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春の終わり、私はあなたを手放した

春の終わり、私はあなたを手放した

By:  半拍子Completed
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「私は魂の純度を求めている。だからこそ、私が相手に求めるものは、肉体ではなくイデアの領域なんだ。俗世にまみれた君は、その相手ではない」 大学教授の上杉悠真(うえすぎ ゆうま)が、初めて九条凛(くじょう りん)の告白を断った時のその声は、冷淡そのものだった。 凛の表情が一瞬にして強張る。しかし、すぐに笑顔を作り直して言った。「じゃあ、豪華な金縁の『恋愛哲学書』でもプレゼントしようか?」 「いらない。そんな低俗なもの」そう言うと、悠真は背を向けて去っていった。「これ以上、こんなくだらない事に時間を費やさない方がいい」 だが、簡単に諦める凛ではなかった。 高卒という肩書を持ちながらも、18歳で会社を興した凛。そんな彼女は、欲しいものは全て手に入れてきた。 寝る間も惜しんで哲学書を読み漁り、悠真の講義に通い詰めた。しかし、講義中に質問をした際、分かったふりをするな、と切り捨てられてしまった。 それでも、覚悟を決めた凛は、悠真の隙をついて、勢いよく背伸びをし、彼に口づけをしたのだった。

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Chapter 1

第1話

「私は魂の純度を求めている。だからこそ、私が相手に求めるものは、肉体ではなくイデアの領域なんだ。俗世にまみれた君は、その相手ではない」

大学教授の上杉悠真(うえすぎ ゆうま)が、初めて九条凛(くじょう りん)の告白を断った時のその声は、冷淡そのものだった。

凛の表情が一瞬にして強張る。しかし、すぐに笑顔を作り直して言った。「じゃあ、豪華な金縁の『恋愛哲学書』でもプレゼントしようか?」

「いらない。そんな低俗なもの」そう言うと、悠真は背を向けて去っていった。「これ以上、こんなくだらない事に時間を費やさない方がいい」

だが、簡単に諦める凛ではなかった。

高卒という肩書を持ちながらも、18歳で会社を興した凛。そんな彼女は、欲しいものは全て手に入れてきた。

寝る間も惜しんで哲学書を読み漁り、悠真の講義に通い詰めた。しかし、講義中に質問をした際、分かったふりをするな、と切り捨てられてしまった。

それでも、覚悟を決めた凛は、悠真の隙をついて、勢いよく背伸びをし、彼に口づけをしたのだった。

その瞬間、悠真は電気ショックでも受けたかのように、力いっぱい凛を突き放した。

凛は冷たい壁に叩きつけられ、ぶつかった肘がひりつくように痛む。

ハンカチを取り出し、力任せに口元を拭いながら、悠真は凛を睨みつけた。「凛。こんなこと二度とするな。吐き気がする」

「吐き気がする」その一言は、凛の心を凍らせるのには十分だった。

しかし、標的を定めれば、泥の中からでも這い上がり、一直線に突き進む、それが凛なのだ。

そんな中、ある事故が起きた。

その時、自分の危険も顧みず、炎の上がる車の中から悠真を救い出した凛の行動が、彼の心を動かし、念願の結婚を果たしたのだった。

だが、新婚初夜から彼女は一人きりだった。3年間、キスはおろか、同じベッドに入ることもなく、手さえ握ったことがなかった。

しかし、凛は自分に言い聞かせるしかなかった。悠真が望んでいるのは、全ての肉欲を排除した、精神的な愛なのだから、と。どちらにせよ、悠真が他の女に手を出すこともない。

肌の触れ合いがないということ以外は、とても魅力的で、優しい夫だった。

自分が残業で深夜遅くまで起きていると、悠真は家政婦に夜食を作らせ、書斎へ届けるように言ってくれたし、季節の変わり目に体調を崩しやすかった凛のために、前もって主治医に薬を用意させておいてくれたこともある。

