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月明かりの下でさよならを

月明かりの下でさよならを

By:  キャンディーとても甘いCompleted
Language: Japanese
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笠原南雄(かさわら みなお)と付き合い始めて五年目。 門司茜(もんじ あかね)は密かに婚約指輪を買い、勇気を振り絞って彼にプロポーズするつもりだった。 しかし運悪く、その日、パーティーに数分遅れてしまった。 ちょうど彼が友人と話しているのを耳にした。 「お前、周防希枝(すおう きえ)のために茜と五年も付き合っただけでも十分なのに、今度は彼女と結婚までしようって?正気か?」 南雄の声は冷ややかだった。 「希枝が幸せになれるなら、愛していない相手と結婚することだって厭わない」 だが、今回は茜は騒ぎ立てなかった。 指輪を投げ捨て、ラブレターを切り裂いた。 そして深夜の便に乗って去り、家同士の縁談に縋る道を選んだ。

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Chapter 1

第1話

笠原南雄(かさわら みなお)と付き合い始めて五年目。

門司茜(もんじ あかね)は密かに婚約指輪を買い、勇気を振り絞って彼にプロポーズするつもりだった。

しかし運悪く、その日、パーティーに数分遅れてしまった。

ちょうど彼が友人と話しているのを耳にした。

「お前、周防希枝(すおう きえ)のために茜と五年も付き合っただけでも十分なのに、今度は彼女と結婚までしようって?正気か?」

南雄の声は冷ややかだった。

「希枝が幸せになれるなら、愛していない相手と結婚することだって厭わない」

だが、今回は茜は騒ぎ立てなかった。

……

「お母さん、私、縁談を受けるわ」

明かりの灯っていないリビングに、茜の声が幽かに響いた。

はっきりと聞き取れる口調でありながら、その響きには底知れぬ虚ろと荒れが漂っていた。

電話の向こうで、母の理子(りこ)はわずかに息を呑んだままだった。

「茜、本当に決めたの?

私もお父さんも、あの彼氏と結ばれてほしいって思っていたけれど、あれほど何度も招待しても彼は一度も会いに来ないじゃない。茜、あの人は良い人じゃないのよ」

茜は答えず、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。

暗闇に浮かぶ寂しげな姿は、ますます細く頼りなく見え、弱い風でも吹けば倒れてしまいそうだった。

理子の声はやわらぎ、まるで幼い頃、茜が傷ついたときにあやしていたあの声音になる。

「茜、今はつらいだろうけど、それでも日々は前に進まなきゃならないのよ。縁談の相手は周藤家の次男、周藤承平(すとう しょうへい)さん。商界でも名高い家柄だし、彼自身も見た目が良く、若くして医学界で頭角を現している人よ」

茜の目は空虚なまま、前方を見据えていた。

耳に届く言葉は何一つ心に入らず、思考はまだ南雄の裏切りに囚われている。

かつての甘い誓いは、今や最も残酷な嘲笑となっていた。

「お母さん、あなたたちが安心できるなら、誰と結婚しても同じよ」

その声音には一片の波立ちもなく、まるで凍りついた水面のようだった。

理子の胸に鋭い痛みが走り、涙が目に滲んでいる。

「馬鹿な子……私たちはただ、あなたに幸せになってほしいだけ。周藤さんなら、時間が経てばきっと好きになれるかもしれないわ」

茜は「うん」とだけ答えた。

「そうだわ、帰ってきたらあの笠原先輩にちゃんとお別れを言いなさい。この南城市で暮らせたのも、彼のおかげなんだから。結婚するときは、必ず招待して祝い酒を飲んでもらわないと」

茜は一瞬黙し、それから低く答えた。

「駄目よ。あの人は、その祝い酒を飲めない」

別れを告げる?結婚式に招待する?

