LOGIN氷室徹(ひむろ とおる)がN市の金融街で上場を果たし、西浜市へ戻ってきた日。藤崎家には、祝いに駆けつける客が後を絶たなかった。 誰もが口を揃えて言った。 わがまま放題で知られる藤崎家の令嬢・藤崎綾乃(ふじさき あやの)は、人を見る目があり、貧しい境遇にいた将来有望な男を拾い上げ、入り婿にしたのだと。 だが、その数日間、綾乃の心はずっと苛立ちに支配されていた。 原因は、一人の幽霊に取り憑かれてしまったことだった。 徹がA国へ旅立った日から―― 突然、彼女の前に狂気に囚われた幽霊が現れた。 その幽霊は綾乃にしか見えず、自分は「未来の綾乃」だと名乗った。 顔立ちは綾乃と瓜二つ。 だが、その顔には無数の傷痕が刻まれていた。 声はしゃがれ、瞳は焦点を失っている。 乾いてもつれた髪は、ところどころ焼け焦げ、不揃いに短くなっていた。 まるで正気を失ったように錯乱し、まともに言葉も話せず、昼も夜も泣き続けていた。 そして今日、徹の祝賀パーティーの日がやってきた。 綾乃は丹念に身支度を整え、薔薇の花束を抱えて会場へ向かった。 宴会場の扉を押し開けようとした、その瞬間。 傷だらけの幽霊の手が、そっと彼女の手を押さえた。 「入らないで。彼の栄光はあなたのものじゃない。今夜の主役も、あなたじゃない……」 幽霊がまともな言葉を口にしたのは、この三か月で初めてだった。 その氷のように冷たい予言に、綾乃は全身の毛が逆立つほどの悪寒を覚えた。
View More聖堂の一階。誰の目にも見えない女の幽霊が、綾乃の耳元でそっと囁いた。「綾乃、あの人たちが来たわ。二階にいる……でも、怖がらないで」綾乃はわずかにまつ毛を震わせた。それでも二階を振り返ることはなく、慌てる様子も微塵も見せない。怖い――そんな感情は、とっくの昔に置いてきた。五年前の西浜市で、彼女はすでに地獄をくぐり抜けてきたのだから。今日の結末が、たとえ死だとしても。今さら何を恐れる必要があるというのだろう。綾乃は静かに微笑み、幽霊へ優しく答えた。「私は怖くないわ。死角にはすでに人を配置してあるもの。怖がるどころか、この手で私たちの宿命を変えてみせるわ……」二階の暗がり。銃を握る徹の手は、絶え間なく震えていた。傷痕の男が歯を食いしばりながら怒鳴る。「撃て!何をためらっている!北斗を殺せば、彼女は俺たちのものになるんだ!」徹の指は、すでに引き金を半分以上引いていた。あと少し力を込めればいい。北斗は死ぬ。そうすれば、綾乃を西浜市へ連れ戻せる。だが――綾乃の顔に浮かぶ、あまりにも眩しい笑顔を見た瞬間、徹は再びためらってしまった。今日は、彼女の結婚式だ。長い時間をかけて、大切に準備してきた晴れの日。彼はこの一ヶ月、ずっと彼女の後を追い続けてきた。幸せそうに笑う姿を、何度も見てきた。何度もウェディングドレスを試着する姿を見てきた。聖堂で何度もリハーサルを重ねる姿も見てきた。もしここで撃てば――次の瞬間には、北斗の血が彼女の純白のドレスを赤く染める。彼女は泣くだろう。生きていけないほどの苦しみを背負うだろう。ようやく取り戻した、あの生き生きとした笑顔も、再び死んだように凍りついてしまう。「駄目だ……」徹の指先から力が抜け、拳銃が今にも滑り落ちそうになる。その躊躇に気づいた傷痕の男は激怒し、徹の手を乱暴に掴んだ。「何をしている!この役立たずが!撃て!さっさと撃て!この世界線では、お前自身の手で北斗を殺すしかない。だから俺がこうして力を貸してやっているんだ!このゴミが……!」「失せろ!」徹は真っ赤に血走った目で傷痕の男を思い切り蹴り飛ばした。涙がとめどなく頬を伝い、その場に崩れ落ちながら絶叫する。「もう無理だ……これ以上、あいつを傷つけるなんて
