悔しさのあまりに、お盆を両手で握りしめても、なにもならないことくらいわかっているのに、せずにはいられない。男の背後で俯いて、悔しさを嘆く僕の耳に、マリカ様の声が聞こえる。
「褒めてくださって、とても嬉しく思います」 「このあとお暇なら、一緒に別の店に行きませんか? もっと美味いものを出すところを、知ってるもんだからさ」 「ちょっとアナタ、マリカ様にたいして、とても失礼な口の利き方っ!」 「ルーシア、いいのよ」 お付の方が腰をあげて声を荒らげた瞬間、マリカ様は手をあげてそれを制した。男はチッと舌打ちして、お付の方を見下ろす。 僕同様に、悔しそうな表情をしたお付の方が椅子に座ったのを確認したあと、マリカ様が凛とした声で告げる。 「私はアスィール・カビーラ様との婚姻を控えている身なので、ご一緒することは叶いません」 「か、カビーラ様との……大変失礼いたしやした!」 慌てふためいた男は、頭を何度もへこへこ下げてから、僕の前から立ち去った。それは当然だろう。カビーラ様といったら、この国で知らない者はいない王族の親戚筋で、大地主のひとり。睨まれたりしたら、それこそひとたまりもない。 大きな壁になっていた男がいなくなったことで、マリカ様と話すことができるのに、カビール様との婚姻の話を聞いてしまった手前、これ以上の接触を控えなければならなかった。 「ハサン……」 僕をいたわるように見つめながら、優しく名を呼ばれたけれど、小さく頭を下げてその場をやり過ごし、急いでカウンターに戻る。 僕はしがないジュース売り。マリカ様のようなお貴族様と親しげに会話をしてしまったことが、そもそものあやまりだった。 (これ以上、かかわっちゃダメだ。マリカ様に迷惑がかかってしまうかもしれない) カウンターにある流しで、俯きながら必死に洗い物にいそしむ。マリカ様の存在を感じないように、何度もコップを磨いたのだった。「ハサン、こっちに来て、私の話を聞いてちょうだい」「ですが――」「貴方とこうして過ごせる、最後の夜になるんですもの。お願い、傍にいてほしいわ」 色違いの瞳が寂しそうに細められる。そんな顔を見たくなかったので、急いで隣に移動したら、左腕に細い腕が巻きついた。その瞬間、マリカ様の胸の柔らかさが直に伝わってきて、否応なしに下半身が落ち着かなくなった。「あたたかくて癒されるハサンの体温を、こうして近くで感じていたい」「マリカ様……」「ふたりきりのときは、マリカって呼んで」 上目遣いで強請られたセリフだったが、おいそれとは呼べそうにない。彼女はお貴族様だけに、畏れ多い気がした。「ねぇハサン、ここまで連れて来てくれたお礼をあげる。跪いてちょうだい」 甘さを含んだ声で告げられたとおりに両膝を砂の上につけて、マリカ様を見上げた。ちょうど三日月が雲に隠れかけて、辺りが薄暗闇になりかけるときだった。 月が影ったせいで、立っているマリカ様の表情がわからない。そんな彼女の顔がゆっくり近づき、やがて僕の唇にしっとりとした唇が押しつけられる。「んっ!」 時間にしたら、ほんの僅かなものだったのかもしれない。それなのに、このときはすべての動きがスローモーションに感じた。押しつけられる唇の感触やぬくもり、離れていくマリカ様の顔や頬の赤さ加減もハッキリわかるくらいに、動きがゆっくりだった。「私のはじめてを、ハサンにプレゼントしたかったの。だからあのとき、顔を背けてしまって」「マリカ……」 マリカ様の唇の感触が残る口が、彼女の名前を自然と告げる。「貴方が好きよハサン。私の持っていない色を身につけてる貴方が大好き」「僕の色?」 お貴族様のマリカ様が持っていない僕の色とはなんだろうと、頭の隅で考えてしまった。「健康的な小麦色の肌と艶のある黒い髪。煌めきを宿す紫色の瞳をはじめて見たときは、心が震えたわ。だからまた逢いたくなって、お店に通ってしまったの」 マリカ様は僕の頬に触れながら、愛おしそうに目尻を指先で撫でる。「そんな……褒められるほどのものじゃないです」「私ね、失敗したなと思ったの。ハサンの瞳を宝石にたとえてしまったこと」「僕は嬉しかったです。あんなふうに褒められたことがありません」 大抵は僕の中性的な見た目を、口にされることのほうが多い。マリカ様のよう
