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未来の私という幽霊が告げた、幸せの終わり

未来の私という幽霊が告げた、幸せの終わり

By:  藤崎青子Completed
Language: Japanese
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氷室徹(ひむろ とおる)がN市の金融街で上場を果たし、西浜市へ戻ってきた日。藤崎家には、祝いに駆けつける客が後を絶たなかった。 誰もが口を揃えて言った。 わがまま放題で知られる藤崎家の令嬢・藤崎綾乃(ふじさき あやの)は、人を見る目があり、貧しい境遇にいた将来有望な男を拾い上げ、入り婿にしたのだと。 だが、その数日間、綾乃の心はずっと苛立ちに支配されていた。 原因は、一人の幽霊に取り憑かれてしまったことだった。 徹がA国へ旅立った日から―― 突然、彼女の前に狂気に囚われた幽霊が現れた。 その幽霊は綾乃にしか見えず、自分は「未来の綾乃」だと名乗った。 顔立ちは綾乃と瓜二つ。 だが、その顔には無数の傷痕が刻まれていた。 声はしゃがれ、瞳は焦点を失っている。 乾いてもつれた髪は、ところどころ焼け焦げ、不揃いに短くなっていた。 まるで正気を失ったように錯乱し、まともに言葉も話せず、昼も夜も泣き続けていた。 そして今日、徹の祝賀パーティーの日がやってきた。 綾乃は丹念に身支度を整え、薔薇の花束を抱えて会場へ向かった。 宴会場の扉を押し開けようとした、その瞬間。 傷だらけの幽霊の手が、そっと彼女の手を押さえた。 「入らないで。彼の栄光はあなたのものじゃない。今夜の主役も、あなたじゃない……」 幽霊がまともな言葉を口にしたのは、この三か月で初めてだった。 その氷のように冷たい予言に、綾乃は全身の毛が逆立つほどの悪寒を覚えた。

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Chapter 1

第1章

だが、綾乃は信じなかった。

徹はA国にいた三か月間。

毎朝欠かさず「おはよう」のメッセージを送ってくれた。

毎晩、ビデオ通話で顔を見せてくれた。

そして、自分にとって綾乃こそが唯一の救いなのだと、そう直接伝えてくれたのだ。

だからこそ。

綾乃が扉を押し開け、薄暗い宴会場で目にした光景は――

眩いスポットライトの下、白いドレスをまとった一人の女性を抱き締める徹の姿だった。

そして、その女性が隙を見て、そっと彼の顎に口づけを落とした瞬間。

綾乃の世界は、音を立てて崩れ落ちた。

彼女は一直線にステージへ駆け上がる。

幽霊が彼女の前に立ちはだかり、泣き叫ぶように叫んだ。

「やめて。その子は彼が心から愛している人なの。彼女を叩いたら……」

だが、もう遅かった。

綾乃の手は幽霊の透けた身体をすり抜け、そのまま白いドレスの女性の頬を力いっぱい打ち抜いていた。

パァン――!

鋭い破裂音が響き渡り、宴会場の喧騒は一瞬で静まり返る。

「恥ってものを知らないの?彼に妻がいるって分かっているんでしょう?まさか既婚者だと知らなかったなんて言わないわよね!?」

死んだような静寂が広がった。

綾乃の掌は熱を帯び、痺れていた。

彼女は徹を真っ直ぐ睨みつけ、その言い訳を待った。

いつものように、冷ややかながらも優しく自分の手を取り、「痛くなかったか」と気遣ってくれるのを待っていた。

しかし――

彼はそうしなかった。

綾乃は初めて、徹の瞳に宿る殺意を見た。

いつも穏やかで、波一つ立たなかったその目が、一瞬で血走っていた。

彼は床へ倒れた女性に駆け寄り、そっと抱き起こすと、守るように腕の中へ抱き寄せた。

「謝れ」

徹が口を開く。

その声は、氷よりも冷たかった。

綾乃は呆れ返り、思わず言い返した。

「何を言ってるの?徹、私はあなたの妻よ。

さっきステージで、この子が一番大切な人だって言ったでしょう?じゃあ私は何なの?

