LOGIN真琴はどこまでも平静で、周囲の狂騒にもまるで気を取られていなかった。美雲や健介への挨拶を済ませると、一人で化粧室へと向かった。静まり返った空間に身を置くと、不意に耳元が静まり返り、喧噪から解放された心地がした。何事もない様子で洗面台の前に立ち、鏡に映る自身の姿を穏やかな目で見つめていた真琴だったが、突如として激しい目眩と虚脱感に襲われた。膝の力があっけなく抜け、立っていることすら難しくなる。それと同時に、身体の奥から波打つような火照りが押し寄せてきた。両手を洗面台に押し当て、真琴は顔を伏せた。深く眉をひそめ、全身の力を抜こうと試みたものの、体からは急速に力が失われ、熱気だけがうねりを上げて高まっていく。明らかに異常だった。洗面台の天板にしがみつき、荒い息を吐き出しながら、真琴はある事実に思い至った。先ほど口にした酒に、誰かが何かを仕込んだ。そこまで考えが至り、ふと脇へ視線を送ると、物陰から自分を鋭く監視する怪しげな気配を感じ取った。身体を奮い立たせ、広場へ戻って紗友里を呼びに行きたかった。今すぐここから連れ出してほしかった。しかし今の彼女には、足を踏み出すことすら、助けを呼ぶ声を発することすら叶わなかった。意識の途切れそうな感覚に耐えながら、震える手でバッグからスマホを取り出し、光雅へ連絡を入れようとした。だが指先にまるで力が入らず、スマホは水槽へ向かって虚しく滑り落ちた。コトリと乾いた音が響く。かろうじて固唾を呑み込み、真琴は手を伸ばしてスマホを拾い上げた。その直後、背後から重々しい足音が近づいてくるのが耳に届いた。途端に、真琴の胸を激しい動揺が襲った。あまりの恐怖に、直前の細かな出来事を振り返る余裕も、誰が酒に薬を仕込んだのかを推測する余地すら残されていなかった。水槽から拾い上げたスマホを操作し、おぼつかない手つきで発信ボタンを押そうとした瞬間、不意に背後から腕を強く引かれた。「どうした?」聞き覚えのある声に、真琴は弾かれたように振り返った。視線の先にいたのは信行だった。自分の腕をしっかりと掴み、案じるような声をかけてくれたのが信行だと理解した瞬間、真琴を支配していたパニックは一瞬にして霧散した。真琴の腕を支えながら、朱に染まったその頬と虚ろな瞳を目にした信行は、
そこまで告げると、成美はまた温和な調子で言った。「あの時あなたを騙したのは、私としても仕方のないことだったの。この数年間、峰亜を気にかけてくれたことには本当に感謝しているわ。それと、さっきあなたが言ったような変な思惑なんて、それこそ誤解よ」信行が口を開くより早く、成美は言葉を重ねた。「今の私のこの体を見てよ。何かを望むような余裕なんてあると思う?それにあの頃だって、私はただ一つ願いを叶えたかっただけで、自分とあなたがお似合いじゃないことくらい、最初から分かっていたわ。指輪のことを聞かせて貰ったのはね、それが私の人生でもらった一番大切な贈り物だったから。ただ手元に残しておきたかっただけで、他意はなかったのよ。もし、それがあなたにとって不都合だというなら、諦めるわ」成美の弁明を聞くうち、信行の面持ちは次第に和らぎ、尖った気配が消えていった。同時に、車椅子に腰掛ける成美の姿へと視線を落とすと、彼女の言葉の信憑性を疑う気にもなれなかった。昔から成美という人は、自分の立ち位置をよく弁えた人間だった。信行が品定めするように見つめていると、成美はあっけらかんと言い放った。「それじゃあ、契約の件はこれで決まりということで。周一に改めてサインさせて貰うわね。今日はこれで失礼するわ」言い終えると、成美は車椅子を操作し、一足先に執務室を後にした。由美とは異なり、成美は実に落ち着いており、しつこく食い下がったり不躾に問い詰めたりするような真似はしなかった。そんな彼女の引き際の鮮やかさは、嫌悪感を抱かせないものがあった。背を向けて去っていく成美を見送り、信行はしばしドアの方へ視線を向けていたが、やがて淡々と目を戻した。パソコンの画面へ目を移したとき、信行の脳裏にふと真琴の姿がよぎった。今度こそ、自分はすべて吹っ切れたのだと感じていた。それからの数日間、誰もがそれぞれの仕事に追われ、互いの領域を侵すことはなかった。信行も真琴の日常から完全に姿を消した。アークライトでのミーティングに際しても、二度ほど欠席したほどだった。意図的に避けたわけではない。ただ、祐斗に代理を務めさせれば十分だと判断しただけの話だった。かつて定刻通りに顔を出していたのは、そこに真琴がおり、彼女と鉢合わせる機会を作りたかったからに過ぎなか
