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第2話

Author: 半拍子
その後、凛が病院へ足を運ぶことは一度も無かった。

家中の家具をほとんど売り払った今、広い部屋はとてもがらんとしている。それはまるで、形はあっても、中身は何一つとして残らない、凛と悠真の結婚生活のようだった。

凛から悠真の状況を尋ねることはなかったし、悠真からも一切連絡は来なかった。

それでも、悠真に関する情報はなぜか色々な方面から耳に入ってきた。

一命を取り留めた悠真は、特別室へと移されたらしい。

付きっきりで看病をし、身の回りの世話を焼いている杏の姿は、まるで本当の妻のようだとも言われていた。

悠真の同僚や学生たちは杏の健気さを褒めちぎり、こんなにも優しくて尽くしてくれる生徒を恋人にした悠真は幸せ者だ口々に言う。

悠真の親族までが杏を絶賛し、凛よりも杏の方が悠真にふさわしいと言っていた。

そうした言葉が、ナイフのように凛の心を切り裂いた。だが、凛には悲しむ力さえも、もう残ってはいなかった。

しかし、凛が杏のインスタをブロックすることはなかった。悠真があらゆる信念を捨ててまで、選んだこの女が、一体どんな人物なのかを見てみたかったのかもしれないし、悠真が命をかけてまで、自分を捨てる理由が知りたかったのかもしれない。

このところ、杏のインスタ更新の頻度は、かなり多かった。

意識が戻った悠真の手を握って涙ぐむ写真には、【無事でよかった。これからはずっとそばにいるからね】というコメント。

手料理を差し入れては、【早く元気になってね。ずっと一緒だよ】と綴る。

病室で笑い合う二人のツーショット。そこには、凛には見せたこともない優しい眼差しの悠真。さらには、【運命の二人は、結局結ばれるもの】という文字が踊っていた。

杏の幸せそうな文章と、悠真の優しい笑顔を見て、凛の胸は息が止まるほどの激痛と冷たさに包まれた。

この3年間、凛は悠真のために自分を殺してきた。

昔の凛は、明るく奔放で、自分の意見をはっきりと言う性格だった。

しかし結婚後は、悠真の顔色を伺いながら遠慮がちに過ごし、自分の個性すら隠して、彼の好みに合わせようとした。

好物だった味の濃い料理もやめ、悠真に合わせて薄味の食事を作った。

クローゼットの中の鮮やかな服だってすべて捨て、悠真の好きな地味でシンプルな服を身に纏った。

友人の誘いもすべて断り、たとえ悠真が深夜になろうとも、帰ってこない日が続こうとも、毎日悠真の帰りを待っていたというのに……

最初から対等ではなかった関係の中で、自分自身を見失ってしまっていた。

今、自分を取り戻さなければならない。

悠真が退院する日、凛は病院に訪れた。

黒のパンツスーツに身を包み、髪をまとめ、ハイヒールを履いた凛は、特別室の前の廊下を歩いている。

ドアを開けると、ベッドで半身を起こしている悠真に、杏がベッド脇の椅子に座りながら、剥いたオレンジを食べさせていた。

ノックの音で同時に顔を上げた二人。

来客が凛だとわかると、悠真の目に鋭い警戒の色が走る。

彼は少し痩せて顔色も優れないようだったが、あの独特な冷ややかな雰囲気は相変わらずだ。

悠真が眉間にしわを寄せて凛を見た。

杏もあわてて立ち上がり、悠真の後ろに隠れるようにして、凛におどおどと挨拶する。

凛は杏を無視して悠真にまっすぐ視線を向けた。「順調に回復してるみたいね」

掠れたような声で、悠真が答える。「なんで来たんだ?」

凛は冷たく笑って言い返した。「妻がお見舞いに来るのって、そんなにおかしいこと?」

そしてバッグから書類を2部取り出し、ベッドの横に置いた。

「サインして」

悠真は書類の表紙に書かれた「離婚協議書」の文字を見つめ、目を細めた。そして嘲るように口元を歪める。

「また何か始めようっていうのか?」

彼は凛の泣きわめく姿や縋るような態度を予想していたのか、あるいは自分への執着を当てにしていたのか定かではないが、凛があっさりと離婚協議書を突きつけたことは予想外だったらしい。