それに、今この目で見たのよ。この子があなたにキスしたのを。それなのに、私に謝れって言うの!?」

徹は反論もしなければ、怒鳴ることもしなかった。

ただ淡々と告げた。

「彼女は俺の妹、江崎美月(えざき みつき)だ」

綾乃はあまりにも馬鹿げた話に、声を荒らげた。

「結婚して三年になるのよ?いつの間に妹なんてできたの?そんな子供騙しの言い訳が通用すると思ってるの?

あなたは氷室で、彼女は江崎でしょう。どうして妹になるのよ?

兄にあんな熱っぽい目を向けて、顎にキスする妹がどこの世界にいるっていうの?」

徹はもう綾乃を見ようともしなかった。

震えながら涙を流す美月をそっと横抱きにすると、そのまま立ち去ろうとする。

だが、去り際に足を止め、背筋が凍るような声で言い放った。

「綾乃。俺を侮辱するのは構わない。だが、彼女にだけは指一本触れるべきじゃなかったな」

その瞬間。

綾乃の目に溜まり続けていた涙が、とめどなく溢れ出した。

彼を侮辱した?

そんなこと、できるはずがない。

十八歳で初めて出会い、一目で心を奪われた人。

二十三歳で、どんな手を使ってでも妻になりたいと願った人。

世界中の美しいものを、すべて彼に捧げたいと思ってきた。

なのに、どうして私が彼を侮辱したことになるの?

しかし、徹はもう振り返らなかった。

背後に控えるボディガードへ、氷のように冷たい声で命じる。

「妻を家へ送れ。俺が戻るまで見張っておけ」

だが、綾乃は宴会場を出た直後、暗い路地裏へ力任せに引きずり込まれた。

彼女は激怒し、ボディガードを睨みつける。

「何をする気?離しなさい!」

リーダー格のボディガードは無表情のまま袖をまくった。

「申し訳ありません、奥様。社長のご命令です」

綾乃が状況を理解する間もなく。

容赦ない平手打ちが頬を打ち据えた。

パァン!

