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時を遡った私は、もう愛さない

時を遡った私は、もう愛さない

By:  にんじん玉子Completed
Language: Japanese
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のちに私・小林栞(こばやし しおり)の夫となる江崎律(えざき りつ)が恋人の二宮葵(にのみや あおい)と別れたのは、酔いつぶれて私の部屋で眠った夜のことだった。 その夜の出来事の責任を取るという名目で、律は私と結婚した。 結婚生活は波風も立たず、穏やかなものだった。 このままふたりでずっといられると思っていた。 けれど、葵が病死した後、弔問に訪れた律はそこで真実を知ってしまった。 葵は酔いつぶれて私の部屋で眠る律の姿を目撃し、絶望して引っ越していったのだ。 そのうえ、律は自分の似顔絵がびっしりと描かれた私のスケッチブックを見つけてしまった。 私が仕組んだ罠だと決めつけた律は、そのまま私と離婚した。 意識が遠のく中、氷のように冷たい律の声が耳に響いた。 「お前がそこまで卑劣な人間だったとはな。吐き気がする」 ふたたび目を開けると、私はあの出来事の2時間前に戻っていた。 上着をつかむと、葵の家へ駆けつけ、玄関のドアを叩いた。

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ノンスケ
ノンスケ
前世では勝手に好きな女と別れたのはお前のせいだと罵られ、寂しく死んだ彼女は、生き戻って最初にしたのが、彼との仲を誤解されないようにすること。前世の過ちを全て回避し、自分の人生を生きる。思い人の彼女とはいい友人であり、彼ともうまく行っていたが、ある日彼は前世を夢で見る。自分のしたことをさに耐えられなくなった彼は壊れていく。一方女たちはそれぞれの道を歩き、それぞれを幸せを見つける。自分のことしか考えられない男には、幸せは来ない。
2026-11-02 20:49:14
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松坂 美枝
松坂 美枝
女の友情物語 クズ男だけ取り残されて不正で全部ダメになるとか 結局コイツなんだったんだ 罪悪感で苦しんでるけどみんな前に向いてるんだから勝手に立ち直ればいいのにね
2026-11-02 09:36:13
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11 Chapters
第1話
ドアが開くと、葵が驚いた顔で立っていた。頬にはまだ涙の跡が残っている。目尻は赤く腫れ、かすれた声で尋ねてきた。「栞?どうしてここに?」私は胸の中で渦巻く複雑な感情を抑え、できるだけ優しい声で話しかけた。「葵さん、少しだけお話しできませんか?」リビングのローテーブルには、乾きかけのイラストの原稿が散らばり、食べかけのマンゴームースも置かれていた。私はその場で、単刀直入に切り出した。「律さんの代わりに謝りに来ました。共同展の開幕式をすっぽかしたのは、全部律さんが悪いんです」葵は唇を引き結んだまま何も答えなかった。握りしめた原稿の端にしわが寄っている。「わざと葵さんを無視したわけじゃなくて、口下手で、素直になれないだけなんです。律さんは今、路地裏のバーでひとりお酒を飲んでます」私は努めて声を和らげ、葵をなだめるように続けた。「迎えに行ってあげてください。律さんの心にいるのは、ずっと葵さんだけなんです」前の人生では、結婚した後も葵の誕生日になるたびに、律はアトリエにこもってひとりやけ酒を飲んでいた。律は一度だって葵を忘れたことがなかった。葵はじっと私を見つめると、不意に涙をこぼした。「律みたいな頑固で愛想のない男のそばにいて、よくこんな気の利く子になったわね」葵は玄関にあった上着を手に取り、私に丁寧にお礼を言うと、急いで出かけようとした。バーの場所を教えると、葵は慌ただしく靴を履き替えて階段を駆け下りていった。その背中を見送り、私は大きく息をついた。3人の人生を狂わせたあの出来事は、絶対に繰り返させない。律の部屋に戻ると、私はイーゼルの奥に3年間隠していたスケッチブックを取り出した。12歳の頃、私は東都美術大学付属高校への進学を夢見ていたものの、学費を工面できる見込みがなかった。そんな私を支えてくれたのが、当時18歳だった律だ。他人には冷たいのに、私にだけはいつも少し優しく接してくれた。恋心を抱き始めた頃、私の頭の中は絵を描く彼の横顔でいっぱいだった。誰にも言えない恋心を、私は8年間ずっと胸に秘めていた。スケッチブックを手に取り、1ページずつビリビリに引き裂いた。破った紙はすべて、マンションのゴミ捨て場に放り込んだ。私の密かな恋心も、紙くずと一緒にゴミと化した。それか