何気なく話した宝飾品のことですら覚えていて、出張帰りにわざわざ買ってきてくれた。

日常に溢れる些細な優しさに、「きっと心の中では自分を大切に想っているはずだ」と凛は信じていた。

しかし、遠藤杏(えんどう あん)という悠真の教え子の登場によって、その淡い幻想は打ち砕かれる。

杏といる時の悠真の顔からはいつもの冷徹な面影が消え、凛が聞いたこともないほどの甘い声になっていた。

悠真は杏が彼に近づき、腕を組むことを許し、額にかかった髪を整えてやることまであった。

そこに、悠真が言っていた、しきたりや縄張りというものは、微塵も存在していなかった。

そして、規律を何よりも重んじていた悠真が、杏の研究を優先し、講義の時間になっても教室にいないなどということが何度も起こるという、前代未聞の事態になったのだ。

凛の心が、生まれて初めて木端微塵に砕け散る。

瞳を潤ませて悠真を問い詰めると、彼は不機嫌そうに眉を寄せた。「杏とは精神的な同志にすぎない。君のその低俗な考えで、私たちの関係を決めつけるな」

凛は杏にも一言言いに行ったのだが、その後1週間、悠真が家に帰ってくることはなく、弁明一つさえなかった。

やがて、杏が教授を誘惑し、不倫に発展したという噂がキャンパス中に広まると、自暴自棄になった杏は泣き叫び、自殺騒ぎを起こした。

真っ赤な目をした悠真が、凛の手首を骨が折れんばかりの力で掴みながら叫ぶ。「君がやったのか?」

悠真の取り乱す様子を見ても、凛は冷静だった。

「そうだよ」

悠真はさらに問い詰めた。一体どういうつもりなのだ、と。

凛はただこう答えた。「この結婚生活を蝕む害虫を駆除して、私のものを取り返そうと思っただけ」

「君のもの?」悠真はまるで、とんでもない冗談を聞いたかのように笑い出す。

「もし君が欲しいものがこれだと言うのなら……」悠真は自分自身を指さし、唇を震わせながら、一語一句絞り出した。「この命は、どうせあの時に無くなっていたものだ。君が欲しいと言うなら、くれてやる。だが、二度と杏には関わるなよ!」

その言葉を言い終わるや否や、悠真は車道へと飛び出していった。鈍い衝撃音が響く――

「悠真!」

凛は叫びながら駆け寄る。悠真が杏のために死すらも選んだという事実が信じられなかった。

救急車で病院に運ばれ、すぐに、手術室の赤く不気味なランプが点灯する。

冷たい廊下、悠真の血で手が真っ赤に染まった凛は、震えていた。

その時、目を真っ赤にして、顔中を涙で濡らた杏が駆けよってきた。

杏は凛の前まで来ると、力なくその場に崩れ落ち、凛の足にすがりつく。

「凛さん、お願いです。もう悠真さんを追い詰めないであげてください。悠真さんは、あなたといても幸せになれないんです!」

足をかなり強い力で揺さぶられるのとともに、凛の胸に激痛が走った。

杏は泣きじゃくりながら、一枚の検査結果を凛の目の前に突き出した。

「ゆ、悠真さんとの子供がいるんです。2ヶ月の……だから、お願いします。私たちの邪魔をしないでください……」

その検査結果は凛にとって雷鳴のごとき衝撃だった。その紙から、目が離せない。

以前、何度も悠真に「子供はどうする?」と尋ねたことを思い出す。そのたびに彼は冷めた表情で「必ず子供を産まなければならないなんてことはない」と言っていた。

しかし、どうやら違ったようだ。子供の必要性を感じていなかったのではなく、ただ、自分との間に欲しくなかっただけなのだ。

何が魂の純度だ?何がイデアの領域だ?

ただ、自分に欲が湧かなかっただけのくせに。

自分は悠真への執着のあまり、いつの間にか自分を完全に失ってしまっていた。

杏の泣き声と、手にした一枚の紙きれ。たった一枚の紙なのに、胸にのしかかる重さは計り知れない。それはまるで冷たい金槌のように、凛が自分を騙し続けてきた薄い殻も、すでに傷だらけだった心も、容赦なく打ち砕いた。

