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第9話

Author: にんじん玉子
栞の純粋な好意を下心だと決めつけ、その将来を徹底的に奪ってしまった。

その結果、栞は陽の当たらないボロアパートで、若くしてたったひとり、寂しく息を引き取ったのだ。

律は布団を跳ねのけてベッドから降りようとした。しかし、足に力が入らず、冷たい床に崩れ落ちた。

両手で顔を覆う。全身の震えが止まらなかった。

栞に対して犯した罪は、たとえ命を差し出したとしても、決して償いきれない。

……

土曜日、部屋でペンタブを使ってイラストを描いていると、葵からメッセージが届いた。

文面からは、どこかためらっている様子が伝わってきた。

私はスマホを机に置き、イラストの色合いを調整しながらメッセージに目を通した。

葵によると、律が必死になって私に連絡を取ろうとしているらしい。

私は短く返信すると、再び画面の光と影の調整に集中した。

律は夜明けから何度も私に電話をかけていたらしい。

けれど、以前の電話番号はもう使っていないし、ラインもとっくにブロックしていた。

葵の話では、律はリビングを落ち着きなく歩き回り、私に伝言を届けてほしいと何度も頼み込んでいたそうだ。

自分が間違っていたと気
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    「もう過去を振り返るつもりはありませんし、誰かに合わせて自分の生き方を曲げるのも嫌なんです。心から一緒にいたいと思える人に出会えなければ、一生独身でも構いません」葵は栞を見つめ、少し目を潤ませながらも微笑んだ。「そうね。栞が幸せで、笑っていられるなら、それが一番よ」研の車が近づいてきた。葵は車に乗り込む前にふと振り返り、栞をぎゅっと抱きしめた。「栞、本当にありがとう。あのとき検査を受けるように勧めてくれたおかげで、私は今も生きている。それに、律を巡って私と争おうとしなかったことにも感謝してる。おかげで、あの人がどういう人間なのか、早く気づくことができたわ。何より、あんなつらい過去を乗り越えて、自分の人生を歩んでくれてありがとう」夕暮れの木漏れ日の下、栞もつられて笑みを浮かべた。車が走り去るのを見送ると、栞は並木道をゆっくりと歩き出した。街角の画材店の前を通りかかったとき、ショーウィンドウに自分の姿が映った。高い位置で結んだポニーテールに、飾り気のないシンプルなシャツ。澄んだ瞳には、落ち着きと自信が宿っていた。かつて律の顔色ばかりうかがい、好きな画材を買うことさえためらっていた頃とは、まるで別人だった。そのとき、スマホがブブッと震えた。陸からのラインだった。【打ち上げでみんな待ってるぞ。そうそう、ずっと欲しがってた限定モデルのペンタブ、無事に手に入ったからな】メッセージを読んだ栞は笑みを浮かべ、すぐに返信した。【今から行くね!本当にありがとう!】スマホをポケットにしまうと、栞は再び歩き始めた。背後では街のあちこちに温かな明かりがともり、目の前には街灯に照らされた広い道がまっすぐに伸びていた。栞は一度も振り返らなかった。少し離れた街角には、無精ひげを生やした男がうずくまっていた。色あせたデニムジャケットを身にまとい、手には子ども向けの絵画教室で余ったクレヨンを握りしめている。男は栞の後ろ姿を見つめていた。その目は、今にも血の涙を流しそうなほど真っ赤に充血していた。立ち上がって追いかけようとしたものの、しびれた足に力が入らず、冷たいタイルの上に崩れ落ちた。地面に倒れ込んだまま、栞の姿が人混みの中へ消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。冷たい秋風が頬を刺し、男の体は小刻みに震え

