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「悠、痛む?早く中に入って手当てしてあげるわ」顔を血に染めた悠の痛ましい姿を見て、茉知の胸がきゅっと締め付けられた。弾かれたようにマンションの中へ駆け込み、救急箱を抱えて戻ってくると、冷たい雪の上でてきぱきと傷口を消毒し、丁寧に止血を行った。「君にこんなに優しく丁寧に手当てしてもらえるなら、あんな奴のパンチ一発くらい、安いもんだよ」悠は痛みを隠すように、甘える仕草で茉知の首元に顔を埋め、からかうように低く笑った。そのあまりにも自然で親密なふたりのやりとりを目の当たりにして、将吾は冷たい壁にもたれかかったまま、力なく荒い息を吐いた。いつの間にか、絶望の涙が血まみれの顔を無様に伝い落ちていた。「じゃあ、俺は……っ?昔、俺が怪我をして苦しんでいた時、誰よりも一番に心配して、泣きながら看病してくれていたじゃないか……」茉知は、彼の方へ一切視線を向けることもなく、静かな声で言った。「自分で言ったでしょう。それは『昔』だって。今さら、どの口がそんなことを言っているの。あなたが私より別の人を選んだあの瞬間から、私たちはもう、完全に赤の他人よ」その冷たい態度を前にして、将吾はようやく悟った。かつての茉知にとって、自分がどれほど特別な存在だったのかを。心臓が千切れるような凄まじい喪失感の中で、将吾は血を吐くように焦って言葉を並べ立てた。「南雲歌穂が俺を騙していたことがわかったんだ。あいつとはもう完全に決着をつけた。今の俺の心には、お前しかいないんだ。頼む、もう一度だけ、俺とやり直してくれないか」茉知は自嘲するように笑った。目の前でこれほどみじめな姿をさらしているこの男の、一体どこがいいのか、今の彼女にはもう全く理解できなかった。これほどまでに自分勝手で思い上がり、人の心を蹂躙し、取り返しのつかない罪をこれほど重ねておきながら、よくも平然と「やり直す」などという言葉が口にできるものだ。「私たちが元に戻ることなんて、この先永遠にないわ。さっさと帰って。もし今後も私の目の前に現れて、周りの人たちに少しでも迷惑をかけるような真似をするなら、今度こそすぐに警察を呼ぶわよ」今度ばかりは、その冷酷な言葉に一切の容赦や感情はなかった。悠も茉知を背後に庇うように立ちはだかり、地を這う将吾を鋭く見下ろして睨みつけた。低く、強い威圧感を込めて、明
にぎやかなクリスマスが過ぎると、スイスはようやく国中が休暇ムードに包まれた。誰もが温かい家の中でくつろぎながらドラマを観たり、暖炉の炎のそばでバタークッキーとホットチョコレートを楽しんだりする、心安らぐ季節だ。茉知は、毎日続く重い洋食にすっかり胃が飽き飽きしていた。服飾デザインの才能にかけては右に出る者はいないが、こと料理の腕前に関してはまったくの不得手である彼女を見かねて、ふたりは街角にある小さな料理屋へ行くことにした。移民の老夫婦がひっそりと営むその店は、30平米ほどしかないこぢんまりとした空間だったが、隅々まで丁寧に磨き上げられて清潔だった。どこを見渡しても、異国情緒あふれる飾りつけが施されている。手染めの暖簾、季節の花が生けられた小さな花瓶、壁に掛けられた木札の品書き、棚に並んだ招き猫やだるま。店の入り口の鉢植えには、青々とした南天が行儀よく植えられていた。出汁のやさしい香りに、茉知は久しぶりに食欲が湧き、食べたいものを品書きから次々と頼んだ。出汁巻き卵、湯気の立つ肉じゃが、香ばしく焼かれた銀だらの西京焼き、ほうれん草のおひたし、そして熱々の豚汁。ふたりは夢中で箸を進め、それぞれ白いご飯を2杯もおかわりした。テーブルの奥に置かれた小さな旧式のテレビでは、昔懐かしいドラマが静かに流れている。老夫婦は仲良く老眼鏡をかけ、真剣に画面に見入りながら、時おりドラマの展開についてあれこれと楽しそうに語り合っていた。茉知はふと、遠い故郷の空気に包まれているような、不思議な安心感を覚えた。思い立ったように、向かいに座る悠の大きな手をきゅっと握り、穏やかに澄み切った気持ちで言った。「悠。私たち、結婚しよう」その日の穏やかな昼下がり。ふたりはお腹いっぱい満たされた後、そのまま手続きを済ませ、正式に結婚した。日取りも、場所も、そして互いの気持ちも、何もかもが完璧に揃っていた。冬の太陽の光もどこか優しく温かい。世界中のすべてが、このふたりの門出を祝福してくれているかのようだった。手の中に収まった結婚を証明する書類を見つめていると、まだ幸せな夢の中にいるような、ひどく不思議でふわふわとした気分になった。ケーキでも買って、ささやかなお祝いをしようと笑い合った。マンションの入り口に戻ってきた時。見覚えのある冷たい風景の中に、異物