凛は杏の手を振り払うと、決意を固めたような背中で、病院の冷たいタイルの上を踏みしめながら、エレベーターへと向かって歩いていった。

病院を出ると、凛はすぐに弁護士に電話をかけた。

「離婚の書類の準備をお願いできますか?悠真に何も残らないように、離婚したいんです。

それと、彼の学校の研究費が出ているプロジェクト、全て停止させてください」
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第1話
「私は魂の純度を求めている。だからこそ、私が相手に求めるものは、肉体ではなくイデアの領域なんだ。俗世にまみれた君は、その相手ではない」大学教授の上杉悠真(うえすぎ ゆうま)が、初めて九条凛(くじょう りん)の告白を断った時のその声は、冷淡そのものだった。凛の表情が一瞬にして強張る。しかし、すぐに笑顔を作り直して言った。「じゃあ、豪華な金縁の『恋愛哲学書』でもプレゼントしようか?」「いらない。そんな低俗なもの」そう言うと、悠真は背を向けて去っていった。「これ以上、こんなくだらない事に時間を費やさない方がいい」だが、簡単に諦める凛ではなかった。高卒という肩書を持ちながらも、18歳で会社を興した凛。そんな彼女は、欲しいものは全て手に入れてきた。寝る間も惜しんで哲学書を読み漁り、悠真の講義に通い詰めた。しかし、講義中に質問をした際、分かったふりをするな、と切り捨てられてしまった。それでも、覚悟を決めた凛は、悠真の隙をついて、勢いよく背伸びをし、彼に口づけをしたのだった。その瞬間、悠真は電気ショックでも受けたかのように、力いっぱい凛を突き放した。凛は冷たい壁に叩きつけられ、ぶつかった肘がひりつくように痛む。ハンカチを取り出し、力任せに口元を拭いながら、悠真は凛を睨みつけた。「凛。こんなこと二度とするな。吐き気がする」「吐き気がする」その一言は、凛の心を凍らせるのには十分だった。しかし、標的を定めれば、泥の中からでも這い上がり、一直線に突き進む、それが凛なのだ。そんな中、ある事故が起きた。その時、自分の危険も顧みず、炎の上がる車の中から悠真を救い出した凛の行動が、彼の心を動かし、念願の結婚を果たしたのだった。だが、新婚初夜から彼女は一人きりだった。3年間、キスはおろか、同じベッドに入ることもなく、手さえ握ったことがなかった。しかし、凛は自分に言い聞かせるしかなかった。悠真が望んでいるのは、全ての肉欲を排除した、精神的な愛なのだから、と。どちらにせよ、悠真が他の女に手を出すこともない。肌の触れ合いがないということ以外は、とても魅力的で、優しい夫だった。自分が残業で深夜遅くまで起きていると、悠真は家政婦に夜食を作らせ、書斎へ届けるように言ってくれたし、季節の変わり目に体調を崩しやすかった凛のために、前もって主治
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第2話
その後、凛が病院へ足を運ぶことは一度も無かった。家中の家具をほとんど売り払った今、広い部屋はとてもがらんとしている。それはまるで、形はあっても、中身は何一つとして残らない、凛と悠真の結婚生活のようだった。凛から悠真の状況を尋ねることはなかったし、悠真からも一切連絡は来なかった。それでも、悠真に関する情報はなぜか色々な方面から耳に入ってきた。一命を取り留めた悠真は、特別室へと移されたらしい。付きっきりで看病をし、身の回りの世話を焼いている杏の姿は、まるで本当の妻のようだとも言われていた。悠真の同僚や学生たちは杏の健気さを褒めちぎり、こんなにも優しくて尽くしてくれる生徒を恋人にした悠真は幸せ者だ口々に言う。悠真の親族までが杏を絶賛し、凛よりも杏の方が悠真にふさわしいと言っていた。そうした言葉が、ナイフのように凛の心を切り裂いた。だが、凛には悲しむ力さえも、もう残ってはいなかった。しかし、凛が杏のインスタをブロックすることはなかった。悠真があらゆる信念を捨ててまで、選んだこの女が、一体どんな人物なのかを見てみたかったのかもしれないし、悠真が命をかけてまで、自分を捨てる理由が知りたかったのかもしれない。