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第8話

Author: どくはく
家に戻り、将吾に話をしようとしたが、リビングに彼の姿は見当たらなかった。代わりに、階段のところで歌穂と鉢合わせした。

茉知の手に握られた2人分のパスポートを見て、歌穂は不快そうに眉をひそめた。

「将吾のパスポートを持って、彼をどこへ連れて行くつもり?こっちに渡しなさいよ!」

もともとパスポートを取り合うつもりなどなかった。しかし、その女主人を気取るような横柄な口調を聞き、昨日わざとドレスの裾を踏まれたことを思い出す。

茉知は、記憶喪失を演じ続けることをやめた。はっきりとした声で言う。

「パスポートは1か月前に申請したものよ。受け取りに行って、返しに来ただけ」

歌穂は驚愕に目を見開き、声を震わせた。

「……記憶が戻ったの?」

「おかげさまで。昨日転んだ拍子に、全部思い出したわ」

茉知が言葉に乗っかって軽く嘘をつくと、歌穂の顔色がさっと青ざめた。

周囲をきょろきょろと見回し、誰かに聞かれていないか確かめる。誰もいないとわかると、今度は無理に落ち着きを装い、唇の端を歪めて冷笑した。

「思い出したからって、それが何?将吾はあなたのことをずっと騙していたのよ。彼の本音がまだわからないの?おとなしく身を引きなさいよ。あなたが私から彼を奪えるはずがないし、永遠に勝てないわ」

過剰に敵意を剥き出しにするその様子を見ても、茉知の表情は微塵も揺らがなかった。

「安心して。自分の荷物を持って出ていくだけよ。あなたと争うつもりなんてないわ」

歌穂は、茉知が「彼女」としての権利を主張しているのだと思い込み、ギリッと歯を食いしばった。

「将吾はあなたにプロポーズしただけ。あなたは彼のものじゃないわ。私がいる限り、彼は絶対にあなたとは結婚しない。聾のくせに、高望みしないでちょうだい!」

他の誰かに言われたなら、何も感じなかったかもしれない。でも、歌穂の口からその言葉を聞くと、茉知の瞳がすうっと氷のように冷たくなった。

「確かに私は片耳が聞こえないし、障害があるわ。でも、人を傷つけようとしたことは一度もない。

あなたは?都合が悪くなれば彼を捨てて、立ち直ったら媚を売りに戻ってきて、彼の婚約者を聾呼ばわりして――

そういうのを何て言うか知ってる?恩知らず?節操なし?それとも、計算高い卑怯者?」

「捨てたから何よ。将吾は私を許してくれたわ。あなたに私を責める資格なんてない。私が100回彼を捨てたって、彼は100回私を許すのよ。あなたはただの都合のいい世話係。彼があなたを愛することなんて、永遠にないわ!」

完全に我を失ってヒステリックに叫ぶ歌穂を見て、茉知はこれ以上彼女に時間を使う気になれなかった。

踵を返して書斎へ向かおうとした時――逆上した歌穂の手に背中を突かれ、階段から突き落とされた。慣れたような浮遊感が襲ってくる。

咄嗟に頭を庇い、額への直撃だけは免れた。しかし全身の生傷が一斉に裂け、鮮血が滲んで服を赤く染め上げていく。

全身から冷や汗が吹き出し、顔が青白くなる。そこへ、急ぎ足の気配が近づいてきた。

将吾が駆け寄り、茉知の体を支えながら傍らの救急箱を手に取った。その声には、明らかな心配の色がにじんでいた。

「……また転んだのか」

茉知が口を開こうとすると、小走りでやってきた歌穂が先に割り込んだ。

「茉知が足をくじいて転げ落ちちゃったの。私が助けるのに間に合わなくて……ごめんなさい将吾、私のせいよ」

いかにも申し訳なさそうに潤んだ瞳を見て、将吾は安心させるように首を振った。

「お前のせいじゃないさ。茉知、お前はもう2回も転んでいるし、いっそこの階段を壊してエレベーターにでもしようか」

歌穂を微塵も疑う様子のない将吾の声を聞いて、茉知は喉元まで出かかった真実の言葉を、静かに飲み込んだ。

ひとつ深呼吸をして、将吾のパスポートを差し出し、すべてを打ち明けようとした。しかし、またしても歌穂が話を遮る。

「じゃあ、あなたは茉知の手当をしてあげて。今日のパーティーには、私一人で行くわ」

そう言いながら、いかにも自分が可哀想な被害者であるかのような顔を作り、名残惜しそうに何度も振り返りながら玄関を出ていく。

将吾はほんの少しだけその場で固まっていたが、すぐに手に持っていた手当のための綿棒を置き、彼女の後を追って駆け出していった。

茉知には、これが彼との永遠の別れになるかもしれないとわかっていた。

引き留めたところで無駄だとわかっていた。それでも、彼の名前を呼んだ。胸の中に溜まり続けていたものを、今ここで全部話してしまいたかった。

「将吾、5分だけ時間をもらえる?話したいことが……」

「自分で手当しておいてくれ。何か用があるなら、帰ってきてから聞くから」

予想通り、将吾は一度も振り返らなかった。

茉知に話し終わる隙さえ与えてくれなかった。そして、彼は最後まで気づいていなかった――今日の茉知が、彼のことをただの一度も「兄さん」と呼ばなかったことに。

茉知は打ち明けることを、完全に諦めた。

彼の車が門を出ていくのを窓から見届けてから、下を向いて黙々と傷の手当をした。

それから寝室に戻り、自分の荷物をすべて1階へ下ろした。テーブルの上に将吾のパスポートとビザをきれいに並べて置き、1枚のポストカードを取り出す。そこに、2つの短い文を書き記した。

【将吾。私は記憶なんて失っていなかった。この1か月、あなたが私を騙していたように、私もあなたを騙していた。これでおあいこね。

今日から、私たちはもう何の関係もない。あなたは、自分が本当に好きな人を追いかければいい。これからはそれぞれの道を行きましょう。もう二度と会うことはない】

最後の一文字を書き終え、茉知は立ち上がって、屋敷の中を静かに見渡した。

かつて自分の居場所だと思っていたこの家に、もう自分の痕跡はどこにも残っていなかった。

トランクを引きながら、時夫へメッセージを送る。

ほどなくして、約束の400億円が全額口座に振り込まれた。

入金を確認し、茉知は一切の迷いなく屋敷を出た。通りでタクシーを拾う。

今度こそ、すべてに別れを告げるのだ。新しい人生が、ここから始まる。

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