たった一撃で、綾乃の頭の中は真っ白になった。

耳鳴りが激しく響き、顔の半分はみるみる赤く腫れ上がり、感覚さえ失っていく。

そこへ幽霊がふらりと現れた。

泣くよりも苦しそうな目で綾乃を見つめながら、静かに言う。

「無駄に抵抗しないで。泣き叫ぶのもやめて。

あなたが彼の一番大切な人を一度叩いたから……彼はその百倍にして返すのよ……」

そう言い残すと、幽霊は再び正気を失ったように虚ろな笑みを浮かべ、すすり泣き始めた。

百発の平手打ちが終わる頃には。

綾乃の顔は完全に感覚を失い、口の中には鉄錆のような血の味が広がっていた。

激痛が全身を駆け巡り、魂まで粉々に引き裂かれていくような錯覚に襲われる。

ボディガードたちは、そのまま彼女を氷室邸へ連れ帰った。

彼女が大金をかけて海外から取り寄せた高級ソファには、怯えた様子の美月がちょこんと腰掛けていた。

そして――

あの冷淡で傲慢な徹が。

片膝をつき、彼女の赤く腫れた頬へ、優しく薬を塗っていた。

物音に気づいた徹が振り返る。

その冷酷な瞳は、血にまみれた綾乃の顔を数秒見つめただけで、再び美月へ視線を戻し、薬を塗る手を止めることはなかった。

綾乃の目から、涙が勝手にこぼれ落ちる。

彼女は自嘲するように笑い、鋭い声で吐き捨てた。

「徹、成り上がった途端に恩を忘れる男なんて、今まで何人も見てきたわ。

心変わりしたなら、そう言えばいいじゃない。財産なんて一切持たずに出て行くなら、離婚してあげる。

でも、ふっ……この子があなたの心から愛する妹なんでしょう?だったら、一生愛人のままでいることね」

徹は、その言葉など耳に入っていないかのようだった。

美月を抱き上げたまま、一言も発せず二階へ上がっていく。

その夜。

綾乃は自室に閉じこもり、狂ったように泣き叫んだ。

それでも。

どうしても諦めることだけはできなかった。

十日後。

徹が出張で留守にした隙を狙い、綾乃は人を手配し、美月を無理やりどこかへ連れ去らせようとした。

すると、錯乱した幽霊が再び彼女の前に立ちはだかる。

瓜二つの顔で痛々しいほど泣き叫んでいるのに、その瞳から涙は一滴も流れていなかった。

「やめて……お願いだから綾乃、そんな馬鹿なことはしないで……ここで手を出したら、あなたは鞭で打たれて、肉が裂けるまで痛めつけられるわ。

それに、お父さんも……死んでしまう。私たちのせいで、お父さんが死ぬのよ……」

電話を握る綾乃の手は、幽霊の氷のような予言に震えていた。

しばらく沈黙したあと。

彼女はかすれた声で言った。

「もうやめて。お金は約束どおり払うから、みんな帰って。あの子には手を出さないで」

しかし、翌朝五時。

徹は冷え切った空気をまといながら、綾乃の前に立っていた。

彼女の顎を掴む大きな手は、氷のように冷たく、そして容赦がなかった。

「美月には手を出すなと警告したはずだ。言葉が通じないのか」

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第1章
だが、綾乃は信じなかった。徹はA国にいた三か月間。毎朝欠かさず「おはよう」のメッセージを送ってくれた。毎晩、ビデオ通話で顔を見せてくれた。そして、自分にとって綾乃こそが唯一の救いなのだと、そう直接伝えてくれたのだ。だからこそ。綾乃が扉を押し開け、薄暗い宴会場で目にした光景は――眩いスポットライトの下、白いドレスをまとった一人の女性を抱き締める徹の姿だった。そして、その女性が隙を見て、そっと彼の顎に口づけを落とした瞬間。綾乃の世界は、音を立てて崩れ落ちた。彼女は一直線にステージへ駆け上がる。幽霊が彼女の前に立ちはだかり、泣き叫ぶように叫んだ。「やめて。その子は彼が心から愛している人なの。彼女を叩いたら……」だが、もう遅かった。綾乃の手は幽霊の透けた身体をすり抜け、そのまま白いドレスの女性の頬を力いっぱい打ち抜いていた。パァン――!鋭い破裂音が響き渡り、宴会場の喧騒は一瞬で静まり返る。「恥ってものを知らないの?彼に妻がいるって分かっているんでしょう?まさか既婚者だと知らなかったなんて言わないわよね!?」死んだような静寂が広がった。綾乃の掌は熱を帯び、痺れていた。彼女は徹を真っ直ぐ睨みつけ、その言い訳を待った。いつものように、冷ややかながらも優しく自分の手を取り、「痛くなかったか」と気遣ってくれるのを待っていた。しかし――彼はそうしなかった。