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第五十七話

作者: 麻木香豆
last update publish date: 2026-09-07 06:02:05

「……え?」

 渉は思わず声を漏らした。もう一度、お金を見る。

 間違いなく二万円ある。

「二万円……?」

 大学生の渉にとって、二万円は決して小さな金額ではない。

 光熱費の支払いにも使える。食費にもなる。サークルの飲み会なら、何度か参加できる。新しい服を買うこともできる。

 そこまで考えて、渉はふと黙った。

 自分が何に使うかを考えていることがおかしくなった。

 そして、メモを裏返す。

 そこに、また短い文章が書かれていた。

『お金も好きなように使ってくれ』

「……」

 渉は、その文字をじっと見つめた。

 二万円。

 好きに使っていい。これは何なのだろう。ただの厚意なのか。それとも……。

「……昨晩一緒にいて、その対価がこれなのかな……」

 小さく呟く。けれど、すぐに首を振った。

「……なわけないか」

 そんな簡単な話ではない。

 自分から何かを求めたわけでもない。宙からも、そんな説明をされたわけではない。

 昨日、自分はほとんど宙に身を委ねていた。

 この二万円をどう受け取ればいいのか分からない。財布へ入れることには抵抗があった。

 結局、渉は二万円をそのまま置いておくことにし
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  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第七十一話

     その夜は、渉のほうが優勢だった。 なぜこんなふうになってしまったのか、自分でも分からない。 きっと……圭の存在だ。 あの名前を宙が口にした瞬間から、どうしても気になって仕方がなかった。 宙は、いつもの余裕を失ったように渉に身を預けている。 悔しそうな表情を浮かべながら、それでも渉を離そうとはしない。その矛盾が、妙に印象に残った。 嫉妬なのだろうか。 それとも、ただ知りたいだけなのか。 あの圭という男を、宙はどんなふうに扱っていたのか。 気づけば、渉は口にしていた。「その圭という男は……どうしたんですか」 宙の表情がわずかに変わる。「……従順なやつでね。一人じゃ何もできない……そんなやつだった」「手を怪我したと……」 宙がハッと渉を見る。「……なぜ、それを?」「圭さんの展示にいた人から聞きました。もうデザインを作れない、あの綺麗な線を描けないって」「……ああ」 宙は一度、目を伏せた。「事故だったんだ」 さっきまで乱れていた呼吸が、少しずつ落ち着いていく。 その変化が、渉には妙に怖かった。 まるで、宙の中で何かのスイッチが切り替わったようだった。「もう右手は使えない。収入もない……」 声は穏やかだった。 けれど、その穏やかさの奥に、渉の知らないものが沈んでいる。「僕を守るために、そうなってしまったんだ。だから僕が面倒を見た」 渉は黙って聞いていた。「なのに……」 宙の声が低くなる。「なのに、出ていってしまった」「……」「恩を仇で返されたよ」 その言葉とともに、宙の腕に力がこもった。 責めるような声ではない。 むしろ静かだった。 だからこそ、渉はぞっとした。「出ていったあとも、あんな手じゃ無理だろうと思った。だから探した」 目つきが変わる。「探して、探して……それでも見つからなかった」 宙の指が、渉の背中をゆっくりとなぞる。 その手つきだけなら、いつもの優しい宙と何も変わらない。 なのに、渉にはそれが妙に不気味に感じられた。「他の男に手助けしてもらって……海外に逃げてしまった」「……海外……」 渉は呟く。逃げた。宙から。 その事実だけが、頭の中に残った。 そして宙は、ぽつりと言った。「……気づけば、探し回るうちに、憎しみより愛しさのほうが強くなっていた」 その言葉を口にし

