Share

第4話

Author: チビッコ
彩葉は個室の中には戻らず、隅のボックス席に座った。強い酒を頼み一気に飲み干すと、焼けつくような熱さが喉から胃まで広がっていく。あまりの強さにむせて涙が出たが、その痛みは不思議と心の感覚を麻痺させてくれた。

さらに自分をごまかそうと、2杯目のグラスに手をかけたその時だった。カウンター席の向こう側から、突然激しい言い争いの声が聞こえてきた。

酔っ払った男たちが数人で揉み合っているらしい。罵声もどんどん大きくなっていく。

その周りにいた人たちも慌てて逃げ出し、その場は一瞬で騒然となった。

ガシャン、と甲高い音と共にビール瓶が彩葉のすぐそばの壁に叩きつけられた。ガラスの破片と酒が辺りに飛び散る。

彩葉はビクッと体を震わせた。何が起きたか理解する前に、また別の空き瓶がまっすぐ顔めがけて飛んできた。

彩葉はその場で固まってしまった。瓶がぶつかると思った瞬間、斜め後ろからものすごい力で腕を引かれた。

目の前がぐらりと揺れ、近くのソファ席に思いきり引き倒されたおかげで、飛んできた瓶からはかろうじて避けることができた。

状況が分からぬまま、顔を上げると、怒りに満ちた瞳と目が合う。

勲だった。

恐ろしいほど険しい顔つきの勲が、肩で息をしている。「死ぬ気か?」と、彩葉は低い声で怒鳴られた。その声は喧騒の中でもはっきりと聞こえるぐらいの大きさで、普段の勲からは想像もつかないほど感情的なものだった。

勲の怒鳴り声で、彩葉は耳がキーンとなった。死ぬ気なのかって?彼女はぼんやりと思った。もしかしたら、そうだったのかもしれない。なぜなら、さっきは本気でもうどうなってもいいと思っていたのだから。

アルコールと、先ほど頂点に達した絶望が混ざり合い、最後の理性が吹き飛ばされる。

彩葉は目の前にいる、長年愛し、恋焦がれてきた勲の顔を見つめた。ふっと笑みがこぼれたかと思うと、涙が溢れ出す。そして、かすれた声で言った。「そうね、もうどうだっていいの。ねえ、勲。結婚して今まで、本当に一瞬だけでも私のこと愛してくれたことなかったの?」

彩葉は目を逸らさずに、見つめ続ける。答えを彼の口から直接聞きたかった。たとえ答えが分かっていたとしても、どうしても諦めきれなかったのだ。

勲は不意の問いに一瞬虚をつかれたようだが、すぐに眉をひそめる。そして、口を動かし始めた勲だったが、言葉とはなっていなかった。

「キャー!」少し離れた場所から甲高い悲鳴がした。渚の声だ。勲を探しに来たのだろうが、騒ぎに巻き込まれてよろめき、暴れる男の腕が当たりそうになっている。

勲の意識は、一瞬でそちらに向いた。

視界の端におびえる渚の顔を捉えると、勲の顔色が変わった。そして答えを求めて袖を掴む彩葉の手を、力任せに振り払う。

お酒と昂った感情で体に力が入らなかった彩葉は、容赦なく振り払われたことにより、バランスを崩した。数歩よろめき、ドン、と鈍い音を立てて床に強く尻もちをついてしまった。

「いっ……」突き刺すような痛みが、下半身と床についた手のひらに走る。

シクリとした痛みと共に、じわりと何かが滲み出すのを感じた。

しかし、勲が彩葉に視線を向けることはなかった。

彼は怒る獅子のように走っていくと、酔っ払いを突き飛ばした。そして、恐怖で顔が青ざめている渚を、強く抱きしめて守る。

床に座り込んだままの彩葉は、耳鳴りが収まらないでいた。頭の中では、さっき勲が自分に叫んだ言葉が何度も繰り返されている。

「また10年前と同じように、人を危険な目に遭わせるつもりか?なんて残酷な女なんだ!人の命を奪った君なんかを、俺が愛せるわけがないだろう?」

心を抉られるような痛みとは、まさにこのことをいうのだろう。

誰かが警察と救急車を呼んだようで、この騒ぎはやがて収まった。

散らかった店内の中、勲は心配そうに渚に怪我がないか確認している。髪が乱れ、汚れた服で泣いている渚の涙は恐怖からくるもので、特に外傷はない。それなのに、勲は彩葉が一度も聞いたことのない不安と優しさに満ちた声で、渚を慰めていた。