馬上で抱き合い、見つめ合った状況――そのままマリか様に顔を寄せれば、キスできてしまう距離感に胸がドキドキした。 絡まる視線に導かれるように、意を決して僕が顔を動かしかけたら、マリカ様は逃げるように正面を向く。「あとどれくらいで、目印のところに着くのかしら?」 拒否されたことはショックだったが、それを感じさせないように口を開くしかなかった。「……あと5分ほどで到着します。もう少し馬を走らせますね」 目的地まで進ませるべく、僕はふたたび馬の腹を一蹴りして、あえてなにも喋らずに、まっすぐ前だけを見据えながら馬を操った。だけど左腕で抱きしめているマリカ様の存在を、どうしても消すことができない。 重なり合っている部分から伝わる彼女の体温と、風に乗って香るいい匂いを感じるたびに、すぐ傍にいることを実感してしまう。(マリカ様とはまだ2回しか逢っていないし、話だってそんなにしていない。それなのにどうしてこんなにも、彼女に惹かれてしまうんだろう) 確かにマリカ様の容姿はとても美人で、誰が見ても目を奪われる。はじめて見たときは息が止まってしまうくらいに、甘い衝撃を受けた。 光り輝く銀髪の下にある色違いの瞳の美しさに、物腰の柔らかい話し方は、彼女の優しい性格を表していて、お貴族様だとわかっていても、気安く話しかけてしまいそうになったくらいに、親近感を覚えてしまった。 そこにつけ込んだんじゃないけど、昨日よりも自分から話しかけてしまったし、こうして一緒に出かけることができた。 さっき僕がキスしようとして、顔を動かしたときに、マリカ様が慌てて逸らしたのは、カビール様との婚姻の関係があったからだろう。ジュース売りの若造となにかあったりしたら、せっかくの縁談がダメになってしまうだけじゃなく、彼女の両親の監督責任にもなってしまう。 本来ならこうして夜に、見ず知らずの男と出かけているだけでも、かなり危険な行為だ。婚姻前の自由を満喫するためとはいえ、羽目を外していると思う。 マリカ様の立場を考えてる間に、目印になっている小高い丘が目に留まった。「そろそろ到着します。疲れてませんか?」「大丈夫よ、とても快適だったわ。ハサンは乗馬が上手なのね。安心して乗ることができました」「もしかしてマリカ様は、馬に乗ったことがあったんですか?」「2回だけ乗ったことがあるわ。だけど子
☆☆彡.。 知人に借りた馬に乗り、待ち合わせの時間よりも少しだけ早めに到着したのに、マリカ様が先に来ていて驚いた。 薄闇でもわかる、仕立ての良さそうな漆黒のケープ。ところどころに宝飾品のあしらわれたフードを外した彼女が、嬉しそうに駆け寄ってくる。お付きの方が不安げな顔で、マリカ様のあとに続いた。「ハサン、来てくれてありがとう!」 両手を組んでお礼を述べる彼女の前に降り立ち、お付きの方に話しかけた。「湿度があがっているので、天気が崩れるかもしれません。一時間以内で、なるべく早めに帰れるようにします。だから安心してください」 天候を理由にして早々に帰ることを伝えたからか、お付きの方の表情が幾分和んだ。「それじゃあマリカ様、馬に乗っていただきます。ここに片足をかけて、よじ登ってください。補助しますので、お身体に触れますよ」 背の高い馬に乗せるには、上から引っ張りあげるか、こうして下から体を支えて乗せることしか知らない。安全面を考えて、とりあえず後者にしてみたが、なにかあってはいけないので、すぐさま馬に跨る。「ハサン、どこに掴まればいいかしら?」 