「はぁ、社長……このプロジェクトが、我が社にとって最後の起死回生のチャンスなんです。それでも、本当に手放されるおつもりですか」秘書は山積みにされた書類を抱えたまま、パソコンの画面に映し出された望月グループの株価チャートを虚ろな目で見つめた。急落を示す無機質なグラフが、痛いほど目に突き刺さる。秘書は深く、ひどく重い息を吐き出した。将吾は答えなかった。ただ疲れ果てて床にへたり込み、度の強いウォッカの瓶を機械的に口へと運び続けていた。味などわかっているのかいないのか、ひと口、またひと口と強いアルコールを喉の奥へ流し込むたびに、こぼれた酒がシャツの胸元をだらしなく濡らしていく。かつては常に清潔感を保ち、完璧な身だしなみに誇りを持っていた男の姿は、今や見る影もなかった。無精ひげがだらしなく伸び、手入れされていない前髪がうっとうしく目元まで垂れ下がっている。最高級のオーダーメイドだったはずのスーツは、一度もアイロンをかけられた様子もなく、くたくたに皺が寄ったまま着ていた。重要な商談の場に引きずり出されても、幾度となく上の空になって話の流れを見失い、相手先の重役たちをひどく苛立たせた。かつて飛ぶ鳥を落とす勢いだった望月グループの名前は、今や複数の大手取引先のブラックリストに名を連ねている。名家のスキャンダルを血眼になって追うゴシップ記者たちは、将吾が泥酔して街で暴れる醜態を何度もカメラに収めていた。毎晩のようにバーやクラブを渡り歩き、自暴自棄に酒に溺れ続けるその姿には、かつて界隈の羨望を集めた洗練された面影は微塵も残っていなかった。一方、あの幼馴染の歌穂は、国外での大規模な詐欺事件と違法賭博への関与が発覚し、最終的に国際刑事警察機構を通じて逮捕された。身柄を拘束された時には、全身に暴力の痕が残り、精神的にも完全に崩壊した状態だったという。「星山様が亡くなられて、もう3年です。いつまでも過去の幻影に縛られて、自分を欺き続けるのはやめてください。社長、今のように生ける屍のように過ごしていて、一体何の意味があるというんですか!」足元の床には、空になった酒瓶と潰れたタバコの箱が足の踏み場もないほど散乱していた。かつて茉知が心を込めて整え、磨き上げていたこの家は、今や完全に荒れ果てている。ほこりが積もり、あの頃彼女が飾ってくれた愛らしい小物た
栄えある授賞式の日。茉知は自らの手でデザインした、ゴールドのロングドレスをまとい、艶やかなメイクを施し、堂々と自信に満ちた足取りで光り輝くステージへと歩み上がった。会場にいた全員が、その圧倒的な美しさとオーラに思わず息を呑んだ。無数のスポットライトが彼女の体に降り注ぎ、長く裾を引くゴールドのドレスが、光を浴びて星屑のように煌めいた。司会者が高らかに読み上げる紹介文は、彼女がこの栄光の場所へ至るまでの過酷な道のりを、一語一語、正確に言い表していた。「クライズ――卓越した才能を持つ、デザイナー。誰も思いつかない大胆な発想と独自の創造性を併せ持ち、形のない感情をドレスという芸術に溶け込ませることに長けている。強力な人脈も莫大なリソースも持たないゼロの状態から、ただ己の並外れた才能とたゆまぬ努力だけを武器に、小さな縫製工房からこの世界のトップステージへと歩み出しました」茉知の目が、自然と熱く潤んだ。ステージの上から、自分のために割れんばかりの歓声を送ってくれる人々を見渡した。事前に用意された横断幕や、きらきらと輝く応援ボードを手にして、1万人もの人々が集まるこの巨大な会場の中で、その温かい光が、まるで彼女だけのために存在する銀河のように広がっていた。絶望と痛みに満ちて、涙に暮れていたあの日々が、ようやく遠い過去のものになったのだ。一歩一歩、自分の足で前へ進み続け、体に重くまとわりついていた過去の枷を、今、完全に打ち砕いた。手渡されたマイクをしっかりと握りしめる。事前にスピーチ原稿を用意していたはずなのに、いざこのステージに立つと、用意していた言葉はすべて感動と高揚の波に溶けて消えてしまった。考えるより先に、心から湧き上がる素直な言葉が口をついて出ていた。「みなさん、こんにちは。星山茉知です。かつて私には、人生に挫折し、絶望していた時期がありました。実体のない一方的な感情と、大切にする価値のない人間のために、自分の6年以上の貴重な時間を無駄に費してしまいました。自分の仕事も後回しにして、自立した『私』という存在を見失い、毎日がひどく虚しくて、心は常に深い泥の中に沈んでいました。時にはもう完全に自暴自棄になって、この先もずっとこの暗闇のまま終わるのかもしれないと、本気で思い詰めることもありました。でも、あるきっかけ
