ログイン妊婦健診に付き添ってくれているとき、夫・桐谷茂樹(きりたに しげき)が突然口を開いた。 「これ、本当は俺にとって二人目の子供なんだ」 私・桐谷美晴(きりたに みはる)は、5年前に予想外のことで失ってしまった、最初の子のことを言っているのだと思った。 彼の声は甘く優しく、まるで恋人同士の囁きのようだった。 「萌衣との間に、もう4歳になった子供がいるんだ」 私はその場に立ち尽くし、ぽかんとした。 小林萌衣(こばや しめい)は、茂樹の幼馴染だった。 5年前、二人がベッドで重なっている姿を目撃した時の衝撃で、私は流産をしてしまった。 茂樹は1ヶ月もの間、ずっと私の看病をしてくれた。そして、もう二度と萌衣とは連絡を取らないと誓った。 8年の思い出を諦めることができず、私は彼にいい顔をしてしまった。 茂樹もそれから約束を守り、萌衣を私たちの前に一切現れさせなかった。 しかし、あれから5年が経ち、私がようやく勇気を取り戻して再び妊娠した途端、彼は涼しい顔をして、萌衣との子供がすでに4歳になっていると告げたのだ。
もっと見る茂樹はどうかしていたのだ。美晴が彼の元を去ったあの日から、壊れてしまったのだ。茂樹は酒に溺れるようになり、毎晩のように意識を失うまで飲み続けた。昼間はソファに突っ伏したまま、美晴が置いていった離婚届を見つめてぼんやりと過ごした。飛び降り騒動で消防士に助け出された萌衣が彼の元を訪ねてきて、もう一度一緒にやり直したいと言った。しかし、その女の顔を見た瞬間、茂樹は激しい嫌悪感を抱いた。萌衣自身に問題があったわけではない。ただ、彼女の存在そのものが現実を突きつけていた。どれほど身勝手で、愚かで、哀れな男だったかという現実を。彼は萌衣を追い出した。はやとにさえ会おうとしなかった。その子を見るたびに、美晴が失った二人の子供たちのことを思い出してしまうからだ。それは、他でもない自らの手で奪い去った二つの命だった。……「会社で、ちょっと問題があって」茂樹は最後にぽつりと、平然を装ってそう言った。私は頷くだけで、それ以上は何も聞かなかった。知りたくもなかったし、どうでもよかったからだ。「美晴、俺は……」茂樹は息を深く吸い込んで、意を決したように言った、「もう一度、やり直せないか?」私は彼を見つめ、不思議そうに首を傾げた。言葉の意味を考えているかのように。「何をやり直すの?」「全部だよ」茂樹の目は真っ赤に潤んでいた、「結婚も、これからの生活もだ。絶対に新しい人生をお前に約束する。今度はお前を大切にする。もう二度と嫌な思いはさせない。萌衣とは完全に縁を切る。誰にもお前を傷させない。これからは、俺が……」「茂樹」私は彼の言葉を遮った。その声は淡々としていて、冷え切っていた。茂樹は言葉を失って、私を見つめた。「あなたから離れること。それが私にとって一番の救いなの」私は突き放すように言った。彼の体は完全にこわばった。みるみるうちに、顔から血の気が引いていった。私はもう二度と振り返らず、背を向けて歩き出した。茂樹はただその場に立ち尽くし、遠ざかっていく私の背中を見つめていた。追いかけて、私の手を掴み、ひざまずいて行かないでくれと縋りたかったはずだ。だが、彼の足は地面に張り付いたように、一歩も動かすことができなかった。空港ロビーは多くの人々が行き交い、それぞれが目的地に向かっ
彼女は振り向いて、真剣な目で私を見つめた。「ねえ、もうこれからのことを考えましょうよ。何があっても、毎日は続いていくんですから」私はその場に立ち尽くした。ハッと我に返ったときには、もう涙が頬を伝って溢れ出ていた。女の子がティッシュを差し出してくれた。「泣かないで。泣きすぎると目が腫れて、写真がきれいに写らなくなってしまいますよ」私は涙を拭いながら、笑顔を見せた。その日の午後、私はあの子と一緒に、山道を長いこと歩いた。私たちはたくさん話をした。命のこと、死のこと。それに、どうしても忘れられない人や出来事について。別れ際、あの子は私をぎゅっと抱きしめてくれた。「ちゃんと幸せに生きてくださいね」私は頷いた。何度も、力強く頷いた。あの日から、私は少しずつ変わろうと努力し始めた。ちゃんとご飯を食べ、ちゃんと眠り、自分の体をいたわるようにした。そして、静かな街の小さなお花屋で、新しい仕事を見つけた。毎日お花に囲まれて暮らすうちに、荒んでいた心も少しずつ穏やかになっていった。新しい友達もできて、週末には買い物に行ったり、食事や映画を一緒に楽しんだりした。私の誕生日の日、友達が誕生日ケーキを用意してくれた。キャンドルの火を吹き消して願い事を唱えたとき、急にスマホが鳴り響いた。ニュースの通知だった。【地元の有名起業家、桐谷茂樹が詐欺の疑い。株価は暴落し、破産手続きへ】私は一瞬だけ手を止め、それからスマホを静かにポケットへと戻した。友達から「どうしたの?」と聞かれたけれど、私は「ううん、何でもない」と笑って見せた。そんなニュース、私にとってはただの些細な出来事だと思っていた。けれど、本当の波乱はこれから起こるなんて、想像すらしていなかった。1週間後、私は友達を出迎えるために空港へ行った。ロビーは多くの人で混雑していた。私は出口のそばで、手持ち無沙汰にスマホを眺めていた。何気なく顔を上げた瞬間、一人の男が目に入った。その人は10メートルも離れていない場所に立っていた。ヨレヨレのシャツを着て、ひげは伸び放題、目の下にはひどいクマがあった。すっかり生気を失い、頬骨が浮き出るほど痩せ細っていた。それは、茂樹だった。彼も私に気づいたようだった。最初は呆然と目をぱちくりさせていた
