「ハサン、こっちに来て、私の話を聞いてちょうだい」
「ですが――」 「貴方とこうして過ごせる、最後の夜になるんですもの。お願い、傍にいてほしいわ」 色違いの瞳が寂しそうに細められる。そんな顔を見たくなかったので、急いで隣に移動したら、左腕に細い腕が巻きついた。その瞬間、マリカ様の胸の柔らかさが直に伝わってきて、否応なしに下半身が落ち着かなくなった。 「あたたかくて癒されるハサンの体温を、こうして近くで感じていたい」 「マリカ様……」 「ふたりきりのときは、マリカって呼んで」 上目遣いで強請られたセリフだったが、おいそれとは呼べそうにない。彼女はお貴族様だけに、畏れ多い気がした。 「ねぇハサン、ここまで連れて来てくれたお礼をあげる。跪いてちょうだい」 甘さを含んだ声で告げられたとおりに両膝を砂の上につけて、マリカ様を見上げた。ちょうど三日月が雲に隠れかけて、辺りが薄暗闇になりかけるときだった。 月が影ったせいで、立っているマリカ様の表情がわからない。そんな彼女の顔がゆっくり近づき、やがて僕の唇にしっとりとした唇が押しつけられる。 「んっ!」 時間にしたら、ほんの僅かなものだったのかもしれない。それなのに、このときはすべての動きがスローモーションに感じた。押しつけられる唇の感触やぬくもり、離れていくマリカ様の顔や頬の赤さ加減もハッキリわかるくらいに、動きがゆっくりだった。 「私のはじめてを、ハサンにプレゼントしたかったの。だからあのとき、顔を背けてしまって」 「マリカ……」 マリカ様の唇の感触が残る口が、彼女の名前を自然と告げる。 「貴方が好きよハサン。私の持っていない色を身につけてる貴方が大好き」 「僕の色?」 お貴族様のマリカ様が持っていない僕の色とはなんだろうと、頭の隅で考えてしまった。 「健康的な小麦色の肌と艶のある黒い髪。煌めきを宿す紫色の瞳をはじめて見たときは、心が震えたわ。だからまた逢いたくなって、お店に通ってしまったの」 マリカ様は僕の頬に触れながら、愛おしそうに目尻を指先で撫でる。 「そんな……褒められるほどのものじゃないです」 「私ね、失敗したなと思ったの。ハサンの瞳を宝石にたとえてしまったこと」 「僕は嬉しかったです。あんなふうに褒められたことがありません」 大抵は僕の中性的な見た目を、口にされることのほうが多い。マリカ様のように、ひとつの部分を気にされることが、はじめてだった。 「マリカを褒めた店にいた男のように、僕はアナタをうまく褒めることができません。宝石だって見たことないですし、石言葉なんて全然知らない」 頬に触れているマリカ様の手に、自分の手を重ねた。 「でも私の瞳を、砂漠で見た月でたとえてくれたじゃない。宝石でたとえるなんて、ありきたりすぎるわ。だから失敗したなと思ったの。ハサンの綺麗な瞳をそんなものでたとえずに、なにで表現したらよかったのかしら」 小さく笑ったマリカ様の顔が、ふたたび近づく。キスされると思ったので目をつぶったら、まぶたに優しく唇が押しつけられた。 「ふふっ、ハサンってば残念そうな顔してる」 「そ、そんなこと――」 隠していた心情を暴かれたせいで、頬が赤くなるのがわかった。 「月明かりがなくても綺麗に見える紫色の瞳を、ハサンならどんなものでたとえるかしら?」 かわいらしくちょっとだけ小首を傾げたマリカ様が、いたずらっぽく僕に訊ねた。 「ジュース売りの僕に訊ねる時点で、果物しか思い当たらないですよ」 もっとお金があって勉強する機会さえあれば、表現方法は無限大なのに――。 「果物で紫色のものといえば、ブドウかしら?」 「そうです」 たとえ紫色の花を目にしても、その名前がわからなければ、口にすることすらできない。☆☆彡.。「ちょっと学パパ、私の相談もなしに、美咲をウチのお母さんにいきなり預けるって、一体どういうことなのか、わかるように説明してもらえる?」 午後10時半に学が仕事から帰ると、妻の美羽が腰に手を当てながら玄関にて尋問した。明らかに怒っている様子は、間違いなくお腹のコに悪いであろうと学は瞬間的に察し、なんとか早くこの場を収拾しなければと考える。「えっと、美穂おばさんから連絡あったんだ?」「ものすごく喜んで、連絡くれたわ。かわいい美咲を1日一人占めできるって、大喜び状態よ。