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月明かりの下、君はもういない
月明かりの下、君はもういない
Auteur: チビッコ

第1話

Auteur: チビッコ
結婚して5年。安西彩葉(あんざい いろは)は、ようやく夫である安西勲(あんざい いさお)が、自分のことを愛し始めてくれている、そう感じていた。

最初は他人行儀な勲だったが、時間の経過と共に、自分のアレルギーの薬を覚えてくれたり、手料理も食べてくれるようになった。それに、友人にも自分のことを「妻」として紹介してくれるようになったのだから。

一緒に過ごしていく中で、氷のようだった勲の心もようやく溶けたのだと、信じていた。そして、自分の亡き姉である入江柚葉(いりえ ゆずは)への想いも、勲は断ち切り、やっと自分のことを見てくれるようになった……そう思っていた。

そんな日々の中で、毎年ある日には、諦めの悪い幼馴染みの中島英樹(なかじま ひでき)によって彩葉は役所まで連れ出され、彼からプロポーズを受けるのだった。そして、英樹の手には彼の欄が記入済みの婚姻届が握られているのだ。

彩葉は毎年のように、自分はもう既婚者なのだと断ろうとした。

そんな彩葉に構わず、英樹は記入済みの婚姻届を手に、市民課の受付へと進む。「すみません、婚姻届を提出したいのですが……」毎年この日になると強引に自分を役所に連れてくる英樹を、彩葉は呆れたように見つめた。

こんな毎年の茶番に、彩葉が付き合っているのには訳があった。5年前、彩葉が車に轢かれそうになった時、身を挺して車から守ってくれたのが英樹だったのだ。その後、彩葉の代わりに大怪我を負った英樹が、病院のベッドに横たわりながら、か細い声でこう言った。

「彩葉、もし今回のことで負い目を感じているなら、これから毎年、この日になったら、俺と一緒に役所に行ってくれないか?10分だけでいい。少しでいいから、チャンスが欲しいんだ」

「申し訳ありません。安西様は現在、離婚届受理中ですので、受理されてからでないと、婚姻届を受け付けることができません」と、パソコンでシステム検索をかけたらしき役所の職員が、不思議そうな顔で言った。

「ほら、だから私は結婚してるって言ったで……え?離婚届受理中?」彩葉は唖然として、職員の方を見た。

職員は事務的な口調で答えた。「はい。配偶者の方が、数日前に離婚届を提出されておりますが。何か、問題でもございましたか?」

彩葉はその場で固まってしまった。隣にいた英樹も驚いた様子だったが、すぐに彼女の方を向き直ると、希望を隠せない様子で言う。「じゃあ今度こそ、俺にもチャンスはあるってことだよな?」

彩葉は呆然とその場に立ち尽くすことしかできなかった。職員に無理を言って見せてもらった、パソコンの画面には、確かに『離婚届受理中』の文字があった。

役所を出ると、英樹はポケットから携帯を取り出し何かを確認した。「彩葉」彼の声のトーンが少し真剣になる。「俺、ちょっと用事があって、少しの間海外に行かなきゃいけないんだ」

英樹は一瞬言葉を切り、彩葉の真っ青な横顔を見た。そして、優しい声で続ける。「もしだよ?もし、離婚届が受理されても、お前が家庭裁判所に協議離婚無効確認調停の申立てをしないつもりであれば……」