綾乃は初めて、徹の瞳に宿る殺意を見た。いつも穏やかで、波一つ立たなかったその目が、一瞬で血走っていた。彼は床へ倒れた女性に駆け寄り、そっと抱き起こすと、守るように腕の中へ抱き寄せた。「謝れ」徹が口を開く。その声は、氷よりも冷たかった。綾乃は呆れ返り、思わず言い返した。「何を言ってるの?徹、私はあなたの妻よ。さっきステージで、この子が一番大切な人だって言ったでしょう?じゃあ私は何なの?それに、今この目で見たのよ。この子があなたにキスしたのを。それなのに、私に謝れって言うの!?」徹は反論もしなければ、怒鳴ることもしなかった。ただ淡々と告げた。「彼女は俺の妹、江崎美月(えざき みつき)だ」綾乃はあまりにも馬鹿げた話に、声を荒らげた。「結婚して三年になるのよ?いつの間に妹なんてできたの?そんな
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第2章
綾乃は死ぬほどの激痛に苛まれながらも、その瞳には困惑の色が浮かんでいた。震える声で、ようやく言葉を絞り出す。「私は……何もしていないわ」徹は冷え切った眼差しでしばらく彼女を見下ろすと、乱暴に床へ突き飛ばした。「まだしらを切るつもりか。彼女をどこへ隠した」綾乃は氷のように冷たい床に這いつくばりながら叫ぶ。「私じゃない!本当に私じゃないわ!」ビシッ!最初の鞭が、容赦なく綾乃の背中を打ち据えた。錯乱した幽霊が駆け寄り、透けた身体で必死に綾乃を庇おうとする。「怖がらないで。私が抱きしめていれば痛くないから。この鞭打ちも、耐えれば終わるわ。綾乃、いい子だから、あの女の居場所を彼に教えてあげて」綾乃の目から、堰を切ったように涙が溢れ出した。幽霊の言う通りだった。肉が裂けるほどの鞭打ちは、本当に耐え難いほど痛かった。でも――どうやって教えればいいというの。美月がどこにいるのかなど、綾乃にはまったく分からないのだから。鞭は何度も何度も振り下ろされる。その一撃ごとに、空気を切り裂く凄まじい音が響いた。すべてが終わる頃には、綾乃は血だまりの中に倒れ込み、呼吸さえかすかになっていた。「徹……私は知らない……私がやったんじゃないわ」「お前じゃないだと?この西浜市で、誰が彼女に手を出せる。そこまで言い張るなら、俺を恨むなよ」その瞬間。氷室邸の大きな扉が乱暴に開かれた。藤崎本邸の執事、陣内義次(じんない よしつぐ)が慌てて駆け込んでくる。「お嬢様、大変です!宗一郎様が心臓発作でICUへ搬送されました。ですが、どの医師も手術を拒否しておりまして……」綾乃の虚ろだった瞳が、一瞬で大きく見開かれた。しかし、血まみれで倒れる綾乃の痛ましい姿を目にした義次は、その場にひざまずき、泣き崩れた。「お嬢様、どうされたのですか!一体何があったのですか……旦那様、どうしてお嬢様をこんな目に遭わせるのですか。お嬢様は幼い頃から、一度たりともきつい言葉を浴びせられたことさえないというのに……」だが、徹は何も答えなかった。ただ静かに綾乃の前まで歩み寄り、冷たい眼差しで見下ろす。「美月の帰りが一時間遅れれば、お前の父親の治療も一時間遅れる。居場所を白状した瞬間、医者を手術室へ入れてやる」
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第3章
翌日、徹は運転手を差し向け、綾乃を強引に連れ戻した。彼女が玄関をくぐると、リビングの絨毯に座り込んでテレビを見ていた美月が慌てて立ち上がり、徹の背後へと隠れた。「綾乃さん、ごめんなさい。お兄ちゃんが、これは綾乃さんの一番お気に入りの絨毯だって……私、ここでポテトチップスなんて食べちゃいけなかったよね」怯えた小鹿のように瞳を潤ませ、その言葉遣いもひどくおずおずとしていた。しかし、綾乃は彼女の表情から、隠しきれていない得意げな色をはっきりと見て取っていた。そのあまりの滑稽さに、綾乃は思わず吹き出してしまった。徹が十年もの間、ひた隠しにしてきた相手が、まさかこんな程度の女だったとは。笑うと背中の傷が引きつり、綾乃は痛みに顔を歪めて少し身を屈めた。綾乃は真っ直ぐに徹を見つめ返した。「気にしないで。この家にあるものは、全部あなたたちにあげるわ。離婚する時に、現金で清算してくれればそれでいいから」徹の瞳の色が沈み込んだ。「綾乃、どういう意味だ」綾乃の声は波一つ立たず、極めて穏やかだった。「深い意味なんてないわ。ただもう、終わりにしたいだけ」リビングは、異様で不気味なほどの静寂に包まれた。