ログイン社長である彼氏、早川海翔(はやかわ かいと)は、私が自ら数億円の大型契約を帰国したばかりの彼の後輩、白石桜空(しらいし さくら)に譲ったと知った時、自分から私への99回にも及ぶ「別れる」という脅しがようやく効いたのだと勘違いした。 彼は有頂天になり、私、雪代汐音(ゆきしろ しおね)に婚約を申し込んできた。 ところが、それを知った桜空は激しく嫉妬し、契約の調印式を無断欠勤しただけでなく、会社を辞めるとまで騒ぎ立てた。 日頃から彼女を溺愛している海翔はすっかり慌てふためき、なんとその場で彼女を昇進させた。さらには出張を口実に私との約束をすっぽかし、あろうことか別の街で桜空と非常に豪華な婚約式を挙げた。 後になって、彼は悪びれる様子もなくこう言い放った。 「ただの形式的な婚約式だろう。本当に結婚するわけじゃないんだから、そんなにムキになるなよ。 桜空は海外帰りのエリートだぞ。俺がこうするのも会社の人材確保のためであり、ひいては俺たちの将来のためでもある。俺の未来の妻であるお前なら、理解してくれるよな?」 私はスマートフォンをきつく握りしめた。画面には、桜空がインスタにアップしたばかりの画像が開かれたままで、そこには二人が身につけたペアリングがはっきりと写し出されていた。 私は反論することなく、ただ黙って頷いた。 それを見た彼は喜色満面となり、私がようやく彼の苦心に気づいてくれたのだと思い込み、「出張から戻ったら、お前にはもっと盛大な婚約式を挙げてやるからな」と上機嫌で約束してきた。 しかし彼は知らない。私がすでに退職願を出していることを。 彼が桜空と婚約式を挙げることに同意したその瞬間から、私にもうこの男は必要なくなったのだ。
もっと見るパトカーが見えなくなったのを確認し、私は踵を返して歩き出そうとした。だが、海翔は私の腕を死に物狂いで掴んで離さず、声を震わせて問い詰めてきた。「汐音!これはいったいどういうことだ!」私は冷ややかに彼の手を振りほどき、淡々と言い放った。「送った証拠を見たでしょう?会社の機密を漏洩したのも、会社に莫大な損害を負わせたのも彼女よ。あなた、字も読めないの?」海翔は言葉に詰まった。しかし、我に返るなり、怒りに任せて私を指差した。「だったら、なぜもっと早く言わなかった!お前が教えてくれていれば、数千万円も損をせずに済んだはずだぞ!」私は彼を一瞥し、冷たく突き放した。「海翔、また何を血迷っているの?私たちはもう別れたし、私は会社も辞めた。今の私たちは赤の他人よ。私が何をしようと、あなたには一切関係ないわ!」そう言い残し、私は再び振り向いて立ち去った。「俺は別れるなんて同意してない!お前の勝手な言い分だ!だいいち、俺たちは婚約してるんだぞ!」海翔が背後で喚き散らす声に、道行く人々が次々と足を止めた。本当に笑止千万だ。婚約したのは彼と桜空であって、私には何の関係もない。「海翔、そんな見え透いたとぼけ方はやめてくれない?婚約式の当日、出張だと嘘をついてすっぽかし、他所で桜空と婚約式を挙げたのはどこの誰?いっそ、当日の動画をネットにばら撒いて、みんなにどっちが悪いか判断してもらいましょうか?」それを聞いて彼は明らかに狼狽したが、それでも歯を食いしばって言い張った。「その件はとっくに説明しただろ!なぜいつまでも根に持つんだ!お前はいつからそんなに心が狭く、執念深くなったんだ。桜空はただ、俺の後輩だ。お前の心が汚れているから、勝手に邪推しているだけだろ!」周囲の野次馬たちがヒソヒソと囁き合い、中にはスマホを向けて撮影を始める者もいた。この期に及んでなお、自分の非を認めず、桜空との関係は潔白だと言い張る。呆れて物も言えない。「じゃあ、私たちの新居にあなたと桜空のウェディングフォトが飾ってあったのはどう説明するの?まさかそれも『先輩が後輩の面倒を見ただけ』とでも言うつもり?」その言葉に、周囲から「うわぁ……」とドン引きするようなざわめきが起こった。海翔は周囲からの冷ややかな視線を耐え忍びながら、唇を噛んで
