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第5話

Author: キャンディーとても甘い
その足取りはふらつき、今にも倒れそうだった。

南雄の顔色は一瞬で鉄のように硬直し、堪忍袋の緒が切れたように早足で近づくと、希枝を横抱きに抱え上げた。

そして一度も振り返らず、流星のごとく早足で個室を後にした。

その去っていく背中には、焦燥と決意が滲んでいた。今の彼にとって、希枝こそが唯一無二に大事な存在。

他のすべては後回しにできる──茜さえも。

個室に残されたのは、ほとんどが南雄の友人たちだった。彼らはこうした場面にもう慣れきっているようで、短くため息を漏らしたあと、何事もなかったかのようにまた騒ぎを再開した。

さっきの劇的な一幕も、彼らにとってはただの余興にすぎず、すぐに忘れ去られていく。

ただ一人、純朴な研修医だけが、気まずそうに、そして戸惑いながら角の席にいる茜へと視線を向けた。

「お、奥さん……大丈夫ですか?」

茜は、自分が今どれほど惨めな姿をしているか理解していた。

でなければ、この研修医が今にも泣きそうな顔を見せるはずがない。

彼女は麻痺した口元を無理に引き上げようとしたが、笑みにはならなかった。胸の奥に広がるのは、苦みと絶望ばかり。

結局、無言で立ち上がり、ただ一人で個室を出て行った。

だが、部屋を出た途端、何が起きたのか理解する間もなく、背後から伸びてきた手が彼女の口と鼻を強く塞いだ。

次の瞬間、強い力で後ろへと引きずられた。必死にもがいたが、その腕はまるで鉄の鉗のように固く、逃れることはできなかった。

そして彼女は、暗闇の中へと引きずり込まれていった。

恐怖は津波のように一気に押し寄せ、茜を飲み込んだ。全身の力を振り絞って抵抗しても、相手の力は圧倒的だった。

吐きかけられる息は鼻腔を突く悪臭を伴い、全身の毛が逆立った。

「やっぱり希枝は嘘つかなかったな。このきめ細かい肌……そそられるぜ」

吐き捨てられた下卑た言葉に、恐怖と怒りが入り混じり、茜の理性は崩れそうになった。

彼女は空いていた個室へ乱暴に押し込まれた。恐怖で手足は痺れ、力が入らない。

男が再び飛びかかろうとしたその瞬間、茜は舌を思い切り噛み切った。

鋭い痛みが意識を引き戻し、血の味を無視して、テーブルの上の灰皿をつかみ、渾身の力で男へ叩きつけた。

「クソッ、この売女が!散々男に使われたくせに、今さら純情ぶってんじゃねえ!」

怒鳴りながら再び襲いかかろうとする男。

だが、その瞬間、入口から何かが割れる音が響き、男はびくりと身をすくめた。額を押さえ、罵声を吐き捨てながら、慌てて逃げ出していった。

茜はあふれる涙を必死にこらえ、震える腕を押さえながら、その場を足早に後にした。

角を曲がった階段の前で、希枝が待ち構えていた。

彼女の視線は茜の裂けた袖に注がれ、すぐに唇の端が意地悪く吊り上がった。

「もう出てきたの?満足できなかったんだ?じゃあ、もっと人数増やしてやろうか?」

茜はずっと前から知っていた。希枝は骨の髄まで腐りきっていると。その卑劣なやり口は一度も隠されたことがない。

かつて茜の元カレ・三浦清水(みうら きよみ)を奪い取った彼女は、今また笠原南雄を狙っている。目的のためなら手段を選ばず、何度も茜の嫌悪感の限界を塗り替えてきた。

さっきの男の汚らしい言葉を思い出し、茜の怒りはついに爆発した。一歩踏み出し、渾身の力で希枝の頬を打ち抜いた。

だが、その瞬間、何かがおかしいと気づいた。

希枝は避けもせず、逆にあの冷酷な笑みを浮かべていた。

次の瞬間、茜が反応する間もなく、希枝の体は階段を転げ落ちていった。

「希枝!」

南雄の焦った叫びが響いた。彼は勢い余って茜にぶつかり、階段の手すりの角へと叩きつけた。

瞬時に鋭い痛みが背骨から炸裂し、無数の針で同時に突き刺されたかのようだった。その痛みは一瞬で広がり、体の半分が感覚を失った。

茜は体を手すりにもたれて、大きく荒い息を切らし、額には汗が玉となって止まることなく流れ落ち、顔色もすっかり青ざめていった。

しばらくして、激しい痛みの波がようやく引いた茜が顔を上げて周りを見ると、南雄の目線が、すでに冷たく自分に向けられていることに気づいた。

その目には、この五年間で一度も見たことのない冷酷さと怒り、そして濃い殺気が宿っていた。

「南雄……茜は昔、三浦さんを失ったことがあって……私のせいで、その時のことを思い出しちゃっただけ……」

希枝は弱々しい口調で言い、まだ言い終えていないうちに、わざとらしく痛そうな声をもらし、それから痛みをこらえるように手首をぎゅっと握りしめた。その様子は、まるで大きな悔しさを抱えているかのようだった。

南雄の顔色はまるで墨で染めたかのように、どす黒く、重苦しい怒りを漂わせていた。

彼は冷たく茜を見つめながら、噛みしめるように言った

「あ、か、ね!謝れ」

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