ずっと綾乃の背後についてきていた幽霊でさえ、ふいに悲痛な泣き声をピタリと止めた。その淀みきっていた瞳に、ほんのわずかな正気の光が宿る。ムカデのように顔中を這う歪な傷跡がゆっくりと薄れ、傷一つない顔へと戻っていく。その姿を見つめながら、綾乃の胸の奥には苦い思いが込み上げていた。そうだ。前世の彼女は、ちょうどこの頃、父親が死に、自分も強引に連れ戻されて、間違いなく死ぬまで暴れて抵抗したはずだ。あの顔中の凄惨な傷跡は、どれほどの過酷な拷問を受けた結果だったのか。もし、これから先、前世とはまったく違う選択を繰り返していったなら。自分もあの幽霊も、もう一度やり直せる余地があるのではないか。幽霊のその無残に欠損した身体も、元の姿に回復するのではないだろうか。だが、次の瞬間。徹は力任せに彼女を寝室へと引きずり込み、乱暴に床へ投げ飛ばした。「綾乃、また芝居をしているのか。狂うほど俺を愛しているお前が、離婚なんてできるはずがないだろう。また美月を傷つけるつもりか、警告しておくが……」背中から肉が裂けるよ
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第4章
綾乃は散らかり放題になった部屋を静かに見渡すと、ただ一言だけ口にした。「いいわ」「綾乃さんって、本当に気前がいいのね」美月は満面の笑みを浮かべ、ジュエリーを弄ぶ手つきはますます遠慮がなくなっていく。一本の真珠のネックレスが、彼女の手の中で無造作に引きちぎられた。大粒の黄金色の真珠が、一粒、また一粒と床へ転がり落ちていく。綾乃は無表情のままベッドから降り、静かに着替え始めた。その時、美月が「あっ」と小さく声を上げる。「お兄ちゃんが、今夜のチャリティーパーティーはすごく大事だって言ってたから、このネックレス気に入ってたんだけどなぁ。壊れちゃって残念。綾乃さんの亡くなったお母さんの形見だって聞いてたのに……本当にごめんなさいね」綾乃は尖った爪を掌に食い込ませた。チクリとした痛みが走る。それでも彼女は静かな声で答えた。「構わないわ。ただのネックレスだもの。物より人のほうが、ずっと大切よ。あなたが気に入ったなら、この部屋にあるものは何でも好きに持っていっていいわ」美月は一瞬きょとんとした。だが次の瞬間、その瞳の奥で悪意が鈍く光る。数歩近づくと、綾乃の手首をそっと掴んだ。「綾乃さん、このバングル、すっごく綺麗ね」満面の笑みを浮かべたまま言葉を続ける。「三年前、お兄ちゃんが私にも一つ買ってくれたって言ってたんだけど、なくしちゃったの。綾乃さんのと、まったく同じだったんだよ」綾乃はうつむき、自分の手首にある緑色のバングルへ視線を落とした。その瞬間、身体がかすかに震える。それは徹がN市で初めて大きな利益を手にしたあと、高級オークションで落札してきた品だった。徹のオフィスでそれを見つけた綾乃は、嬉しさのあまり手に取り、そのまま自分の手首にはめた。それ以来、三年間、一日たりとも外したことはなかった。綾乃はずっと、それが彼から贈られた結婚祝いなのだと信じていた。結局、それも自分の思い込みに過ぎなかった。美月は乱暴な手つきで、力任せにバングルを引き抜こうとする。痛みに顔をしかめた綾乃は、一歩後ろへ下がった。すると美月は、その勢いを利用するように床へ倒れ込み、胸を押さえて苦しそうに息を荒げ始めた。いつの間にか部屋へ入ってきていた徹が、倒れた美月をすぐに抱き起こす。眉を
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第5章
美月はあろうことか手を伸ばし、吉田家の令嬢・吉田七海(よしだ ななみ)の腕にすがろうとした。「これからは私ももっと外へ出ようと思ってるんです。皆さんにもちゃんとご挨拶したくて。私は江崎美月、氷室徹が一番大切にしている……妹です」七海は一歩後ずさりし、まるで汚れたものを避けるように、美月の手をさらりとかわした。美月には一瞥もくれず、そのまま綾乃へ向き直る。「綾乃。今の家が居心地悪いなら、うちの山の中腹にある邸宅が空いてるから、いつでも引っ越してきていいわよ」あまりにも露骨な無視に、美月の笑顔は顔に貼り付いたまま凍りついた。その瞳には、隠そうともしない悪意が宿る。次の瞬間。彼女は突然、ものすごい力で綾乃の腕を引っ張った。そのまま綾乃を巻き込むように、近くにあった等身大のシャンパンタワーへ突っ込んでいく。ガシャァァン――!無数のクリスタルグラスが床へ落ち、耳をつんざくような破砕音が会場中に響き渡った。