LOGIN「まず、君に俺のことを知ってもらう」
氷室様は、ソファに座った。
「好きなもの、嫌いなもの、趣味、過去」
そして、私を見た。
「本物のカップルなら、相手のことを知っていて当然だ」
私も、氷室様の向かいに座った。
「はい、そうですね」
氷室様は、少し考えてから口を開いた。
「まず、好きな食べ物」
「……はい」
「和食が好きだ。特に、君が作る卵焼き」
その言葉に、胸が温かくなった。
私の卵焼きを、気に入ってくれていたんだ。
「嫌いなものは、採用面接で君が当てた通り、甘いものだ。特に、和菓子の餡は昔から苦手で……」
氷室様は、少し困ったように眉を下げた。
「ケーキなら付き合いで一口は食べられるが、それも君の観察通り、自ら進んで選ぶことはない」
氷室様は、淡々と語る。
「趣味は読書。ジャンルは問わな
昨夜は、神崎さんに渡された資料を何度も読み返した。氷室蓮。32歳。好きな食べ物や、趣味、氷室グループの歴史。そして、あの夜に彼が話してくれた猫のユキさんのこと。文字をなぞるたびに、彼の孤独の深さが肌に伝わってくるようで、胸が締め付けられた。気づけば窓の外が白み始めていたけれど、不思議と眠気はなかった。「……よし」1月5日の朝。世間の正月気分が抜け、冷たい空気が本格的な冬の始まりを告げていた。私はいつもより丁寧に、氷室様の朝食を用意した。今日から、本格的な訓練が始まる。家政婦としてキッチンに立つのも、あとどれくらいだろう。そんな一抹の寂しさを振り払うように、私はエプロンの紐を強く結んだ。午前10時。予鈴のチャイムが、静かなリビングに響く。「おはようございます、森川さん。準備はいいですか?」ドアを開けると、昨日と変わらぬプロフェッショナルな微笑みを湛えた神崎さんが立っていた。彼は昨日同様に、大きなバッグを持っている。「はい。よろしくお願いします」神崎さんの後ろを歩きながらリビングに入ると、そこにはすでに氷室様が待っていた。今日は仕事が休みなのか、スーツではなく白いシャツに黒いパンツというラフな装いだ。いつもより少しだけ「一人の男性」としての体温を感じる姿に、私の心臓が小さく跳ねる。「では、始めましょうか」神崎さんは、テーブルに資料を広げた。「今日は、お二人の馴れ初めの設定を決めます」「馴れ初め……ですか?」「はい。どこで出会ったか、いつから付き合っているか。全て、設定を決めておく必要があります」ああ、そうか。私たちは、偽物のカップル。だから、偽物の思い出も必要なんだ。そう思うと、胸がチクリと痛んだ。氷室様が、口を開く。「馴れ初めは……半年前、7月。ホテルのレストランで」
「では次に、氷室グループについて説明します」神崎さんの事務的な、けれどどこか重みのある声がリビングに響いた。ふっと魔法が解けたように、氷室様との間に流れていた温かな空気が、ピンと張り詰めたビジネスの緊張感に取って代わる。氷室様もまた、一瞬で「社長」の顔に戻り、資料を真っ直ぐに見据えた。私だけが、まだ少しだけ高鳴る鼓動を抑えられずに、机の下で指先を握りしめている。「咲希さんは、婚約者として会社の人間とも接する機会があります。基本的な知識は必要です」「……はい」私は深く息を吐き、神崎さんが広げた資料に目を落とす。そこには、氷室様個人の「温もり」とは正反対の、巨大で、冷徹なまでの数字と実績の世界が広がっていた。氷室グループは、祖父の厳造様が創業した。不動産、ホテル、リゾート開発を手がける、日本を代表する大企業。氷室様は、5年前に社長に就任。若くして経営を任され、業績を伸ばしてきた。資料を読み進めるほどに、私の指先は緊張で冷たくなっていく。