「雪代さん、これといった能力も取り柄もないのに、辞めた途端にこんなに早く次の仕事が決まるなんて不自然だよ。もし、何かを引き換えに条件交渉したんだとしたら、それは――」そう言って、桜空はねっとりと声を伸ばした。海翔が何よりも会社を重んじていることを、彼女は熟知しているのだ。彼が眉をひそめたのを見るや否や、すかさずフォローを入れる。「先輩、誤解しないで。私、ただ心配なだけで、他意はないから」海翔はその言葉を聞いてしばし沈黙した後、即座にA市行きの航空券を二枚手配した。私は転職先の副社長と顔合わせを済ませ、新しい同僚数人と一緒に軽い食事を楽しんでいた。席上での会話は弾み、プロジェクトに対するビジョンや意見も見事に一致した。これからの入社後の日々がさらに楽しみになった。ここは私のキャリアにおける新たなステージであり、新生活のスタートラインなのだ。だが、すっかり食事を堪能し、もっと詳しく話そうとカフェへ向かうため店を出た直後、真正面から海翔と鉢合わせた。そして、彼の背後には桜空が立っていた。新しい同僚たちは海翔を知らないようだったが、副社長は違った。彼はすぐさま同僚たちにいくつか言葉を交わすと、私の肩をポンと叩き、彼らを連れてその場を離れてくれた。それを見た海翔はツカツカと歩み寄るなり、いきなり私に平手打ちを見舞おうとした。私が身をかわしてそれを避けると、彼は激高して怒鳴り散らした。「汐音!ちゃんと説明しろ!なぜお前がここにいる!」かつての私なら、その聞き慣れた声に気圧され、頭を下げて謝っていただろう。だが今は違う。私は彼の目を真っ直ぐに見据えて言い放った。「私がここにいて何かおかしい?私はもう会社を辞めたのよ。海翔、自分の言ってること、滑稽だと思わないの?」思いがけない私の反論に、彼は一瞬言葉を失い、その目には驚きの色が走った。その隙を突いて、桜空がすかさず自責の念に駆られたような顔で口を挟んだ。「汐音さん、私のことを恨んで会社を辞めたんでしょ。プロジェクトは全部あなたにお返しする。私は何もいらないから、お願い、先輩と一緒に会社に戻って……先輩はあなたが会社の機密情報を手土産にして転職したこと、もう知ってるんだよ。もし警察に通報されたら、刑務所行きになっちゃうよ!」そう言いながら、桜空の
そう言って、彼は冷酷な視線を健太に向けた。健太はその言葉を聞いて、背筋を伝う冷や汗でシャツをぐっしょりと濡らし、ひどく狼狽した顔を見せた。「社長、私のような一介の管理職にそんな莫大な損失を被れるわけがありません!私には養うべき老親と小さな子供がいるんです。家財をすべて売り払って身ぐるみ剥がされたとしても、到底穴埋めできる額ではありません!」そう言いながら、彼は震える手で額に浮かんだ汗を拭った。「責任が取れないと言うなら、さっさと汐音の機嫌を取って連れ戻してこい!さもなければ、この損失は人事部の連中で頭割りにして払ってもらうからな!」海翔はそう言い捨てると、大股で外へ向かって歩き出した。桜空は健太をちらりと一瞥し、すぐに海翔の背中を追う。その場に残された社員たちは顔を見合わせ、一体何が起きているのか状況が呑み込めずに呆然としていた。桜空は海翔に追いつくと、彼の手を引いて心配そうに声をかけた。