女の子しか育てたことのないお母さんが、よく食べよく動きよく喋る、三歳の男のコの美咲のパワフルさにやられて、あとから間違いなく後悔すると思うのよね」「ウチのお袋は仕事で、どうしても無理だったんだよな」 持っていたカバンを意味なく胸に抱きしめ、おどおどする学に、美羽の小言が続く。「どうしてお母さんに、美咲の面倒を見てなんて頼んだの?」「美咲の子育てや俺の世話でここのところ忙しくて、あの日にゆっくりさせてあげられなかったなと思ったんだ。スケジュール表を見て、あとからあの日だったことに気づいて、毎年後悔してた。今年は運よく、あの日に気づくことができたんだ」「あの日?」 学の口から連呼される言葉で、不思議そうに目を瞬かせた美羽は、『あの日』というワードをあえて口ずさみ、学が母親に美咲を預ける日にちについて、思考を巡らせた瞬間、やっと気づいた。「あ……、もしかして一人目が亡くなった日」「前の旦那さんとのコだけど、美羽にとっては大事な子どものことなんだし、その日くらい亡くなったコを思い出してあげて、ゆっくりできればいいなと思ったんだ。特に今は身重なんだから、大事にしなきゃいけない」「学くん……」 慣れない子育てにすっかり翻弄されて、自分のことよりも子どもを優先しながら学の世話をし、毎日があっという間に過ぎ去っている美羽は、その日をすっかり忘れていた。「俺がもっと家のことを手伝えたらいいのに、その日は会議があって、どうしても仕事が休めそうになくてさ。それで美穂おばさんに頼んだってわけ」 気まずそうに後頭部を掻きながら事実を告げる学に、美羽は淡々と語る。「疲れた顔してお母さんの前に突然現れた学くんが、『美穂お母さんに頼みがあるんです』って、天使の翼をはためかせながら涙目で頼みごと
「確かに俺は、ハサンの願いを叶えてやろうとは、一切しませんでした。天使の翼じゃなくても悪魔の翼だって、空を飛ぶことができるんだから、別にいいかと――」「この大馬鹿者!」 謁見の間に、怒りをあらわにした父上の大きな声が響く。ただの怒鳴り声なのに、超音波のような波動を全身に受けて、無様に尻もちをついてしまった。そのせいで手に捧げ持っていた小袋を、床に落としてしまう。「おまえがこれまで接してきた人間同様に、彼が落伍すると思い、適当なでまかせを言って、人間を騙してきた結果がこれなのだろう? それが怠惰の悪魔と呼ばれる所以か?」 俺は居住まいを正すために、慌てふためきながらその場で頭を下げる。「俺の力ではどんなに頑張っても、ハサンの願いを叶えることができなかったので、なんとかしてやろうという気はありませんでした」 床に額を強く擦りつけて、恐るおそる答えるしかなかった。「そのくせ、貰う物はしっかり貰っていたのだろう?」「はい、そのとおりでございます……」「ハサンに悪魔の翼を与えるべく、おまえが見込んで眷属にしようとした男なのに、どうして無下に扱うことができるのだ? 眷属とは身内になる。身内を冷遇することがどういう意味になるのか、わかっているのか?」「わかりません」 俺は誰とも群れずに、ずっとひとりきりで生きてきた。どうせ俺のことなど気にするヤツなんていないし、誰かと一緒にいることで、自由気ままな生活を乱される気がしたからこそ、あえてひとりで今まで過ごした。「ワシはおまえの父親で、当然身内になる。ワシがおまえの願いに聞く耳を持たず、ここより追い返したら、どんな気持ちになる?」「どんな気持ち……。それは悲しいです」「頭をあげよ、怠惰の悪魔」 厳しさを感じる声に導かれるように、恐るおそる顔をあげたら、父上は玉座よりこちらに向かって歩いていた。「え?」(罰を与えるにしろ、玉座から離れることがなかった父上が、わざわざ俺の近くに来るなんて、信じられない行為だ)「息子よ、今までなにもしてやれなかったことが、おまえの心を冷えさせた原因だろうな。悪かった」 そう言って、俺の体を抱しめた。息ができないくらいに、両腕で強く抱きしめられたため、黙ったまま目の前にある顔を見上げる。「おまえを含め、息子たち全員を気にかけていたつもりだったが、やはりうまくはいかない