このところ、杏のインスタ更新の頻度は、かなり多かった。意識が戻った悠真の手を握って涙ぐむ写真には、【無事でよかった。これからはずっとそばにいるからね】というコメント。手料理を差し入れては、【早く元気になってね。ずっと一緒だよ】と綴る。病室で笑い合う二人のツーショット。そこには、凛には見せたこともない優しい眼差しの悠真。さらには、【運命の二人は、結局結ばれるもの】という文字が踊っていた。杏の幸せそうな文章と、悠真の優しい笑顔を見て、凛の胸は息が止まるほどの激痛と冷たさに包まれた。この3年間、凛は悠真のために自分を殺してきた。昔の凛は、明るく奔放で、自分の意見をはっきりと言う性格だった。しかし結婚後は、悠真の顔色を伺いながら遠慮がちに過ごし、自分の個性すら隠して、彼の好みに合わせようとした。好物だった味の濃い料理もやめ、悠真に合わせて薄味の食事を作った。クローゼットの中の鮮やかな服だってすべて捨て、悠真の好きな地味でシンプルな服を身に纏った。友人の誘いもすべて断り、たとえ悠真が深夜になろうとも、帰って
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第3話
病院を後にした凛は、そのまま会社へと向かった。忙しさの中に自分を置かなければ、悠真と杏がこれから幸せになるとを思うだけで、胸が押しつぶされそうだったのだ。この3年間、悠真の些細な言動によって、心はいつも振り回されてきた。自分を一喜一憂させる、何気ない言葉や、ふとした視線。まるで操り人形のように、悠真の言動一つで、自分の考えや魂を失っていた気がする。凛は重くなる頭を揉みほぐしながら、苦いコーヒーを流し込み、自分を奮い立たせた。もう過去の傷に縛られていてはいけない。自分を奮い立たせるのだと、心に誓う。離婚を決めた時から、会社を海外へ移転させ、新しい環境で心機一転、市場を広げていく計画を立てていた。だから、寝る間も惜しんで働いていたのだが、深夜一人きりになった時、言いようのない孤独と悲壮感に襲われた。悠真はいつも「金のことばかりで、中身がない」と自分を下げずんでいた。しかし、本当は凛が彼に追いつきたくて、必死で走り続けてきたことを、悠真は知らない。学歴がないならせめて資格をと、金融の勉強を重ね、自力で海外の大学での学位まで取得した。結婚記念日に、そんな自分の成長を伝えれば、少しは自分を見直してくれるのではないかと期待していた。しかし、今となってはもう必要のないこと。深夜2時過ぎ、疲れ果てて背伸びをした凛は、ふと薬指にはめたシルバーの指輪に触れた。これは悠真がくれた、たった一つのプレゼントだった。本当は自分でペアリングを作ろうと思っていたところに、悠真がこれをくれたことを今でも鮮明に覚えている。何より大切なものとして、3年間ずっと外すことなく身につけていた。会いたい時、喧嘩して悲しい時、いつもその指輪に触れては自分を慰め、悠真に寄り添い続けようとしていたのだ。指輪の裏には、こっそり彫った小さな「悠真」という刻印がある。凛は指輪をそっと外すと、最後にもう一度だけそれを見つめてから、迷わずゴミ箱へ捨てた。その瞬間、深夜の静寂が破られ、社長室のドアが激しい音とともに蹴り開けられた。そこに立っていたのは、怒りで顔を真っ赤に染めた悠真だった。「凛、一体何を考えているんだ?」「あら。こんな時間に、他人の仕事場へ勝手に踏み込んでくるなんて、少し失礼なんじゃない?」凛を今にも噛み殺しそうな目つき
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第4話