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    栞の純粋な好意を下心だと決めつけ、その将来を徹底的に奪ってしまった。その結果、栞は陽の当たらないボロアパートで、若くしてたったひとり、寂しく息を引き取ったのだ。律は布団を跳ねのけてベッドから降りようとした。しかし、足に力が入らず、冷たい床に崩れ落ちた。両手で顔を覆う。全身の震えが止まらなかった。栞に対して犯した罪は、たとえ命を差し出したとしても、決して償いきれない。……土曜日、部屋でペンタブを使ってイラストを描いていると、葵からメッセージが届いた。文面からは、どこかためらっている様子が伝わってきた。私はスマホを机に置き、イラストの色合いを調整しながらメッセージに目を通した。葵によると、律が必死になって私に連絡を取ろうとしているらしい。私は短く返信すると、再び画面の光と影の調整に集中した。律は夜明けから何度も私に電話をかけていたらしい。けれど、以前の電話番号はもう使っていないし、ラインもとっくにブロックしていた。葵の話では、律はリビングを落ち着きなく歩き回り、私に伝言を届けてほしいと何度も頼み込んでいたそうだ。自分が間違っていたと気づき、どうしてもきちんと謝りたいのだという。私はペンタブを動かす手を一瞬止めたものの、淡々と返信した。【恨んでもいないし、許すつもりもない。もう二度と振り返ることはないって、律さんに伝えてください】しばらくして、葵から返事が届いた。【わかった。律のことは気にしないで、仕事に集中してね】私はスマホを脇に置き、再び作業に戻った。心が乱されることは少しもなかった。一方その頃、律はソファに座り、何日も徹夜したかのように目を真っ赤にしていた。握りしめた手は指先が白くなり、葵のスマホを見つめながら、息を殺して返事を待っていた。葵は最初、メッセージを見せるつもりはなかった。けれど、あまりに憔悴しきった律を見かねて、スマホの画面を差し出した。律は葵からスマホを受け取ると、画面に表示された栞の言葉を何度も何度も読み返した。そしてじっと見つめた後、ふいに口元を歪めて笑い出した。だが、その目からは大粒の涙がこぼれ落ち、スマホの画面を濡らしていく。涙で文字がぼやけ、やがて何も見えなくなった。……それから律は酒に溺れるようになった。朝から晩まで酒を

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    まだ未開封の証であるシールが貼られた缶のふたにそっと触れ、元の場所に戻した。律の視線が、その缶に注がれる。「それは持っていかないのか?」私は首を横に振った。「はい。持っていても、もう使いませんから」律は何も言わず、入口に立ち尽くしていた。私はそのまま背を向けて階段を下り、トラックのそばで引っ越し業者と荷物の確認を済ませた。荷物の確認を終え、顔を上げると律と目が合った。私は軽く微笑んだ。「律さん、葵さんはまだ安静が必要ですし、食事にも気をつけないといけません。よろしくお願いしますね」律は少し口ごもってから言った。「時間ができたら、新しい部屋の様子を見に行く」私は手を振って断った。「大丈夫です。もう片付いてますから。葵さんのこと、よろしくお願いします」私は引っ越しトラックが角を曲がっていくのを見送った。……律はしばらくその場に立ち尽くした後、ようやく家へ戻った。栞が使っていた部屋の前を通りかかると、机の上に残された色鉛筆の缶が目に入った。律は部屋に入り、缶を手に取った。表面にはうっすらと埃が積もっている。そしてスマホを取り出し、色鉛筆は本当に処分してもいいのかとメッセージを送った。少しして、栞から返信が届いた。【もういらないので、捨ててください】律はその返信をじっと見つめ、何度もメッセージを打ちかけては消した。やがてもう一度メッセージを送ったものの、返事はなかった。がらんとした部屋で色鉛筆の缶を握りしめながら、律は初めて、胸にぽっかりと穴が開いたような感覚を覚えた。……大学院の合格発表の日、私は新しい部屋で、何度もパソコンの画面を更新していた。東都美術大学大学院のイラスト専攻の合格者一覧に、自分の名前が2番目に載っているのを見つけ、ほっと胸をなで下ろした。入学手続きの日、校舎の前で陸と顔を合わせた。同じ教授の研究室に配属されたらしい。それからは一緒に実習室にこもって課題に取り組んだり、帰りに軽く食事をしたりするようになった。陸は私がゲームのグラフィック分野に進みたいことを知っていても、必要以上に踏み込んでくることもなかった。一緒にいて、とても気楽だった。大学院での2年間はあっという間に過ぎ、卒業する頃には、私たちはふたりとも大手ゲーム会社から内定をもらっていた。そ

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