FAZER LOGIN蒼海市きっての名家、御影家の御曹司である御影治正(みかげ はるまさ)の母が、何者かに階段から突き落とされて植物状態となり、10年後、ついに意識を取り戻した。 蒼海市の名士たちはこぞって見舞いに訪れ、御影夫人を前に、治正がどれほど親孝行な息子か、母を突き落とした犯人を10年間も罰し続けてきたかを競うように語った。 たとえその犯人が治正の高校時代の恋人であろうと、彼は一切容赦しなかったと。 だが全員が話し終えると、長い間黙っていた御影夫人は不思議そうに首をかしげた。「犯人って、誰のこと?私を突き落とした人なんていないわ。自分で足を滑らせただけよ」 カラン。 治正の手から、果物ナイフが床へ落ちた。 治正は愕然として顔を上げた。「母さん、今、なんて言った?」 母を植物状態にしたのは、雪村黎月(ゆきむら りつき)ではなかったのか? だが、出所した黎月に片目の見えないホームレスと一生暮らすよう命じてから、すでに3年が経っていた……
Ver mais2億円は下らない高級車が、目立たないように裏街へ入ってきた。黎月と安海が3年間暮らした古いアパート。錆びた鉄パイプや崩れかけたレンガの壁には色とりどりの造花が飾られ、ベランダには安物ながらきらきら光る電飾が下がっていた。黄ばんだ窓には、子どもが喜びそうな色紙も貼られている。すべて、黎月が帰ってくると知った安海が飾ったものだった。安海の顔には、治正に殴られた傷がまだ残っていた。見えない片目と顔の傷痕は痛々しかったが、笑顔はどこまでも優しい。黎月の好きな料理をテーブルいっぱいに並べ、落ち着かない様子で帰りを待っていた。高級車から降りた黎月を見ると、安海は喜んで駆け寄り、体を隅々まで確かめた。「黎月、あの人にひどいことされなかった?」黎月は笑って首を振った。「お腹が空いた。安海さんのローストチキンが食べたいな」声は弱く、かすかだった。安海は、残された時間が数日しかないかもしれないと知っていた。ぎこちなくうなずき、涙を堪えながら笑顔で黎月を家へ迎えた。「黎月はきれい好きだから、いない間も言われた通り毎日お風呂に入って、部屋も掃除してたよ。新しい漢字も500字覚えたし、今では詩だって暗唱できるんだ。地域の支援窓口で仕事を紹介してもらって、今度面接にも行くんだよ!黎月が僕を変えてくれたんだ。だから、いなくならないで。黎月がいなくなったら、僕はまたホームレスに戻っちゃう。どうしたらいいんだよ……」安海は途切れることなく話し続けた。黎月は微笑んで見つめ、流れる涙を優しく拭った。一方、治正は古びたアパートの外から、愛する女が別の男と寄り添う姿を見ていた。嫉妬より先に、耐えがたい悲しみが襲った。――黎月はもうすぐ死ぬ。――俺は彼女から、大学進学の夢も、健康な体も、人としての尊厳も、家族も奪った。彼女は高校最後の1年をいじめに耐えて過ごし、濡れ衣で服役し、消えない無念を抱えたまま、苦しみの中で旅立とうとしている。治正は自分を痛めつけるように、その様子を見続けた。安海が黎月へ食事を運び、おかずを取り分ける。食後には、黎月が歌や漢字、詩を優しく教えていた。治正は黙って涙を拭った。だが涙は次々と溢れ、どれほど拭っても止まらなかった。やがて黎月はあくびをし、細い腕を安海の首へ回して甘えた。「安海さん、眠くなった。お庭でひなた
治正は毎日、黎月に薬を飲ませ、注射や抗がん剤治療を受けさせ、十分な栄養を取らせた。黎月が拒めば、安海を傷つけると脅した。嫉妬で胸が痛んでも、この脅しだけは必ず効いた。手厚い看護を続けるうち、黎月の顔色は目に見えて良くなり、痩せきった体にも少し肉がついた。日に日に元気を取り戻す姿を見て、治正は喜んだ。――本当に治せるかもしれない。だが改めて詳しい検査を受けると、結果は治正の希望を残らず打ち砕いた。黎月の体は、何ひとつ良くなっていなかった。高価な分子標的薬も特効薬も、がんの進行を止められなかった。命は1日も延びていない。残された時間は、1か月にも満たなかった。検査結果を握る治正の周りで、医療スタッフは皆うつむき、重苦しい沈黙が流れていた。黎月だけが、肩の荷が下りたように穏やかだった。治正がぎこちなく顔を向けると、黎月は皮肉な目で見返した。「御影さん、どれほど権力を振りかざしても、死神から人を奪い返すことはできないんですね」黎月は声を上げて笑った。治正の傲慢さを、残酷さを、そして今の無力さを嘲るように。だが笑っているうちに、何度も血を吐いた。医療スタッフが注射や薬で必死に処置をしても、吐血は止まらない。最後には、どれほど優れた専門医にも手の施しようがなくなった。治正は骨ばった体を抱きしめ、絶望に崩れ落ちた。「どうしてだ?少しずつ元気になってたじゃないか。食べる量も増えて、顔色だって良くなってたのに……必ず治す。どんな代償を払っても、絶対に生かしてみせる!」治正は部下へ怒鳴った。「捜せ!国内外を問わず、がん治療の権威を全員ここに集めろ!早くしろ!」その叫びを、黎月の冷たい手が止めた。そっと治正の口を塞いだ。「もう無駄なことはやめてください。私は助かりません。両親も妹もいないのに、私を生かしてどうするんですか?毎日、家族を失った苦しみだけを抱えて生きろと言うんですか?御影さん、私を解放してください。ご自分を苦しめるのも、もうやめてください。私一人を生かしたところで、父や妹が戻ってきますか?父の汚名が晴れますか?犯人という汚名と前科者のレッテルを背負ったまま、惨めに生き続けろと言うんですか?」治正の心は、完全に打ち砕かれた。少なくとも黎月自身はまだ生きたがっている。そう信じて
