LOGIN「私は魂の純度を求めている。だからこそ、私が相手に求めるものは、肉体ではなくイデアの領域なんだ。俗世にまみれた君は、その相手ではない」 大学教授の上杉悠真(うえすぎ ゆうま)が、初めて九条凛(くじょう りん)の告白を断った時のその声は、冷淡そのものだった。 凛の表情が一瞬にして強張る。しかし、すぐに笑顔を作り直して言った。「じゃあ、豪華な金縁の『恋愛哲学書』でもプレゼントしようか?」 「いらない。そんな低俗なもの」そう言うと、悠真は背を向けて去っていった。「これ以上、こんなくだらない事に時間を費やさない方がいい」 だが、簡単に諦める凛ではなかった。 高卒という肩書を持ちながらも、18歳で会社を興した凛。そんな彼女は、欲しいものは全て手に入れてきた。 寝る間も惜しんで哲学書を読み漁り、悠真の講義に通い詰めた。しかし、講義中に質問をした際、分かったふりをするな、と切り捨てられてしまった。 それでも、覚悟を決めた凛は、悠真の隙をついて、勢いよく背伸びをし、彼に口づけをしたのだった。
View More凛は、足元で自分のズボンの裾をつかんでいる人物を見下ろした。だが一瞬、それが誰なのか、すぐには分からなかった。目の前にいた男の髪は汚れで束になり、顔は泥と傷だらけ。古びて色褪せたジャケットを羽織って入るが、短く切られた足を引きずる姿は、無惨そのものだった。急げに痩せたのだろう。頬は痩せこけ、肌は土色をしている。かつての温和で堂々とした姿など、微塵も残っていなかった。外に出てきた自分を見つけ興奮し、近くの車椅子から転がり落ちても、痛みになど構わず、ここまで這ってきたのだろう。「凛……凛……」悠真の掠れた声は、まるでヤスリで擦ったように酷い音だった。濁った目を血走らせ、一心不乱に凛の名前を呼び続けている。「すまない……凛、私が悪かった……本当に後悔しているんだ……」悠真は必死の形相で凛のズボンに縋り付き、それがまるで命綱であるかのように、指を食い込ませて離そうとしない。その光景を見た慎也は表情を凍らせ、一歩踏み出すと悠真の手を無造作に蹴り飛ばした。氷のような冷たい瞳で吐き捨てる。「触らないでください!」地面に叩きつけられた悠真は呻き声を上げたが、それでも執拗に這い寄ろうとする。「凛、お願いだ……もう一度だけチャンスをくれ……償いがしたいんだ……」凛は慎也が再び手を上げるのを制し、ゆっくりと腰を落として悠真の目線に合わせた。凛の表情はまるで氷のように冷たく、それは見ず知らずの他人に向けられているかのように、淡々としたものだった。「悠真」その声は低く、そして温度がなかった。「誰かに足蹴にされる気分はどう?」悠真の体は大きく震えると、すべての力が抜け切ったかのようにその場にうずくまって動かなくなった。しばらくして悠真がゆっくりと頭をあげた時、濁った瞳には絶望の色が浮かんでいた。「すべて……君がやったことなのか?」「そうだよ」凛は表情を一切変えず、淡々とした声で答えた。「あなたが昔、私にしたことを、ただお返ししているだけだよ」あのとき、この男に自分は泥の中で踏みつけられ、屈辱の限りを味わった。だから今度は、この男に味わってもらう。世界中から見捨てられるということが、どんなものかを……それに、この男によって会社を潰され、逃げ場もないところまで追い詰められた。だから今度はこっちが、上杉グループを完全に破産さ
上杉家の人間が事態が飲み込めないでいる中、凛と慎也が再び動く。上杉グループの資金源は完全に断たれ、協力関係にあった企業までもが上杉グループに対して損害賠償を求めて訴訟を起こしたのだ。一晩にして、上杉グループの資金繰りは破綻した。栄華を極めた巨大なグループ企業は、あっという間に破産寸前まで追い込まれた。追い詰められた上杉家の人間たちはもうどうすることもできなかったので、買収合意書にサインをした。凛が上杉グループの実権を握って最初に行ったことは、上杉家に関係するすべての人間を一掃することだった。かつてグループを盾に幅を利かせていた親戚たちも全員、会社から追い出した。それだけでなく、上杉家の資産や不動産もすべて没収した。街で飛ぶ鳥を落とす勢いだった上杉家は一気に没落し、人々の憐れみの的となった。そして、すでに上杉家に見捨てられていた元後継者の悠真の暮らしは、目も当てられないほど凄惨なものだった。財源を失ったうえ、両足が不自由で働けないため、わずかな生活費だけで生き延びていた。市街地郊外の今にも潰れそうなアパートで一日中死んだように暮らし、まともな生活も送れない状態だった。凛が上杉グループに正式に就任した日、街中はそのニュースで溢れかえった。面白半分のメディアが、2年前の出来事をわざわざ掘り返し、凛の評判を落とそうとした。不正な手段でのし上がっただの、冷酷で手段を選ばない女だのと吹聴する。ただ彼女の失敗を笑いものにしたいという理由だけで。だが彼らの期待を裏切り、慎也が即座にSNSですべての確証となる証拠を公表した。そこには杏の証言や、上杉家による会社つぶしの証拠、悠真が凛を精神病院へ送り込んだ記録、そして梓がかつて凛を脅した時の録音が含まれていた。すべての真実が白日の下にさらされ、ネット民はようやく凛こそが真の被害者だったと理解した。悠真と杏の現在を知った人たちは、「当然の報い」だと言い合った。しかし、まだ慎也が公表した証拠の信憑性を、凛を擁護するためではないかと言って、疑う者も少しいた。それらの疑惑に対し、慎也は自分と凛の親密なツーショット写真を投稿した。【凛は俺の彼女だから、凛を信じているし、これからもずっと彼女の味方だ】と。その写真は一気に話題を呼び、凛が海外へ渡り起業して慎也と出会い、互いに支え合いながら高