彩葉は自力で立ち上がろうと床に手をついたのだが、手のひらに鋭い痛みが走り思わず息をのむ。血が指を伝って滴り落ちた。

しかし、誰も彩葉には気づかない。

やっと、通りかかった友人が「彩葉!その手どうしたの!ひどい血じゃない!」と悲鳴をあげる。

その声を聞いて、勲がようやく振り返った。

彼の視線が、彩葉の血だらけの手のひらと青白い顔に注がれ、一瞬動きが止まる。

だが次の瞬間、さっきの口論を思い出したのだろう。彩葉の言葉、そして渚が怯えていたこと……わずかに見えた動揺は、すぐに冷たい苛立ちの色に変わっていった。

勲は、彩葉に歩み寄ることさえしなかった。

ただ眉を顰めただけで、まだしくしくと泣いている渚を抱き寄せ、医療スタッフとともに、振り返ることなく外へ出て行ってしまった。

彩葉は、バーの出口に消えていく勲の背中を、ただ立ち尽くして見ていた。手からは血が流れ続けていたが、胸の痛みは、もう麻痺して何も感じなくなっていた。

病院に着くと、彩葉と渚は隣同士の診察室に通された。

渚の方には勲がずっと付き添い、優しく声をかけている。医者が「患者さんは驚いただけです。かすり傷一つありませんよ」と説明しても、勲は心配そうに何度も確認していた。

一方、彩葉は手のひらと足に刺さったガラスの破片を取り除いてもらっていた。消毒液が傷口に沁み、冷や汗が出る。だが彼女は、歯を食いしばって声一つ漏らさなかった。

手の傷の痛みよりも、隣からかすかに聞こえてくる勲の優しい声の方が、彩葉の心をじわじわと切り刻む。

「勲さん、怖かった……」

「もう大丈夫。俺がいるから。これからは、あんな場所に行かないようにしような」

傷の手当が終わると、その場にいた者たちは事情聴取のため警察署へ向かうことになった。

事情聴取が終わって警察署から出ると、もう深夜だった。

肌を刺すな冷たい風が吹きつける。

警察署の前で、勲は渚の肩を抱きながら車のドアを開けた。そして、彼女が乗り込むのを優しくエスコートする。

ドアが閉まり、エンジンがかかった。

勲は彩葉を待ってはくれなかった。

それに、振り返って一目見ることさえしなかったのだ。

黒い車はすぐに走り去り、あっという間に見えなくなった。

彩葉は一人、警察署の前の薄暗い街灯の下で、車が消えた方をじっと見つめていた。

彼女はゆっくりとその場にしゃがみ込み、腕の中に顔をうずめた。
Patuloy na basahin ang aklat na ito nang libre
I-scan ang code upang i-download ang App

Pinakabagong kabanata

  • 月明かりの下、君はもういない   第22話

    彩葉と英樹は、穏やかで充実した毎日を送っていた。少し肥満気味の丸々としたコーラも、家庭を明るくしてくれる存在だった。そして、英樹は約束通り、毎年決まってあの日には、真剣な顔で一度だけこう尋ねるのだ。「彩葉、もう一度俺と結婚しないか?」とっくに入籍しているのに。彩葉はいつも呆れたように笑いながら英樹を軽くにらむ。だが、心は幸せで満たされていた。勲という人間は、その名前と共に、二人の日常から少しずつ薄れていっていた。ある日、仕事から帰ってきた英樹は、どこか浮かない顔をしていた。彼は靴を脱ぐと、キッチンで料理を作っていた彩葉の背後に歩み寄り、何も言わずに後ろから彼女の腰に腕を回して、その肩に顎をのせた。「どうしたの?会社で何かあった?」彩葉はコンロの火を弱め、英樹の顔をのぞきこむ。英樹は少し黙ってから、低い声で言った。「さっき連絡があったんだけど、安西が……亡くなったって」おたまを手にしていた彩葉の手が、3秒ほどぴたりと止まった。そして「そう」とだけ、落ち着いた声でつぶやいた。彩葉はまた、おたまでゆっくりと鍋の中をかき混ぜ始める。立ちのぼる湯気が、その表情を隠した。「酒の飲みすぎで、持病だった胃の病気が悪化したらしい。発覚した頃には、もう手遅れだったそうだ。それに、一人暮らしだったみたいで、発見された時にはもう……」英樹は静かな声で続けた。彩葉は火を止め、鍋に蓋をした。彼女は振り返って英樹と向き合うと、「わかった」と一言言った。そして、心配そうに眉をひそめる英樹の眉間にそっと触れる。「ご飯、できたよ。手を洗ってきて。ご飯にしよう。今日はあなたの好物にしたから」彩葉の瞳を見つめていると、英樹の胸につかえていたもやもやした気持ちも、少しずつ晴れていくようだった。彼はうなずき、彩葉の額にキスをした。「うん」窓の外の綺麗な夕日が、ダイニングを暖かな色に染める。テーブルの下では、コーラが二人の足元をうろつき、クンクン鳴いて食べ物をねだっている。英樹が味のついていない骨付き肉をひとかけら投げると、コーラはすぐにそれをくわえ、短い尻尾を嬉しそうに振って走っていった。湯気が立っている味噌汁を、彩葉が二つのお椀によそう。そして、薬味の青ネギをぱらぱらとふりかけると、食欲をそそる香りが漂った。二人は向かい

