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第6話

Author: Artemis Z.Y.
美桜の視点

凛奈が執務室に入ってきた。

「咲良さんからお電話です。今夜、お二人を夕食にお招きしたいと」

義母の浅木咲良(あさぎ さくら)は――私たちの結婚を「本物」だと信じている、ただ一人の人だった。

そして私を、真司の都合のいい契約相手以上の存在として見てくれる、たった一人の家族だった。

真司の顎に、ぐっと力が籠もる。

「忙しいと伝えて」

「すでに試みました」凛奈が即答する。「ですが、彼女は聞き入れませんでした。それに、『私のバカ息子に言ってちょうだい。今夜、可愛い嫁を連れて帰らないなら、私が直接オフィスに乗り込むわよ』って言っています」

「……分かった。行く」

真司は渋々言った。

浅木邸への道中は、重苦しい沈黙に包まれていた。

見慣れた街並みが窓の外を流れていく。車は徐々に高級住宅街へと入り、やがて真司が育った並木道へと辿り着いた。

その邸宅は、誇らしげに、優雅に佇んでいた。黄昏時の空を背景に、窓からは温かな光が漏れ出している。

ドアの前で、咲良が待ち構えていた。完璧にセットされた銀色の髪、そして瞳の色と見事に調和したエメラルドグリーンのドレス。

「やっと来たわね!」彼女が声を弾ませる。「私の大切な子たち!」

彼女はまず私に歩み寄ると、力強く抱きしめてくれた。いつものシャネルNo.5の香りが、ふわりと私を包んだ。

「美桜、あなた」

彼女は少し身体を離し、母親のような心配の眼差しで私の顔を覗き込んだ。

「顔色が悪いわ。この仕事中毒、またあなたをこき使ってるんじゃないでしょうね?」

「母さん」

真司の声に、警告の色が滲む。

「ふん、あなたは黙ってて」

咲良は彼を手で制し、私を家の中へと引き入れた。

「さあ、入って入って。田中(たなか)が今夜の夕食、腕を振るってくれたのよ」

邸宅の内装は、前回訪れた時から何も変わっていなかった。

クリスタルのシャンデリアが、アンティーク家具や壁に飾られた家族の肖像画に温かな光を投げかけている。

すべてが古い歴史と財産を物語っており、品よく飾られながらも居心地が良い。咲良はいつも、その繊細なバランスを保っていた。

最初のコースが運ばれてくると、咲良は微笑んだ。芳醇な香りの、マッシュルームスープだった。

「このテーブルがもっと賑やかだった頃が懐かしいわ。覚えてる、真司?昔の日曜日の夕食。従兄弟たちがみんな集まって……」

「ずいぶん昔の話だよ、母さん」真司が素っ気なく答える。

咲良はため息をつき、スプーンでスープをかき混ぜた。

「すべて変わっていくものね。隣の鈴原(すずはら)が先月、おばあちゃんになったのよ。娘さんが双子を産んだの」

彼女は私たちを見上げ、瞳を少女のように輝かせた。

「そういえば、私はいつになったら孫の顔が見られるのかしら?」

カチャリ、と真司のフォークが皿に当たる硬質な音がした。

「母さん――」

「もう、ちゃんと聞きなさい」咲良が彼の言葉を遮る。

「結婚してもう三年よ。三年!私の友人たちの中には、もう二度もおばあちゃんになってる人がどれだけいると思ってるの?」

「仕事が忙しいんだ」真司は言った。

「また仕事!」咲良の声が鋭くなる。「いつもあなたは仕事ばかりね、真司。女性が幸せになるには、忙しい夫以上のものが必要なの。愛されることが必要なのよ」

――愛される。この言葉が、重くその場に沈殿した。

「会社は今、重要な局面を迎えている」真司は硬い口調で言った。「子供の話は後でできる」

咲良の目がすっと細められた。

「それは言い訳よ、分かってるでしょう。私があなたを妊娠していた時は――」

「母さん、その話はもうした」

真司が鋭い声で遮った。

「今の俺の最優先事項は、会社を国際市場に拡大することだ。子供は……足かせだ」

――足かせ。この言葉に、私は殴られたような衝撃を受けた。

食事の匂いが突然圧倒的な暴力となって襲いかかり、胃が激しく波打つ。視界の端で黒い斑点が踊り、どうしようもない吐き気の波が押し寄せてきた。

「ちょっと外に行っていいですか?」

私は会話を遮った。「気分転換で」

咲良の表情がすぐに和らぐ。

「もちろんよ、美桜。庭を使ってらっしゃい。今、イエライシャンが綺麗に咲いてるわ」

咲良の手入れの行き届いた庭を、私は彷徨い歩いた。

完璧に刈り込まれた生垣と咲き誇る花々を通り過ぎ、噴水のそばにある石のベンチに辿り着く。

無意識に、手がお腹へと伸びた。

足かせ――真司は子供という存在を、そう呼んだ。彼がこの赤ちゃんたちの存在を知ったら、一体何と言うだろう?