心の中で茜は苦く笑った。なんて皮肉なことか。

電話を切った直後、玄関からかすかな物音がした。

すぐにリビングは明るい光に包まれた。

家にいる茜を見つけ、南雄は一瞬驚き、その後、満面の笑みを浮かべた。

彼は足早に近寄り、いつものように茜をそっと抱き寄せ、柔らかく問いかけた。

「うちの茜ちゃんを怒らせたのは誰だ?」

そう言いながら、首筋に頬をすり寄せ、口づけようとした。

茜はわずかに顔をそらし、その仕草をかわし、無表情で言った。

「お酒臭いわ。先にシャワーを浴びてきて」

南雄は茜の頬を軽くつまみ、笑みを浮かべて答えた。

「はいはい、姫のご命令だ。じゃ俺、ピカピカに洗ってまいります」

浴室へ向かいかけた彼は、ふと思い出したように足を止め、興味深げに尋ねた。

「そういえば、誰に祝い酒を飲ませるって?誰かの結婚式のことか?」

私のだ。

心の中でそう呟きながら、口では淡々と答えた。

「誰でもない、身内よ」

その言葉を聞き、南雄の眉間のしわはすぐに消え、再び軽やかな表情に戻った。

「そうか。じゃあ、俺たちが結婚するときは、皆呼ぼうな」

遠ざかっていく背中を見つめ、茜の口元にかすかな苦笑が浮かんだ。

真実が明らかになった瞬間、かつての甘さも愛も、跡形もなく消え去った。

残ったのは、果てしない痛みと絶望だけ。

もう、結婚することはない。

テーブルの上で、突如として振動音が響いた。南雄のスマートフォンだった。

覗くつもりはなかった。

だが、立ち上がった拍子に、ふと目に入ったその画面に、見覚えのあるアイコンと「ONLY」という目立つ登録名があった。

しかも、その相手は茜のLINEの友だちリストにも存在していた。

画面に浮かんだ新着メッセージに、視線が吸い寄せられた。

【南雄、彼はもう私のことを要らないの。希枝には、もうあなただけ】

その瞬間、冷たい電流が全身を走った。

手足の感覚が失われ、呼吸が少し遅れ、頭は真っ白になった。

やがて、南雄が浴室から出てきた。

茜はウォーターサーバーの前で、機械のようにコップに水を注いでいた。

手が震え、水はこぼれそうになっている。

南雄は何気なくスマートフォンを手に取った。次の瞬間、顔色は一気に蒼ざめ、瞳には緊張が浮かんだ。

彼はためらうことなく寝室へ駆け込み、慌てて上着を羽織っている。普段は几帳面な彼が、このときばかりはボタンを掛け違えていることにも気づかなかった。

彼が足早にドアのところまで歩いて行ったとき、ようやくテーブルのそばでずっと一言も発せずに立っていた茜のことを突然思い出したようだった。

「茜、これから手術があるんだ。ちょっと行ってくる」

茜は平静な笑みを浮かべた。

「ええ、行ってらっしゃい」

彼は芝居を続け、希枝のもとへ急ぐ。ならば、自分も最後までこの芝居に付き合ってやろう。

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第1話
笠原南雄(かさわら みなお)と付き合い始めて五年目。門司茜(もんじ あかね)は密かに婚約指輪を買い、勇気を振り絞って彼にプロポーズするつもりだった。しかし運悪く、その日、パーティーに数分遅れてしまった。ちょうど彼が友人と話しているのを耳にした。「お前、周防希枝(すおう きえ)のために茜と五年も付き合っただけでも十分なのに、今度は彼女と結婚までしようって?正気か?」南雄の声は冷ややかだった。「希枝が幸せになれるなら、愛していない相手と結婚することだって厭わない」だが、今回は茜は騒ぎ立てなかった。……「お母さん、私、縁談を受けるわ」明かりの灯っていないリビングに、茜の声が幽かに響いた。はっきりと聞き取れる口調でありながら、その響きには底知れぬ虚ろと荒れが漂っていた。電話の向こうで、母の理子(りこ)はわずかに息を呑んだままだった。