LOGIN祐斗の案内で中年の医師が寝室へ入ってくると、信行はベッド脇から立ち上がり、真琴の診察を委ねた。一通りの診察を終えた溝口は、眉間に深い皺を刻んだ。そのまま立ち上がり、信行へと視線を向ける。信行は神妙な顔つきの医師に切り出した。「溝口(みぞぐち)先生、様子はどうだ?薬は持ってきてくれたんだろうな」溝口はゆっくりと首を横に振った。「盛られた薬の効き目を打ち消すような解毒剤はありませんよ。これを抑えるには、お二人でどうにかしていただくしかありません」片桐家の主治医を長年務める溝口は、信行だけでなく真琴のことも昔からよく知っていた。診察した限り、相手の使った新薬は非常に悪質で、身体を許す以外に解決策がない代物だった。溝口は言葉を重ねた。「このまま我慢し続ければ、薬が抜けた後に神経障害が残ったり、最悪の場合は脳に支障をきたす恐れがあります」医師の言葉に、信行の顔色が一段と陰った。胸の底から恐ろしいほどの怒りが湧き上がり、仕掛けた奴を今すぐ引きずり出して引き裂いてやりたい衝動に駆られる。傍らで話を聞いていた祐斗もまた、顔色を失っていた。誰がこれほど惨い真似をしたのか。真琴を完全に潰し、どん底に突き落とすつもりだった。今日、社長が間一髪のところで気づき、連れ戻さなければ、取り返しのつかない事態になっていたはずだった。ベッドの上の真琴は、朦朧とした意識のなかで医師の言葉を聞き取っていた。わずかに残された理性ゆえに、理不尽な悔しさと怒りで目頭が熱くなる。幼い頃から誰かを傷つけたことも、不当に虐げたこともないはずだった。それなのに、どうして自分ばかりがこんな仕打ちを受けなければならないのか。なぜこれほど惨く苦しめられなければならないのか。ベッドに横たわる真琴を見下ろすと、その瞳に涙が浮かんでいるのが見えた。信行の胸が激しく締め付けられる。切なさが込み上げると同時に、これもまた自分と関わったが故の災難なのではないかという自責の念が胸を掠めた。重苦しい空気が寝室を支配する中、溝口医師が祐斗へ視線を向けた。「武井さん、私たちがここにいてもお役に立てそうにありません。引き揚げましょうか」薬の性質とリスクはすでに伝えた。あとは当人たちの選択に委ねるしかない。余計な時間を取らせて真琴の身体
二人が一階へ下りたときには、祐斗がすでに車を回し、通用口で待機していた。真琴の体を後部座席へそっと滑り込ませると、信行も身をかがめて車内へ乗り込んだ。そのまま真琴の隣に腰を下ろす。間もなく車が走り出すと、信行は顔を上げて祐斗に命じた。「真琴が口にした酒を調べさせろ。誰が手を回したのか突き止めるんだ」両手でハンドルを握り、祐斗はすぐに応じた。「承知いたしました、社長」続いて祐斗が尋ねる。「このままどちらへ向かいましょうか」「ヴァンクラッセだ」そう答えると、信行はポケットからスマホを取り出し、かかりつけの医師に電話をかけた。ヴァンクラッセまで急行するよう指示を出す。通話を終えた信行が視線を落とすと、胸元に寄りかかる真琴はすっかり力なくぐったりとしており、彼の腕を掴む手にもまるで力が入っていなかった。眉をひそめ、苦しそうな表情を浮かべたその顔は、さきほどよりも赤みを増している。うっすらと開いた瞳は、熱に浮かされたように虚ろだった。一ヶ月以上にわたって保ち続けてきた距離感も、こうして弱り切った真琴の姿を前にしては、崩れ去るしかなかった。じっと真琴を見つめていた信行は、右手を伸ばすと、その頬にそっと触れた。「大丈夫だ。医者がこちらへ向かっている。お前に手出しできる奴など誰もいない」信行の宥めるような言葉に、真琴は眉をひそめたままうなずいた。人生の苦境に立たされるたび、万策尽きて死線に立たされるたび、いつだって自分のそばに駆けつけてくれたのは信行だった。両手で信行の腕を強く握りしめ、真琴は何度もうなずいた。信行が大丈夫だと言うのなら、絶対に大丈夫なのだと信じられた。二十分ほど走り、車はヴァンクラッセの入り口に滑り込んだ。真琴を抱きかかえて部屋へ運び込んだ信行は、そのまま普段自分が使っている主寝室のベッドへと彼女を横たえた。この一ヶ月間、いくら割り切ったフリをしてみせたところで、このような状況になってしまえば、もはや演じ続けることなど不可能だった。胸の奥深くでは、やはり真琴を案じ、真琴のことが頭から離れないのだから。壊れ物でも扱うかのような手つきで真琴をベッドへ寝かせると、信行は思わず彼女の額にそっと唇を寄せた。「すぐに医者が来る」そう囁き、身を起こして立ち上がろうとした瞬
