LOGINのちに私・小林栞(こばやし しおり)の夫となる江崎律(えざき りつ)が恋人の二宮葵(にのみや あおい)と別れたのは、酔いつぶれて私の部屋で眠った夜のことだった。 その夜の出来事の責任を取るという名目で、律は私と結婚した。 結婚生活は波風も立たず、穏やかなものだった。 このままふたりでずっといられると思っていた。 けれど、葵が病死した後、弔問に訪れた律はそこで真実を知ってしまった。 葵は酔いつぶれて私の部屋で眠る律の姿を目撃し、絶望して引っ越していったのだ。 そのうえ、律は自分の似顔絵がびっしりと描かれた私のスケッチブックを見つけてしまった。 私が仕組んだ罠だと決めつけた律は、そのまま私と離婚した。 意識が遠のく中、氷のように冷たい律の声が耳に響いた。 「お前がそこまで卑劣な人間だったとはな。吐き気がする」 ふたたび目を開けると、私はあの出来事の2時間前に戻っていた。 上着をつかむと、葵の家へ駆けつけ、玄関のドアを叩いた。
View More「もう過去を振り返るつもりはありませんし、誰かに合わせて自分の生き方を曲げるのも嫌なんです。心から一緒にいたいと思える人に出会えなければ、一生独身でも構いません」葵は栞を見つめ、少し目を潤ませながらも微笑んだ。「そうね。栞が幸せで、笑っていられるなら、それが一番よ」研の車が近づいてきた。葵は車に乗り込む前にふと振り返り、栞をぎゅっと抱きしめた。「栞、本当にありがとう。あのとき検査を受けるように勧めてくれたおかげで、私は今も生きている。それに、律を巡って私と争おうとしなかったことにも感謝してる。おかげで、あの人がどういう人間なのか、早く気づくことができたわ。何より、あんなつらい過去を乗り越えて、自分の人生を歩んでくれてありがとう」夕暮れの木漏れ日の下、栞もつられて笑みを浮かべた。車が走り去るのを見送ると、栞は並木道をゆっくりと歩き出した。街角の画材店の前を通りかかったとき、ショーウィンドウに自分の姿が映った。高い位置で結んだポニーテールに、飾り気のないシンプルなシャツ。澄んだ瞳には、落ち着きと自信が宿っていた。かつて律の顔色ばかりうかがい、好きな画材を買うことさえためらっていた頃とは、まるで別人だった。そのとき、スマホがブブッと震えた。陸からのラインだった。【打ち上げでみんな待ってるぞ。そうそう、ずっと欲しがってた限定モデルのペンタブ、無事に手に入ったからな】メッセージを読んだ栞は笑みを浮かべ、すぐに返信した。【今から行くね!本当にありがとう!】スマホをポケットにしまうと、栞は再び歩き始めた。背後では街のあちこちに温かな明かりがともり、目の前には街灯に照らされた広い道がまっすぐに伸びていた。栞は一度も振り返らなかった。少し離れた街角には、無精ひげを生やした男がうずくまっていた。色あせたデニムジャケットを身にまとい、手には子ども向けの絵画教室で余ったクレヨンを握りしめている。男は栞の後ろ姿を見つめていた。その目は、今にも血の涙を流しそうなほど真っ赤に充血していた。立ち上がって追いかけようとしたものの、しびれた足に力が入らず、冷たいタイルの上に崩れ落ちた。地面に倒れ込んだまま、栞の姿が人混みの中へ消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。冷たい秋風が頬を刺し、男の体は小刻みに震え
律は美術業界から事実上追放され、取引先との契約も次々と打ち切られた。そして、ついにアトリエも倒産へと追い込まれた。所有していた店舗や画材、原稿などは借金返済のために競売にかけられ、財産もすべて差し押さえられた。かつて美術界に名を馳せたアトリエの代表は、こうしてすべてを失い、破産へと追い込まれた。業界内では自業自得だと嘲笑う声が上がる一方、数年前までは個展を開けば大盛況だったのに、どうしてこんなことになったのかと惜しむ者もいた。詳しい事情を知る者はいなかった。だが、律自身には痛いほどわかっていた。すべては自分の愚かな行いが招いた結果なのだと。それから3年後、江見市。栞はスターウェーブ・エンターテインメントの大きな窓の前に立ち、夕日にきらめく川面を見下ろしていた。東都美術大学の大学院を修了し、この大手ゲーム会社に入社した栞は、わずか1年でアートディレクターに抜擢されていた。この日、栞が制作を統括した新作オープンワールドゲームの発表会は、大成功を収めた。会議室では同僚たちが祝賀会で盛り上がっていたが、栞は少し息抜きをしようと、その場を離れていた。スマホが鳴った。葵からの電話だった。「栞!おめでとう!発表会の生配信、見たわよ!」栞は思わず笑みを浮かべた。「葵さん、ありがとうございます」「もう、水くさいわね。ねえ、今週末は空いてる?最近話題のコーヒーショップに行かない?新しく入荷した豆の香りが、すごくいいのよ」「いいですね。新しい彼氏さんも連れてきますか?まだお会いしたことないですし」葵は一瞬言葉を詰まらせ、それから吹き出した。「どうして連れていくつもりだってわかったの?」「昨日、インスタに限定カラーの絵の具セットを載せてたじゃないですか。自分へのプレゼントにあんなもの、買わないでしょう?」「相変わらず鋭いわね。わかった、連れていくから、いい人かどうか見極めてちょうだい」週末の陽射しは暖かく、全身を優しく包み込んでいた。栞がカフェに着くと、葵はすでに席についていた。隣には、シャツを着た男性が座っている。「栞、こっちこっち!」葵が手を振る。「紹介するわ。彼氏の研よ。研、こちらが小林栞。いつも話してる、天才アートディレクターよ」篠原研(しのはら けん)は立ち上がると、笑顔で手を差し出した。