凛は表情を変えずに続けた。「ずっとあなたに振り向いて欲しいって思いながら、この3年間の結婚生活を送ってきたけど、策略なんてものは一度もしたことないよ。

私は、ただ心からあなたを愛していただけ。でも、あなたが目を向けてくれることは一度もなかった。だから、もう諦めることにしたの」

あまりに落ち着いた凛のその口調に、悠真はなぜか言いようのない苛立ちを覚えた。

「これは離婚に関する書類」と凛は指でファイルを軽く叩く。

「婚姻関係が続いている間に他の女性と関係を持ち、しかも妊娠させた。これは重大な過失に当たるの。だから、法律と契約の取り決めに従って、あなた名義の婚姻中の財産、あとは結婚後に購入した不動産も含めて、すべて私のものになる。あなたには……身一つで出ていってもらうから」

悠真は凛の表情に動揺や何か裏があるのではないか見定めたが、彼女の意志は硬そうだった。

「自分が何を言っているのかわかっているのか?」

凛は真っ直ぐに悠真の瞳を見つめた。

「私は本気だよ。全て真剣に考えてのこと。

あなたがサインしてくれたら、そのまま区役所に手続きに行く。今後は、もう一切あなたに関わらないから。お互い、好きに生きよう」

悠真のそばで服の裾を強く握りしめていた杏は、期待に満ちた目で悠真を見ている。

悠真は離婚協議書を手に取り、内容に目を通した。

読み進めるうちに、彼の顔色はみるみる険しくなっていく。

長い沈黙の後、悠真が書類を閉じた。

「準備万端って感じだな。それほど私を憎んでるのか?骨までしゃぶりつくされそうだよ」

「憎んでる?」

凛は小さく首をかしげ、その言葉を考えるかのように少しだけ黙った。やがて、ゆっくりと首を横に振る。

「別に、憎んでるわけじゃないよ。ただ、3年かけてようやく一人の人間を見極められたんだって、そう思っただけ。代償は少し大きかったけど、まったくの無駄ってわけでもない。だって、少なくとも……もう二度と、同じ間違いを繰り返すことはないから」

凛は少しだけ視線を下げて、杏の膨らんだお腹を見つめる。

「それとも何?あなたにとっての『魂の伴侶』って、その程度の存在だったの?こんなわかりやすい俗世的なものよりも、大切にする価値がないってこと?もしそうだというのなら、私は遠藤さんを過大評価しすぎていたみたいね」

悠真の顔色が一気に険しくなった。

「凛!」悠真の低い声が響く。

「サインして」

凛は鞄からペンを取り出し、悠真の手に握らせた。

「サインすれば、あなたは自由になれる。本当に愛する人と子供を大切にしてあげて。それに、俗世にまみれた私が嫌だったんでしょ?」

悠真はペンと凛を交互に見つめる。以前なら、凛の瞳は情熱で溢れていたはずなのに、今は虚無しか残っていなかった。

胸の奥が、何か焼かれるような痛みに襲われる。

「サインはしない」この言葉が喉元まで出かかった瞬間、杏がすがるように自分の袖を引き、瞳を潤ませている姿が目に入った。

そうだ。自分がずっと待ちわびていたのは、この瞬間じゃないのか?

間違いだらけの結婚生活から抜け出し、本当に自分を理解してくれる彼女と一緒になる。

凛の提案を断る理由は、もはやどこにもない。

悠真はペンを強く握り、署名欄にサインをした。

押し付けられたペン先によって、紙が破れそうだ。そんな、悠真の確固たる決意を目にし、凛の心はナイフで突かれたように痛んだ。

サインを終えた悠真が、書類を凛の方へ突き返す。「これでいいだろ?これからは、杏を悲しませるようなことはするなよ」

凛は離婚協議書を手に取り、サインを注意深く確認すると、大切そうにバッグにしまった。

「後の手続きは、弁護士から連絡がいくと思うから」

凛はすべての感情を抑え込み、まるで取引のように、淡々とした口調で言った。

最後にもう一度だけ悠真と杏を一瞥し、軽く口角を上げて笑うと、ハイヒールの高い音を鳴らしながら振り返りもせずに病室を後にした。
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