目を閉じる。

かつてこの場所に座って、真司が私を、弥生を見るような熱っぽい瞳で見てくれる未来を夢見ていた時のことを思い出す。私たちの結婚が、契約以上のものになる未来を。

今、私はここに座っている。彼の子を宿しながら。それでも彼は私のことを、ビジネスの取り決め以上の何者でもないと見なしている。その皮肉は、耐え難いほど残酷だった。

「ここにいると思ったわ」

振り返ると、咲良がカシミアのショールを手に近づいてきた。彼女はそれを優しく私の肩に掛けてから、隣に腰を下ろした。

「あなたはいつもこの場所が好きだったわね」彼女は慈しむように言った。

「覚えてるわ、真司が初めてあなたを家に連れてきた時のこと。何時間もここで、花をスケッチしていたわね」

咲良は続け、私の手を取った。「ごめんなさいね、ああいう子なのよ……あの子をあんな風にしたのは、私の責任ね。夫が亡くなってから……」

彼女は言葉を切り、声が詰まった。

「真司は完璧であろうとすることに没頭してしまったの。完璧な成績、完璧なビジネスマン。『感情』ってものを、どこかに置いてきてしまったのよ」

「お義母さん、私――」

「最後まで聞かせて」彼女の手に力が込められた。

「あなたは真司にとって良い存在なのよ、美桜。あの子にはもったいないくらいよ。私には分かるの、あなたが彼をどんな目で見ているか。どれだけ彼を愛しているか」

その瞬間、真司の声が暗闇を切り裂いた。「母さん、余計なことをするな」

咲良は立ち上がり、息子と向き合った。

「自分の妻を大切にしなさい。手遅れになる前にね」

街の明かりが、ぼやけながら窓の外を過ぎ去っていく。

真司が運転し、ハンドルを握る指の関節が白くなっている。私は勇気を振り絞り、適切な言葉を探そうとした。

「真司」私は静かに言った。「夕食の時に言ってたこと……子供が不都合だって」

「それがどうした?」彼の声は氷のように冷たかった。「家族ごっこは俺の主義じゃない。契約書にサインした時、分かっていたはずだ」

心が深く沈んだ。そうだった。こんな期待を持つべきじゃなかった。

シートの中で姿勢を変えようとした時、何かが足元で転がった。

手を伸ばすと、指先が滑らかな金属に触れた。拾い上げる。

リップだった。

ディオール・ルージュ。オフィスで、弥生の唇を彩っていたのを何度も見た、あの色。

嘲笑うように輝く金色のケース。鼻をつくのは、あの女の香水微かに残っているのを感じた。

もちろん、そうだ。彼女は彼の車に乗っていたのだ。しかも、最近。

これは偶然なんかじゃない。弥生は決して、何も偶然に任せたりしない。彼女はこれをわざと置いていったのだ。真司が本当に欲しているのは彼女だという、残酷な証拠として。

「停めて」

私は囁き、こみ上げる吐き気をこらえた。

「何?」

「車を停めて!」

意図したより強い声が出た。

「外の空気を吸いたい」

真司は舌打ちすると、乱暴に車を寄せた。

私は一言も発さずに私は車を降りる。涼しい夜の空気の中で、自分自身を抱きしめた。

エンジンが唸りを上げ、赤いテールランプが遠ざかっていく。暗い歩道に、私を一人残して。

涙で視界がぼやける。私の人生は、どうしてこうなってしまったの?

頭がくらくらと回る。妊娠のせいか、溢れ出した感情のせいか、もう分からない。

「美桜?」

涙の膜越しに、見覚えのある顔が見えた。圭介がそこに立っていて、その顔には深い心配が刻まれていた。彼は迷わずジャケットを脱ぐと、私の震える肩に掛けてくれた。

「凍えてるじゃないか」彼は言い、温かい手を私の腕に添えた。「こんな夜に、一人で何をしてるんだ?」

「大丈夫よ」

そう言おうとしたが、言葉がもつれて呂律が回らない。地面が足元で揺らいでいるように感じられた。

「大丈夫じゃないだろう」圭介の声が切迫したものになる。私がふらついた。「病院に行かなきゃ」

「いいえ、ただ――」

膝から力が抜け、身体が崩れ落ちた。

「病院に行くんだ」

圭介は決断し、冷たい地面に倒れる寸前で私を受け止めた。

「今すぐに」
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