掲示板のタイトルが、目に飛び込んでくる。【資産家・九条凛、離縁の腹いせに学生を逆恨み。嫉妬心からかデマを流し、権力で退学へ追い込む】投稿にはいくつものスクリーンショットが貼られていた。杏が病院で凛に縋り付いている画質の荒い写真、凛が大学へ杏を問い詰めに行ったときの監視カメラの映像、そして文脈を故意的に切り取ったであろうラインのやり取り。それらは、凛を心が狭く、財力で人を追い詰める卑劣な女として仕立て上げていた。背筋に冷たいものが走る。全ては悠真が裏で手を引いているのだと、凛は即座に悟った。ネットで流出している会社内部の品質管理資料は、半年前に凛が自宅に持ち帰りチェックしていたも。当時、3日3晩徹夜し、疲れ果てていた凛は、悠真に甘えるようにして「もう限界だ」と愚痴を漏らしたことがあった。しかし、その時の悠真は冷めた視線を向けるだけで、労いの言葉すらかけてくれず、そそくさと書斎へ戻っていった。「広報部から否定声明は出した?」凛の声は、震えていた。「出しました。しかし、全くもって効果がありません。コメント欄はサクラばかりなうえに、インフルエンサーまで投稿を拡散してしまっていて……今はネット全体から叩かれていて、取引先からも契約の停止や様子見の連絡が次々と入ってきています。社長、どうしましょう?」凛は息を大きく吸い込み、なんとか冷静さを取り戻そうとする。携帯を手に取り、悠真の番号を探した。指先を震わせながら発信ボタンを押すが、受話器からは冷徹な機械音声が流れるだけだった。連絡手段のすべてを、悠真に断たれていた。怒りと悲しみが入り混じり、内臓が焼け付くように痛む。椅子に掛けていたコートを掴み、凛は社長室を飛び出した。「悠真の大学へ行ってくる」大学のホールでは、寄付記念式典が盛大に行われていた。大きな垂れ幕が下がり、会場は学校関係者や学生たちで人が溢れかえっている。ステージ中央では、スーツ姿の悠真にスポットライトが当たり、彼がマイクに向かって話をしていた。杏は橙色のロングドレス姿で悠真の傍らに立ち、花束を抱えて、聴衆の羨望の眼差しを一身に浴びている。ステージ上のスクリーンには、【上杉グループより本校へ2億円の寄付。遠藤杏さんの研究プロジェクトへ特別助成】という文字が躍っていた。悠真は家の資金を使って
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第5話
7日間の拘留を終え、凛は釈放された。初春の冷たい風が、刺すように顔に吹きつける。外では既に陽菜が待っていてくれて、凛が姿を見せるとすぐに駆け寄ってきて上着を手渡した。凛は上着をしっかりと羽織り、枯れた声で告げた。「二つお願いしたいことがあるの。まずは、私名義の不動産は全て売却に出して。価格は気にしなくて良いから、一刻も早く現金化することを優先してほしい。それから、会社の資産を海外に移す手はずを整えて。一刻も早くここから離れたいの」上杉家がどのような手段を使ってくるか、凛は嫌というほど理解していた。今回の拘留など始まりに過ぎず、今後も、彼らは簡単に自分を逃がしたりはしないだろう。その後も、凛は会社に寝泊まりしてなんとか事態を収めようとしていたが、経営状況は悪化の一途をたどるばかりだった。取引先からは次々と契約を打ち切られ、銀行融資も止まり、物流網さえも遮断されてしまった。全て上杉家が裏で手を引いていることは明白だった。上杉家による攻撃に対応しながら、資産整理と海外渡航の手続きを進める日々で、凛は見る影もなく痩せ細り、目の下には消えない隈ができていた。それでも、歯を食いしばって持ちこたえた。今や会社は凛にとっての全てだった。10年の歳月を注ぎ込んだ、人生そのものと言える場所。これだけは、何があっても手放せない。そんな極限状態の中、血相を変えた陽菜が社長室に駆け込んできて、凛に携帯を差し出した。「社長!社長のSNSアカウントから、上杉教授と遠藤さんのことが次々投稿されています!しかも、遠藤さんのプライベートなことまで、全部……」凛の心臓がどくんと跳ねる。急いで自分の携帯を取り出し確認しようとしたが、アカウントが既に何者かに乗っ取られ、ログインできなかった。トレンド欄は【#上杉凛、遠藤杏の過去を暴露】というハッシュタグでいっぱいだ。勝手に投稿された内容には、杏の略奪婚や研究の不正の詳細、さらには大学生時代の水商売に関する写真や動画まで網羅されていた。杏の素行調査を行っていたことは事実だが、こんな投稿をした覚えはない。その投稿から間もなくして、悠真が杏を擁護する長文を公開する。悠真は彼自身を被害者だと主張していた。ストーカーまがいのアプローチを受け、結婚は偽の事故による強制されたものだとし、結婚後は歪んだ支配を受