目の前に座っているこの人は、私が思っていた以上に、果てしなく遠く、高い場所にいる人なのだ。「すごい……」思わず呟いた。これだけの規模の会社を、氷室様はたった一人で、この若さで背負ってきたなんて。「氷室様」私は、思わず彼を見た。「一つ、聞いてもいいですか」「何だ?」「どうして、社長になろうと思ったんですか」氷室様は、少し考えてから答えた。「……祖父のためだ」窓の外に目をやる氷室様。「父が亡くなった時、祖父は深く傷ついた。一人息子を失ったんだからな」「……」「だから、俺が祖父を支えなければと思った。氷室家を継ぎ、会社を守る。それが、俺にできる恩返しだと」その言葉に、胸が熱くなった。
翌朝、1月4日。10時前にインターホンが鳴った。ドアが開くと、神崎さんが立っていた。「失礼します」神崎さんが、大きなバッグを両手に抱えて入ってきた。「森川さん、氷室様から聞きました。決心されたんですね」「はい」「素晴らしい。では、早速始めましょう」神崎さんは、リビングのテーブルにバッグを置いた。中から、たくさんの資料を取り出す。氷室様のプロフィール、氷室グループの情報、想定質問集……。テーブルが、紙で埋め尽くされた。「まずは、氷室様のプロフィールから覚えていただきます」神崎さんは、一枚の紙を私に渡した。そこには、氷室様の詳しい情報が書かれていた。***氷室蓮プロフィール年齢:32歳職業:氷室グループ社長好きな食べ物:和食(特に焼き魚)嫌いなもの:甘いもの(ただしコーヒーには砂糖を入れる)趣味:美術鑑賞、読書、ピアノ隠れた趣味:猫動画鑑賞家族:祖父・厳造のみ。両親は17年前に他界***私は資料を読みながら、一つ一つ確認していく。好きな食べ物は和食。だから、毎朝の焼き魚を喜んで食べてくれるんだ。「嫌いなものは、甘いもの。……あれ?でも、コーヒーには砂糖を入れるって書いてあります」「……仕事中はブラックだが、家では少し入れる。……疲れている時だけだ」氷室様がバツが悪そうに視線を逸らす。もしかしたら、私が淹れる甘めのコーヒーを気に入ってくれているのかもしれない。趣味は美術鑑賞と、読書。そして、ピアノ。あの長い指で、どんな曲を弾くんだろう。いつか、聴かせてもらいたいな。それから──。「猫動画……」思わず声に出していた。
氷室様はふっと表情を引き締め、繋いでいた手を静かに離した。先ほどまでの柔らかな空気は一瞬で消え去り、そこには「氷室グループの若き首領」としての冷徹な眼差しが戻っていた。「咲希。感傷に浸るのは、ここまでだ。明日から、本格的な訓練を始める」「え……?あ、はい。覚悟はしているつもりですけど」急な態度の変化に、私は瞬きを繰り返した。さっきまでの優しい空気から一変して、彼が仕事モードの『氷室社長』に戻ってしまったことに戸惑う。「神崎にも協力してもらう。氷室家の婚約者として、誰の目から見ても隙のない振る舞いを身につけてもらう必要があるからな」氷室様は立ち上がり、書斎のデスクから一冊のスケジュール帳を取り出した。その指先は、ビジネスの商談を進める時のように冷厳で、迷いがない。「まずは基本動作。エスコートの受け方、社交場での微笑み方。そして――」氷室様は、私を射抜くような鋭い視線で言葉を継いだ。「恋人同士としての、身体接触(スキンシップ)だ。人前で自然に手を繋ぎ、腕を組む。さらには、周囲に仲睦まじさをアピールするための……」彼は一度言葉を切り、私のすぐ目の前まで歩み寄った。ふわりと、彼がいつも纏っている洗練された香水の匂いが鼻をくすぐる。高い背から見下ろされる圧倒的な圧迫感に、心臓が激しく跳ねた。「……必要なら、キスの練習も行う」「っ!」私の頬が、一瞬で火が出たように熱くなる。キス。その単語が頭の中で何度も反響し、目の前がクラクラとした。演技だと、これは契約のための「特訓」だとわかっている。けれど、至近距離にある氷室様の美しく整った唇を見つめると、喉の奥がカラカラに渇いた。もし、本当にこの唇が重なったら……。想像しただけで、立っていられなくなりそうだった。「できるか?躊躇すれば、周囲に偽物だと見破られるぞ。パーティーの場