治正の邸宅。よく晴れた日の庭で、黎月はゆったりとした部屋着をまとい、パラソルの下に座っていた。治正は痩せ細ってもなお美しい横顔に、しばらく見入っていた。やがて薬を手に歩み寄る。黎月の本を取り上げた。「黎月、薬の時間だ」思考を遮られた黎月は、嫌悪を隠さず顔を背けた。治正に無理やり気を失わされ、この邸宅へ連れてこられてから1か月が経っていた。毎日医療スタッフが出入りし、抗がん剤治療や分子標的薬の投与、服薬をはじめ、あらゆる治療が強制的に続けられた。傷んでいた髪はすべて抜け落ち、今はバケットハットで頭を隠していた。拒絶されても、治正は根気よく声をかけた。「黎月、薬を飲めば痛みが楽になる」「安海さんの真似をしないでください。あなたは安海さんではありません」黎月は冷たく言い放った。治正の手が震えた。それでも無理に笑みを作る。「分かった。もう真似はしない。飲め。逃げても無駄だ」――そうだ。自分は逃げられない。生きたいと強く願っていた頃は、治正の復讐から逃げられなかった。静かに死を待つ今は、治正が押しつける治療から逃げられないのだ。黎月は薬の入った器を奪い取り、一気に飲み干した。涙と、口元からこぼれた薬が頬を伝った。治正はいつものように、優しく口元を拭った。黎月は尋ねた。「御影さん、治った後は、今度こそどんな復讐をするおつもりですか?」治正の手が止まる。黎月は続けた。「残った耳も聞こえなくしますか?片目を潰しますか?路上で歌や踊りをさせますか?それとも……御影さんと結城さんのために、またコンドームを届けさせますか?ここまでして助けるのは、まさか犯人扱いしてきた私にまだ未練があるわけではありませんよね?」黎月の目は嘲りに満ちていた。それでも治正は怒らなかった。「そうだ。お前は犯人だ。だから俺が許さない限り、死ぬことも許さない。俺が満足するまで、生きて罪を償え。勝手に死んだら、黎月が大切にしている人間を一人残らず苦しめる。父親も妹も、遺骨さえ残さない」治正は黎月の耳元へ顔を寄せ、凍るような声で付け加えた。「あの安海という男もだ」ぱんっ!乾いた平手打ちの音が響いた。「御影さんは最低です!」治正の頬に赤い手形が浮かんだ。だが胸には、むしろ熱が戻ってきた。1か月の間、黎月が冷淡さ以外
その一言で、治正の感情が一気に溢れ出した。治正は黎月を強く抱きしめた。「俺が悪かった。全部俺が悪い。黎月、迎えに来た。もう、そんな男のそばでつらい思いをしなくていい!」黎月は治正を静かに押し返し、片目の男へ駆け寄った。心配そうに体を支え、小声で尋ねた。「大丈夫?」それから治正へ向き直った。「御影さんにご心配いただく必要はありません。安海さんと結婚して、つらいと思ったことはありません。あの時、私をここへ捨ててくださったことには感謝しています。そうでなければ、こんなに優しい人とは出会えませんでした。それから、夫をゴミ扱いしないでください。この人には森田安海(もりた やすみ)という名前があります」治正の胸が切り裂かれるように痛んだ。黎月の言葉が本心なのか、それとも自分への当てつけなのか分からない。治正は顔をこわばらせ、喜びと怒りが入り混じるのを必死に抑えた。「黎月、本気なのか?本当に、あんな男がそれほど大切なのか?」――何にせよ、黎月が生きているのなら、そんな男のことなど完全に忘れさせてやる。「ええ」黎月は冷たく答えた。「また安海さんを傷つけるつもりですか?私の父や妹にしたように?」だが、もうどうでもよかった。黎月に残された時間は、3か月にも満たない。3年前、黎月の呼吸が止まりかけた時、彼女を抱えて助けを求めていた安海は、偶然、胃がんの研究チームと出会った。研究チームは治験中の分子標的薬を投与し、黎月の命を3年間つないだ。だが3年が経ち、薬の効果が切れれば、黎月は死ぬ。今も生きていられるのは、安海が定期的に研究施設へ行き、薬を受け取ってくれているからだった。それでも薬にできるのは痛みを和らげることだけで、がんの進行は止められない。すでに手の施しようはなかった。黎月は顔を歪め、激痛をこらえるように腹を押さえながら安海にもたれかかった。安海は地面に散らばった薬を慌てて拾い、震える手で黎月の口元へ差し出した。「黎月、薬……」治正は大股で近づき、安海を殴って突き飛ばした。「黎月を気安く呼ぶな!何を黎月に飲ませるつもりだ!?」錠剤が地面へ落ちた。安海は痛みなどものともせず錠剤を拾い、再び黎月へ差し出した。「黎月、これを飲めば、お腹の痛みが楽になるから」そこでようやく、治正は異変に気づいた。