スイスへやって来た最初の頃は、想像していたよりもずっと過酷だった。まったく見知らぬ異国で、言葉もろくに通じない。土地のルールも生活の勝手もわからない。住まいを購入する時にもトラブルが立て続けに起き、罰金もかなり支払う羽目になった。心の状態も、ひどく不安定だった。将吾と共に過ごした年月はあまりにも長く、どれほど彼に絶望しきって家を出たとしても、蓄積された感情というものはそう簡単に消え去ってはくれないのだ。ある深夜、気がつけば冷たい風の吹く大きな橋の上に立っていた。石造りの欄干にもたれかかり、暗い湖面をぼんやりと見つめながら、一人で声を殺して泣いていた。本当に、あまりにもたくさんのことがありすぎた。不意に、背後から力強い両手が伸びてきた。すばやい動作で茉知の体は欄干から引き下ろされ、その勢いのまま、茉知はその人物の体の上へと倒れ込んだ。「若いのに、死んじゃだめだ!人生、まだ見つけていない素晴らしいことがいくらでもあるんだから。前向きにいこう、悩みの一つもない人間なんてこの世にはいないんだからな」下敷きになっていたのは、ハーフのような整った顔立ちの男性だった。すっと通った鼻筋に、奥深い瞳は柔らかく甘い色気を帯びていて、ハッとするほど目を引く容貌だった。アスファルトで腕の皮膚が擦れ、血が滲んでいる。男は痛そうに顔をしかめて唸りながらも、それでも必死に慰めの言葉を並べ立てていた。茉知は慌てて起き上がり、内心少しだけ笑いたくなった。どうやら、自殺しようとしているのだと勘違いされたらしい。「ありがとう。でも大丈夫、そういう気はないから。私、誰よりも自分の命を大事にするタチなの」苦労に苦労を重ねて、ようやくあの地獄から這い出てきたのだ。どんなに辛くても苦しくても、この新しい命を簡単に手放すつもりなどなかった。生きてさえいれば、希望の種はいつでも芽吹く。でも死んでしまえば――本当に、何もかもが終わってしまうのだから。「もしかして……星山茉知さん?」男は目を大きく見開いた。その形の良い瞳に、信じられないものを見るような驚きの色が浮かんでいる。声が微かに上ずっていた。「異国のスイスで、私の名前を知っている人がいるなんて……もしかして、調べたの」茉知は警戒してすっと2歩後ずさり、じっと男の顔を睨みつけた。「望月将吾の恋人で
「クライズがデザインした『デザート・ギャラクシー』のウェディングドレス、ミラノ・ファッションウィークで国際的なトップモデルが着て登場したんだって!会場の全員が息を呑んだって。本当に最高だったわ」「あなたって、本当に生まれながらのデザイナーよね。ここに入って最初に作ったコートから、もう世界中に名声が広まったんだもの。今や毎日、取材の申し込みが殺到しているわ」「私たちも恩恵にあずかって、コラボの依頼がいくつも舞い込んでいるのよ。来週には名誉ある授賞式が控えているって聞いたわ。最高栄誉を受賞するアジア人デザイナーは、あなただけだって!」スタッフたちはテレビの生中継を囲みながら、その瞳に心からの喜びと賞賛の光をたたえていた。茉知は、そうした華々しい名誉に対しても、特別な高揚感を覚えることはなかった。これまであまりにも多くの試練を経験してきた人間だけが辿り着ける、揺るぎない静かな落ち着きが、すでに彼女の身に備わっていたのだ。手元にあるオーガンジーとシルクの生地をそっと撫でながら、この2つをいかにして美しく融合させるかを、ただ静かに思いを巡らせていた。「そういえばクライズ、ちょうどこの工房の設立日を確認していたのだけれど、今日ってあなたがここへ来てからちょうど3周年の記念日よ」茉知は、ふと手を止めた。脳裏に、あの頃の断片的な記憶が蘇ってくる。あの屋敷を出る時、将吾が執拗に自分の行方を追いかけてくるだろうことは容易に想像がついた。好きであれ嫌いであれ、彼は自分の所有物を強引に手元に留めようとする異常な執着心を持つ人間だった。だからこそ茉知は知人に頼み込み、周到に飛行機の墜落事故を偽装したのだ。模型を組み合わせてリアルな機体の残骸のダミーを作り上げ、人里離れた深山に投棄した。露見しにくい絶妙な場所を選び、ニュースの報道も電話連絡も、仲間たちと事前に口裏を合わせてタイミングを計り、ピンポイントで将吾の仕事用パソコンに届くよう仕組んだ。その後は自らの身元につながる情報をすべて抹消し、真っ新な新しい身分を手に入れてスイスへ渡った。手元の口座には、手切れ金として受け取った400億円以上の莫大な残高がある。すぐに景色の美しい場所を探してマンションを1棟まるごと購入し、ようやく、心の底からやりたいと願っていたデザインに向き合える完璧な環境が整った