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第七十話

     浴槽の中で、また身体を洗ってもらう。 足の指の間を丁寧に洗われると、一番くすぐったくて、渉は思わず笑ってしまった。「くすぐったい……」「そう?」 宙は楽しそうに笑いながらも、手を止めずに丁寧に洗ってくれる。 その繊細な手つきを感じながら、渉はふと思った。 圭という男が「下僕」……どうして。 目の前の宙は、こんなにも優しい。 人の身体に触れる時も、壊れ物を扱うように丁寧だ。 そんな宙と、斗真が言っていた「下僕」という言葉が、どうしても結びつかなかった。「今日はどこか行ってたんだね……一人で?」 やはり聞いてきた。 渉は首を横に振る。 背中を洗ってもらっているのが気持ちよくて、そのまま答えた。「大学のクラスメイトと、レポートを書くために展示会へ行ってたんだ」「……ほぉ。クラスメイトと」 宙はそれ以上でもそれ以下でもないような声で繰り返す。「なんの展示会かな」「建築デザインの……展示会だよ」「ああ。中央フォーラムでやってるやつ?」 渉は少し驚いて頷いた。やっぱり知っている。「僕も行きたいと思ってたんだ。ビジネスパートナーも、そこで手伝いをしていると言っていたし」 ……ビジネスパートナー。 それは、あの斗真という男だろうか。 顔が広そうな男だった。宙には、他にもそういう人間がいるのかもしれない。「何か気になった展示はあったかな」「……いろんな人のデザインを見て、すごいなぁって」「なるほどね」 宙の手が背中を滑っていく。「特に印象に残ったものは?」 また聞いてくる。 渉は少しだけ戸惑った。今は首元を洗われていて、声も出しづらい。「……綺麗なデッサンの人がいてね」 正直、圭の展示以外はあまり印象に残っていなかった。 ラフなのに、すでに完成した作品のようだった線。 迷いのなさ。 そして、あの写真。 そこまで思い出した瞬間、宙の手が止まった。「綺麗な、とは……どんなのかな」 声が、ほんの少し低くなった気がした。 渉はその変化に気づく。「……ラフなのに、もう作品そのものみたいで。線もすごく綺麗で……」「……あっ」 宙が小さく声を漏らす。 渉はそれ以上話したくなくなった。 これ以上、圭の話を続ければ何かが変わってしまいそうだった。 だから渉は、話題を逸らすように宙の身体を洗い始めた。「今度

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第六十九話

     会場内を、そこからは足早に見ていった。 良いデザインも他にはあった。けれど、やはり渉の心に残っているのは、圭のデザインだった。 いや……デザインだけではない。 あの作品を作った人間。宙が寝言で呼んだ名前。写真の中で宙の隣にいた男。 そして、斗真が口にした「事故」と「下僕」という言葉。 それらが頭の中で何度も重なってしまう。「渉、元気ないなー。また授業でな」「サークルも、気が向いたら戻ってきてな」「あー、レポートか。だっるいけど頑張ろうなー」「うん……」 仲間たちはようやく展示会を見終え、出口でホッとしたように息を吐いた。 そのまま現地解散になった。渉も彼らに軽く手を振り、その場を離れる。 向かう先は決まっていた。 もちろん、宙の元へ。 スマートフォンを見る。宙からメールが来ていた。『まだ部屋にいないのかい?』 その文字を見ただけで、さっきまで張り詰めていたものが少し緩んだ。『今から帰る』 そう打ち込む。 ……帰る。 送信ボタンを押す直前、その言葉に渉は少しだけ戸惑った。 宙の「部屋」なのに。 いつの間にか、自分にとっても「帰る」場所になっている。 自分のアパートではなく。宙のいる場所へ。 渉はそのことに気づきながらも、送信ボタンを押した。 そして、そのまま宙の部屋へ向かった。 部屋に着くと、もう宙は戻っていた。 玄関の扉を開ける。「おかえり」 入った途端、宙が抱きついてきた。「……ただいま」 自然にそう返した。 その瞬間、渉の身体から力が抜けた。 展示会にいた時は、ずっと息が詰まっていたような気がする。 圭のこと。宙の過去。自分が知らないこと。 けれど今は宙がいる。 それだけで、ようやくホッとできた。 渉は宙の胸元に顔を寄せる。 けれど、頭の隅から圭のことは消えなかった。あの男は誰だったのだろう。どうして宙の寝言にまで出てくるのだろう。「さぁ、お風呂入ろうか」 宙が優しく頭を撫でる。「……うん」 渉は頷いた。 その手の温かさに安心しながらも、ふと斗真の言葉が蘇る。 ……下僕。 あれは、どういう意味だったのだろう。「どうしたの?」 宙が顔を覗き込む。「ううん、なんでもない……」 渉は笑って誤魔化した。 聞けばいい。圭という人のことを。 そう思う。 けれどもし聞い