「まず、君に俺のことを知ってもらう」氷室様は、ソファに座った。「好きなもの、嫌いなもの、趣味、過去」そして、私を見た。「本物のカップルなら、相手のことを知っていて当然だ」私も、氷室様の向かいに座った。「はい、そうですね」氷室様は、少し考えてから口を開いた。「まず、好きな食べ物」「……はい」「和食が好きだ。特に、君が作る卵焼き」その言葉に、胸が温かくなった。私の卵焼きを、気に入ってくれていたんだ。「嫌いなものは、採用面接で君が当てた通り、甘いものだ。特に、和菓子の餡は昔から苦手で……」氷室様は、少し困ったように眉を下げた。「ケーキなら付き合いで一口は食べられるが、それも君の観察通り、自ら進んで選ぶことはない」氷室様は、淡々と語る。「趣味は読書。ジャンルは問わないが、ミステリーが好きだ」「ピアノは……弾かれないんですか?面接の時、指を見て当てたはずですが」氷室様は少し驚いたように、自分の指先を見つめた。「……よく覚えていたな。最近は忙しくて触れていないが、気が向いた時にだけ弾くことがある。今度、君が希望するなら……聴かせてやってもいい」「はい、ぜひ!楽しみです」私が身を乗り出すと、氷室様は不意に視線を逸らした。耳たぶが、ほんの少し赤くなっているように見えた。私は、メモを取り始める。婚約者として、知っておくべきこと。「休日は?」「ほとんど仕事だ。だが、時々美術館に行く」「美術館……」「人が少ない平日の午前中に。静かに絵を見るのが好きだ」氷室様の意外な一面。私は、もっと彼のことを知りたくなった。「ご家族は…&helli
『契約書を作り直そう』そう言って、氷室様は書斎へ向かった。私は、その背中を見つめた。氷室様の肩が、少し震えているように見えた。3年前のことを思い出して、苦しんでいる。私は、拳を握りしめた。大丈夫。私がそばにいる。氷室様は、一人じゃない。◇しばらくして、氷室様が新しい契約書を持って戻ってきた。それをテーブルに置く。「読んでくれ」私は、契約書を手に取った。***【婚約者契約書】期間:本日より1年間報酬:・月給80万円(家政婦業務)・追加報酬月20万円(婚約者役)・契約終了時ボーナス500万円業務内容:・氷室蓮の婚約者として外部に対して振る舞うこと・氷室家の行事、会食、パーティー等への同行・メディア対応(必要に応じて)条件:・誠実に役割を演じること・どちらかが辛くなった場合、即座に契約解除可能・守秘義務厳守特記事項:・契約終了後、森川咲希の実家旅館修繕費200万円を氷室蓮が負担・父親の医療費を契約期間中、氷室蓮が負担***私は、息を呑んだ。追加報酬月20万円。ボーナス500万円。そして──旅館の修繕費と、父の医療費。全て、氷室様が負担してくれる。「これは……」「君が『ただの飾りではない』と言ったからな。報酬で釣るような真似はもうしない」「氷室様……」「だが、家族のことは心配しなくていい。君の『誠実な仕事』に対する、正当な対価だと思ってくれ」その言葉に、胸が熱くなった。彼は、私の言葉をちゃんと聞いて、私の尊厳を守ろうとしてくれている。「ありがとうございます」私は、ペンを手に取った。手が震える。これ