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第2話
本当なら、ふたりは何事もなく幸せに暮らしていけたはずだった。私が余計な恋心を抱きさえしなければ、葵があんなに早く命を落とすこともなかっただろう。今度こそ、ふたりが幸せになれるように、できる限りのことをしよう。……葵は一晩中、律の看病をしていた。翌朝、目を覚まして階下に降りると、キッチンで忙しそうにしている律の姿があった。葵の大好物であるスフレパンケーキを焼き、ホイップクリームを添えている。鼻歌交じりに盛り付けをしながら、指先についたクリームも気にしていない。葵は律の大きめのパーカーを羽織り、キッチンの入口にもたれかかって微笑んでいた。律はパンケーキを葵の前に差し出すと、優しく声をかけた。「温かいうちに食べて。冷めるとおいしくなくなっちゃうから」葵は律を指で軽くつつき、からかうように笑った。「こんなのいつ覚えたの?」律は答えず、ただ目を細めて葵に微笑んでいた。その視線は葵の顔に釘付けになっている。私は階段の踊り場で足を止めた。心の片隅に残っていた律への想いが、すっと冷めていった。前の人生では、8年間も律だけを追いかけていた。パクチーが嫌いで、アイスコーヒーが好きなことまで知っていたのに、私には一度だってこんな優しい顔を見せてくれなかった。「栞、早くおいでよ!焼きたてのパンケーキ、すっごくいい匂いだよ!」葵は私に気づくと、すぐに手を振って呼んでくれた。律はこちらにちらりと目を向けたものの、まるで赤の他人を見るような冷たい眼差しだった。挨拶のひとつもなく、表情ひとつ変えない。それどころか、わざと私から距離を取るように、葵のそばへ身を寄せた。私はテーブルにつくと、フォークでパンケーキをひと口分切り取り、口に運んだ。おいしいはずなのに、喉が詰まるような苦い思いだった。「ごちそうさま。アトリエでやることがあるので、もう行きますね」私はフォークを置いて立ち上がった。葵は引き止めようとした。「えっ、まだ牛乳も飲んでないのに。そんなに急がなくてもいいじゃない」「ごめんなさい、もう時間がないので」私は玄関にかけてあったトートバッグを手に取り、足早に律の家を出た。その日は一日中、東都美術大学の自習室にこもり、大学院の募集要項に目を通しながら、出願書類を記入していた。前の人生では
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第3話
心臓をぎゅっと握りつぶされるような感覚に襲われた。冷たいものが血管を伝い、全身に広がっていく。余計なこと……律にとって、私が8年間も抱き続けてきた恋心は、ただの浅ましい妄想でしかなかった。前の人生でスケッチブックを見つけられた時も、律は同じような口調で私を卑怯な人間だと罵ったっけ。「わかっています。安心してください。何もしませんから」自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。食事中、葵が左手を私の目の前に差し出した。薬指にはめられた小さなダイヤの指輪が、照明を受けてキラキラと輝いている。「今日ね、律にプロポーズされたの!」「律さん、葵さん、おめでとうございます」私はなんのわだかまりもないように、にっこりと微笑んだ。「これからも、ふたりで末永くお幸せに」律は箸を持つ手を一瞬止め、驚いたように私をちらりと見た。まさか私がこんな反応をするとは思っていなかったのだろう。私はうつむいてご飯をかきこみ、律の視線に気づかないふりをした。食べ終わると、食器を重ねてキッチンへ向かった。すると、リビングで話すふたりの声が聞こえてきた。律は淡々と話していた。「東都美術大学の近くにマンションを借りたんだ。今学期が終わったら、栞にはそっちに引っ越してもらうつもりだ。俺たちももうすぐ結婚するし、若い女の子がいつまでもここに住んでるのも不便だろう」それを聞いた葵は眉をひそめた。