彼は言葉を選ぶようにゆっくりと、一つ一つの言葉に探るような響きを乗せた。「帰ってきたら、チャンスが欲しいんだ。いいかな?」

チャンス?彩葉は口の端を歪めて自嘲したが、声が喉から出てくることはなかった。

その後、彩葉はどうやって自分が車を運転して家に帰ったのか、全く覚えていない。

ただ、前方車両に続き走るロボットのように、赤信号と青信号をぼんやりと見送ってきただけ。

頭の中には、ただ「離婚」という言葉だけが漂うだけで、その他には何もなかった。

家に帰ると、案の定、勲の姿はない。

彩葉は部屋の電気もつけず、靴を脱ぐと、冷たいフローリングを素足で歩いた。冷たさが、足の裏から頭を貫く。

鞄の中で携帯が一度、そしてまた一度と震えた。

彩葉はゆっくりと携帯を取り出し、画面を確認する。すると、知らないアドレスからのメッセージが2件、届いていた。

1件目は、一枚の写真。

少し薄暗い、どこか高級な会員制のバーの廊下のような場所で撮られたもの。

その中の勲はある若い女性に顔を寄せていて、女性も勲を見上げてにこやかに笑っている。とても親密そうな様子だ。

写真は少し画像が荒かったが、彩葉はその女性の顔立ちをはっきりと認識することができた。

彩葉の指がぴたりと止まる。

その顔をじっと見つめ、思わず息を飲んだ。

あまりにも似すぎている。

笑った時の口元、少しつり上がった目尻。それは、勲が書斎の引き出しに大切にしまっている、彩葉の姉である柚葉の写真にそっくりだった。

彩葉は、はっと思った。柚葉が亡くなってから、もう10年が経つ。

すぐに2件目のメッセージも開いた。それは、たった一文だけの短いメッセージ。【99人目にして、やっと柚葉に一番似た子を見つけた】

携帯が手から滑り落ち、カタンと音が響く。

結婚して最初の2年間、勲は彩葉に対して丁寧ではあったが、どこかよそよそしかった。

勲の誕生日に、彩葉は勇気を出して、腕によりをかけたご馳走を作った。しかし、彼はそれを一瞥し、「ありがとう」と言っただけで、テーブルの隅に置いた。そして、料理が冷めて固くなるまで、一口も手をつけなかったのだ。

あの頃の彩葉は、柚葉が亡くなってまだ数年しか経っていないのだから、勲にはまだ時間が必要なのだ、と自分に言い聞かせていたし、待つつもりだった。

その後、勲の態度は少しずつ柔らかくなっていった。

彩葉が風邪を引いた時には、何も言わずに薬と水をベッドサイドに置いてくれた。

彩葉が彼の好物を作ると、決して多くは食べなかったが、「美味しい」と頷いてくれるようにもなった。

勲の方から、寝室を一緒にしようと提案してくれたこともあった。

その時、彩葉は緊張と期待で胸がいっぱいだった。しかし、勲はただ、深夜に無意識に寝返りをうった時に、彩葉の腰にそっと腕を回すだけだった。

体が強張り動けなかった彩葉だったが、心の中には、小さな花が咲いたようだった。

勲は彩葉を友人との集まりに連れて行き、「妻の彩葉」と紹介して、ごく自然に肩を抱いてくれた。

友人たちが「勲も、奥さんができてから随分柔らかくなったな」と揶揄うと、勲はただ笑うだけで、特に否定することもなかった。

去年の彩葉の誕生日。この日は、彩葉の誕生日でもあり、柚葉の命日でもあった。

その日、彩葉が仕事から帰ると、ダイニングテーブルに綺麗なケーキが置いてあるのが見えた。そんなに大きくない、シンプルなショートケーキ。すると、エプロン姿の勲がキッチンから出てきた。手には彩葉の大好物であるエビ料理の皿を持っている。

「おかえり」勲はいつもと変わらない様子で言った。「手を洗ってきて。ご飯にしよう」

彩葉は玄関に立ち尽くしたまま、カバンの持ち手を強く握りしめた。声が震える。「今日って……」

「分かってるよ」勲は皿を置くと、彩葉のそばに来て、そっと髪を撫でてくれた。「命日は故人を偲ぶ日だけど、誕生日は誕生日で祝わなきゃ。そうだろ?彩葉」勲は彩葉の目をじっと見つめて言う。「君も、とても大切な人なんだ」

その夜、勲はケーキに蝋燭を立てて、彩葉に願い事をするように言った。

揺れる蝋燭の火を前に、彩葉は目を閉じて願う。これから先も、毎年勲と一緒に誕生日を過ごせるように、と。

勲の心が、やっと自分に開かれたのだと、そう思っていた。

しかし、そうではなかったらしい。

胃の奥から何かがこみ上げてきて、彩葉は慌ててトイレに駆け込んだ。便器に向かって何度もえずいたが、何も吐き出すことはできず、ただ涙で視界が滲むだけだった。

吐き気が収まると、冷たい洗面台のふちに手をついて、鏡に映る、目を真っ赤に腫らしたみじめな自分の顔を見つめる。

彩葉。

本当に救いようのない、馬鹿な女。

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