☆☆彡.。 父上の住む魔王城に到着したのが、制限時間が残り2時間だった。 頼みごとをする時間が限られているゆえに、このまま父上にお目通りが叶わなかったら、無理にでも押し入るつもりだった。しかしながらほかに来客がいなかったのか、すんなりと逢うことができてしまい、思いっきり肩透かしを食らってしまった。「お久しぶりです、父上」 謁見の間に通された俺は、所定の位置にて片膝をつき、深く頭を垂れた。そんな俺を玉座から見下ろす父上の姿は、何百年前に顔を合わせた頃となにも変わりない。「怠惰の悪魔よ、久しぶりだな。我の生誕祭をしてもまったく顔を出さなかったのに、今さらどうした?」「理由を言わずとも、父上ならわかっているのではないですか? 予知の力がおありなのですから」 自分にはない能力を、たくさん備えている父上。反発や反論するだけ無駄なので、さっさと要件を済ませようと試みる。「予知の力があっても、自らそれを口にするのは、つまらないことだとは思わないのか?」「俺の口から回答を聞き、答え合わせをしたほうが楽しいかもしれませんね」 下げた頭をあげて答えると、父上は満足げにほほ笑む。俺が持ってきた面倒ごとは父上にとって、いい暇つぶしになるのかもしれない。「わかっているではないか。それで何用だ?」「俺の眷属になった者と、コイツが死んだ原因になった人間の転生をお願いしたいのです」 持っていた小袋を両手で差し出し、父上に見せた。「おまえの眷属をわざわざ元の人間に戻して転生させるなんて、なにかあったのか?」「それは――」「悪魔のおまえが、人間ごときに心を動かされるような、なにか深い出来事があったというのか?」 訊ねられた口調は厳しいものではなく、どこか優しさを感じさせるものだったので、臆することなく答えることができる。「コイツは……ハサンは地位や名誉を欲しない、とても珍しい人間でした」「この世に数多の人間がいる。すべての者が、おまえの言ったものをを欲するとは限らない。愛の足りないものは愛を欲し、親に見捨てられたものは親を欲する」「ハサンは天使の翼を欲しました」「……それがどうした?」 妙な間のあとで訊ねられた。しかもほほ笑みを消し去り、真顔で聞かれたゆえに、変に緊張してしまう。 答えのわかっている父上を説得するには、どうしたらいいのか、正直わからなくな
☆☆彡.。 ハサンがいなくなった空虚の部屋――ベッドの上では、なぜか女が幸せそうな顔で死んでいることが、不思議でならなかった。愛した男が悪魔の姿で現れたのに、恐怖することなく、ほほ笑んでその命を差し出した。ひとえに愛するハサンに逢えたことを、心から喜ぶように。「なんでおまえは最初から最後まで、こんな俺に優しくしたんだ。ありがとうなんて、感謝される覚えなんてない……」 怠惰の悪魔として生まれ、忌み嫌われる存在の俺に優しくする人間なんて、誰ひとりとしていなかった。だから相手によって、俺の姿が変化するように、内なる悪魔の力を使って接した。 自分にとって話しやすい相手をそそのかすべく、欲しいものを聞いてみたら、揃いもそろって『金』や『地位』を求める。その夢を叶えてみせてやると騙して、魂を吸い取る石を手渡し、俺は楽して餌を収集することを日課にしていた。 人を殺すことに躊躇いのある人間は、石によってその魂を自動的に吸い取られ、またある者は殺人を繰り返したことで精神を病み、自らの命を絶った。 俺が指定した千人という人数に辿り着く人間がいない中で、『金』や『地位』を求めずに『翼』を欲したハサンがやり遂げるとは、思いもしなかった。「せっかく女に逢うことができたのに、ふたりして死んでしまったら、意味がないだろうに」 呟きながら腰を屈めてブラックボックスに腕を伸ばし、中から白い小袋を取り出した。その口を開いて呪文を唱え、辺りに散らばっているハサンの赤い砂を小袋の中に吸い取らせた。 集められた亡骸は思ったよりも重さがあり、てのひらにずっしりとしたものを感じて、思わずほほ笑んでしまう。「今まで感じたことはなかった。俺はただ自分の食欲を満たすためだけに、人間の魂を集めていたせいか。実際はこんなに重いものなんだな」 人差し指と親指だけでつまめる魂と、小袋に集められたハサンの亡骸の違いを、改めて思い知る。たったひとりの人間の死が、俺の心を動かすなんて――。(残された時間は、あと6時間だったか。急いで地下にある城に戻らなければ!) 利き手にハサンの亡骸が入った小袋を握りしめ、反対の手で城に通じる穴を開ける。地下が深すぎて明かりなどいっさい見えぬ、真っ暗闇の底だった。「女、おまえの死も無駄にしないよう、俺がかけあってやる。今世でかなわなかった望みを、来世でハサンと一緒にか