今度の声は、拓真や司たちの名を呼ぶときと同じくらい自然な響きだった。不意に名を呼ばれ、真琴はふと振り返った。「え?」真琴が立ち止まったのを確認すると、信行は助手席に置いてあったバッグを持ち上げ、車窓越しに差し出した。「バッグ、忘れてるぞ」差し出されたものに目を落とし、真琴はようやく気づいた。先を急ぐあまり、鞄のことすら頭から抜け落ちていたのだ。「ありがとう」バッグを受け取りながら、真琴は短く礼を言った。真琴が受け取ると、信行も長居はしなかった。会社へ戻るとだけ告げると、そのままアクセルを踏み込んで走り去っていった。去りゆく車を静かに見送ると、真琴も向きを変え、淳史の待つフロアへ向かって歩き出した。一人は左へ、一人は右へ。今の二人は、どこまでも淡々と、あっさりと別れを告げていた。……信行が執務室に戻ると、室内ではすでに成美が待っていた。信行の姿を認めると、成美は柔らかな笑みを浮かべ、車椅子を滑らせて近づいてきた。「お帰りなさい」成美へ一度だけ静かに視線を走らせると、信行は平然とデスクの向こう側へと腰を下ろした。成美も車椅子を向き直らせ、手にした書類を差し出した。「契約書にいくつか気になる点があったの。印をつけておいたけれど、修正したほうがいいんじゃないかしら」受け取った契約書に目を通すと、確かに二箇所ほど不備が見受けられた。確認を終え、契約書を閉じると、信行は淡々と告げた。「月曜日に武井へ新しいものを手配させる。作り直して再締結すればいい」信行のビジネスライクな対応に、成美は微笑んだ。「ええ、分かったわ」仕事の話が終わると、成美はふと顔を上げ、探るような視線を向けた。「ねえ……由美から聞いたのだけど、昔私にくれたあの指輪、持ち帰ったんですって?」帰国してから何度か顔を合わせていたが、成美が仕事以外の話題を持ち出してきたのはこれが初めてだった。しかも、よりによってあの指輪のことだ。問いかけを受け、信行は静かに顔を上げた。じっと成美を見つめたまま、信行は包み隠さず言い放った。「あの指輪は本来、真琴に贈るつもりだった代物だ。お前の誤解だ」まじまじと見つめる成美は、彼がここまで容赦なく切り捨ててくるとは予想していなかった。言葉を失ったまま信行
車が走り出すと、真琴は淳史へ再び電話をかけ、三時前には到着すると伝えた。だが、信行の車に乗り込んでからは、彼女の電話は急に静かになり、かかってくることもなくなった。運転席の信行の方はといえば、彼女よりは多少忙しそうだったものの、二、三度通話を交わした後は、彼の方も静かになった。それからというもの、車内には深々とした静寂が落ちてきた。両手でハンドルを握り、ふと真琴へ視線を送ると、信行は落ち着いた口調で切り出した。「ライトの消し忘れで、バッテリーが痛んでいたのかもしれないな」信行の言葉に、真琴はハッと胸を突かれた。「そうかもしれないわ。帰りが遅くなると、よく消し忘れちゃうから」真琴が答えに応じると、信行はそのまま話題を変えた。「成美はウェストリア研究所に籍を置いていて、向こうで無線給電の研究に携わっている。今回、東央とぶつかったのは単なる序章に過ぎないはずだ。あらゆる面で気をつけておくといい」信行の助言に、真琴は頷いた。「ええ、ウェストリア研究所の件は光雅さんからも聞いてるわ。注意しておく」そこまで話すと、車内は再び静けさに包まれた。真琴が答え終えても、信行はそれ以上言葉を重ねようとはしなかった。海外から戻ってくる前であれば、何かしら話題を探しては話し掛け、軽口を叩いて茶化していただろう。だが今の彼はどこまでも穏やかで落ち着き払っており、情愛の気配を微塵も漂わせなかった。ふたりの過去に触れることすらしない。半月あまり思索を巡らせた末に、彼は完全に腹を括り、すべてを手放したのだ。こじれた挙句に真琴から拒絶され、再び逃げ出されるような真似だけは避けたかった。しんとした車内で、真琴はただ前方の道路を平然と見つめていた。以前のように、居心地悪そうに窓の外へ視線を背けることもない。自分と信行の関係について深く思案することもなく、今の彼の態度を気にする様子もなかった。帰国してから様々な出来事に見舞われたものの、彼女の芯にある意志は揺らいでおらず、初志を貫いていた。車がもうすぐ都心部へ差し掛かろうという頃、信行のスマホが再び鳴り響いた。信行が画面へ目をやると、発信元は成美だった。片手でハンドルを握り、もう一方の手でスマホを取ると、慣れた動作で通話ボタンをスライドさせた。電話の向こうから、す