「でも、女の子のひとり暮らしって危なくない?それに、もう10年近くも面倒を見てきたんだから、本当の妹みたいなものでしょ?」「あいつももう大人なんだから、自立するべきだ」律の口調には、一切譲る気が感じられなかった。「結婚したら、俺たちふたりだけで暮らしたいしな」食器を持つ手は少しも震えなかった。心もまったく揺らがない。むしろ、出ていけるなら好都合だ。ふたりから離れれば離れるほど、私も穏やかに暮らしていける。食器を洗い終えると、ふたりに声をかけることもなく部屋へ戻り、パソコンを開いた。画面に映っているのは、東都美術大学大学院のイラスト専攻の募集要項だ。出願資格を眺めているうちに、自然と口元がほころんだ。時を遡ってから初めて、心の底からほっとして浮かべた笑顔だった。……3日後、自習室で美術史の暗記をしていた時、突然、頭
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第4話
私は曖昧に笑って、まだ自習室で勉強することがあるからと、その場を切り上げた。葵に別れを告げ、大学へと向かう。カフェの角まで来たところで、道端に停まっている律の黒い車が目に入った。車から降りてきた律は、氷のように冷たい表情をしていた。大股で近づいてきたかと思うと、いきなり私の手首をつかんだ。そのまま人気のない木陰まで引っ張っていき、乱暴に手を振り払った。私はバランスを崩し、足を滑らせてアスファルトに倒れ込んだ。肘と膝を地面に強く擦りつけ、思わず痛みに息をのむ。見ると、肘も膝も擦りむけ、じわじわと血がにじんでいた。律はそんな私を冷ややかに見下ろしていた。その目には、嫌悪の色がありありと浮かんでいた。「葵に近づくなと警告したはずだ。何を企んでる?」私は地面に手をついてゆっくり立ち上がり、服についた砂を払った。「何も……ただ、健康診断に付き合ってほしかっただけです」声がかすかに震えた。律は意外そうな顔をしたが、すぐに眉をひそめた。「お前、どこか悪いのか?」「大学院の推薦を受けるのに、健康診断書が必要なんです」私は首を横に振り、目を伏せた。律はしばらく黙って私を見つめていた。やがて律の視線が私の膝の傷に落ちると、次第に表情が険しくなった。しばらく黙っていたかと思うと、近くの薬局へ行き、消毒液と絆創膏を買ってきた。そして私の前にしゃがみ込むと、傷の手当てを始めた。決して優しい手つきではなく、むしろ少し不器用だった。それでも、傷口に余計な刺激を与えないよう、慎重に手当てをしてくれた。「週末は俺が送っていく」律は目を合わせようともせず、ぼそりと言った。私は足元に視線を落としたまま、何も答えなかった。検査結果が出た日、葵は診察室で結果の書かれた用紙を握りしめていた。全身を震わせ、涙がとめどなくこぼれ落ちている。医師は穏やかな声で葵を安心させようとした。「落ち着いてください。まだ初期段階ですし、早く発見できて本当によかったです。適切な治療を受ければ、病状を抑えられます。普段どおりの生活も送れますよ」隣にいた律は、葵をぎゅっと抱きしめた。その手も抑えきれないほど震えている。あと数か月発見が遅れていたらと思うと、恐ろしくてたまらなかったのだろう。律の胸でしばらく泣いた後、葵は目を
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第5話
一瞬、律の手が宙で止まったが、気づかないふりをした。鍵をトートバッグのポケットにしまうと、荷物をまとめるために部屋へ戻った。律はその場に立ち尽くし、私の後ろ姿をじっと見つめていた。少しでも引っ越しを嫌がる素振りを見せると思っていたのだろう。でも、今の私にはもう、ここに留まる理由なんてなかった。何年も使ってきた古い画材や、色あせた上着を引っ張り出し、整理した。不要なものはまとめて寄付するつもりだ。その中から、ずっと大切にしまっていた限定品の色鉛筆が出てきて、思わず手が止まった。18歳の誕生日に律がプレゼントしてくれたものだ。もったいなくて削ることすらできず、1本ずつ保護カバーをつけたままにしていた。少し古びた缶を数秒見つめた後、結局、元の場所に戻した。普段使う画材と大学院受験の参考書だけを残し、あとはすべて処分することにした。新しい生活を始めるのだから、持ち物も新しくすればいい。いつまでも昔のものにしがみついている必要なんてない。それからの数日間は、図書館で試験勉強をするか、共用のアトリエで絵の練習をして過ごした。