「先輩、もう怒らないで。きっと汐音さんはただの当てつけだよ。長年この会社に尽くしてきたんだもん、そう簡単に辞められるわけないじゃない」怒りで頭に血が上っていた海翔だったが、その言葉を聞いて、混乱していた思考がスッと晴れた。「……お前の言う通りだ。汐音はプロジェクトを何より重んじる人間だ。そう簡単に会社を辞めるはずがない。俺も頭に血が上って、冷静さを欠いていたようだ。やっぱりお前は大局が見えているな。お前がいなければ、いつまで腹を立てていたか分からない。今すぐ家に戻ろう。彼女は絶対に家にいるはずだ。会社のことは後回しにして、まずはあの新居の件にケリをつけるのが先だ」桜空は笑って頷いた。その表情には得意げな色が浮かんでいた。会社を出た途端、彼のスマホが突然鳴り響いた。相手が私だと思い込んだ彼は、即座に電話に出て、問い詰める言葉を口にする間もなく、電話の向こうから焦った声が飛び込んできた。「社長、情報が入りました。雪代さんはすでに他社に入社した可能性が高いです!しかも、今A市に到着していて、向こうの責任者と食事をしているようです!」健太は早口でまくし立てた。彼は、以前うちの会社と取引のあった責任者のインスタを見て、私とその責任者が会食している投稿を見つけたのだ。それで慌てて海翔に電話をかけてきた。しかし、
桜空は顔面を蒼白にしていた。明らかに先ほどの電話のやり取りが耳に入っていたのだ。彼女が我に返る間も与えず、海翔は彼女の腕を引いてタクシーに押し込み、急いで会社へと向かった。桜空は緊張のあまりどうしていいか分からず、ただひたすらに両手をぎゅっと握りしめている。それを見た海翔は、彼女の手を取って優しく慰めた。「怖がるな、俺がいる。お前には指一本触れさせやしないさ。たかが小さなプロジェクト一つだ。最悪、いくらか賠償金でも払ってやれば済む話だ。あいつらも大した波風は立てられないさ。それに、汐音がいるじゃないか。彼女が全部上手く処理してくれる」桜空はその言葉を聞いて、これまで彼女がやらかした不始末をすべて私が尻拭いしてきたことを思い出した。胸の内の不安は瞬く間に霧散した。車が会社の前に停まると、海翔は降りるなり、入り口に何台もの黒塗りのワンボックスカーが停まっているのを目にした。彼は気を取り直し、すぐさま上の階へ向かった。桜空もそれに小走りで続く。「社長が来ました、これで助かります!」受付の社員が二人の姿を認めるなり、オフィスの中に向かって叫んだ。騒然としていたフロアは、その一言で水を打ったように静まり返る。取引先の責任者は海翔がやって来たのを見るや否や、傍らにあった湯飲みを鷲掴みにし、彼に向かって容赦なく投げつけた。煮えたぎるような熱い茶が彼の足元にぶちまけられ、ふくらはぎが瞬く間に赤く腫れ上がった。周囲から一斉に悲鳴が上がる。海翔は痛みに拳を強く握り締めながらも、必死に愛想笑いを浮かべて取引先に向き直った。「プロジェクトの件は伺っております。すべては私の管理不足のせいで、このような不手際を招いてしまいました。どうかご安心ください、今回のプロジェクトにおける損失はすべて弊社で負担いたします。賠償金も後日、御社の口座へ一括でお振り込みいたしますので……この対応でご納得いただけますでしょうか?」取引先はさらに怒鳴り散らそうと息を巻いていたが、相手が思いのほか物分かりが良く、ここまでの条件を出されては、これ以上突っぱねるのも具合が悪かった。彼は鼻を鳴らして吐き捨てた。「今回は運が良かったな。大した損害にならなかったからいいものの、もしそうでなければ、お前の会社を相手取って身包み剥いでやるところだっ