分享

第6話

作者: 朝八夜八
腕の中で震える紗也子を固く抱き寄せ、志樹は一度も振り返ることなく駆け出していった。

二人が立ち去ると同時に、さらに激しい揺れが襲う。

早奈恵はなすすべもなく壁に打ちつけられ、後頭部への強烈な衝撃に意識が吹き飛びそうになった。

額を割って流れた血が頬を伝い、視界を赤く染め上げる。

次の瞬間、凄まじい轟音とともに、頭上の巨大な天井が崩れ落ちた。

そこで早奈恵の意識は途切れた。

*

再び重い瞼を開けると、そこはまだ病院のようだった。

頭には包帯が幾重にも巻かれ、脳が鉛のように重く、思考がひどく濁っている。

点滴の様子を見に来た看護師が、目を覚ました彼女を見て安堵の笑みを浮かべた。

「気がつかれましたか?」

早奈恵はしばらく虚空を見つめ、ぼんやりとした頭のまま微かに頷いた。

「地震のせいで軽い脳震盪を起こされていました。念のため輸血の手配もしましたが、気分はいかがですか?」

看護師が穏やかな声で説明する。

早奈恵は再び小さく頷くと、脳震盪の症状による強烈な眠気に襲われ、泥のように眠りに落ちた。

「だめ!絶対に認めないわ!」

「佐多子、今は紗也子の命に関わる事態だ!いい加減にしろ!」

早奈恵は、鼓膜をつんざくような怒声で目を覚ました。

見ると、志樹と父が険しい顔で佐多子を取り囲んでいる。

「いい加減にしてるのはどっちよ!明克さん!早奈恵だってあなたの血を引いた娘なのよ!」

佐多子の悲痛な声は、すでに泣き叫ぶような響きを帯びていた。

「大地震からやっと逃げ延びて、ただでさえ弱り切っているのに、どうして紗也子のために輸血なんかさせるの!