それからの1か月間、上杉グループは突如として、立て続けに不祥事に見舞われた。長年付き合いのあった主要な顧客たちが突然取引をやめ、会社の中心的だったプロジェクトには深刻な技術問題が発生し、続けることができなくなったため、甚大な被害を被った。株式市場でも上杉グループの株価は下落の一途をたどり、わずか数日で数百億円の時価総額が消し飛んだ。上杉家の人々は皆、手をこまねいて打開策を探したが、足掻けば足掻くほど見えない網に締め付けられるようだった。資金繰りはすぐに行き詰まり、銀行からは督促の電話が鳴り止まず、取引先からも次々と代金の支払いを求められた。追い詰められた上杉家は、窮地を脱するために必死で出資してくれる先を探し回った。だが、投資機関を全て回っても断られるか、受け入れがたい過酷な条件を突きつけられるかのどちらかだった。絶望の淵に立たされた時、誰かが上杉家にこう言った。慎也の投資会社が今国内で大きな動きを見せており、潤沢な資金を持っている。もしかしたら、それが唯一の希望かもしれない、と。梓はそれを聞くと、すぐにプライドを捨てて自ら慎也の会社に連絡し、融資交渉を申し入れた。慎也は海外の投資家に過ぎず、上杉家と何のわだかまりもないのだから、適切な条件さえ出せば必ず融資を受けられると、梓は思っていた。交渉当日、上杉家の人々は約束のホテルの会議室に早々と到着していた。スーツに身を包み、平静を装ってはいたが、瞳の奥に宿る焦燥と不安までは隠しきれていなかった。梓は上座の席に座り、どうやって慎也と交渉を進めるか考えていた。だが、会議室のドアが開かれ、仕立ての良い白いスーツにハイヒール姿の凛が入ってくると、梓の顔からは一瞬にして血の気が引き、幽霊でも見たかのように青ざめた。「凛?どうしてあなたがここにいるの?」梓は思わず立ち上がり、信じられないものを見るような目で鋭く叫んだ。凛は梓を一瞥すると、そのまま上座の席へ歩み寄り、書類を机に置いた。「お久しぶりです。山田社長は多忙のため、今回の融資交渉の全権は私が委任されました」と淡々と言い放つ。上杉家の人々は互いに顔を見合わせ、自分たちが最初から凛と慎也の罠にはまっていたことを理解した。正気に戻った梓は、顔を青白くしながら唇を振るわせた。「凛、やりすぎよ!上杉家が一体何をしたっ
病院から出ると、慎也がすぐに出迎えてくれた。「凛、大丈夫か?何もされてないよな?」凛は首を振り、少し疲れが浮かんだ顔で笑った。「平気だよ。心配かけてごめんね」「無事ならそれでいい」慎也はほっとため息をつくと、そっと凛の肩を抱き寄せた。「もう二度とこんな危ないことはしないでね?こっちの心臓がもたないから」凛は慎也の胸に身を預け、小さく頷いた。「分かってる、もう二度としないよ」悠真とのいざこざも、これで終わり。帰国直後の凛を、杏がつけまわし始めたことは、すぐに凛の側近たちが気付いていた。周囲を警戒していた凛は、すぐに杏の現状を調べさせた。そして、杏が大学を中退後、元の水商売に戻り、極貧生活の中で悠真や自分への恨みを募らせていることを知った時、凛は杏が追い詰められて極端な行動に出るだろうと予感していた。そこで凛は杏を泳がせることにした。すると、ストーカー行為だけでなく、常に悠真の会社や住まいの付近をうろついていることが分かった。凛は分かっていた。杏が復讐を企んでいること、そして自分がその手を利用できることを。あの日、悠真が現れた時、少し離れた場所に停められた車に凛はすぐ気が付いた。悠真に道を塞がれた際、すぐに警備員を呼ばず、わざと悠真と杏から見える位置に立ち続けた。杏の衝動と憎しみに賭けたのだ。この二人まとめて復讐できるチャンスを、杏が逃すはずがないと。結果として、凛の賭けは当たった。杏が車で突っ込んできた時、悠真が自分を突き飛ばしたのは、唯一の計算外だった。怖くなかったと言えば嘘になる。しかし、仮に悠真が突き飛ばさなくても、最後の一秒で彼を突き飛ばして身代わりにさせる準備はできていた。杏は殺人未遂の罪で起訴され、懲役10年の実刑判決を受けた。悠真は一命を取り留めたものの、半身不随となり、梓の態度は一変した。自分の息子にあんな期待していた母親だったのに、今では悠真を見る目に嫌悪と軽蔑しか残っていなかった。上杉家は利益至上主義なのだ。足も使えず、利用価値もなくなった継承者は、もう必要とされていない。それからまもなくして、悠真は家を追い出され、御曹司の立場を失った。微々たる生活費が毎月振り込まれるだけで、毎日を細々と暮らし、二度と一族の邸宅へ戻ることは許されなかった。それでも悠真は諦めず、