「茜、本当に決めたの?私もお父さんも、あの彼氏と結ばれてほしいって思っていたけれど、あれほど何度も招待しても彼は一度も会いに来ないじゃない。茜、あの人は良い人じゃないのよ」茜は答えず、ただ静かにその場に立ち尽くしていた。暗闇に浮かぶ寂しげな姿は、ますます細く頼りなく見え、弱い風でも吹けば倒れてしまいそうだった。理子の声はやわらぎ、まるで幼い頃、茜が傷ついたときにあやしていたあの声音になる。「茜、今はつらいだろうけど、それでも日々は前に進まなきゃならないのよ。縁談の相手は周藤家の次男、周藤承平(すとう しょうへい)さん。商界でも名高い家柄だし、彼自身も見た目が良く、若くして医学界で頭角を現している人よ」茜の目は空虚なまま、前方を見据えていた。耳に届く言葉は何一つ心に入らず、思考はまだ南雄の裏切りに囚われている。かつての甘い誓いは、今や最も残酷な嘲笑となっていた。「お母さん、あなたたちが安心できるなら、誰と結婚しても同じよ」その声音には一片の波立ちもなく、まるで凍りついた水面のようだった。理子の胸に鋭い痛みが走り、涙が目に滲んでいる。「馬鹿な子……私たちはただ、あなたに幸せになってほしいだけ。周藤さんなら、時間が経てばきっと好きになれるかもしれないわ」茜は「うん」とだけ答えた。「そうだわ、帰ってきたらあの笠原先輩にちゃんとお別れを言いなさい。こ
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第2話
南雄が急いで戻ってきたのは、翌日の昼過ぎだった。彼がそっとドアを開けると、茜は手袋をはめて、黙々と部屋の片付けをしていた。彼女の動きは整然としているものの、どこか言いようのない冷たさが滲んでいた。南雄は痛むこめかみを押さえながら、ドアの前に積み上げられた黒い大きなゴミ袋を指さして、ふと尋ねた。「家にこんなにゴミあったっけ?」「ええ、結構たまってたわ」茜は顔も上げず、淡々と答えた。声は平静だが、心が引き裂かれるようだ。だって、あのドア前に積まれたものは、この五年間で南雄が彼女に贈ったすべての品々なのだから。昨夜、茜は一睡もしていなかった。希枝がわざわざ公開した全ての投稿を、一晩中かけて丹念に調べ上げたのだ。一つ一つの投稿、一枚一枚の写真を見逃さずに。そして驚愕した。南雄が自分に贈ったものは、すべて希枝がかつて話題にし、購入し、好んでいたものばかりだった。つまり、南雄は希枝への想いを、そっと自分に置き換えていたのだ。そして自分は、まるで道化のように、その偽りの愛情を宝物だと信じ込み、存在しない恋に浮かれていた。今、茜はそれら「愛情」の証を、全てゴミとして処分したかった。それらはゴミ捨て場に戻すべきものだ。嘘に包まれたあの感情のように、記憶の片隅で腐り、消え去るべきものなのだ。もうこれ以上、それらを見たくはなかった。一目見るごとに、自分の愚かさと惨めさを思い出すのだから。短い沈黙の後、茜はゆっくりと口を開いた。「昨日、私の誕生日だったわ。あなたはいなかったわね」その言葉と同時に、南雄の気軽な表情が凍りついた。彼の目に一瞬慌てが走り、すぐに壁のカレンダーを見上げた。昨日が確かに茜の誕生日だと確認すると、後悔の表情で、急ぎ足で近づき、彼女を強く抱きしめた。「ごめん、本当にごめん。忙しくて頭がパンクしそうで、こんな大事な日を忘れるなんて。ちょうど高村さんがパーティーを企画してるんだ。今夜一緒に行って祝おうよ?」彼の声には、自責と取り入ろうとする気持ちが満ちていて、こうした方法で埋め合わせようとしていた。茜はその高村を知っていた。パーティーで南雄の秘密を暴露した親友だ。彼女は反射的に断ろうとしたが、口を開く前に南雄の電話が鳴った。彼は携帯画面を見下ろし、目を泳がせると、無理やり笑顔を作った