  • 月明かりの下、君はもういない   第21話

    勲は、たまらなく彩葉に会いたかった。その想いこがれる気持ちは、退院する瞬間、最高潮に達した。車が彩葉の暮らす邸宅の前に停まると、勲は何だか違和感を感じた。邸宅の周りにはたくさんの車が停まっていて、門は花や風船で飾られているのだ。嫌な予感がして、心臓が冷たくなる。よろめきながら車のドアを開け、勲はちょうど出てきたスタッフらしき人を捕まえた。そして、かすれた声で尋ねた。「今日、ここで何かあるんですか?」スタッフは不思議そうに勲を一瞥する。しかし、勲の様子があまりにも不憫に思えたのだろう、丁寧に質問に答えてくれた。「今日は中島さんと入江さんの結婚式ですよ。参列者の方ですか?でしたら、招待状を拝見させていただけますか?」結婚式……英樹と彩葉の……勲は、頭を鈍器で殴られたような目眩に襲われ、立っているのもやっとだった。彼は車のドアに手をつき、荒い息を繰り返す。あ、ありえない。なんで、こんなに早く?勲はスタッフを突き飛ばした。相手の制止も、後ろにいた運転手の驚きの声も聞こえない。狂ったように、邸宅の中へと走り出した。周りの参列者たちは談笑していて、時折、奇妙な目で勲を一瞥するが、すぐにまたお喋りに戻る。しかし、勲にはそんな視線を気にする余裕はなかった。彼は、正面に置かれた白いバラのアーチを、食い入るように見つめていた。音楽が鳴り始める。聞き慣れた、結婚式のあの曲だ。アーチの向こう側にある扉が開く。そこから、彩葉が現れた。勲は、思わず息を呑んだ。陽の光が、少し俯いている彩葉の純白のドレスに降り注ぐ。その手にはブーケが抱えられていた。そんな彩葉は、いつもと全く違って見えた。自分の前でいつも見せていた、あの怯えたような、どこか悲しげな表情ではない。少し緊張しているようだったが、それ以上に期待に胸を膨らませているように見えた。その瞳が、キラキラと輝いている。彩葉は英樹の腕を組み、ゆっくりとバージンロードを歩いた。黒のタキシードに身を包む英樹は、凛々しい表情でずっと彩葉のことを見つめている。しかし、その顔からは、隠しきれない喜びが溢れていた。勲は、二人が一歩、また一歩と自分の方へ近づいてくるのを、ただ見ていた。頭は真っ白になった。思考が停止し、ただ一つの事実だけが頭をよぎる――