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第6話
男の言葉は悠真の胸を鋭くえぐった。鍵を握りしめた手の節は白くなり、信じられないという目で男を見つめ返す。「海外?凛がどこへ行くって言うんだ?」「知るかよ」男は悠真の態度にいらつき、一度鼻で笑うとドアを閉めた。重たいドアの音が廊下に響き渡り、悠真は言いようのない不安に襲われた。その場に呆然と立ち尽くしていたが、はっと我に返った悠真は慌てて携帯を取り出し、凛へ電話をかけようとした。その時になってようやく、凛をずっと着信拒否していたことを思い出す。胸が締め付けられ、焦りながら急いで着信拒否を解除した。呼び出しボタンを押したが、耳に届いたのは冷たい「おかけになった電話は、電波の届かない場所に……」という機械音声だけだった。もう一度かけたが、結果は同じ。悠真はもう一度戻ってドアを叩き、凛の連絡先を知らないかその男に詰め寄った。男は顔を突き出し、冷たく言い放った。「俺は不動産会社を通してこの家を借りただけだよ!前の住人のことなんて知るか!」そう言うと、ドアを閉め、中からはチェーンを閉める音が聞こえてきた。諦めきれない悠真は車を飛ばし、直接不動産屋へ向かって凛の行き先を尋ねた。しかし、記録を確認した仲介業者は首を振った。「お客様は銀行口座の情報を残しただけで、書類にサインしたらすぐに立ち去ってしまったようです。連絡は不要で、売却金だけ振り込んでくれればいい、と……」立て続けの空振りに、形容し難い動揺が悠真を包み込む。凛が黙って消えるような人間だとは思えなかった。凛は芯の強い人間だ。どん底から這い上がって成功を掴んだ。そんな奴が、会社を上杉家に潰されて、精神病院に入れられた今、黙って指を咥えているだけの訳がない。騒ぎ立ててもいい、憎んでもいい、彼に説明を求めてもいい。それが彼女のはずだった。なのに彼女は、何の音も立てずに消えてしまった。まるで、この街に最初から存在していなかったかのように。それに、凛には頼れる身内もいない。海市以外に、行く当てなんてあるはずがなかった。携帯を握りしめ、画面上の凛の名前を指でなぞる。どこを探せばいいのか見当もつかない焦燥感の中、凛の昔の職場へ行こうとした時、杏から着信があった。電話越しの杏の声は甘く、か細い。「悠真さん、今どこにいるの?お腹が少し張って腰も痛いの。だから、いつ帰って
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第7話
杏は書斎のドアの前で、目を真っ赤にしながら洋服の裾を握りしめ、声を震わせて言った。「悠真さん……もしかしてまだ、凛さんのことを忘れていないの?」悠真は胸が締めつけられ、反射的に否定した。「そんなわけないだろ?凛のことなんて愛したことはない。あれは間違った結婚だったんだから。もう終わったことだし、今は君と幸せになることだけを考えているよ」悠真は杏から目を逸らし、自分に言い聞かせるように、わざと強い口調で言った。「それなら、どうして私と籍を入れてくれないの?」杏の目から涙がこぼれ、頬を伝った。悠真は眉をひそめて抱き寄せようとしたが、杏はそっとそれを突き放した。悲しそうな杏の顔を見ると、杏がお腹に自分の子を宿していること、そして流産の危機を二度も乗り越えてきたことを思い出し、悠真は胸を締めつけられた。「籍を入れたくないわけじゃないんだ」と、悠真は声を和らげ、杏の涙を拭った。「ただ、ここ最近は少し忙しんだ。だから考えすぎないで。明日、すぐに入籍しよう、な?」杏は不安げな目で悠真を見上げた。「本当?」「ああ、本当さ」悠真は大きく頷いた。その夜、彼は杏をまるで子供をあやすように、優しく宥めた。二人の未来について話し、必ず幸せにすると誓った。ようやく落ち着いた杏が胸の中で眠るまで、悠真はずっと寄り添っていた。しかし、眠れぬ夜を過ごしたのは悠真自身だった。凛が去っていく姿が頭から離れず、突き放された背中の記憶が、刺のように心を重くさせた。