同じ専攻の4年生の先輩、星野陸(ほしの りく)は、よく窓際の席を取っておいてくれたり、ホットココアを買ってきてくれたりした。一緒に専門科目の過去問を解いたり、最近流行しているゲームのイラストについて語り合ったりしていると、時間はあっという間に過ぎていった。毎日夜10時過ぎまで帰らなかったので、律や葵と食卓を囲むこともほとんどなかった。部屋の荷物は日に日に減っていった。壁にこっそり貼っていた律を描いたスケッチも、すべて剥がして細かく破り捨てた。荷物が減った分、部屋も以前よりずっと広く感じられる。机の上で育てていた小さな観葉植物も、マンションの管理人さんに譲った。ある日、帰宅して靴を履き替え、部屋へ向かおうとすると、葵がホットミルクを2杯持ってキッチンから出てきた。オフホワイトのふわふわした部屋着に、ゆるくお団子にまとめた髪。葵は私の手を引くと、ソファに座らせた。そしてホットミルクをひと口飲むと、律と何かあったのかと小声で尋ねてきた。最近の律はずっと機嫌が悪く、優秀な教え子にまで絵のミスを厳しく指摘して泣かせてしまったらしい。アトリエの助手たちも、怖くて誰も話しかけら
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第6話
律は一瞬言葉を失ったようだったが、やがて口元をわずかに引きつらせた。その声は、感情の読み取れないものだった。「そうか。目標があるのはいいことだ。ただ、羽目は外すなよ」律は一瞬だけ私に目を向けたが、まるで何かに弾かれたかのように、すぐに視線を逸らした。一瞬動きを止めたのを、私は見逃さなかった。翌日、私たち3人は葵の定期検診に付き添うため、病院へ向かった。検査結果はどれも良好で、病状も安定していた。帰りの車では、葵が助手席に、私は後部座席の窓側に座った。途中で葵は眠くなったのか、背もたれに寄りかかったまま眠ってしまった。カーオーディオからは穏やかな音楽が流れ、車内は静まり返っていた。タイヤが路面を走るかすかな音まで聞こえてくるほどだ。そんな時、ポケットのスマホが震えた。陸からのラインだった。去年の東都美術大学大学院の専門科目の過去問を、先輩から手に入れたらしい。明日、図書館で一緒に解いてみないかという誘いだった。私は思わず頬を緩め、すぐに返信を打ち始めた。【うん、明日はアイスコーヒーを買っていくね】ふと顔を上げると、バックミラー越しに律と目が合った。どうやら、私がスマホを見て笑っているのをじっと見ていたらしい。律はわずかに眉をひそめたものの、何も言わなかった。その代わり、突然アクセルを強く踏み込み、車のスピードを上げた。ハンドルを握る律の手には、ぐっと力が入っていた。まるで何か抑えきれない感情を、必死にこらえているかのようだった。帰宅後、葵を部屋まで連れていって休ませると、私は荷物のほとんどなくなった自分の部屋に戻り、過去問の整理を始めた。それからは、律が何をしているかなんて気にも留めなかった。後になって、葵の何気ない愚痴から、あの夜のことを知った。律は夜遅くまで書斎にこもり、ずっとスマホを眺めていたらしい。私とのラインのトーク履歴を何度もさかのぼり、ようやく気づいたのだ。私から律に最後にメッセージを送ったのは、もう2か月以上も前のことだったと。あの時、律は葵と喧嘩した直後だった。律が飲みすぎて何かあったらと心配になり、【律さん、おやすみなさい】と送ったことを覚えている。けれど、葵をなだめるのに必死だった律から、返事が来ることはなかった。律がさらにトーク履歴をさかのぼると、そこに
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第7話
まだ未開封の証であるシールが貼られた缶のふたにそっと触れ、元の場所に戻した。律の視線が、その缶に注がれる。「それは持っていかないのか?」私は首を横に振った。「はい。持っていても、もう使いませんから」律は何も言わず、入口に立ち尽くしていた。私はそのまま背を向けて階段を下り、トラックのそばで引っ越し業者と荷物の確認を済ませた。荷物の確認を終え、顔を上げると律と目が合った。私は軽く微笑んだ。「律さん、葵さんはまだ安静が必要ですし、食事にも気をつけないといけません。よろしくお願いしますね」律は少し口ごもってから言った。「時間ができたら、新しい部屋の様子を見に行く」私は手を振って断った。「大丈夫です。もう片付いてますから。