ってきた。その女はウェーブヘアで、黒いタイトドレスに身を包み、細く白い脚をあらわにしていた。身のこなし一つ一つに、夜の匂いがまとわりついていた。由美はほんの一瞬だけ視線を向け、すぐに顔を背けた。「君は何人かの男と寝ただろ?じゃあ俺も同じ人数の女と寝る。それでおあいこだ」憲一は言った。由美は衝撃を受けた。彼女は憲一を見つめ、瞳が大きく揺れた。「……頭がおかしいの?」憲一は淡々と言った。「ただ対等にしようとしてるだけだ。俺たちが対等じゃないって思ってるんだろ?」由美は唇を動かしたが、言葉は出てこなかった。──確かにそう思ったことはある。けれど、自分の過去は仕方なく背負わされたもの……なのに、どうして彼はこんな方法を選ぶのか。「言っておくわ……どんな手を使っても、私は振り向かない。好きにすればいい」彼女は背を向けた。憲一は数秒黙って彼女を見つめ、それから短く答えた。「……いいだろう」彼はその女の肩を抱き、寝室へと向かおうとした。その背中を見て、由美は思わず叫ぶように声をあげた。「そんなふうに自分を汚して、楽しいの!?」「汚す?冗談だろう、こんな美人を抱くのに?」彼の目は読めない光を帯びた。「しかもこれは最初の一人だ。これからは、もっとたくさん……一日一人でもいいな」「……」由美は言葉に詰まった。「俺はただ、君の一言が欲しいだけだ」彼は低く問いかけた。「俺と、やり直すか?」由美は目を閉じた。「好きにして」そう言うと彼女は部屋に駆け込み、ドアを閉めて鍵をかけた。憲一の拳がぎりぎりと音を立てた。──ここまでしても、まだ彼女は折れないのか?「松原さん?」その女が恐る恐る口を開いた。「芝居は、まだ続けますか?」彼女は金で雇われただけだ。「続けろ」憲一の声は低く鋭かった。女はくすりと笑みを浮かべた。「本当は、お金なんて要りません。芝居じゃなくても……」その瞬間、憲一の冷たい視線が突き刺さり、女はすぐに肩をすくめた。「……冗談ですって、怒らないでくださいよ」「くだらない口を利くな。吐き気がする」憲一は睨みつけた。「……」女は言葉を失った。彼女は水商売の世界で生きてきた。──耳を覆いたくなるような言葉も、厄介な男も