車を発進させようとしたその瞬間、麗奈に遮られた。「紅葉さん、先に私の家まで送ってください」 「松澤社長とご同行する時は、必ず先に送ってもらってるんです。夜道は女の子一人だと危険ですから、社長が心配なさるので」 へえ、そう。面白い話だ。 バックミラーに映る彼女の笑顔を、私は冷ややかに見つめた。 道端のコンビニに停車すると、林麗奈が訝しげに眉をひそめる。ウィンクを返して店に入り、ペットボトルの水を購入した。 彼女が呆然とする中、私はためらわず安信の顔へと水をぶちまけた。 「きゃあっ!」林麗奈の悲鳴が車内に響く。 「運転手!お前どうし......」目を覚ました安信が怒鳴りかけた途端、私の姿を認めて言葉を飲み込んだ。顔の水を乱暴に拭いながら、「紅葉......なぜここに?」 「秘書殿のご命令でお迎えに参りました」 作り笑いを浮かべて続ける。「ご指示ではなかったのですか?」 安信が麗奈を睨みつける。警告の眼差しに、彼女は涙を浮かべて弁解した。「社長、本当に申し訳ございません。運転手が急用で、私も運転できず......紅葉さんに頼むしかなくて」 「次からは絶対に気をつけますから......」麗奈の詫びを聞き終え、安信の表情がようやく緩む。「紅葉、麗奈はまだ若造で配慮が足りん。大目に見てやってくれないか」 安信の表情が和らぐのを見計らって、私はさらりと付け足した。「ええ、若い子ですもの。『先に私を送らないと社長が心配する』なんて、可愛らしい勘違いもしますわ」 たちまち安信の顔が険しく歪んだ。バシッと乾いた音と共に、麗奈の頬が赤く腫れ上がる。「余計なことを!」 彼女は呆然と安信を見つめ、ドアを蹴って駆け出していった。 「追いかけなくてよいの?」私が嘲笑うと、安信は一瞬狼狽した様子を見せたが、すぐに平静を装った。「あの娘は未熟すぎる。君に迷惑をかけた以上、人事部に連絡して解雇処分にする」 私の手を握りながら詫びる。「今日は悪かった。機嫌を直してくれないか」 「本気で?」私の皮肉に、彼は眉をひそめて反論した。「紅葉、俺は毎日会社で疲れてるんだ。些細なことで疑うのはやめてくれないか?秘書だから当然接する機会も多いだろう」 スマホの人事部宛メッセージを見せつける
結婚記念日の朝、松澤安信(まつざわ やすのぶ)は高級ブランド店でピンクダイヤを購入した。私--山崎紅葉(やまざき もみじ)の胸が高鳴りながら箱を開けると、そこには今シーズンの特典品である真珠のイヤリングが入っていた。その夜、安信の秘書である林麗奈(はやし れいな)がSNSを更新した。細い薬指に輝くピンクダイヤの写真。添えられた文章が目に刺さった。【最高の運命はあなたとの出会いです】祝福のコメントが次々と並ぶ。【麗奈さん、彼氏さんが羨ましい!】【まさかピンクダイヤなんて!幸せすぎます】【私もいつかこんな贈り物が欲しい】箱の中には、ありふれた真珠のイヤリングが一組。まさに今季のトップブランドの購入特典だ。鮮やかな対照に胸が切り裂かれるような痛みが走った。クローゼットでシャツを着替える安信が満足げに話しかけてくる。「紅葉、気に入った?粒揃いの真珠を選ぶのに随分時間かけたんだよ」スマホ画面に張り付いた視線が震える。指先が冷たくなっていくのを感じた。返事がないことに気づいた安信が顔を覗き込む。「どうした?好みじゃない?」七年間共に寝食を共にしたはずの顔が、突然見知らぬ男のように感じられた。彼は自然な動作で私のスマホを閉じ、イヤリングを手に取ると私の耳元に近寄った。人形のように無抵抗な私に、彼は満足そうに頷いた。「似合うよ。君にぴったりだ」「……似合う?」目を閉じると、喉の奥に鈍い痛みがこみ上げた。「ダイヤの方が良かった」安信は苦笑いで応じた。「ダイヤなんて贅沢すぎるよ。会社を回すのに精一杯なんだ。次こそ買うから、もう少し我慢してくれないか」言葉の端々に隙がない。林麗奈のSNS投稿をふと思い出した。心臓に突然氷水を浴びせられたように、凍りつくほど冷え切っていた。私への贈り物は粗品で、彼女へは高額なダイヤを。この真珠のように、私たちの絆も色褪せた安物だったのだ。安信は薄れた期待を瞳に浮かべていた。私は騒ぎ立てるでもなく、ただ淡々と答えた。「ありがとう」彼はそれだけで満足して寝室を出ていった。かつてなら、彼は真っ先に私の表情の異変に気づいたはず。なのに今回は、義務を果たすように冷たく距離を取っていった。震える指でそのSNSのスクリーンショットを保存し、弁護士の番号を押した