私は、ひどい鬱病になってしまった。昼間はなんとか平気を装って、食事や身の回りのこと、買い物などをこなした。しかし夜になると、毎晩のように悪夢が襲ってきた。夢に出てくるのは、生まれる前に亡くなってしまった二人の子供たちだった。最初の子は遠くの方で後ろを向いたまま、いくら呼んでも振り返ってくれない。二人目の子は血の海の中で、小さな体を丸めていた。私はいつも冷や汗をかいて跳び起き、枕を涙で濡らした。次第に眠ることさえ、目を閉じることさえ怖くなった。私は一晩中窓辺に座り、外が徐々に明るくなっていくのをただ見つめていた。大家が、見かねて声をかけてくれた。ある日の夕方、大家はポルボロンをのせたお皿を持ってきて、私の隣に座った。「美晴さん。何があったかは知らないけれど、あなたにはまだ未来があるわ」私はうつむいたまま、何も言えなかった。「私も若い頃は、死のうと思ったものよ」大家は静かに語った。「あの頃は夫に浮気されて、子供も病気で、世界が終わった気がしたわ」私は顔を上げて彼女を見た。「でも後になって思ったの。なんで私が死ぬの?私を傷つけた彼らのほうこそ死ぬべきじゃないって」大家は私の手を強く握った。「だから生きて、思いきり輝くの。あなたを傷つけた人たちに、幸せになった姿を見せてやりなさい」その言葉を聞いた瞬間、私の目から涙が溢れ出た。大家は続けて言った。「少し外の空気を吸っておいで。ずっと部屋にこもっていると、心がカビてしまうわ」次の日、私は荷物をまとめ、あちこちをめぐる旅に出た。ある時は、静かな海辺の民宿に部屋を借りた。毎朝窓を開けると、目の前に広がる青い海を一人占めできた。またある時は、古い町並みの石畳を散歩し、バーから聴こえてくる曲に耳を傾けた。またある時は、不思議な形の建物の前で立ち止まり、吸い込まれそうな青空を見上げた。ある山の上では、空気が薄くて激しい頭痛に襲われた。けれどその時、生きていてよかったと感じられた。そして、最後に向かったのは雪山だった。冬のその場所は、山頂のカルデラ湖も完全に凍り、周囲は一面の銀世界だった。私は麓の小さなホテルに泊まり、毎朝のように山を登った。そんなある日、雪道で一人の女の子に出会った。その子はハタチそこそこに見え、顔色は
次に、茂樹はプロポーズしたあの歩道橋へ向かった。あの日、茂樹はたくさんお酒を飲んでいた。人が行き交う歩道橋の上で片膝をつき、指輪を掲げて、「結婚してほしい」と言ったのだ。美晴は大泣きしながら言った。「もう、バカね。早く立ってよ、恥ずかしすぎるわ」でも、茂樹は頑なに立ち上がらず、「はい」と言うまで引かなかった。美晴は何度も頷いた。最後には声が枯れるほど、何度も何度も「はい」と言った。だが、今の歩道橋には誰もいない。ただ冷たい風が襟元から入り込み、体を激しく震わせるだけだった。最後に、茂樹は郊外の山の上へ向かった。静かに佇むその小さなお墓の下には、彼らの最初の子の形見が埋められている。「パパが来たよ」彼の声は震えていた。「ママは来たかな?会いに来てくれた?」誰も答えてはくれない。ただ、枯れ草を揺らす風の音が静かに響くだけだった。彼はそこにずっと座っていた。夜が明けてから、真っ暗になるまで。心の中がざわついて、いたたまれなかった。足の先から頭のてっぺんまで恐怖が這い上がり、体中の震えが止まらない。急いで車を走らせて家へ戻る途中、信号無視を3回もした。ドアを開けると、家の中はひっそりとしていた。「美晴」と呼んでみたが、返事はない。もう一度呼んでも、声が誰もいないリビングに寂しく響くだけだった。ふと、テーブルの上に書類が置かれているのが見えた。彼は飛びつくように駆け寄った。それは美晴が残した、たった一つのものだった。その口元には、かすかな笑みさえ浮かんでいた。彼女は最後には折れてくれたのだ、と思った。きっと、自分に何か伝えたいことがあって、言葉を書き残してくれたに違いない。ちょっと頭を冷やしに行くけれど、数日で戻るという内容の手紙かもしれない。あるいは、昔撮った思い出の写真で、忘れないでほしいという内容かもしれない。しかし、彼が封筒から取り出した紙は、なんと離婚届だった。彼の指先はこわばり、顔から笑みが消え失せた。そこには美晴の署名があった。その文字はとても端正で、力強く書かれていた。まるで、書く時に強い覚悟を決めたかのようだった。離婚届の横には、指輪がぽつんと置かれていた。あれは二人の結婚指輪だった。彼の指輪は今も指にあるが、彼女の指輪は冷たいテー
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