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第六十八話

    「知ってますか? 彼のこと」 そう言われて、渉はハッと顔を上げた。「いえ……初めてです」 そう答えたものの、胸の奥がざわついた。初めて聞く名前のはずだった。 なのに、なぜか引っかかる。 ……ケイ。 昨夜、宙が寝言で呼んでいた名前。 そして昼間、宙の書斎で見つけた写真に写っていた男。「まぁ、この業界の人じゃないと分からないかもね。君は建築やデザイン専攻?」 渉は首を横に振った。「ああ、そうなんだ。学生さんだよね。どこの大学?」 学校名を告げると、斗真は頷いた。「ああ、なるほど……高村教授のところか。教授から課題を出されて、ここに来てる感じかな」「……はい」 図星だった。 もともとは建築やデザインに興味があったわけではない。 教授の講義はレポートを出せば単位が取りやすい……そんな話を先輩から聞いて、選んだだけだった。 けれど、授業を受けているうちに少しずつ興味は湧いていた。 そして今、目の前にある作品を見ていると、なおさらだった。「まぁ、あまり興味がなくても、このデザイナーのことは知ってほしいかな。凄さだけでも分かってもらえればいいと思ってる」 渉は頷き、改めて展示を見る。 デザインだけではない。 横に並べられたデッサンやラフも、目を引いた。ラフなのに、線が乱れていない。 一本一本が迷いなく引かれている。「……すごい」「そうでしょう?」 斗真が少し嬉しそうに笑う。「ささっと描ける人でね。頭の中ではもう出来上がっていて、それをすぐ紙に描き出す。……有望な人だったよ」 また、その言葉だった。「ほら、このデッサンも。これだけでも欲しいって、さっき言われましてね。まぁ、お断りしましたけど」「どうしてですか?」「本人の許可なしには渡せないからね」 本人。その言葉に、渉は名刺へ目を移した。 降谷圭。 宙が寝言で呼んだ名前。 写真の男。 そして、今はここに作品だけが残されている。活動していない理由も分からない。 どうして宙の家に写真が一枚だけ残っていたのかも。 ただ、渉の中では少しずつ一つの疑問になっていた。……この人は、宙にとって何だったのだろう。 以前、宙が連れていた若い男とは違う。 斗真の話では、もっと長く宙のそばにいた人間らしい。 それなのに今はいない。宙はその名前を眠っている時にだけ呼ぶ。