葵さんのこと、よろしくお願いします」私は引っ越しトラックが角を曲がっていくのを見送った。……律はしばらくその場に立ち尽くした後、ようやく家へ戻った。栞が使っていた部屋の前を通りかかると、机の上に残された色鉛筆の缶が目に入った。律は部屋に入り、缶を手に取った。表面にはうっすらと埃が積もっている。そしてスマホを取り出し、色鉛筆は本当に処分してもいいのかとメッセージを送った。少しして、栞から返信が届いた。【もういらないので、捨ててください】律はその返信をじっと見つめ、何度もメッセージを打ちかけては消した。やがてもう一度メッセージを送ったものの、返事はなかった。がらんとした部屋で色鉛筆の缶を握りしめながら、律は初めて、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚を覚えた。……大学院の合格発表の日、私は新しい部屋で、何度もパソコンの画面を更新していた。東都美術大学大学院のイラスト専攻の合格者一覧に、自分の名前が2番目に載っているのを見つけ、ほっと胸をなで下ろした。入学手続きの日、校舎の前で陸と顔を合わせた。同じ教授の研究室に配属されたらしい。それからは一緒に実習室にこもって課題に取り組んだり、帰りに軽く食事をしたりするようになった。陸は私がゲームのグラフィック分野に進みたいことを知っていても、必要以上に踏み込んでくることもなかった。一緒にいて、とても気楽だった。大学院での2年間はあっという間に過ぎ、卒業する頃には、私たちはふたりとも大手ゲーム会社から内定をもらっていた。そ
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第8話
律は慌ててスマホの画面を消し、伏せて机に置くと、曖昧に返事をした。葵が出ていくと、律は再び栞のインスタを開き、過去の投稿を一つずつさかのぼり始めた。そこには、仕事で徹夜した時に飲んだアイスコーヒーの写真や、業界の賞を受賞したイラストが並んでいた。同僚たちとの打ち上げ写真には、時折、陸の横顔も写り込んでいた。どの写真の栞も生き生きと輝いていて、かつて律ばかりを追いかけていた頃の面影は、どこにもなかった。やがて律の視線は、最新の社員証を下げた写真で止まった。ゲーム会社のエントランスにあるロゴパネルの前で、栞は眩しいほど晴れやかな笑顔を浮かべている。律はその写真を長い間見つめ、今まで栞のこんなにも楽しそうな姿を見たことがなかったのだと、ようやく気づいた。……プロジェクトチームの最終チェックを終えたところで、ポケットのスマホが震えた。葵からのラインだった。文面からも喜びが伝わってくる。全身性エリテマトーデスも落ち着き、経過は良好だという。これからは半年に一度、定期検診を受けるだけでいいらしい。私は微笑み、【美味しいものでも食べてお祝いしてくださいね】とメッセージを残した。すぐに喜んでいるスタンプが返ってきた。律がすでに鍋料理のお店を予約してくれたらしい。葵がずっと行きたがっていたお店で、牡蠣や鶏団子など、好物ばかりだという。私は【お腹いっぱい食べてきてくださいね】と返し、スマホをしまってイラストの修正作業に戻った。その後は、特に気に留めることもなかった。一方、鍋料理店では、葵が頬を赤らめながら、律の皿に次々と薄切りの牛肉を取り分けていた。律は相槌を打ちながらも、胸の奥になんとも言えない焦燥感を覚えていた。心の奥底に長年封じ込めていた何かが、まるで記憶の蓋をこじ開けるかのように、今にも溢れ出そうとしていた。その夜、帰宅した葵はよほど疲れていたのか、ベッドに入るなりぐっすりと眠ってしまった。律も横になったが、ほどなくして、異様なほど鮮明な夢の中へと引きずり込まれていった。夢の中の空は鉛色に染まり、病室のベッドには、骨と皮ばかりに痩せ細った葵の姿があった。葵は律の手を握り、自分の病気は栞のせいではないと、途切れ途切れに訴えていた。しかし、当時の律は怒りで我を忘れ、栞がわざと葵を怒ら
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第9話