  • 月明かりの下、君はもういない   第20話

    腕と背中の擦り傷がヒリヒリと痛むが、勲は病院には行かなかった。胸がえぐられるような激しい痛みに比べたら、そんなかすり傷なんて無いも同然だったから。勲はあてもなく車を走らせ、やがて行き慣れたバーの前に車を停めた。アルコールが必要だった。後悔と絶望を麻痺させてくれる何かが。薄暗い店内の一番奥のボックス席に座り、勲はバーテンダーに声をかける。「一番強い酒を、とりあえず3杯」勲はそれを立て続けにあおった。強い酒が炎のように喉を焼き、胃を焦がす。それでも、冷え切った心は少しも温まらなかった。視界がぐらぐらと揺れ、二重に見える。騒がしい音楽も人の声も次第に遠のいていく。自分の重い心臓の音と、荒い呼吸だけがやけに大きく聞こえた。朦朧とする意識の中、彩葉がこちらに歩いてくるのが見えた気がした。あの淡い色の部屋着のままで、心配そうな顔をして。昔、自分が接待で飲み過ぎて帰ってきた時に、彩葉が夜中に起きてきて酔い覚ましの薬を用意してくれた時と同じ顔だった。「彩葉……」勲は呟きながら手を伸ばし、その幻を掴もうとした。「来てくれたのか……会いに来てくれたんだな……」しかし指先に触れたのは、冷たい空気だけだった。幻は消え、目の前には空っぽのボックス席と、鏡張りの壁に映る自分がいるだけ。その姿は無精髭で、目は真っ赤に充血し、見る影もないほど惨めだった。勲はぐっと目を閉じてから、ゆっくりと開く。その瞳には、さらに深い苦痛と、酔いが覚めた後の自嘲の色だけが浮かんでいた。更に一杯酒をあおった。刺激の強い液体にむせて、激しく咳き込む。以前このバーで、渚が友人たちの前で柚葉についての残酷な質問をした時のことを思い出した。そして同じ日に起こった、泥酔したもの同士の喧嘩も思い出す。彼らのいざこざの中で飛んできた酒瓶が、危うく彩葉に当たるところだった。あの時、自分は何も考えずに彩葉を庇って引き寄せた。後で冷静になってから、あれは責任感からそうしたのだと自分に言い聞かせた。彩葉は自分の妻という肩書きを背負っているのだから、と。しかしアルコールの力を借りた今、無視してきた恐怖心がはっきりと姿を現す。あれは責任感などではなかった。恐怖だったのだ。彩葉が傷つくのが、彩葉を失うのが怖かったのだ。とっくの昔に彩葉を愛していた。自分が気づくより、

  • 月明かりの下、君はもういない   第19話

    その鳴き声は警戒と敵意に満ちていた。しっぽを丸めて、さっと軒下へ駆け戻ると、勲からかなりの距離をとった。勲は呆気に取られた。持っていた犬用のおやつが、手からぽろりと地面に落ちる。犬でさえ、自分を受け入れてはくれないと言うのだろうか。「どうやら、犬でもいい人と悪い人の区別がつくらしいな」明らかに馬鹿にしたような声が、背後から聞こえた。勲は強張った体でゆっくりと振り返る。すると、いつの間にか帰ってきていた英樹が、すぐ後ろに立っていた。英樹はポケットに両手を突っ込み、冷たい目つきで勲と、勲に向かって吠え続けるコーラを交互に見ていた。勲の顔から、さっと血の気が引いた。まるで人前で平手打ちを食らったかのように、頬がひりひりと痛む。勲は何も言わなかった。ただ黙って、地面に落ちたおやつと、山のように持ってきた高級ペット用品を拾い上げる。そして立ち上がると、少しふらつく足取りで自分の車へ戻り、すぐにエンジンをかけて寂しげに去っていった。コーラの鳴き声だけが、まだ耳の奥で響いているようだった。その日の午後も、勲はいつもの場所に車を停めていた。彩葉が、コーギーと庭でフリスビーをして遊んでいるのが見えた。コーラは楽しそうに走り回り、彩葉も穏やかな笑みを浮かべていた。突然だった。フリスビーが変な方向に飛んでいったのか、それともコーラが自分で走り出したのか。コーラは勢いよく駆け出すと、庭の柵の目立たない隙間から外へ飛び出し、そのまま道路まで走って行ってしまった。「コーラ!」彩葉は驚いて声を上げ、急いで柵のそばまで追いかけた。ちょうどその時、スピードを落とさないままの一台の車がカーブを曲がってきた。運転手は、突然道の真ん中に飛び出してきたコーラに、全く気づいていないようだった。彩葉の顔が一瞬で真っ青になる。飛び出したくとも、もう間に合わない。まさに絶体絶命というその瞬間、ずっとその様子を見ていた勲は、頭で考えるより先に体が動いていた。勢いよく車のドアを開け、まるで矢のように飛び出した。迫ってくる車を確認する余裕もない。目には、彩葉が宝物のように可愛がっている犬しか映っていなかった。勲はコーラに飛びかかると、ぎゅっと腕の中に抱きしめた。そして自分の体を盾にするようにして、そのままの勢いで道端へと転がった。キーッという耳障りな急ブレー