真琴はどこまでも平静で、周囲の狂騒にもまるで気を取られていなかった。美雲や健介への挨拶を済ませると、一人で化粧室へと向かった。静まり返った空間に身を置くと、不意に耳元が静まり返り、喧噪から解放された心地がした。何事もない様子で洗面台の前に立ち、鏡に映る自身の姿を穏やかな目で見つめていた真琴だったが、突如として激しい目眩と虚脱感に襲われた。膝の力があっけなく抜け、立っていることすら難しくなる。それと同時に、身体の奥から波打つような火照りが押し寄せてきた。両手を洗面台に押し当て、真琴は顔を伏せた。深く眉をひそめ、全身の力を抜こうと試みたものの、体からは急速に力が失われ、熱気だけがうねりを上げて高まっていく。明らかに異常だった。洗面台の天板にしがみつき、荒い息を吐き出しながら、真琴はある事実に思い至った。先ほど口にした酒に、誰かが何かを仕込んだ。そこまで考えが至り、ふと脇へ視線を送ると、物陰から自分を鋭く監視する怪しげな気配を感じ取った。身体を奮い立たせ、広場へ戻って紗友里を呼びに行きたかった。今すぐここから連れ出してほしかった。しかし今の彼女には、足を踏み出すことすら、助けを呼ぶ声を発することすら叶わなかった。意識の途切れそうな感覚に耐えながら、震える手でバッグからスマホを取り出し、光雅へ連絡を入れようとした。だが指先にまるで力が入らず、スマホは水槽へ向かって虚しく滑り落ちた。コトリと乾いた音が響く。かろうじて固唾を呑み込み、真琴は手を伸ばしてスマホを拾い上げた。その直後、背後から重々しい足音が近づいてくるのが耳に届いた。途端に、真琴の胸を激しい動揺が襲った。あまりの恐怖に、直前の細かな出来事を振り返る余裕も、誰が酒に薬を仕込んだのかを推測する余地すら残されていなかった。水槽から拾い上げたスマホを操作し、おぼつかない手つきで発信ボタンを押そうとした瞬間、不意に背後から腕を強く引かれた。「どうした?」聞き覚えのある声に、真琴は弾かれたように振り返った。視線の先にいたのは信行だった。自分の腕をしっかりと掴み、案じるような声をかけてくれたのが信行だと理解した瞬間、真琴を支配していたパニックは一瞬にして霧散した。真琴の腕を支えながら、朱に染まったその頬と虚ろな瞳を目にした信行は、
そこまで告げると、成美はまた温和な調子で言った。「あの時あなたを騙したのは、私としても仕方のないことだったの。この数年間、峰亜を気にかけてくれたことには本当に感謝しているわ。それと、さっきあなたが言ったような変な思惑なんて、それこそ誤解よ」信行が口を開くより早く、成美は言葉を重ねた。「今の私のこの体を見てよ。何かを望むような余裕なんてあると思う?それにあの頃だって、私はただ一つ願いを叶えたかっただけで、自分とあなたがお似合いじゃないことくらい、最初から分かっていたわ。指輪のことを聞かせて貰ったのはね、それが私の人生でもらった一番大切な贈り物だったから。ただ手元に残しておきたかっただけで、他意はなかったのよ。もし、それがあなたにとって不都合だというなら、諦めるわ」成美の弁明を聞くうち、信行の面持ちは次第に和らぎ、尖った気配が消えていった。同時に、車椅子に腰掛ける成美の姿へと視線を落とすと、彼女の言葉の信憑性を疑う気にもなれなかった。昔から成美という人は、自分の立ち位置をよく弁えた人間だった。信行が品定めするように見つめていると、成美はあっけらかんと言い放った。「それじゃあ、契約の件はこれで決まりということで。周一に改めてサインさせて貰うわね。今日はこれで失礼するわ」言い終えると、成美は車椅子を操作し、一足先に執務室を後にした。由美とは異なり、成美は実に落ち着いており、しつこく食い下がったり不躾に問い詰めたりするような真似はしなかった。そんな彼女の引き際の鮮やかさは、嫌悪感を抱かせないものがあった。背を向けて去っていく成美を見送り、信行はしばしドアの方へ視線を向けていたが、やがて淡々と目を戻した。パソコンの画面へ目を移したとき、信行の脳裏にふと真琴の姿がよぎった。今度こそ、自分はすべて吹っ切れたのだと感じていた。それからの数日間、誰もがそれぞれの仕事に追われ、互いの領域を侵すことはなかった。信行も真琴の日常から完全に姿を消した。アークライトでのミーティングに際しても、二度ほど欠席したほどだった。意図的に避けたわけではない。ただ、祐斗に代理を務めさせれば十分だと判断しただけの話だった。かつて定刻通りに顔を出していたのは、そこに真琴がおり、彼女と鉢合わせる機会を作りたかったからに過ぎなか