浜野からの電話に対応し終えたちょうどその時、走っていた車が突然ガクンと停止した。真琴は一瞬呆然としたものの、スマホを助手席へ放り投げると、すぐさまエンジンをかけ直してみた。だが、二度試しても車はピクリとも動かない。「……」真琴は思わず絶句した。どうして急にエンストなんて起こすのか。ほんの少し前に買い換えたばかりの新車だというのに。何度かスタートボタンを押してみたものの、一向に始動する気配がない。真琴はディーラーに電話を入れ、現在の故障状況を説明した。電話の向こうでスタッフが状況を聞き取り、現在地を送るよう促した。すぐにロードサービスを手配してくれるという。通話を終え、両手をハンドルに乗せた真琴は、淳史から送られてきた資料に目を通しながら、ふーっと頬を膨らませて溜息を吐き出した。どうしてよりによってこんなタイミングで壊れるのか。淳史に折り返しの電話を入れ、到着が遅れる旨を伝えた真琴は、車内でスマホを使って仕事をこなすことにした。視線を落とし、画面を操作していたときのことだ。不意に運転席の窓がコンコンと叩かれた。スマホを手にしたまま車内から見上げると、そこには信行の姿があった。目が合い、真琴が口を開きかけた矢先、信行が車に目をやりながら先に声をかけてきた。「どうした?」真琴が一足先に発って二十分ほど経っていたため、すっかり距離が開いているものだと思っていたのだが、まさか少し走ったところで出くわすとは思ってもいなかった。信行がドア枠に手を突いて尋ねると、真琴は小さく息を漏らした。「急にエンジンがかからなくなっちゃって」真琴の言葉を聞くと、信行はまずトランクを開け、三角表示板を取り出して路上に設置した。それから真琴に向かって手招きし、車から降りるよう促した。一連の手際良い動作を見守っていた真琴は、すぐに車外へ出て脇に立った。真琴が降りたのを確認すると、信行はかがんで運転席に乗り込み、エンジンを始動させようと試みた。しかし、やはり始動することはなかった。もう一度試したあと、信行は顔を上げ、傍らに立つ真琴を見つめた。「バッテリーの問題かもしれないな。ディーラーには連絡したか?」平静な様子の信行を見下ろしながら、真琴はうなずいた。「ええ、手配してくれるそうよ」言葉を
真琴の落ち着き払った様子を目にして、紗友里は口を開いた。「これだけは保証するわ。お兄ちゃんと成美の間には絶対何もないし、あり得ないから。興衆と峰亜はただのビジネスパートナーよ」紗友里の弁明に、真琴の唇に浮かぶ笑みがよりいっそう鮮やかになった。「仮にふたりの間に何かあったとしても、全然構わないのよ。私と信行はもう夫婦じゃないもの。彼は自由な身なんだから、誰と付き合おうと勝手でしょう?」真琴の晴れやかな笑顔とは対照的に、紗友里はどこか寂しげな表情を浮かべた。「なんだか、真琴とお兄ちゃんの間が急に切なくなっちゃったな……」紗友里の感傷的な言葉を聞き、真琴は微笑みながらさらりと話題を変え、目の前にある陶器の出来栄えに意識を向けさせた。しばらくして、司が食事の用意ができたと呼びに来ると、ふたりは手を洗って個室へと向かった。あいにくというか、今日のガーデンレストランでは屋外挙式が執り行われており、外は大変な賑わいを見せていた。個室の窓のすぐ外、そう遠くない芝生広場で結婚式が行われている。一同は料理に箸を伸ばし、会話を楽しみながら、時折窓の外の賑やかな光景に目をやった。紗友里はうっとりとした眼差しで式を眺め、自分ならどんな結婚式にしたいかを口にしていた。すると隣にいた拓真が合いの手を入れた。「よし、都合のいい日を教えてくれよ。いつでも挙式の手配をするからさ」拓真の軽口に、周りからは冷やかしの声が上がった。紗友里は顔を上げ、拓真をじろりと睨みつける。「都合のいいこと言わないでよ。誰があなたと結婚なんてするもんか」言い放ったあと、紗友里は再び階下の挙式へと視線を戻した。その脳裏に、ふとある人物の姿が思い浮かんでいた。拓真ではない、別の誰かの姿が。紗友里と拓真の軽妙なやり取りをよそに、真琴が階下の挙式へ目を向けると、ふと胸の奥から温かい感動がこみ上げてきた。いつしか、思わず見入ってしまう。窓の外を一心に見つめる真琴の様子に気づき、司と良一がそれとなく視線を送った。真琴が身じろぎもせず凝視しているのを見て、一同の視線は自然と信行へと集まった。ふたりは一度結婚し、入籍まで果たしたというのに、信行は真琴に結婚式を挙げてやったことがなかった。それどころか、結婚指輪すら贈っていない。司たちの刺さる