振り返りながら訊ねるマリカ様の面持ちは、瞳がキラキラしていて、不安そうなものをまったく感じさせなかった。僕がはじめて馬に乗ったときは、その高さに恐れおののいたというのに、彼女は堂々として肝が据わってる。 貴族として常に人の目に晒される身は、隙を見せられないだろうし、いろんな面でプレッシャーなどに強いのかもしれない。「座ってるところに小さな持ち手がありますので、それを両手で掴んでください。それだけだと心配なので、僕がマリカ様の体を後ろから抱きしめて支えます」 説明しながら、マリカ様の腰の辺りに左腕を巻きつけて支えた。互いの下半身がこれで密着するので、必然的に安定感が増す。「それじゃあ行ってきます!」 お付の方に小さく頭をさげたあと、馬の腹を足で軽く蹴って砂漠に向かうべく走らせた。「すごく速い! 夜風がとっても気持ちいい!」 揺れる馬上に臆することなく、実に楽しそうに馬を乗りこなすマリカ様から、甘い香りが風にまじって微かに漂う。花の香りだけじゃない、いつも仕事で使っているフルーツの香りも確実にあって、それがなんなのか知りたくなり、思わず左腕に力がこもった。(甘さを感じさせる香りの中に、柑橘系の香り
☆☆彡.。 みずから、かかわらないようにしていたのに、しばらくすると、お付の方がカウンターに現れた。「あの、すみません」「どうしましたか?」 濡れた手をタオルで拭い、カウンター越しで対応する。マリカ様は、まだあの席に座ったままだった。「さっきの男が、まだ外でうろついていても危ないので、馬車を待たせているところまで送っていただけませんか?」「いいですよ。喜んでお送りします」 にこやかに二つ返事で了承し、お付の方と一緒にマリカ様が待つ席に向かった。僕が現れたのを見、彼女はどこか安堵した笑みを浮かべる。「ハサン、ごめんなさいね。呼びつけてしまって」「いいえ、気にしないでください。さ、お手をどうぞ」 彼女が立ち上がりやすいように手を差し伸べたら、白くて小さな手がやんわりと僕の手を掴む。皮膚に伝わってくる体温がえらく低くて、思わずぎゅっと握りしめてしまった。その瞬間、華奢なつくりをしている指を感じて、握りしめていた力を少しだけ緩める。「ハサンの手、とてもあたたかくて、安心感があるわ」「ありがとうございます。足元に段差があるので、気をつけてください」 彼女の歩幅に合わせて、少しだけ前を歩く。僕の視線の先にはお付の方がいて、馬車を待たせている場所に案内してくれた。「ハサン、お願いがあるの」 僕が立派な馬車を目視したタイミングで、マリカ様が唐突に話しかけてきた。「お願いですか?」 少しだけ背後にいるマリカ様に振り返ったら、握りしめている手が引っ張られ、僕の足をとめた。「砂漠の月を見てみたい」「え?」「ハサンが見た砂漠の月を、私の目で見てみたいわ」 小首を傾げながら色の違う左右の瞳を細めて、僕に頼むマリカ様。まるで小さな子どもがお菓子をねだるような口調に聞こえてしまい、呆気にとられてしまった。「えっと……」「マリカ様、夜の外出は大変危険でございます」 言い淀む僕の傍に、お付の方が駆け寄ってきた。「ルーシア、私に残された自分だけの時間は、あとどれくらいだったかしら?」「そんなことを言われても――」「私がカビーラ様のもとへ嫁いでしまったら、もうこんなふうに外に出られない。鳥かごの中の鳥になってしまうことが、わかっているのよ。その前に、いろんなものをこの目で見てみたいと思っちゃ、ダメなのかしら?」 マリカ様はお付の方ではなく、僕の顔