今度の声は、拓真や司たちの名を呼ぶときと同じくらい自然な響きだった。不意に名を呼ばれ、真琴はふと振り返った。「え?」真琴が立ち止まったのを確認すると、信行は助手席に置いてあったバッグを持ち上げ、車窓越しに差し出した。「バッグ、忘れてるぞ」差し出されたものに目を落とし、真琴はようやく気づいた。先を急ぐあまり、鞄のことすら頭から抜け落ちていたのだ。「ありがとう」バッグを受け取りながら、真琴は短く礼を言った。真琴が受け取ると、信行も長居はしなかった。会社へ戻るとだけ告げると、そのままアクセルを踏み込んで走り去っていった。去りゆく車を静かに見送ると、真琴も向きを変え、淳史の待つフロアへ向かって歩き出した。一人は左へ、一人は右へ。今の二人は、どこまでも淡々と、あっさりと別れを告げていた。……信行が執務室に戻ると、室内ではすでに成美が待っていた。信行の姿を認めると、成美は柔らかな笑みを浮かべ、車椅子を滑らせて近づいてきた。「お帰りなさい」成美へ一度だけ静かに視線を走らせると、信行は平然とデスクの向こう側へと腰を下ろした。成美も車椅子を向き直らせ、手にした書類を差し出した。「契約書にいくつか気になる点があったの。印をつけておいたけれど、修正したほうがいいんじゃないかしら」受け取った契約書に目を通すと、確かに二箇所ほど不備が見受けられた。確認を終え、契約書を閉じると、信行は淡々と告げた。「月曜日に武井へ新しいものを手配させる。作り直して再締結すればいい」信行のビジネスライクな対応に、成美は微笑んだ。「ええ、分かったわ」仕事の話が終わると、成美はふと顔を上げ、探るような視線を向けた。「ねえ……由美から聞いたのだけど、昔私にくれたあの指輪、持ち帰ったんですって?」帰国してから何度か顔を合わせていたが、成美が仕事以外の話題を持ち出してきたのはこれが初めてだった。しかも、よりによってあの指輪のことだ。問いかけを受け、信行は静かに顔を上げた。じっと成美を見つめたまま、信行は包み隠さず言い放った。「あの指輪は本来、真琴に贈るつもりだった代物だ。お前の誤解だ」まじまじと見つめる成美は、彼がここまで容赦なく切り捨ててくるとは予想していなかった。言葉を失ったまま信行
車が走り出すと、真琴は淳史へ再び電話をかけ、三時前には到着すると伝えた。だが、信行の車に乗り込んでからは、彼女の電話は急に静かになり、かかってくることもなくなった。運転席の信行の方はといえば、彼女よりは多少忙しそうだったものの、二、三度通話を交わした後は、彼の方も静かになった。それからというもの、車内には深々とした静寂が落ちてきた。両手でハンドルを握り、ふと真琴へ視線を送ると、信行は落ち着いた口調で切り出した。「ライトの消し忘れで、バッテリーが痛んでいたのかもしれないな」信行の言葉に、真琴はハッと胸を突かれた。「そうかもしれないわ。帰りが遅くなると、よく消し忘れちゃうから」真琴が答えに応じると、信行はそのまま話題を変えた。「成美はウェストリア研究所に籍を置いていて、向こうで無線給電の研究に携わっている。今回、東央とぶつかったのは単なる序章に過ぎないはずだ。あらゆる面で気をつけておくといい」信行の助言に、真琴は頷いた。「ええ、ウェストリア研究所の件は光雅さんからも聞いてるわ。注意しておく」そこまで話すと、車内は再び静けさに包まれた。真琴が答え終えても、信行はそれ以上言葉を重ねようとはしなかった。海外から戻ってくる前であれば、何かしら話題を探しては話し掛け、軽口を叩いて茶化していただろう。だが今の彼はどこまでも穏やかで落ち着き払っており、情愛の気配を微塵も漂わせなかった。ふたりの過去に触れることすらしない。半月あまり思索を巡らせた末に、彼は完全に腹を括り、すべてを手放したのだ。こじれた挙句に真琴から拒絶され、再び逃げ出されるような真似だけは避けたかった。しんとした車内で、真琴はただ前方の道路を平然と見つめていた。以前のように、居心地悪そうに窓の外へ視線を背けることもない。自分と信行の関係について深く思案することもなく、今の彼の態度を気にする様子もなかった。帰国してから様々な出来事に見舞われたものの、彼女の芯にある意志は揺らいでおらず、初志を貫いていた。車がもうすぐ都心部へ差し掛かろうという頃、信行のスマホが再び鳴り響いた。信行が画面へ目をやると、発信元は成美だった。片手でハンドルを握り、もう一方の手でスマホを取ると、慣れた動作で通話ボタンをスライドさせた。電話の向こうから、す