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第3話
夜になっても、南雄は約束通り茜を迎えに来なかった。代わりに現れたのは、病院の同僚の研修医だった。青年は茜を見るなり、興奮したように喋り始めた。南雄への憧れを熱く語るのだ。「姉さん、知ってます?笠原先生って本当にすごいんです!医術もさることながら、奥さんへの優しさが半端ないんですよ」茜がちらりと視線を向けると、研修医はさらに勢いづいた。「昨日だって、奥さんが生理痛で苦しんでるって聞いたら、先生は慌てて救急に連れ込んだんです。私がついてきた3ヶ月間で、あんな慌てた先生を見たことありませんよ。救急の医師にまで怒鳴っちゃって、それからずっと奥さんのそばで、手を擦って温めたり、お腹を優しくさすったり、薬を飲ませたり……あの優しさ、私が奥さんだったら幸せのあまり死んじゃいますよ。来週には結婚式だそうですし、本当にお似合いのカップルで羨ましいです」青年は一気にまくし立ててから、ようやく茜の異常な沈黙に気づいた。「姉さん……先生の妹さんですよね?」と不安そうに尋ねた。茜はゆっくりと車窓のガラスに視線を移した。街灯に照らされ、粉々に割れたように見える自分の虚ろな顔が映っている。まるで、今の自分の心のようだった。「ええ、妹よ」彼女は淡く答えた。声には尽きせぬ寂寥感と自嘲がにじんでいた。研修医の話の中で、彼女は完全な部外者になっていた。南雄が別の女性に注ぐ愛情を、冷ややかに眺める観客に。彼女が自分のものだと思っていた愛は、最初から存在しなかったのだ。個室の前まで来ると、中から賑やかな声が聞こえてきた。「キス!キス!」という囃し立てが、茜の鼓膜を刺すように痛かった。無邪気な研修医が先に立ってドアを開けた。その瞬間、個室の中の光景が茜の目の前に広がった。スポットライトを浴びた二人の影が、今まさに唇を合わせようとする寸前で、密着していた。ちょうどその時、南雄の視線が入口に流れ、茜の存在に気づいた。彼の体が硬直し、慌てて顔を背けた。そのため、希枝の唇は彼の頬に触れることしかできなかった。一瞬、南雄は茜の平静な目を見た。怒りも悲しみもない、ただ冷たい静けさだけがそこにあった。茜もまた、南雄の目に一瞬浮かんだ「未練」の色を、はっきりと捉えた。南雄は素早く立ち上がった。動作は慌てていて、目にはっきりとした不安が
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第4話
だが、ほどなくして気の利いた誰かが慌てて話題を逸らし、この場の空気を再び賑やかに戻そうとした。南雄は返事を終えてからも、ずっと落ち着かない様子で茜を見つめていた。彼の唇は微かに震え、言いたいことが山ほどあるように見えた。しかし、彼が口を開く前に、茜はもう無表情で黙々と隅の席に歩み、腰を下ろした。それを見て、南雄は慌てて茜のそばに寄り添い、慌てふためいてジュースの瓶を手に取り、茜に一杯注ごうとした。しかし、彼の視線はまるで何か強力な接着剤でくっついたかのように、決して離れなかった。少し離れたところで、誰かと酒を飲み騒いでいる希枝の姿から。彼は上の空でジュースを注ぎ続けながら、希枝の動きをじっと見つめていた。その結果、ジュースはすでにゆっくりと溢れ出て、テーブルの上へ流れ出ていることに、彼は全く気づいていなかった。茜は、そろそろ服が濡れそうだと注意しようとした。だがその瞬間、南雄は何かに強く刺激されたかのように、勢いよく席を立ち、一息に駆け寄って、ちょうど罰ゲームで脱ごうとしていた希枝の腕を掴んだ。顔は真っ赤に染まり、目を見開き、怒りをあらわに叫んだ。「君、正気か!自分が何をしてるかわかってるのか!」希枝は勢いよくその手を振り払い、その反動で体がふらついた。半ば酔い、半ば醒めた瞳には挑発と侮蔑が絡み合い、口角を上げて大声で返した。「関係ないでしょ。あんたは私の何なの?」