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第六十七話

     展示されているのは、海外から来た建築技術や新しい素材、都市設計についてのもの。 講義で見た図面と似たものもあった。「これ授業でやったやつじゃん」「ほんとだ」 仲間たちが足を止め、スマートフォンを向ける。渉もつられて撮影した。 画面越しに見ると、建物の形や構造がより分かりやすく見える。 けれど、渉自身は建築に詳しいわけではない。説明を読んでも、専門用語が多くて正直よく分からない。 それでも、実物を見ると不思議と目が離せなかった。 紙の上ではただの線だったものが、ここでは立体になっている。 人が暮らす場所になる。誰かが考え、誰かが作り、誰かがそこで生活する。 そう考えると、ただの模型には見えなかった。「こっちもあるよ」 仲間に呼ばれて振り返る。 今度は日本人の建築家やデザイナーを紹介するブースだった。 さっきまでの展示とは少し空気が違う。スーツ姿の人が多く、作品を見ながら話をしている。 名刺交換をする人。作品について説明する人。商談らしい会話をしている人。 ここにいる人たちは、ただ展示を見に来ているわけではない。 この先の仕事につながる何かを探している。「俺らも来年には就活だからなー」「こういうところから仕事決まったりしないかな」 そんな声が聞こえてくる。 就職活動。 その言葉が渉の中に残った。自分は何をしたいのだろう。 東京の大学に来たのも、とりあえずいい企業に入って、地元より高い給料をもらうため。 親にもそう言われてきた。けれど、具体的に何になりたいのかは分からない。 今はただ、宙のそばにいる。 大学に行って、宙の部屋に戻って、宙と食事をして、宙と過ごす。 それが当たり前になりつつある。 あと数年したら、自分もここにいる人たちのように仕事を探すのだろうか。 それとも……。 渉はそこで考えるのをやめた。 そのときだった。一つのブースの前で、渉の足が止まった。「……」 なんとなく、目を奪われた。 他にも優れたデザインはいくつもある。 けれど、これは違った。まっすぐに引かれた線。余計なものを削ぎ落としたような構成。細部まで行き届いた丁寧さ。 建築には正確さが必要なのだろう。 それでも、これは単なる正確さを超えているように感じた。 渉は一歩、展示に近づいた。図面を見る。 細い線がいくつも重なり

  • 捨てたはずの恋人が今さら執着してきますが、僕は自分の道を描く   第六十六話

     展示会へ向かう途中、電車の中で仲間たちと分かれて立ち、そのうち二人と渉は話していた。「最近、渉つれないからさ。なんかあったのかと思ってたんだけど」「特に何もないよ……」「実はバイト先にも行ったんだよなー」「え、あの店にも?」 渉は思わず聞き返した。 自分の変化を心配してくれていた人がいたことに、少し驚く。「スッゲーいい店で働いてるよな。なんつーか、世界観が違うっていうか。サークルのみんなで一回行ったけど、やっぱ学生の俺らには敷居が高いというか」「うんうん。ああいうところで働くと、なんか違うんかなー。俺も働こうかな」「夜遅いから絶対きついぞ。よくやってたよなぁ。疲れたんだろ、渉」「……そうかな」 渉は曖昧に返し、電車の窓へ視線を向けた。 流れていく景色。会話への反応が薄い渉を見て、二人が笑う。「相変わらずだな。そういうところが渉って感じ」 ……そういうところ。 それが自分なのだろうか。自分自身のことなのに、よく分からない。 周りから見た自分が、どんな人間なのかも。 電車がトンネルへ入る。窓ガラスに、自分の顔が映った。 数ヶ月前より、顔つきが変わった気がする。服も、持ち物も。 そして生活も。 けれど、自分が変わった理由を、この二人には話せない。 いや……話す必要もない。 そう思いながら、渉は窓から目を逸らした。 目的の駅に着き、電車を降りる。会場まではすぐだった。 駅を出たところから、人が多い。「着いたぞ。ぼやっとするなよ」「あ、うん……」 渉は仲間たちについて入口へ向かった。 初日の夕方だというのに、かなりの人で賑わっている。「きっと講義受けた生徒も何人か来てるよ」 仲間の指差す先には、見覚えのある学生たちが何人かいた。 受付へ並んでいる間にも、別のメンバーと話す。「やっぱ彼女できたんじゃね?」「でも渉って、合コンの時も女の子にグイグイ行かないじゃん」「サークルでも聞いたけど、誰かと付き合ってるって話はなかったし」「どっちかっていうと、グイグイされたんじゃね? 渉」「はははっ」 渉は苦笑した。……確かに。 宙にグイグイと迫られた。 もし相手が男だと知ったら、彼らはどう思うだろう。想像すると、胸の奥がざわついた。「まあ、バイトも辞めたことだし、また飲み会とか合コンしようぜ」「……時間が

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