砕け散ったガラス片とともに、シャンパンが一瞬で二人の全身をびしょ濡れにする。美月は割れたガラスの上へへたり込み、顔面蒼白のまま胸を押さえ、苦しそうに激しく息を切らせた。まるで今にも息絶えそうな様子だった。「綾乃さん……私は、皆さんと仲良くなりたかっただけなのに……どうして無理やりお酒を飲ませようとするの……」徹が駆けつけた時、目に飛び込んできたのはその光景だった。彼は立ち上がろうとしていた綾乃を乱暴に突き飛ばし、顔を強張らせながら床の美月を抱き起こす。美月は血の気を失った顔で徹の胸に身を縮め、小刻みに震えていた。そして潤んだ瞳で彼を見上げ、卑屈なほど怯えた表情を浮かべる。「私なんかが皆さんと一緒にいる資格なんてないって分かってる。でも……ただ仲間に入れてほしかっただけなのに……綾乃さん、どうして私を突き飛ばしたの?」徹は血走った目で綾乃を睨みつけた。「美月は先天性の心臓病なんだ。酒は一滴たりとも口にできない。お前は美月を殺す気か」七海たちは、その場で言葉を失った。七海はすぐに前へ出て、全身傷だらけの綾乃を支え起こす。「徹、あなた正気なの?どうしてこれが綾乃のせいになるのよ。この女が勝手に……」「どけ!」徹は耳を貸そうともせず、鋭く遮った。「綾乃、やっぱりな。あの聞き
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第6章
離婚しない。一生一緒にいる。かつての綾乃にとって、それは一人きりで胸に抱き続けてきた、かけがえのない夢だった。だが今は違う。まるで途方もない恩を施しているかのような徹の態度を見ていると、笑いさえ込み上げてきた。明日になれば、すべてが終わる。綾乃はただ、父を医療搬送用のチャーター機に乗せて送り出す、その時を待っていた。「分かったわ」綾乃は徹に握られていた手をそっと引き抜き、そのまま布団の中へ隠した。かつてはあれほど恋い焦がれたその体温も、今では毒蛇にまとわりつかれたような不快感しか覚えない。骨の髄まで染みついた嫌悪感に、吐き気すら込み上げた。「もうしないわ。美月さんは無邪気で優しいもの。彼女を不愉快にさせるようなことは、二度としない」徹の手からぬくもりが消えた。彼は眉をひそめ、胸の奥に小さな苛立ちを滲ませる。「分かってくれたなら、それでいい」そう言って立ち上がると、徹は冷たく言い放った。「これからは、美月の前でその高慢なお嬢様気質を見せるな」徹が病室を出ていくとすぐ、綾乃のもとへ執事の義次からメッセージが届いた。【お嬢様、離婚の手続きはすべて完了いたしました。全資金はS国の銀行口座へ移転済みです。医療搬送用チャーター機の手配も整いましたので、明日の午前10時には出発可能です】その文面を見た瞬間、綾乃の目頭が熱くなった。だが翌朝早く、介護士から一本の電話が入る。受話口の向こうは騒然としていた。介護士は半ば叫ぶような声で訴える。「綾乃さん、早く病院へ来てください!私では止められません。旦那様の妹だと名乗る美月という方が、宗一郎さんを日光浴に連れて行くと言って聞かないんです。何度止めても、まったく耳を貸してくださらなくて……」綾乃は全身が震えた。父・藤崎宗一郎(ふじさき そういちろう)は重度の昏睡状態で、人工呼吸器によって辛うじて命をつないでいる。そんな父を外へ連れ出そうとするなんて、美月は父を殺すつもりなのだ。綾乃は一秒たりとも無駄にせず、病室を飛び出した。タクシーを拾い、父のいる病院へ向かう。集中治療室の入口。美月が車椅子を押していた。そこには血の気を失った父がぐったりともたれかかり、その穏やかな表情は、今にも呼吸が止まってしまいそうだった。
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第7章