静まり返った個室に、その声が鋭く響いた。皆の視線が一斉にそちらへ向かった。しかし希枝は視線など気にせず、さらに声を張り上げた。「今の私はシングルよ!服を脱ぐくらいどうってことない、私がその気なら、誰にだって抱かれてやる……」その言葉に、場の空気は一瞬で凍りついた。誰もが顔を見合わせ、息を潜めた。酔いの回った高村が、希枝の言葉に眉をひそめ、南雄の方を見やりながら肘で彼女を小突いた。その衝撃で、希枝の足元がぐらりと揺れた。倒れそうになるのを見て、南雄は反射的に駆け寄り、素早くその身を抱きとめた。自然でいて必死な動きだった。まるで希枝に一つの傷もつけまいとするかのように。茜は部屋の隅で、その光景を黙って見つめていた。表情はほとんど動かず、まるで自分には関係のない出来事のように見えた。希枝は南雄の腕の中で必死にもがき、泣き
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第5話
その足取りはふらつき、今にも倒れそうだった。南雄の顔色は一瞬で鉄のように硬直し、堪忍袋の緒が切れたように早足で近づくと、希枝を横抱きに抱え上げた。そして一度も振り返らず、流星のごとく早足で個室を後にした。その去っていく背中には、焦燥と決意が滲んでいた。今の彼にとって、希枝こそが唯一無二に大事な存在。他のすべては後回しにできる──茜さえも。個室に残されたのは、ほとんどが南雄の友人たちだった。彼らはこうした場面にもう慣れきっているようで、短くため息を漏らしたあと、何事もなかったかのようにまた騒ぎを再開した。さっきの劇的な一幕も、彼らにとってはただの余興にすぎず、すぐに忘れ去られていく。ただ一人、純朴な研修医だけが、気まずそうに、そして戸惑いながら角の席にいる茜へと視線を向けた。「お、奥さん……大丈夫ですか?」茜は、自分が今どれほど惨めな姿をしているか理解していた。でなければ、この研修医が今にも泣きそうな顔を見せるはずがない。彼女は麻痺した口元を無理に引き上げようとしたが、笑みにはならなかった。胸の奥に広がるのは、苦みと絶望ばかり。結局、無言で立ち上がり、ただ一人で個室を出て行った。だが、部屋を出た途端、何が起きたのか理解する間もなく、背後から伸びてきた手が彼女の口と鼻を強く塞いだ。次の瞬間、強い力で後ろへと引きずられた。必死にもがいたが、その腕はまるで鉄の鉗のように固く、逃れることはできなかった。そして彼女は、暗闇の中へと引きずり込まれていった。恐怖は津波のように一気に押し寄せ、茜を飲み込んだ。全身の力を振り絞って抵抗しても、相手の力は圧倒的だった。吐きかけられる息は鼻腔を突く悪臭を伴い、全身の毛が逆立った。「やっぱり希枝は嘘つかなかったな。このきめ細かい肌……そそられるぜ」吐き捨てられた下卑た言葉に、恐怖と怒りが入り混じり、茜の理性は崩れそうになった。彼女は空いていた個室へ乱暴に押し込まれた。恐怖で手足は痺れ、力が入らない。男が再び飛びかかろうとしたその瞬間、茜は舌を思い切り噛み切った。鋭い痛みが意識を引き戻し、血の味を無視して、テーブルの上の灰皿をつかみ、渾身の力で男へ叩きつけた。「クソッ、この売女が!散々男に使われたくせに、今さら純情ぶってんじゃねえ!」怒鳴りながら再び
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第6話