てのひらの中で暴れるそれを、どうしたものかと考えながら握りしめたそのとき。「ハサン、なにやってんだ。それはおまえの餌になるというのに」 大きな翼をはためかせた人物が、バルコニーに降り立つ。月明かりに照らされたから、そのシルエットがハッキリと浮かびあがった。 頭には大きな角を生やし、僕と同じ浅黒い肌をしているからか、金髪がやけに目立つ。瞳は明るい茶色をしていたことと話しかけられた声で、覚えのあるそれに導かれるように話しかける。「も、もしかしてあのときの男の子……」「実際は、この姿をしていたんだがな」 見る人によって変化するという言葉どおりの姿に、唖然としてしまった。胸の中にいるマリカを隠すように抱きしめる。「ハサン、なぜその女の魂を手に持ってるんだ」「それは……。なんとなくです」「おまえが俺と同じ姿になったことで、餌も同じになったんだぞ」「餌?」 僕が首を傾げると、彼は嬉しそうにほほ笑む。「俺たちの餌は、人間の魂さ。だがどんな人間でも善の心を持っているから、そこのブラックボックスにぶち込んで、善の心をなくしてもらうわけ」 そう言った彼の足元に、ブラックボックスが現れた。腰を落として手を伸ばすと蓋が自動的に開き、無造作に中へ手を突っ込む。するとそこから、灰色になった玉が取り出された。「これ、ヨダレが滴るほどに美味いぞ。その女の魂をさっさと手放して、おまえも味わってみろ」 言いながら口にひょいと放り込む。茶色の瞳が赤く染まり、彼の持つ禍々しさが一層色濃くなった。だから自分がおこなっていたことがわかってしまった。「僕は今まで貴方のために、人の命を奪っていたんですね?」「俺は怠惰の悪魔さ。その女のように生命力のない人間なら、近づいただけで命を奪うことができる。だがそれ以外の大勢の人間の命を奪うのは、どう考えても疲れるだろ」「生命力がない……。つまり僕の存在が、マリカを死なせた?」 てのひらに感じるマリカの魂が、より一層暴れる。僕の手から逃れるように暴れる様子に、胸がキリキリ痛んだ。「ハサンおまえは、俺の眷属になったんだからな。悪魔として、弱い人間を狩るのは当然のことだろう?」 目の前が涙で滲む。僕が迎えに来なければ、マリカは死なずに済んだのに――。「うわあぁあぁああっ!」 手にしたマリカの魂を口に放り込む。そのことに迷いはなか
「僕の大事なもの……なんてそんなの、マリカ以外なにもないよ」「だってそんな姿になるなんて、どう考えてもおかしいわ」 マリカが震える手で、僕の頬に触れた。「私が惹かれたバイオレット・サファイア色の瞳が、ルビーのように赤くなるなんて」「僕のこと、嫌いになった?」 見るからに悲しげに告げられたことで、思いきって訊ねてしまった。頭をもたげたマリカは、黙ったまま首を横に振る。「どんな姿になっても、ハサンはハサンだもの。嫌いになんてなれないわ」「マリカ!」「胸が苦しいくらいにドキドキしてる。久しぶりに逢ったせいかしらね」「僕もさっきから胸が痛くて堪らない。マリカ、君にずっと逢いたかった」 痩せこけた細い体を、強く抱きしめた。マリカは僕にもたれかかり、ゆったりと体重をかける。「マリカと離れていた五年間、忘れたことはなかった。妾として嫁いだマリカが、とても心配でならなかったよ」「…………」「だけどこうして逢うことができて、本当によかった。マリカと一緒に、あの月の近くまで飛びたいと思ってるんだけど、体調はどう? 近くで見る月光の美しさを、君に見せたくてさ」「…………」「マリカ?」 さっきから返事がないことを不審に思い、マリカの顔を覗き込んでみる。唇に笑みを湛えたまま、眠っているように見えたのだが――。「マリカ、起きて」 肩を揺すってみたのに、目が開く感じがまったくない。恐るおそる首筋に触れて、脈をとってみる。ほんのりあたたかい肌を指先に感じたが、脈に触れることはなかった。「マリカ……嘘だろ、なんで?」 信じたくない現実にショックを受けている間に、マリカの唇から白い煙が出はじめる。見覚えのあるそれに、頭が混乱した。だって――。(……どうしてだよ。僕は赤い石を使っていないのに!) 僕の目の前で白い煙が光り輝く玉へと変化しかけたら、例の黒い箱が音もなく足元に現れる。蓋には数字が記載されていなくて、ただの黒い箱にしか見えなかった。 いつもは白い玉なのに、マリカのものは七色に光り輝く。やがてそれが緩やかに回転したタイミングで、黒い箱の蓋が開いた。いつもなら黙って箱の中に玉が吸い込まれる様子を眺めていたのに、嫌な予感が僕を突き動かす。 間一髪で利き手を伸ばし、マリカの光り輝く玉をキャッチした。