病院を後にすると、徹は運転席に座り、無表情のままハンドルを握っていた。美月は身を小さく縮め、今にも消え入りそうな声で言った。「お兄ちゃん、私……とんでもないことしちゃったのかな。本当に、綾乃さんの力になりたかっただけなの。昔、一人で病室のベッドに寝ていた時、誰かに外へ連れ出してもらって、お日さまの光を浴びたいってずっと思ってたの。まさか、こんなことになるなんて……」徹は苛立たしげにネクタイを緩めた。「お前のせいじゃない。あいつは昔から甘やかされて育ってきた。わがまますぎる。お前とは違う」車内は、水を打ったような静けさに包まれた。その時、徹はふと手を伸ばし、センターコンソールのドリンクホルダーを探った。いつだって、そこには綾乃が用意してくれた保温ボトルが置かれていた。中には、ちょうど飲み頃の、はちみつ入りの温かい飲み物が入っている。だが今回、彼の指先が触れたのは、冷たいプラスチックだけだった。保温ボトルがない。その瞬間、徹は思い出した。綾乃がこの車に何も置かなくなってから、もう十二日も経っていたことを。宙に浮いたままの手がぴたりと止まる。理由も分からない苛立ちが、全身を駆け巡った。「お兄ちゃん、お水飲む?」美月は気遣うように後部座席の車載冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、差し出した。冷え切ったペットボトルを見た途端、徹の胃がきりりと縮む。以前、接待で酒を飲みすぎて胃を悪くしたことがあった。それ以来、綾乃が「冷たいものは絶対に駄目」と言い、屋敷の使用人も会社のスタッフも、彼に出す飲み物はすべて温かいものになっていた。徹はやや冷たい声で答えた。「喉は渇いていない」助手席は、ぽっかりと空いていた。以前はいつも綾乃がそこに座り、楽しそうに他愛もない話をしていた。あの時の彼は、それをうるさいと感じ、時には黙れと冷たく言い放ったことさえある。だが今は、その息苦しいほどの静寂が、かえって彼をひどく苛立たせていた。脳裏に、先ほど病院で聞いた綾乃の悲鳴が、不意によみがえる。泣きながら、「あなたの目は節穴なの」と叫んだあの声。その直後、記憶はふっと切り替わる。風のように穏やかな声。「すべてあなたの言う通りにする」そう言った綾乃の姿だった。あまりにも従順
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第8章
ゴォン――!徹は、頭を鈍器で力いっぱい殴られたような激しい衝撃を受けた。昨日、電話越しに聞いた綾乃の「分かったわ。すべてあなたの言う通りにする」という言葉が、細い糸のように彼の心臓をきつく締めつける。彼は慌ててスマホを取り出し、綾乃へ電話をかけた。次の瞬間、静まり返ったテラスに、着信音が突然鳴り響いた。徹は音のする方へ歩み寄る。床一面に残る乱れた足跡と、まだ乾ききっていない血痕。そのすぐそばに、綾乃が置き去りにしたスマホが落ちていた。ひび割れた画面には、「夫」の一文字が点滅している。徹はその画面をじっと見つめ続けた。やがて画面は暗転し、辺りは死んだような静寂に包まれた。ようやく身をかがめて拾い上げたその時、指先にぬるりとした感触が伝わる。まだ乾いていない血だった。「綾乃……?」探るように声を張り上げる。しかし、その声は広いテラスに虚しくこだまするだけだった。返事はない。ちょうどその時、アシスタントの隆一が慌ただしく駆け戻ってきた。「社長、藤崎邸は完全にもぬけの殻でした。屋敷そのものも、数日前にはすでに売却されています。それどころか、奥様名義の個人資産も、すべて名義変更されていました」「名義変更だと?どういうことだ」徹は血のついたスマホを強く握り締め、手の甲に青筋を浮かべた。隆一は背中に冷や汗を流しながら答える。「奥様名義の不動産やスポーツカー、それに亡きお母様が遺された画廊やジュエリーショップまで、この七日間ですべて市場価格を下回る額で極秘に現金化されています。どうやら、一生西浜市へ戻るつもりはないようです」「あり得ない!」徹は鋭く遮った。その目は血走っている。十八歳の時に一目惚れして以来、綾乃は五年間、命がけで彼を追い続けてきた。綾乃がどれほど彼を愛しているか、西浜市で知らない者はいない。自分の命より彼を優先する綾乃が、彼を捨てるはずなどない。まして、この街を永遠に去るなどあり得ない。これは間違いなく、美月に対抗するための芝居だ。彼の気を引こうとしているだけに違いない。「今すぐ航空会社と空港の出国記録を調べろ。港もすべて封鎖しろ」徹の声は冷酷そのものだった。「管だらけの生ける屍を連れて、どこまで逃げられるというんだ。必ず見つけ出せ。も
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第9章