その口調には、少しの相談の余地もなく、まるで茜が許されない罪を犯し、すぐにでも頭を下げて謝らなければならないかのようだった。茜は唇を強く噛みしめ、今にも血が滲みそうだった。だが、その鋭い痛みでさえ、胸の奥から湧き上がる濃く激しい屈辱感には到底及ばなかった。その屈辱は、怒涛のように脳を激しく打ち付け、瞬く間に目元を赤く染め、涙を溜めさせた。それでも、頑なにその涙をこぼそうとはしなかった。目を赤くし、声をわずかに震わせながら問いただす。「彼女が何をしたのか、あなたは聞こうともしないの?」南雄の表情はさらに冷たくなり、その鋭い顔つきは今にも霜が降りそうだった。彼は冷ややかに鼻を鳴らし、疑いようのない断固たる口調で言い放った。「希枝が何をしようと、それが人を傷つける理由にはならない。もし俺が間に合わなかったら、君は彼女を殺していたんじゃないのか?…まさか、君がこんなに悪辣な人間だったとは思わなかった」その言葉は、鋭い刃のように茜の心を容赦なく切り裂き、すでに血だらけの心にさらに深い傷を刻んだ。息をするのも苦しいほどだった。「最後にもう一度聞く、謝るのか?」南雄の目には冷たい圧力が宿り、逃げ場を塞ぐようにまっすぐ茜を射抜いた。彼はただ、自分が満足する答えを待っている。そうでなければ、決して引き下がらないだろう。茜の心は鋭い刃で貫かれたかのようで、体は小さく震え始めた。五年もの時間だ。そんな長い年月、茜がどんな人間なのか、南雄は熟知しているはずだった。彼女は穏やかで楽天的、いつも人に優しく、他人を傷つけたことなどない。動物すら一度も傷つけたことがなかった。かつては、その性格のせいで彼女が人にいじめられないかと、南雄が心配していたほどだった。それなのに今はどうだ。周防希枝という女の言葉だけで、真相を調べようともせず、あまりに簡単に茜を有罪と決めつけた。それを茜がどうして受け入れられようか。氷の底に沈められたように全身が冷えきり、心の中は悲しみと絶望で満たされていく。茜は強く下唇を噛み、こぼれ落ちそうな涙を必死に押し留めた。そして、頑なに頭を上げ、南雄の目を真っ直ぐ見つめ、大きな声で言った。「私は間違ってない。謝らない。人を傷つけたのは希枝よ」「南雄、お願いだから私のことでまた喧嘩しないで。悪い
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第7話
茜は、この熱い湯がせめて一時的にでも、身にまとわりつく疲労と恐怖を洗い流してくれることを願っていた。入浴を終えた彼女は、自らを布団の中にしっかりと包み込み、まるでこの厚い掛け布団だけが、わずかな安心感を与えてくれる唯一の存在であるかのように感じていた。彼女は身体を小さく丸め、固く目を閉じ、できるだけ早く眠りに落ちようとしていた。恐ろしい現実から逃げ出したかったのだ。しかし、うつらうつらとした意識の中で、茜はふいに誰かが自分の傍らに近づく気配を感じた。直後、一つの手が彼女の腕をそっと撫で、その感触が茜を一瞬で眠気から引き戻した。その刹那、南雄の姿と、彼女に邪な企みを抱いたあの男の姿とが重なり、脳裏には恐怖が鮮烈によみがえる。茜は恐怖のあまり悲鳴を上げた。しかし、その叫びが完全に響き渡るよりも早く、一つの手が素早く彼女の口を塞ぎ、声を遮った。「うっうっ」というもがくような音だけが漏れた。彼女の瞳には、恐怖と慌てが満ちていた。「茜、俺が君を甘やかしすぎた」南雄の声は低く、底冷えするような響きを帯び、まるで深淵から這い上がる冷気のように茜の耳へと侵入した。茜は大きく目を見開き、恐怖と信じられない思いで必死に首を振り、この悪夢のような現実を拒もうとした。しかし南雄は彼女の抵抗を無視し、ゆっくりと顔を近づけてきた。やがて、かつては愛情と慈しみの象徴であった額への優しい口づけを落としたが、それはもはや茜にとって戦慄以外の何物でもなかった。「だが、間違いを犯したら罰を受けねばならない。大丈夫だ、希枝に片手を差し出せば、それでおあいこだ」その眼差しには一片の温もりもなく、冷淡極まりない声で残酷な言葉を告げた。茜の身体は激しく震え、口を開けて声を出そうとしたが、極度の恐怖のためにわずかなうめきしか発せられなかった。まさか、かつて自分を大切に守り抜いてくれたはずの男が、これほどまでに恐ろしく、残忍な行為に及ぶとは夢にも思わなかった。「安心しろ、結婚の日取りは変えない。これからもちゃんと面倒を見てやる。君が彼女に負っているものを、俺が返させる」そう言いながら、南雄はゆっくりと金槌を持ち上げた。冷たい金属は薄暗い灯りの中で、凶悪な光を放っている。彼は茜の手首に狙いを定め、ためらいもなく振り下ろした……夜が明け
