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第9話

Auteur: トフィー
離婚届受理証明書の八文字が、瞬時に直樹の目に飛び込んできた。

彼の心臓は一瞬、止まったかのように凍りついた。証明書を握る手は止めようもなく震えている。

「仁美、今度はどんな小細工を弄するつもりだ」

だがすぐに冷静さを取り戻し、唇の端を皮肉げに吊り上げた。

「退職したいなら勝手にさせろ。誰も探すな。数日もすれば、彼女の方から泣いて戻ってくる」

結局のところ、これまでずっと仁美は自分に頼らなければ京市で立場を保てなかったのだ。

直樹は彼女が本当に離れていくなどとは、欠片も恐れていなかった。

彼は離婚届受理証明書も退職願もゴミ箱へと投げ入れた。

代わりの人材がすぐには見つからず、直樹はやむなく自らベラリンへ赴き、舞を連れて行った。

ベラリンでの滞在は、彼女を徹底的に甘やかした。

彼女が八分焼きステーキが食べたいと言えば、シェフの作るものが口に合わないと心配で自ら厨房に立った。

宝石のネックレスが欲しいと言えば、オークションで迷うことなく競り落とした。

断崖にのみ咲く花が欲しいと言えば、命の危険を冒してでもそれを摘みに行った。

誕生日の夜には広場の大スクリーンを貸し切り、彼からの祝福メッセージを九百九十九通、ひとつも重ならぬ言葉で映し出した。

夜更けまで遊び尽くし、ようやくホテルに戻る。

舞は驚きがあると先にシャワー室へ行った。

直樹はベッドに腰掛け、無意識に真っ黒な画面のスマホに目をやった。

仁美からの連絡がもう一週間もない。

これまで一度もなかったことだ。

わずか二日間の出張でさえ、彼女は一晩中電話で彼にまとわりついてきたものだった。

眉間に皺が寄る。胸に苛立ちが込み上げた。

彼はスマホを開いたが、そこには一通のメッセージも、一度の着信もなかった。

ちょうどその時、不意に伸びてきた手が画面を覆った。

「直樹......」

バスローブを纏った舞が、涙を滲ませて立っていた。

「せっかく二人きりで過ごしているのに、どうして私に向いてくれないの?」

その涙を見た瞬間、直樹はスマホを閉じ、彼女を抱きしめた。

「悪い。もう泣くな」

指で涙を拭い、頬に口づけを落とした。

「明日、伊藤に好きなアクセサリーを何か買わせよう」

舞は涙を収め、甘やかに笑みを浮かべた。

「やっぱり、やっぱり直樹が一番。私のこと大事にしてくれるって知
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