オフィスは静まり返っていた。徹の視線は、床に落ちた二枚の紙に釘付けになっていた。「貸し借りなし、か……」喉仏が上下し、その声は紙やすりで削られたようにひどくかすれていた。長い沈黙の末、彼はゆっくりと腰をかがめる。すらりとした指先が、床に落ちた紙を拾い上げた。目に刺さるような鮮やかな朱印と、無機質な法律用語。それらは、この三年間の結婚生活の終わりを、容赦なく告げていた。徹の心臓が――見えない何かに鷲掴みにされ、一瞬でぐしゃりと握り潰されたような衝撃が走る。締めつけられる。息が止まりそうなほどの激痛だった。彼は血走った目を勢いよく上げ、隆一を鋭く睨みつけた。「婚姻関係の解消だと?俺は同意していない。誰がこんなものを受理した!」隆一は顔面を真っ青にし、震える声で答えた。「調べたところ、奥様は三年前のご結婚の際、社長が宗一郎様宛てに署名された、あの離婚協議書を使って離婚を申請されたようです。ですが奥様は、婚前契約書に記されていたような、社長への財産放棄請求は一切なさいませんでした。それどころか、ご自身がすべての財産を放棄される道を選ばれたため……私どもも、離婚が成立していたことにまったく気づけなかったのです」徹の頭は真っ白になり、耳の奥では激しい耳鳴りが響き続けていた。三年前、藤崎家へ婿入りした日の光景が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。宗一郎が、重みのある低い声で語りかけてきた。「徹くん、私を恨まないでくれ。綾乃は、私が年を取ってから授かった娘なんだ。母親も早くに亡くし、私にとってはたった一人のかけがえのない娘だ。幼い頃から何よりも大切に育ててきた。その娘が、どうしても君と結婚したいと言って聞かない。この二つの書類に君が署名してくれるなら、私も認めよう」徹は黙ってうつむいた。一枚は離婚協議書だった。彼は一瞬たりとも迷わず、その場で署名した。もう一枚は婚前契約書だった。【将来、いかなる理由で離婚に至った場合でも、夫側は自発的にすべての財産を放棄し、身一つで家を出るものとする】その一文を目にした時だけ、彼のペン先は止まった。しばらく黙って考え込んだ末、それでも迷いを振り切るように署名を書き入れた。宗一郎は二枚の書類をアシスタントへ渡し、公証役場へ送らせた。
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第10章
ずっとベッドのそばで付き添っていた綾乃は、その一言を聞いた瞬間、堰を切ったように涙をあふれさせた。「お父さん、私ここにいるわ。私たち、もう西浜市を離れたのよ。今はS国の湖畔都市にいるわ。もう安全だからね」宗一郎は、痩せ細ってはいたものの穏やかな娘の顔を見つめ、一筋の濁った涙を流した。彼はそっと綾乃の手を叩いた。「ああ……どこでもいい。生きてさえいれば、それでいいんだ」一ヶ月後、宗一郎は無事に退院した。資産を売却したことで、綾乃の手元には800億ドル近い莫大な資金が残された。これだけの資金があれば、彼女と父親が異国の地で最高水準の医療を受け、穏やかな暮らしを送るには十分すぎた。綾乃はS国の湖畔都市に、湖畔の広大な邸宅を購入した。穏やかで、ゆったりとした時間が流れていく。綾乃は自ら薔薇の剪定をするようになった。湯を沸かしてお茶を淹れ、その香りと味わいを楽しむことも覚えた。すべてが、少しずつ良い方向へ向かっていた。中でも一番大きな変化は、ずっと彼女のそばにいたあの幽霊だった。今、幽霊は庭のロッキングチェアに静かに腰掛けている。その表情は穏やかで、春色に染まった庭園を静かに眺めていた。ぼろぼろだった服は、いつの間にか柔らかなシルクの白いワンピースへと変わっている。滝のように流れる黒髪は艶やかに整えられ、耳の後ろへ流されていて、あの焼け焦げた不揃いな毛先はもうどこにもなかった。狂ったように笑うことも、悲鳴を上げて泣き叫ぶこともなくなった。恐ろしかった顔の傷も、不自然な角度にねじ曲がっていた手足も、すべて元通りに戻っている。身体がまだ半透明であることを除けば、見た目は普通の人と何ひとつ変わらなかった。だが……枝を剪定していた綾乃は、気を取られた拍子に薔薇の棘で指先を深く刺してしまった。ぷくりと浮かんだ血の雫が、彼女の瞳に赤く映り込む。それはまるで、胸の奥深くに潜む拭いきれない恐怖そのもののようだった。もし、本当にすべてが変わったのなら。もし、家族が破滅するという死の運命を無事に避けられたのなら。どうして、幽霊はまだ消えていないのだろう。生き返るわけでもなく、魂が消えてしまうわけでもない。それどころか、その姿は以前にも増してはっきりとし、今も彼女のそばに在り続け
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