LOGIN夫の久我直哉(くが なおや)と結婚して八年。私たちは、周囲から誰もが認める理想の夫婦だと言われていた。 けれど、彼の会社が上場セレモニーを迎えたその日、私、宮沢花音(みやざわ かのん)は離婚協議書を差し出した。 祝賀パーティーの席で、彼は私を人気のない隅へ引っ張っていき、真っ赤に充血した目で私の手首をつかんだ。「俺たちは一緒に、いちばん苦しい時期を乗り越えてきたんだ。ようやくここまで来たのに、どうしてこんな時に何もかも捨てようとする?」 私は静かに手を引き抜き、自分の決意を告げた。「それと、私は何も受け取らずに出ていく」 直哉はかすれた声で折れるように言った。「本当にもう俺を愛していないなら、行かせてやる。だが、この会社をここまで大きくできたのは、君のおかげでもある。財産は半分、君が受け取るべきだ」 けれど私はただ首を横に振り、一語一語、はっきりと告げた。「一円たりとも要らない」 その瞬間、彼でさえ、まるで正気を疑うような目で私を見た。 噂が広まると、私は親戚や友人たちの間で愚か者扱いされるようになり、中には、きっと私が浮気したのだと言う人までいた。 両親はどれだけ説得しても私が聞き入れないため、怒りで震えていた。 親友でさえ、泣きながら、自分を粗末にしないでと私を止めた。 直哉は今にも崩れ落ちそうだった。彼は私の肩をつかみ、必死に懇願した。「いったいどうしてなんだ?君は何が欲しい?言ってくれさえすれば、何だって渡す!」 私は、上場を成功させたことで晴れやかに輝いている彼の顔を見つめ、静かに言った。 「そのうち分かるわ」
View More正式な審理が始まる前に、藤堂弁護士はあの録音を証拠として裁判所へ提出した。そこには、直哉が業績保証条項付きの投資契約を認め、さらに計画のすべてを叫ぶまでのやり取りが、はっきりと残っていた。相手側の弁護士の表情は、最初の余裕から、驚愕へ、そして血の気の引いたものへと変わっていった。彼にも分かっていたのだろう。この録音が公になれば、直哉は離婚裁判に負けるだけでは済まない。社会的信用を失い、場合によっては金融取引をめぐる詐欺に問われる可能性すらある。状況は、一気にひっくり返った。代理人は直哉との短い協議のあと、その場で、離婚に伴う財産分与について一切争わないと表明した。そして代理人として、私の請求をすべて受け入れると告げた。直哉は被告席で、抜け殻のように座り込んでいた。目には、もう何も映っていないようだった。最終的に、私と直哉の離婚は認められた。裁判所は、私たちが提出した証拠に基づき、会社上場後の経営行為およびそれに伴う債務は、夫婦の共同生活のために生じたものではなく、直哉個人の事業上のリスクであると判断した。そのため、私は会社経営によって生じた債務を負う必要はないと認められた。ただし、上場前に築いた夫婦共有財産――私たち名義の不動産や預金については、法律に従って半分を受け取ることになった。私は受け取るべきものを受け取った。そして、八年間の記憶が染みついたあの豪邸を、ためらうことなく売却した。手元に残ったのは、ようやく何のしがらみもないと思える現金だった。それから先、直哉と莉子がどうなったのかを、私は追いかけなかった。ただ、小さなニュースで見かけることはあった。久我ホールディングスは業績保証条項付きの投資契約に失敗し、債務超過に陥り、ほどなく破産手続きに入ったという。天翔キャピタルの取り立てが苛烈なことは、昔から知られていた。やがて、あるニュースが報じられた。警察が、密航に使われようとしていた埠頭の貨物船の中で、顔も判別できないほど傷つけられた二人の遺体を発見した。DNA鑑定の結果、二人は直哉と莉子だと確認されたという。二人はすべてを捨てて逃げ切るつもりだったのだろう。けれど結局、天翔キャピタルの執拗な追及からは逃れられなかった。そのニュースを見た時、胸がすくことも、悲しみ
直哉の我慢も、ついに限界を迎えた。もう、優しい夫を演じるつもりはないらしい。彼は「夫婦共有財産に重大な損失が生じるおそれがある」として、裁判所を通じて私との面談を申し立てた。指定された場所へ行くと、直哉はすでに来ていた。弁護士はいない。莉子もいない。部屋にいたのは、直哉ただ一人だった。彼はソファに沈み込むように座っていた。目の前の灰皿には、吸い殻が山のように積もっている。私が入ると、彼は勢いよく顔を上げた。血走った目には、もう作りものの優しさなど、かけらも残っていなかった。そこにあったのは、追い詰められた人間の苛立ちと、隠しきれない憎しみだけだった。「花音、お前はいったい何がしたいんだ」彼は手にしていた書類を、乱暴にテーブルへ叩きつけた。「お前が騒ぎを大きくしたせいで、会社の株価がどれだけ落ちたか分かってるのか?最大の出資元である天翔キャピタルからは、資金の早期引き揚げを求める通知まで来ている。満足か?俺たちが八年かけて築いてきたものを、全部潰せば気が済むのか?」私は静かに彼の向かいに腰を下ろした。彼の怒りを受け流すように、淡々と見つめ返す。「私たち?直哉、あなたがあの業績保証条項付きの投資契約にサインした時点で、それはもうあなた一人のものよ。私のものじゃない」その言葉に、直哉はぴたりと動きを止めた。彼は私を凝視した。その目には、驚きと、信じられないという思いが浮かんでいた。