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第8話
希枝は、スマホを手に取りながら得意げに話し、首を傾けては誇らしげに笑っていた。その表情は、醜悪という言葉以外に形容のしようがなかった。「あらあら、あんた見てないでしょ?あの女の手がぶら下がって、皮一枚で繋がってるだけなのよ。あぁ、気持ち悪くて仕方なかったけど……それでも、ほんっとにスカッとしたわ、はははは!」彼女の声は次第に興奮を帯び、その誇らしげな笑い声が病室に響き渡った。南雄が今まで一度も見たことのない、彼女の本性だった。南雄は病室の入り口に立ったまま、全身が凍りついたかのように硬直していた。耳に飛び込んでくるその言葉が、悪魔の囁きのように彼の心を一言一句抉り続けている。血が逆流するかのように頭へと上り、頭蓋の中で耳鳴りが暴れ狂った。「それにね、あの女に汚らしい男をそそのかしてやったの。カメラだってちゃんと用意してたのに、まんまと逃げられちゃった。惜しいことしたわ。あらかじめもっと人数を揃えておけばよかったかしら?門司家のお嬢様のあんな写真、考えるだけで間違いなく大儲けできるのにね」希枝は、口を滑らせることも気にせず、悪意に満ちた計画を嬉々として語った。その一言一言が鋭い刃となって、南雄の心を容赦なく切り裂いた。彼は信じられなかった。自分が守り、愛してきた希枝が、ここまで蛇蝎のごとく冷酷で、手段を選ばない女だったとは。そして、自分はその計略に嵌められ、自らの手で茜にあんな残酷な仕打ちをしてしまったのだ。胸を締め付けるのは、悔恨と自責の念であり、今すぐにでも過去へ戻って、この悲劇を阻止したい衝動だった。「清水は私には落とせなかったけど、南雄なら思いのままよ。あの人は何年も私に媚を売ってきたんだもの。私が泣き真似をすれば、まるで馬鹿みたいに尽くしてくれる。今だって、ちょっと手招きすれば喜んで飛んでくる犬よ」その声には、軽蔑と得意さがたっぷりと滲んでいた。「信じる?私が一言言えば、結婚式の最中だって茜を捨てて私のところに来るわよ」彼女はますます調子に乗り、その傲慢な態度は吐き気を催すほどだった。その嘲笑は鋭い針となり、南雄の胸に突き刺さると同時に、中でぐりぐりと抉り回す。それは肉体的な痛みではなく、魂の奥底を切り裂く激痛であり、息をすることさえ困難にさせた。南雄は、怒りと後悔で震える体を必死に押さえ込
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第9話
南雄は苦しげに自分の髪をかき乱し、最後には自らの頬を激しく二度打ちつけた。乾いた音が静まり返った廊下に反響した。しかし、その痛みは、胸の奥に巣食う深い自責と悔恨には到底及ばなかった。やっとの思いでホテルに辿り着き、監視カメラの映像に映し出された場面を目にした瞬間、南雄の目は裂けんばかりに見開かれた。そこには、希枝が年配の男と人目を避けるようにひそひそと何かを企んでいる様子が映っていた。その直後、男が茜の口と鼻を押さえ、力ずくで個室へと引きずり込む場面が映っていた。その光景は、見ているだけで胸を締め付けられるほど痛ましかった。映像が切り替わると、希枝が階段口で早々に茜を待ち受けている。茜が姿を現すや否や、彼女は毒々しい言葉を次々と吐き出し、そのすべてが鮮明に映し出されていた。怒りを抑えきれなくなった茜が手を上げると、ちょうど南雄が通りかかった。希枝はその瞬間を狙い、わざと足を滑らせたふりをして階段から転げ落ちたのだ。