男は何も答えなかった。冷ややかな笑みを浮かべると、ゆっくりとサプレッサー付きの拳銃を取り出す。漆黒の銃口が、美月の眉間へと静かに押し当てられた。「今回を含めて、俺がお前を殺すのは九回目だ。これが最後になることを願うよ」男の声には、感情の起伏など微塵もなかった。まるで美月の命を奪うことなど、取るに足らない些細なことだと言わんばかりに。「いや……やめて!助けて――!」美月は絶望に満ちた悲鳴を上げた。だが、返ってきたのは、引き金が引かれる鈍い銃声だけだった。次の瞬間、鮮血が飛び散る。美月は目を大きく見開いたまま床へと崩れ落ち、そのまま息絶えた。男は無言で拳銃をしまう。しばらく冷たい目で美月の亡骸を見下ろした後、かすれた声でぽつりと呟いた。「次に会う時は、少しは身の程をわきまえて、さっさと遠くへ身を隠しておくことだ。もう二度と、俺と綾乃の邪魔をするな」そう言い残すと、男は踵を返した。一度も振り返ることなく、血の匂いが漂う地下室を静かに後にした。……S国・湖畔都市。徹は、まるで人目を避けてさまよう亡霊のようだった。遠くから綾乃の後ろ姿だけを追い続ける日々が、もう丸一か月も続いていた。その間、何度か北斗に見つかり、激しい取っ組み合いになったこともある。一番ひどかった時には、肋骨を三本も折られた。それでも、彼が血を吐き、無様に地面へ倒れ込んでも、綾乃は完全に見て見ぬふりをしていた。彼女は痛ましそうな眼差しで、北斗の頬についた小さな擦り傷をそっと撫でていたのだ。徹は激痛に全身を震わせながら、真っ赤に血走った目で惨めに懇願した。「綾乃……俺を見てくれ。俺の方が、ずっとひどい怪我をしてるのに」だが綾乃は、風のように軽い一瞥を彼へ向けると、その目の前で北斗に口づけをした。そして、北斗を優しくなだめるように囁く。「あんな人、放っておきましょう。ついてきたいなら好きにさせればいいわ。あの人がいない私は、こんなにも幸せに暮らしているんだって、その目でしっかり見せてあげればいいもの」その日を境に、北斗は二度と徹を相手にしようとはしなかった。徹はまるで負け犬のように、ただ二人の後を追い続けた。綾乃と北斗がウェディングドレスを選ぶ姿を見つめ、二人が指を絡め合い、歴史ある大聖
徹の悲痛な叫びと、邸宅の柵が蹴り倒される凄まじい轟音が、庭を包んでいた穏やかな空気を一瞬で打ち破った。綾乃の顔から、笑みがすっと消える。彼女は振り返り、大股でこちらへ突進してくる徹を見つめた。五年ぶりにかつての夫と再会したというのに、綾乃の胸に浮かんだのは、ほんのわずかな嫌悪感だけだった。だが、その一方で徹は、再会に激しく心を揺さぶられていた。綾乃へ伸ばした手は、小刻みに震えている。しかし彼女へ届くより早く、その手は傍らにいた北斗に容赦なく払いのけられた。それでも徹には、他の誰の姿も見えていないようだった。血走った両目で、ただひたすら綾乃だけを見つめている。「綾乃、五年間……ずっとお前を探していた。俺と一緒に帰ろう」その口調には、それが当然だと言わんばかりの確信がにじんでいた。その自信を支えているのは、かつて綾乃が彼へ惜しみなく注いでいた、見返りを求めない深い愛情だった。それどころか、彼は北斗にさえ見下すような視線を向けていた。