悔しさのあまりに、お盆を両手で握りしめても、なにもならないことくらいわかっているのに、せずにはいられない。男の背後で俯いて、悔しさを嘆く僕の耳に、マリカ様の声が聞こえる。 「褒めてくださって、とても嬉しく思います」 「このあとお暇なら、一緒に別の店に行きませんか? もっと美味いものを出すところを、知ってるもんだからさ」 「ちょっとアナタ、マリカ様にたいして、とても失礼な口の利き方っ!」 「ルーシア、いいのよ」 お付の方が腰をあげて声を荒らげた瞬間、マリカ様は手をあげてそれを制した。男はチッと舌打ちして、お付の方を見下ろす。 僕同様に、悔しそうな表情をしたお付の方が椅子に座ったのを確認したあと、マリカ様が凛とした声で告げる。 「私はアスィール・カビーラ様との婚姻を控えている身なので、ご一緒することは叶いません」 「か、カビーラ様との……大変失礼いたしやした!」 慌てふためいた男は、頭を何度もへこへこ下げてから、僕の前から立ち去った。それは当然だろう。カビーラ様といったら、この国で知らない者はいない王族の親戚筋で、大地主のひとり。睨まれたりしたら、それこそひとたまりもない。 大きな壁になっていた男がいなくなったことで、マリカ様と話すことができるのに、カビール様との婚姻の話を聞いてしまった手前、これ以上の接触を控えなければならなかった。 「ハサン……」 僕をいたわるように見つめながら、優しく名を呼ばれたけれど、小さく頭を下げてその場をやり過ごし、急いでカウンターに戻る。 僕はしがないジュース売り。マリカ様のようなお貴族様と親しげに会話をしてしまったことが、そもそものあやまりだった。 (これ以上、かかわっちゃダメだ。マリカ様に迷惑がかかってしまうかもしれない) カウンターにある流しで、俯きながら必死に洗い物にいそしむ。マリカ様の存在を感じないように、何度もコップを磨いたのだった。
店内にいるお客様の視線を一身に浴びているのに、彼女は慣れているのか、まったく気にせずに、お付の方と外の景色を見ながら談笑を続けてくださった。 居心地がよさそうで本当に良かったと安堵しながら、作ったジュースをカップに注ぎ入れ、楽しそうにしているマリカ様に、できたてのジュースを運んだ。「お待たせしました、レモンジュースとピンクグレープフルーツジュースです」 質素な造りのテーブルにコースターを置き、その上に注文を受けたジュースを手際よく給仕する。「ありがとう、ハサン」 柔らかいほほ笑みを唇に湛えるマリカ様に、同じように笑ってみせた。僕の笑い方はお貴族様のように上品なものではないから、ありきたりなほほ笑みになっていると思われる。「あの、マリカ様っ!」 ほほ笑み合ったことで、少しだけ勇気をいただけたので、前日に褒めてもらったことのお返しをしようと話しかけた。「ハサン、なんでしょう?」「マリカ様のこっちの瞳」 言いながら、自分の左目に指を差した。するとマリカ様は、僕がなにを言うのだろうかと興味津々な感じで、食い入るように見つめる。「砂漠で見た満月の色と一緒で、とても綺麗です」 ジュースを絞りながら必死に考えた。己の知っているものは乏しかったが、それでも彼女の持つ瞳の美しさを表現したくて、思いついたものがこれだった。 口にしてみたことにより、マリカ様の瞳とうまく合致すると改めて思った。「砂漠で見た満月?」 目を瞬かせながら反芻された、僕のセリフ。ありきたりなことを言ってしまったせいで、マリカ様に不快な思いをさせてしまったのかもしれない。「申し訳ありません! そこら辺にあるもので、高貴なマリカ様の瞳を表現してしまって!」 お盆を胸に抱きしめたまま、腰から深く頭を下げる。「ハサン、頭をあげてちょうだい。謝る必要ないわ」「でも……」 怖々と頭を上げかけたが、完全にあげきれなくて、体を小さくしたまま前を見据える。僕の目に、マリカ様の満面の笑みが映った。「ルーシア、アナタは砂漠の満月を見たことがある?」 僕ではなく、お付の方になぜか伺う。「見たことはございません。女、子どもだけで砂漠に出ると危ないと言われていますので」「私も見たことはないわ。ハサンはよく見に行くのですか?」 優しい口調で問いかけられたのがきっかけで、しっかり頭を上げた。