翌朝、杏は淡いブルーのワンピースを着ると、軽く化粧をして準備を整えた。期待に目を輝かせながら、悠真の出発を待っている。出かけようとドアに近づくとチャイムが鳴った。ドアを開けると、そこには梓が立っていた。梓は仕立てのいいスーツで、冷めた目つきで杏を見た。膨らんだお腹に一瞬視線を留めると、淡々と言い放つ。「杏を健診に連れて行くから」言葉を失った杏は、とっさに悠真を振り返る。悠真も戸惑った様子だった。「母さん、先週検診に行ったばかりだろ?」「あれはただの定期健診。今回は違うわ」梓の口調は有無を言わせないものだった。彼女は杏へ鋭い視線を向けた。「もう妊娠4ヶ月でしょ?だったら、羊水検査をしなきゃ」悠真は眉をひそめた。「羊水検査にはリスクがある。それに、異常がなければ、医者からは
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第8話
ベランダから漏れ聞こえてくる囁き声が、悠真の鼓膜に突き刺さる。全身の血が凍りつくのを感じた。杏の声には、隠しきれない焦り、さらには懇願するような響きすら混じっていた。「本当に怖いの。彼のお母さんは最初から私を疑っていて、昨日なんてDNA鑑定まで強要されたんだから。もしものことがあったら……」電話の相手が何かを言ったようで、杏はしばし黙り込んだ。しかし、すぐに切迫した様子で続けた。「悠真さんには知られてないはず!だから、安心して。あの女のアカウントで書き込みをした件は、完璧にやったから。IPアドレスもちゃんとあの女のオフィスに設定したから、すべての痕跡が彼女がやったって言っているようなもの。それに今、悠真さんは彼女を心から憎んでいる。もし仮に私が水商売で体を売っていたなんて証拠が出てきたとしても、悠真さんはあの女による嫌がらせだと決めつけて、私を疑うことは絶対にない」悠真の頭の中は、キーンという音と共に真っ白になった。あの当時、杏を陥れたとされる投稿は、本当に凛の仕業ではなく、すべては杏が自作自演したものだったのだ。凛を貶めることで自分の汚い部分を隠し、同時に凛への憎しみを深めさせるという、なんとも汚い企みだ。真実を見抜いていたと思っていたのは自分だけで、実は最初から最後まで杏の手のひらの上で踊らされていたなんて。「あなたが、子供は間違いなく悠真さんの子だって言ったから、中絶しなかったんだよ!」思わず声を張り上げてしまった杏だったが、すぐに声を落とす。「明日あなたのところで、羊水検査を受けるから。もし悠真さんの子じゃなかったら、すぐに堕すしかない。他の男の子供を産むわけにはいかないもの」その後の言葉は耳に入らなかった。ただ視界が激しく揺れ、衝撃と怒り、そして形容しがたい屈辱で胸がいっぱいになった。ずっと自分が守り続けてきた魂の伴侶。しかし、あの優しくて清純無垢だった姿は、すべて作り物だったのか。杏が通話を終えたので、悠真は何事もなかったかのようにベットへ戻った。しかし目を閉じても、脳内は混乱していた。まもなくするとベッドがわずかに沈んだ。戻ってきた杏が体を寄せて、そっと腕に手を重ねてきた。悠真は体を強張らせ、身じろぎひとつしなかった。傍らから静かな寝息が聞こえてから、ゆっくりと目を開ける。暗闇の中で杏の輪郭を見つ
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第9話
古びた診療所の狭い室内を舐めるように、悠真の視線動いた。壁は黄色く汚れ、隅には医療廃棄物が乱雑に積まれていて、異臭が鼻を突く。秘書から報告された資料の内容と、何もかも一致していた。ここは杏のような女たちが、中絶手術を行ったりや他人に知られたくない検査を受けるための裏の場所だった。悠真は目を背け、震え上がる医師と看護師を見据えて問い詰めた。「先ほどは、一体どんな検査を?結果は?どうでしたか?」医師の顔からは瞬時に血の気が引き、カルテを抱えた手が小刻みに震えている。「あ、あの、通常の産婦人科検査をしただけで、他には……」「通常の検査?」悠真は嘲笑した。その瞳は刃のように鋭い。「こんなところで検査をする人がいるとでも?」