栞の純粋な好意を下心だと決めつけ、その将来を徹底的に奪ってしまった。その結果、栞は陽の当たらないボロアパートで、若くしてたったひとり、寂しく息を引き取ったのだ。律は布団を跳ねのけてベッドから降りようとした。しかし、足に力が入らず、冷たい床に崩れ落ちた。両手で顔を覆う。全身の震えが止まらなかった。栞に対して犯した罪は、たとえ命を差し出したとしても、決して償いきれない。……土曜日、部屋でペンタブを使ってイラストを描いていると、葵からメッセージが届いた。文面からは、どこかためらっている様子が伝わってきた。私はスマホを机に置き、イラストの色合いを調整しながらメッセージに目を通した。葵によると、律が必死になって私に連絡を取ろうとしているらしい。私は短く返信すると、再び画面の光と影の調整に集中した。律は夜明けから何度も私に電話をかけていたらしい。けれど、以前の電話番号はもう使っていないし、ラインもとっくにブロックしていた。葵の話では、律はリビングを落ち着きなく歩き回り、私に伝言を届けてほしいと何度も頼み込んでいたそうだ。自分が間違っていたと気づき、どうしてもきちんと謝りたいのだという。私はペンタブを動かす手を一瞬止めたものの、淡々と返信した。【恨んでもいないし、許すつもりもない。もう二度と振り返ることはないって、律さんに伝えてください】しばらくして、葵から返事が届いた。【わかった。律のことは気にしないで、仕事に集中してね】私はスマホを脇に置き、再び作業に戻った。心が乱されることは少しもなかった。一方その頃、律はソファに座り、何日も徹夜したかのように目を真っ赤にしていた。握りしめた手は指先が白くなり、葵のスマホを見つめながら、息を殺して返事を待っていた。葵は最初、メッセージを見せるつもりはなかった。けれど、あまりに憔悴しきった律を見かねて、スマホの画面を差し出した。律は葵からスマホを受け取ると、画面に表示された栞の言葉を何度も何度も読み返した。そしてじっと見つめた後、ふいに口元を歪めて笑い出した。だが、その目からは大粒の涙がこぼれ落ち、スマホの画面を濡らしていく。涙で文字がぼやけ、やがて何も見えなくなった。……それから律は酒に溺れるようになった。朝から晩まで酒を
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第10話
律は美術業界から事実上追放され、取引先との契約も次々と打ち切られた。そして、ついにアトリエも倒産へと追い込まれた。所有していた店舗や画材、原稿などは借金返済のために競売にかけられ、財産もすべて差し押さえられた。かつて美術界に名を馳せたアトリエの代表は、こうしてすべてを失い、破産へと追い込まれた。業界内では自業自得だと嘲笑う声が上がる一方、数年前までは個展を開けば大盛況だったのに、どうしてこんなことになったのかと惜しむ者もいた。詳しい事情を知る者はいなかった。だが、律自身には痛いほどわかっていた。すべては自分の愚かな行いが招いた結果なのだと。それから3年後、江見市。栞はスターウェーブ・エンターテインメントの大きな窓の前に立ち、夕日にきらめく川面を見下ろしていた。東都美術大学の大学院を修了し、この大手ゲーム会社に入社した栞は、わずか1年でアートディレクターに抜擢されていた。この日、栞が制作を統括した新作オープンワールドゲームの発表会は、大成功を収めた。会議室では同僚たちが祝賀会で盛り上がっていたが、栞は少し息抜きをしようと、その場を離れていた。スマホが鳴った。葵からの電話だった。「栞!おめでとう!発表会の生配信、見たわよ!」栞は思わず笑みを浮かべた。「葵さん、ありがとうございます」「もう、水くさいわね。ねえ、今週末は空いてる?最近話題のコーヒーショップに行かない?新しく入荷した豆の香りが、すごくいいのよ」「いいですね。新しい彼氏さんも連れてきますか?まだお会いしたことないですし」葵は一瞬言葉を詰まらせ、それから吹き出した。「どうして連れていくつもりだってわかったの?」「昨日、インスタに限定カラーの絵の具セットを載せてたじゃないですか。自分へのプレゼントにあんなもの、買わないでしょう?」「相変わらず鋭いわね。わかった、連れていくから、いい人かどうか見極めてちょうだい」週末の陽射しは暖かく、全身を優しく包み込んでいた。栞がカフェに着くと、葵はすでに席についていた。隣には、シャツを着た男性が座っている。「栞、こっちこっち!」葵が手を振る。「紹介するわ。彼氏の研よ。研、こちらが小林栞。いつも話してる、天才アートディレクターよ」篠原研(しのはら けん)は立ち上がると、笑顔で手を差し出した。
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