だが実際には、彼女はしっかりと手すりを握り、最後の数段まで後退してから手を離して落ちていた。すべては緻密に仕組まれた罠だった。南雄の両眼は、激しい怒りと悔恨によって真紅に染まっていく。脳裏には、あの時、目を真っ赤にしながらも、理不尽な屈辱に耐え、頑なに謝ろうとしなかった茜の姿が何度もよみがえる。それなのに、自分は愚かにも、すべての元凶である希枝を庇い、茜に言葉の刃を突きつけ、無理やり謝罪させた。彼の大切なあの少女は、あの時すでに耐えがたい屈辱を味わっていたというのに――自分は彼女を守るどころか、自らの手でその手を破壊してしまったのだ。そんな自分を、どうして許すことができようか。後悔の気持ちは、荒れ狂う潮のように押し寄せ、彼を呑み込もうとしていた。よろめきながらホテルを出た後も、茜の電話が通じず、他の連絡先もすでにブロックされていることは分かっていた。それでも、彼は取り憑かれたように何度も何度も電話をかけ、無数のメッセージを送り続けた。まるでそうすることで、過去の罪が少しでも償えるかのように。家へ戻るなり、焦燥に駆られて玄関を開け放ち、二、三歩で部屋へ駆け込んだ。口を開きかけ、謝罪の言葉が喉まで込み上げてきた。だが、目に映ったのは空っぽの部屋。彼はその場で呆然と立ち尽くした。視線を巡らせ
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第10話
飛行機の中で、茜はあまりにも慌ただしく出発したため、鎮痛剤を二錠だけ慌てて飲み込み、そのまま搭乗した。時間が経つにつれ、薬の効果は徐々に薄れ、茜は全身が燃えるように熱く、まるで灼熱の炉に放り込まれたかのように感じた。額や背中からは大粒の冷や汗が絶え間なくにじみ出て、あっという間に服を濡らし、そのべたつく感触が彼女をさらに苦しめた。機内を巡回していた心優しいCAは、すぐに茜の異変に気づいた。CAは心配そうに近づき声をかけ、そこで初めて、茜が上着で大事そうに覆っていた手首に目を留めた。その手首は不自然にねじれ、だらりと力なく垂れ下がっており、見る者の心を凍りつかせるほど痛々しかった。CAは一瞬たりとも迷わず、すぐにチーフパーサーへ連絡した。間もなく、機内アナウンスで医師が緊急に呼び出された。やがて、一人の乗客が応答した。意識が朦朧とし始めた茜は、ぼんやりと高く大きな影が自分のもとへ早足で近づき、そして膝をついて目の前にしゃがみ込むのを見た。その人物は彼女の様子を確かめると、落ち着き払った低い声で素早く告げた。「高熱、手首骨折。ぬるま湯を用意してくれ。カバンに解熱剤がある。ガーゼ……」その声は低く心地よい響きを持ち、緊迫した状況の中でも整然としており、不思議と人を安心させる力があった。「熱が下がらない。薬を飲まないと。口を開けて」優しく、しかし確かな響きで再び声がした。茜は意識が霞んでいながらも、小さく口を開けた。男はスポイトで甘い液体を慎重に彼女の口へ注いだ。薬は確かに甘みがあり、それが少しだけ彼女の苦痛を和らげた。間もなく、薬の効果で茜は眠りに落ちた。しかしその眠りは浅く、眉間には苦しげな皺が刻まれ、先ほどまでの痛みと辛さがまだ夢の中で彼女を苛んでいるようだった。目を覚ますと、飛行機はすでに降下を始めていた。茜が無意識に体を動かそうとした瞬間、隣の男性がすぐに手を伸ばし、包帯を巻いた手をそっと支え、少し厳しい口調で言った。「その手は包帯を巻いたばかりだ。動かしちゃだめだ」茜はそこでようやく我に返り、隣の男性の顔を見つめた。その端正で整った顔立ちは、まるで神が細工を施したかのようで、金縁の眼鏡がさらに彼の穏やかで落ち着いた雰囲気を引き立てていた。「助けてくれてありがとう。
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