まるで――俺がいない間に付け込んだだけだ。俺が戻ってきた以上、誰にも綾乃は奪えない――そう言わんばかりに。だが、その次の瞬間。波ひとつ立たないような綾乃の静かな一言が、彼の都合のいい夢を粉々に打ち砕いた。「氷室さん、五年前にあなたとはすべて清算しました。あなたが壊した物の請求書は弁護士から送らせます。ですから、今すぐここから出て行ってください」徹はその場で凍りついた。「綾乃、何を意地になってるんだ」彼は無理やり歪んだ笑みを作る。「あの時は俺が悪かった。それは分かってる。全部調べたんだ。俺は美月に騙されていた。あの6000万円だって……」「もういい加減にして」綾乃は最後まで聞こうともしなかった。「それはあなたと彼女の問題でしょう。私には何の関係もないわ」「違う……」徹は目を赤くし、一歩前へ踏み出した。「関係ないはずがない。もしあいつさえいなければ、俺は……もっと早く、お前と過ごす時間の中で自分の本当の気持ちに気づいていた。綾乃、お前はずっと俺に愛されたいと願っていただろう。俺は愛してる。とっくにお前を愛していたんだ。でも、それを認めるのが怖かった。お前はあまりにもまぶしい存在で……俺なんかにはふさわしくないと思っていた。だから頼む
そう言い終えるや否や、徹は勢いよく踵を返し、よろめきながら車へ乗り込んだ。黒い高級車は狂ったような勢いで、地下駐車場を猛スピードで走り去っていく。そして、徹に真実を告げたあの男は、ゆっくりと闇の中へ姿を消した。彼は静かに、徹の車のテールランプが遠ざかっていく先を見つめていた。死んだように虚ろな瞳の奥では、病的なまでの執着が渦を巻いている。彼は低く呟いた。「行け。今度こそ……間に合うといいがな」ゆっくりと視線を伏せ、ざらついた指先でポケットの中にある氷のように冷たい拳銃をなぞる。その口元には、じわりと陰惨な笑みが浮かび上がった。「もしこの世界線の俺が、それでも彼女を取り戻せなかったら……その時は……前の世界線であのゴミどもを始末した時と同じように、この俺がお前を殺す。お前たちを皆殺しにして、すべての世界線に残るのを俺一人にするしかない」彼は天を仰ぎ、虚空を見つめながら、懐かしむように小さく囁いた。「あいつらが全員死ねば、十八歳のあの日、綾乃が一目惚れするのは、過去へ戻ったこの俺になる……綾乃、今度こそ俺は、お前を悲しませない。苦しませて死なせたりもしない。だから……俺を信じてくれ」……十二時間後。一台の黒いセダンが、S国の湖畔で急ブレーキをかけて止まった。車のドアを開ける徹の手は、かすかに震えていた。五年。千八百日を超える歳月、骨の髄まで蝕まれるほど募らせ続けた想い。ついに――綾乃に会える。徹の血走った瞳は、その先にあるヴィラ6号を一瞬たりとも見失わなかった。深く息を吸い、鉛のように重い足を一歩、また一歩と前へ運ぶ。白い柵に囲まれた邸宅の庭では、見渡す限りのバラが今を盛りと咲き誇っていた。色も品種も異なるバラが、競い合うように鮮やかな花を咲かせている。そして、その花々の中でうつむき、枝を剪定していたのは、見覚えがあるのに、どこか別人のようにも見える女性だった。彼女が顔を上げた瞬間、徹の呼吸は止まった。綾乃だった。彼女は長い髪を切っていた。艶やかな黒髪のボブが頬に沿って揺れ、その端正な顔立ちをいっそう引き立てている。淡い色合いのリネンのロングワンピースが、しなやかな体のラインを美しく包んでいた。陽光を浴びた横顔にえくぼが浮かび、バラに囲まれたその姿