栞の純粋な好意を下心だと決めつけ、その将来を徹底的に奪ってしまった。その結果、栞は陽の当たらないボロアパートで、若くしてたったひとり、寂しく息を引き取ったのだ。律は布団を跳ねのけてベッドから降りようとした。しかし、足に力が入らず、冷たい床に崩れ落ちた。両手で顔を覆う。全身の震えが止まらなかった。栞に対して犯した罪は、たとえ命を差し出したとしても、決して償いきれない。……土曜日、部屋でペンタブを使ってイラストを描いていると、葵からメッセージが届いた。文面からは、どこかためらっている様子が伝わってきた。私はスマホを机に置き、イラストの色合いを調整しながらメッセージに目を通した。葵によると、律が必死になって私に連絡を取ろうとしているらしい。私は短く返信すると、再び画面の光と影の調整に集中した。律は夜明けから何度も私に電話をかけていたらしい。けれど、以前の電話番号はもう使っていないし、ラインもとっくにブロックしていた。葵の話では、律はリビングを落ち着きなく歩き回り、私に伝言を届けてほしいと何度も頼み込んでいたそうだ。自分が間違っていたと気づき、どうしてもきちんと謝りたいのだという。私はペンタブを動かす手を一瞬止めたものの、淡々と返信した。【恨んでもいないし、許すつもりもない。もう二度と振り返ることはないって、律さんに伝えてください】しばらくして、葵から返事が届いた。【わかった。律のことは気にしないで、仕事に集中してね】私はスマホを脇に置き、再び作業に戻った。心が乱されることは少しもなかった。一方その頃、律はソファに座り、何日も徹夜したかのように目を真っ赤にしていた。握りしめた手は指先が白くなり、葵のスマホを見つめながら、息を殺して返事を待っていた。葵は最初、メッセージを見せるつもりはなかった。けれど、あまりに憔悴しきった律を見かねて、スマホの画面を差し出した。律は葵からスマホを受け取ると、画面に表示された栞の言葉を何度も何度も読み返した。そしてじっと見つめた後、ふいに口元を歪めて笑い出した。だが、その目からは大粒の涙がこぼれ落ち、スマホの画面を濡らしていく。涙で文字がぼやけ、やがて何も見えなくなった。……それから律は酒に溺れるようになった。朝から晩まで酒を
律は慌ててスマホの画面を消し、伏せて机に置くと、曖昧に返事をした。葵が出ていくと、律は再び栞のインスタを開き、過去の投稿を一つずつさかのぼり始めた。そこには、仕事で徹夜した時に飲んだアイスコーヒーの写真や、業界の賞を受賞したイラストが並んでいた。同僚たちとの打ち上げ写真には、時折、陸の横顔も写り込んでいた。どの写真の栞も生き生きと輝いていて、かつて律ばかりを追いかけていた頃の面影は、どこにもなかった。やがて律の視線は、最新の社員証を下げた写真で止まった。ゲーム会社のエントランスにあるロゴパネルの前で、栞は眩しいほど晴れやかな笑顔を浮かべている。律はその写真を長い間見つめ、今まで栞のこんなにも楽しそうな姿を見たことがなかったのだと、ようやく気づいた。……プロジェクトチームの最終チェックを終えたところで、ポケットのスマホが震えた。葵からのラインだった。文面からも喜びが伝わってくる。全身性エリテマトーデスも落ち着き、経過は良好だという。これからは半年に一度、定期検診を受けるだけでいいらしい。私は微笑み、【美味しいものでも食べてお祝いしてくださいね】とメッセージを残した。すぐに喜んでいるスタンプが返ってきた。律がすでに鍋料理のお店を予約してくれたらしい。葵がずっと行きたがっていたお店で、牡蠣や鶏団子など、好物ばかりだという。私は【お腹いっぱい食べてきてくださいね】と返し、スマホをしまってイラストの修正作業に戻った。その後は、特に気に留めることもなかった。一方、鍋料理店では、葵が頬を赤らめながら、律の皿に次々と薄切りの牛肉を取り分けていた。律は相槌を打ちながらも、胸の奥になんとも言えない焦燥感を覚えていた。心の奥底に長年封じ込めていた何かが、まるで記憶の蓋をこじ開けるかのように、今にも溢れ出そうとしていた。その夜、帰宅した葵はよほど疲れていたのか、ベッドに入るなりぐっすりと眠ってしまった。律も横になったが、ほどなくして、異様なほど鮮明な夢の中へと引きずり込まれていった。夢の中の空は鉛色に染まり、病室のベッドには、骨と皮ばかりに痩せ細った葵の姿があった。葵は律の手を握り、自分の病気は栞のせいではないと、途切れ途切れに訴えていた。しかし、当時の律は怒りで我を忘れ、栞がわざと葵を怒ら
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