状況を悟った杏は、慌てて割って入った。「悠真さん、誤解しないで。ここは空いてたから……わざわざ混んでいる大きな病院に行きたくなくて」「そうか?」悠真は冷たく杏の言葉を遮り、さらに追い詰める。「なら教えてくれ。ここの先生に、今まで何回堕ろしてもらったんだ?」「そんなことない!」杏の顔はみるみる青ざめた。反射的に後ずさり、目は泳いでいる。「何を言ってるのか分かんないよ」「分からない?」悠真は携帯を取り出し、秘書が送ってきた資料の画面を杏に向けた。その声は平坦だったが、ゾッとするような殺気を孕んでいる。「大学に入学した時から、君は夜の店で働いていたんだってな。源氏名は『アン』だっけか?店で一番人気の嬢として、かなりの額を稼いでいたんだろ?私に近づいてからは綺麗に隠していたつもりらしいが、私が調べたらこんなことだったよ。何か違うことでもあるか?」杏は足の力が抜け、その場に崩れ落ちた。溢れ出す涙を止められず、何も言い返すことができない。消し去ろうとしていた汚れた過去。隠し通せたと信じていたのに。全て悠真に知られていた。崩れ泣く姿を眺めても、悠真の心には微塵も同情の気持ちは湧かなかった。あるのは憤りと、言いようのない吐き気だけ。秘書からの報告を思い出す。「凛さんも以前、遠藤さんについて調べていたようです。その資料のデータと、今回調べた結果も一致しました」凛は、最初から知っていたのか。杏がどんな女か、自分に近づいた本当の狙いは何か。自分がずっとピエロのように騙されていたことを、凛は知っていたのだ。そ
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第10話
杏はマンションの一室に閉じ込められていた。監視するボディーガードたちは表情ひとつ変えず、杏が何を言おうと無視を決め込んでいた。どれだけ懇願しても、悠真は姿を見せず、部屋から一歩も外に出させてはくれない。杏にとって一日が永遠のように長く感じられた。不安と恐怖に苛まれる。子供が悠真の子だと証明される結果を心待ちにする一方で、もし結果が悪ければ、自分に残された唯一の希望も消えてしまうという恐怖も同時に抱えていた。翌日の午後、マンションの扉が開き、梓が現れた。杏はわらにもすがる思いでソファーから這い出し、梓の足元へ駆け寄って涙ながらにすがった。「お願いです。悠真さんに言ってください……この子は間違いなく悠真さんの子供なんです。お付き合いしてからは、本当に真面目に生きてきたんです!」「真面目に?」梓は鼻で笑うと、嫌悪感を露わにして一歩下がり、杏を避けた。「水商売の女が何を言っているの?凛よりもあなたの方が良いなんて勘違いしていた自分が情けないわ」梓は表情を変え、逆恨みのような口調で続けた。「そもそも全部凛のせいだわ。最初からあなたの正体を知っていながらも黙っていたなんて。上杉家を笑いものにして、悠真が騙され続けているのを見ているだけとはね」杏はすぐさま床に膝をつき、梓の足にしがみついた。「私が悪かったんです。これからは何でもしますから。悠真さんにも尽くします。だから、お願いです。もう一度だけチャンスをください。この子を産ませてください!」「産む?」梓は容赦なく杏を蹴り飛ばした。床に転がり落ちた杏を見下ろし、「あなたみたいな汚らわしい女が、上杉家の子供を産もうだって?寝言は寝てから言ってちょうだい」杏が立ち上がる間もなく、梓が連れてきた男たちに杏は両脇を抱え上げられた。「何するんですか!離してください!こんなことしたら、悠真さんが許しませんよ!」杏は必死に暴れ、悠真の名を叫び続けたが、そのまま強引にマンションから引きずり出され、車の中に押し込まれた。眩しい手術室のライトの中、冷たい出産台に横たわりながら、腹部の激痛と涙を必死にこらえる杏。その涙は、最後の一筋の望みさえ、絶望に変わったことを悟ったものだった。どれくらい時間が経っただろうか、意識を取り戻した杏は病室へ戻っていた。目が覚めるとすぐそばに悠真が
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