「お前……どうしてその契約のことを知っている?」それは、彼が天翔キャピタルと結んだ極秘契約だった。それは、今後三年間で高い利益目標を達成することを条件に、上場直後の資金繰りを支える巨額の資金を調達するという、あまりにも厳しい内容の契約だった。社内でも、副社長すら知らないはずのものだった。私はかすかに笑った。けれどその笑みは、自分でも分かるほど冷たかった。「どうして知っているのかって?私は一度死んだからよ。その契約のせいで」前の人生でも、彼は愛情深い夫を演じ続けていた。けれど私は、結局、彼と莉子の不倫を知ってしまった。心が壊れた私は、離婚を切り出した。裏切られた憎しみから、私は彼に財産をすべて手放させ、会社を丸ごと私に渡すよう求めた。彼は罪滅ぼしだと言って、それを受け入れた。そこから、私の悪
その日、私は担当している公衆トイレで、うつむいて作業をしていた。鼻を突く消毒液の匂いの中に、ふいに高価なコロンの香りが漂ってきた。顔を上げると、直哉が入口に立っていた。逆光を背負ったその姿は、ひどく重苦しく見えた。その日の彼はスーツではなく、カジュアルな服装だった。手にはスープジャーを提げている。彼は周囲の驚いた視線など意にも介さず、まっすぐ私の前まで歩いてくると、スープジャーを洗面台に置いた。「花音、胃、弱いだろう。温かいスープを持ってきた」その声は大きくなかったが、外で様子を見ている人たちに聞こえるには十分だった。私は相手にせず、モップを手に取って作業を続けようとした。けれど彼は私の手首をつかみ、有無を言わせず外へ引っ張り出した。そして、誰もが目を疑うような行動に出た。彼は私のブラシを手に取り、腰をかがめ、便器を洗い始めたのだ。資産数百億の上場企業の社長が、人通りの多い街角で、汚れた公衆トイレを自分の手で磨いている。その光景は、あまりにも異様だった。すぐに誰かがスマートフォンを取り出し、撮影を始めた。「うそ、久我直哉じゃない?」「奥さんのために、ここまでやるなんて!」「宮沢花音って、どれだけ冷たい女なのよ!」直哉は周囲の声など聞こえていないかのようだった。手つきは不慣れで、水しぶきが高価そうな服に跳ねたが、彼はまったく気にしなかった。便器を磨きながら、顔も上げずに言った。「花音、こういう汚れ仕事は俺が代わりにやる。君が家に帰ってきてくれるなら、これから家のことは全部俺がする。何でも君の言う通りにする」彼の言葉と行動は、まさにその年最高の一途な夫を描いた脚本そのものだった。私の上司である、あの仏頂面の現場責任者は、とっくにこの騒ぎに怯え、顔を青ざめさせていた。彼は私のあとを追ってくると、困り切った顔で封筒を差し出した。「悪いけど、今日で終わりにしてくれないか。これ以上騒ぎになると、こっちも困るんだ」私はまたしても、直哉の「深い愛情」のせいで、生きるための仕事を失った。荷物を引きずって藤堂弁護士の事務所の物置に戻った私は、全身から力が抜けた人形のようだった。直哉が公衆トイレで演じたあの大芝居は通行人に撮影され、瞬く間にネット上に広がった。動画の中で、彼は腰を低くして便器を磨い
私がそう言い切ると、調停室の空気が一瞬で凍りついた。直哉の顔に浮かんでいた痛ましい表情も、その場で固まった。調停委員の前で、私がここまで踏み込んで話すとは思っていなかったのだろう。莉子の心配そうな表情もこわばった。彼女は何か言おうとして口を開いたが、結局、一言も出てこなかった。私の言葉は、「夫婦のすれ違い」だの「ちょっとした意地の張り合い」だのといった、彼らが取り繕うために用意していた逃げ道を、すべて塞いだ。私は駄々をこねているのではない。私は、身を削るようなやり方で逃げようとしているのだ。調停委員の目つきも変わった。最初のように諭す目ではなく、慎重に見極めようとする目になっていた。彼女は私を見て、それから身なりの整った直哉を見た。その視線には、何かを考え込むような色があった。一人の女性が、億単位の財産を手放してまで日雇いで暮らし、その事実を自ら示そうとしている。そこには、直哉が見せているような「夫婦のすれ違い」だけでは片づけられない事情があるはずだった。結局、調停は重苦しい空気のまま終わった。直哉は力を失ったように席を立ち、部屋を出ていった。去り際、彼は一度だけ振り返り、私をじっと見た。その目には、もう悲しみや未練だけではなかった。逆らわれた時にだけ見せる、あの湿った冷たさが、かすかに滲んでいた。私は分かっていた。私が人前できっぱり拒んだことで、彼の怒りは決定的になった。彼の「優しい夫」の仮面には、すでにひびが入り始めていた。案の定、この調停の内容はすぐに外へ漏れた。ところが今回は、少し様子が違っていた。これまでのように、世間が一斉に私を責める流れにはならなかったのだ。調停で私が口にした言葉は、静まり返っていた水面に落ちた小石のように、ネット上に少しずつ波紋を広げていった。匿名の書き込みがネットで急速に広がった。タイトルは「検証:久我夫人はなぜトイレ掃除をしてまで、財産分与なしで離婚したがるのか」その投稿は、今回の出来事の流れを細かく分析していた。直哉のよく練られた声明から、莉子の「心配」に満ちた発言、そして調停での私の態度まで。投稿者は鋭い問いを投げかけた。いったいどんな結婚生活なら、一人の女性を、自分を壊すような方法で自由を得ようとするところまで追い詰めるのか、と。