  • 月明かりの下、君はもういない   第18話

    勲は諦めていなかった。彩葉の人生から、自分がこのまま消えてしまうなんて耐えられない。勲は毎日、決まった時間に英樹の家の前に現れた。だが、もうインターホンを押すようなことはしなかった。ただ車を路肩に寄せ、プレゼントを手に玄関先まで歩いていく。届けるものは、毎日少しずつ違っていた。あるときは、一流レストランが特別に仕立てた栄養食。包装は上品で、まだほのかな温かさが残っている。またある時は、高級なサプリメントの詰め合わせだったり。それも、綺麗なプレゼントの箱に入っていた。またある時は、彩葉が昔、何気なく好きだと言っていた画家の画集を、オークションや個人コレクターから手に入れてきたりもした。勲はそっと玄関先にプレゼントを置くと、少し離れた車のそばまで戻って、静かに待った。ただの儀礼的なものであってもかまわない。彩葉が受け取ってくれることを願いながら。しかし、彩葉の態度は決して変わらなかった。毎日、勲がプレゼントを置いて姿を消した直後に、家のドアが開く。大抵の場合、出てくるのは家政婦か英樹で、彩葉本人が出てきるのは稀だった。そして、彼らは無表情で、勲が持ってきたものすべてを手もつけずに外へ持ち出すと、何の躊躇いもなく、道端のゴミ箱に捨てた。あの高価な食べ物も、貴重なサプリメントも、心を込めて選んだプレゼントも、こうして普通のゴミと一緒に収集車に運び去られていく。車の中でその全てを見ている勲の心臓は、ナイフでゆっくりと切りつけられていくようだった。ある日、彩葉が自ら出てきて、届けたばかりの空輸された新鮮なフルーツをゴミ箱に捨てた時、勲は思わず車のドアを開けて歩み寄った。「彩葉!」勲は彩葉を呼び止めた。声には、押し殺した苦悩と未練がにじむ。「どうしてなんだ?どうしてチャンスをくれない?俺はただ、君に償いたいだけなんだ。贈り物だって、体に良いものばかりを選んでいるのに、なんで受け取ってくれないんだ?」彩葉が落ち着いた表情で振り返った。「勲。前にもはっきり言ったと思うけど、私たちの間にはもう、何の関係もないの。だから、もうあなたと関わりたくない。あなたの親切心も受け取りたくないし、あなたの贈り物だって、私にとっては負担でしかない。もう持ってこなくていいし、ここにも来ないで」そう言うと、彩葉はもう勲を見ずに背を

  • 月明かりの下、君はもういない   第17話

    勲は、考えつく限りの方法を試していた。探偵を雇い、情報技術を使い、これまで頼るのを渋っていた人脈さえも動かした。彩葉の行方を探す勲は、ほぼ半狂乱に近かった。そんな中、ようやく居場所を突き止め、彩葉と英樹が一緒にスーパーに入る防犯カメラの映像を見たときは、心臓を鷲掴みにされた。切なくて、痛くて、そして恐怖を感じた。毎年しつこく言い寄ってきていた、あの英樹が、本当に彩葉のそばにいる。勲はもう一秒も待てず、すぐに車を走らせた。その家の前に車を停めたときには、もう日が暮れかかっていた。車の中で煙草を半分近く吸ってから、やっと覚悟を決めて車を降り、インターホンを押した。ドアを開けたのは彩葉だった。部屋着のワンピースに薄手のカーディガンを羽織り、髪はゆるく後ろでまとめていた。顔色はまだ少し青白いけれど、前回会ったときの死人のような姿とは全然ちがう。瞳にも光が戻り、虚ろな感じはなかった。勲の心臓は大きく跳ねた。思わず彩葉の名前を叫びそうになる。だが、視線が合った瞬間、すべての言葉が喉につまって出てこなかった。勲を見た彩葉は、明らかに固まっていた。穏やかな表情は一瞬で消え、眉をひそめた。その瞳には驚きと警戒の色が宿る。勲は、はっきりと悟った。この5年、自分はずっと柚葉のことが忘れられないのだと思っていた。彩葉に対しては、責任と憎しみしか感じていないと。だが今、こうして目の前にいる彩葉を見て、はっきりとわかった。いつの間にか彩葉の存在が当たり前になり、そばにいることに安らぎを感じて、愛してしまっていたのだ。「彩葉」やっとのことで絞り出した声はかすれ、震えていた。「やっと、会えた」しかし、彩葉は何も言わない。ただ勲を見つめて、次の言葉を待っている。その視線に耐えられず、勲は頭が真っ白になった。用意していた言葉は消え、とっさに口から出たのは「なんで、離婚届の無効を申立てなかったんだ?」という一言。言った瞬間、なんて馬鹿なことを、と後悔した。案の定、彩葉の眼差しはさらに冷たくなった。彼女はかすかに口の端を吊り上げると、質問には答えず、静かに問い返した。「何か用?」勲は焦って一歩踏み出し、彩葉の手を取ろうとする。「彩葉、そんな他人行儀な態度をとらないでくれよ。俺が悪かった。俺は最低だった。君を信じなくて、ひどいこ

  • 月明かりの下、君はもういない   第12話

    勲は、よろめきながら警察署を出た。外は日差しが眩しく、車の騒音がうるさい。でも、全身は冷え切っていて、耳の奥では啓太の最後の言葉が繰り返され、脳裏からは家を指し示す位置情報が離れない。柚葉を思い出すためにそばに置いていた、あの渚が……彩葉を死の淵に追いやった、あの拉致事件に関係しているとでもいうのか?それ以上深く考えるのは怖かった。考えようとすると、胃の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような気分になる。携帯を取り出した。しかし、指の震えが止まらず、何度か試して、やっと画面のロックを解除できた。すぐに誰かに調査を頼まなければ。そう思った矢先、電話が鳴った。画面には「入江穂花」

  • 月明かりの下、君はもういない   第11話

    「彩葉、また君か……」同じ言葉、同じためらい。そして聞こえてきたのは、冷たくイライラした、疑いに満ちた自分の声だった。「彩葉、一体何の芝居だ?そんな手で俺を騙そうなんて。これで何回目だと思ってるんだよ?」そして、録音は終わった。会議室は、死んだように静まり返っている。勲はまるで石像のようにそこに座り込んでいた。録音から流れてくる自分の声は、聞き慣れているのにどこか見知らぬ声のように聞こえた。でも、これは芝居なんかじゃない。彩葉は、本当に助けを求めていたのだ。なのに、自分からも、親からも、彩葉は深く傷つけられ、見捨てられた。彩葉がボロボロの姿で家に帰ってきた、あの日の

  • 月明かりの下、君はもういない   第10話

    勲は西区警察署の受付ロビーに駆け込んだ。髪は乱れ、ジャケットも半分ずれ落ちている。目も充血していて、普段の隙のない姿とはかけ離れていた。受付の警察が顔を上げ、勲を見て言った。「どうされましたか?」「安西彩葉の事件を担当している方をお願いします」勲の声は焦りから、少し掠れる。警察は勲の身元を確認すると、小さな会議室へと彼を通した。部屋にはすでに制服を着た中年の男性が座っていた。山田啓太(やまだ けいた)という刑事で、厳しい表情をしている。「安西さんですね。どうぞお掛けください」啓太が向かいの椅子を指差した。勲は腰を落ち着ける間もなく、身を乗り出す。「刑事さん、彩葉は一

  • 月明かりの下、君はもういない   第9話

    飛行機の窓の外には、見慣れた街の明かりが広がっていた。しかし、勲の心には、いつもの着陸時のような落ち着きはなかった。むしろ、どんどんと強くなる焦りと不安に襲われている。その不安は、家に帰る車に乗り込み、窓の外を流れるように過ぎていく夜景を眺めているうちに、頂点に達した。助手席の渚は、旅行が早く終わってしまったことに対して、まだ小声で文句を言っている。柚葉によく似たその顔には、隠す気もない失望と、甘えるような不満が浮かんでいた。いつもの勲なら、優しい言葉でなだめたり、次はもっと楽しませてあげるよ、なんて約束したりしたかもしれない。だが今の勲には、その声がうるさく、その顔を見て

Higit pang Kabanata
Galugarin at basahin ang magagandang nobela
Libreng basahin ang magagandang nobela sa GoodNovel app. I-download ang mga librong gusto mo at basahin kahit saan at anumang oras.
Libreng basahin ang mga aklat sa app
I-scan ang code para mabasa sa App
DMCA.com Protection Status