紗也子の命だけが大事で、早奈恵の命なんて、どうなってもいいって言うの!」

「……お母さん」

早奈恵の声は、喉に灰が詰まったように掠れていた。

「早奈恵!」

明克が先を争うようにベッドへ身を乗り出す。

「紗也子は今、緊急で輸血が必要なんだ。病院の血液センターにある在庫は、全部お前の治療に使われて残っていないらしい。

いいか、紗也子は血液の持病がある。お前が血を分けてやらなければ、あの子は死んでしまうんだぞ!」

「……だから?」

早奈恵は血の気を失った真っ白な顔で父を見つめた。その底知れぬ冷ややかな眼差しに、明克は思わず背筋を寒くした。

「あの子が死ぬことと、私に何の関係があるの?」

「早奈恵!」

見かねた志樹が声を荒げた。

「紗也子はお前の姉だぞ!人の命がかかってるんだ!」

「そう?」

早奈恵の目尻に、皮肉に満ちた笑みが浮かぶ。

「笹井社長がお姉さんを抱き抱え、私を置いて一度も振り返らずに逃げた時、人の命がかかっているなんて、一瞬でも考えてくれた?」

志樹は言葉に詰まり、顔を背けてギリッと拳を握りしめた。

「あの後、俺だって……

もういい。あの時のことは俺が悪かった。恨みがあるなら俺を憎め!紗也子に八つ当たりするな」

「八つ当たり?ふふふっ――」

早奈恵は笑声を上げたが、それが首の傷に響いて激しく咽せた。

「笹井社長はずいぶんとご自分を高く見積もっているのね。あなたにそこまでの価値はないわ」

容赦ない辛辣な言葉を叩きつけられ、志樹の顔は青ざめ、やがて屈辱に歪んだ。

「輸血はしない。自分の命を削って他人の命を救うほど、私はお人好しじゃないの」

早奈恵は氷のような顔で拒絶した。

「早奈恵、お父さんの一生の頼みだ。望む条件なら何でも飲むから!」明克がなりふり構わず懇願する。

「そう。じゃあ、例の約束を白紙に戻すのはどう?それなら、すぐにでも血を抜かせてあげる」

早奈恵の言葉に、父の顔色が変わった。

しどろもどろになり、明らかに言葉を濁す。

「約束って何の話だ?」

志樹が鋭く問いただす。早奈恵は彼には答えず、ただ静かに目を閉じた。

「大変です!」

看護師が血相を変えて病室に飛び込んできた。

「竹内さんの血圧が急低下して昏睡状態に!一刻も早く輸血をしないと手遅れになります!」

その瞬間、男たち二人の顔色が一変した。

「志樹さん!何をするの!」

母のパニックに陥った悲鳴を聞き、早奈恵がハッと目を開けると、そこには一切の感情を排した、氷のように冷酷な志樹の瞳があった。

志樹は無表情のまま、手に持った注射器の針を、容赦なく彼女の腕の静脈へと突き立てた。

ひんやりとした麻酔薬が血管を伝って心臓へと流れ込み、早奈恵は悪寒に全身を震わせた。

だが、それ以上に彼女の心を凍らせたのは、眼前に立つ男の底知れぬ冷酷さだった。

「交換条件として、俺がお前と結婚する」

麻酔が少しずつ効いていくのを冷ややかに見下ろしながら、志樹が吐き捨てた言葉には、一片の温度すら宿っていなかった。

早奈恵は笑いたかった。腹の底から大声で笑い飛ばしたかった。

だが、強制的に注入された麻酔薬がもたらす重い睡魔には、到底抗えなかった。

薄れゆく意識の中で、志樹の目を死に物狂いで見据え、血の気のない唇から一言一言、呪いを吐き出すように言った。

「……あなたのこと、一生恨んでやる」

志樹の顔から、スッと血の気が引いた。

胸に巨大な鉛の塊を詰め込まれたように息が詰まり、呼吸の仕方さえ忘れてしまう。

何かを言い返そうと微かに唇を震わせたが、結局音にすることはできず、早奈恵が深い昏睡の底へと沈みゆくのをただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。

在 APP 繼續免費閱讀本書
掃碼下載 APP

最新章節

  • 枯れ落ちた愛の跡に   第27話

    その時、静寂に包まれていた窓の外から、突如として騒々しい音が響き渡った。パトカーのサイレンと、何台もの車が激しく急ブレーキをかける音。志樹が立ち上がり、窓の外へ視線を投げると、そこには夜の闇を切り裂く、真っ赤なパトランプの光が眩しく点滅していた。「笹井志樹。今すぐ、妻を返してもらおう」拡声器を通した智之の声が、重苦しい空気の中に響き渡る。早奈恵の瞳に、パッと喜びの光が灯った。智之が来てくれた!志樹はその表情を逃さず視界に収め、唇を苦い後悔に歪ませた。「繰り返す。今すぐ早奈恵を解放し、無事を確認させろ。そうすれば、汐南からの無事な撤退を保障しよう。だが、もし拒むのであれば――」智之の声には、普段の温和さからは想像もつかないほどの冷徹な殺気が混じっていた。「猶予は五分だ。五分後、警察が強行突入を開始する。賢明な判断を期待しているぞ」志樹は表情を変えることなく、ただ静かに早奈恵を見つめた。「……あいつが来たのが、そんなに嬉しいか?」早奈恵は一瞬戸惑ったが、すぐに迷うことなく頷いた。「当然よ。あの人は、私を心から愛してくれているもの」「早奈恵。俺がお前を想う気持ちは、奴になど引けは取らない……!」彼は真剣に告げた。「智之さんの愛し方は、私を静かに見守り、私の幸福を一番に願ってくれるものだわ。でも、あなたは?」早奈恵は、澄んだ瞳で志樹を真っ直ぐに射抜いた。「あなたは何度も私を蔑み、傷つけ、踏みにじってきた。もしそれを『愛』だと言うのなら……そんな愛、私はいらないわ」志樹は、力なく目を伏せた。彼女の心に刻みつけた深い傷跡は、もう二度と消えることはないのだ。カウントダウンは残り三分。九百九十九本の真紅のバラの花束を早奈恵の前に運び込み、部屋の明かりをすべて消した。ただ、揺らめく蝋燭の火だけを暗闇に残して。残り二分。志樹は静かに片膝をつき、ポケットから輝く指輪を取り出して彼女の前に掲げた。「早奈恵……俺と結婚して、俺の妻になってくれないか」残り一分。静寂を切り裂くように、早奈恵の冷徹な声が響いた。「お断りよ。今この瞬間も、そして未来永劫、絶対に」タイムリミットが過ぎ、警察の突入班が重機を使ってドアを打ち破り、一斉に流れ込んできた。智之は真っ先に早奈恵の

  • 枯れ落ちた愛の跡に   第26話

    箱の中に収められた「それ」を視認した瞬間、早奈恵は骨の髄から冷気が這い上がるのを感じた。……こいつは、紛れもない異常者だ。胃の腑は空であるにもかかわらず、こみ上げてくる激しい嫌悪感に、彼女は眩暈を覚えた。「志樹……」早奈恵は言葉を失った。もはや何を言えばいいのかすら分からなかった。八年間の想いは確かに真実だった。けれど、もはや愛してなどいないからこそ決別したことも、また真実。自分は智之という光を得て新しい人生へと歩み出したが、志樹だけは今もなお、腐りかけた過去の記憶に囚われ続けている。なんと、哀れな男だろう。「……もう私を自由にして。あなた自身も、その執着から自分を解き放ったらどうなの?」早奈恵がこれほどまでに柔らかな声で語りかけたのは、いつ以来だろうか。だが、志樹は喜びに浸る間もなく、その言葉の拒絶を鋭く感じ取り、瞳にどす黒い偏執の炎を宿した。「嫌だね……俺は、絶対に手放さない!」智之が早奈恵の失踪に気づいたのは、その三時間後のことだった。薬局への往復と処方の待ち時間を考慮しても、遅くとも一時間半で戻るはずだ。早奈恵の端末は電源が切られたままで、いっさいの連絡がつかない。智之の胸に、底知れぬ不安がよぎった。即座に部下を引き連れ、早奈恵が辿ったはずの路上の追跡を開始した。薬局に辿り着くと、店主は彼女が確かに薬を受け取って店を後にしたと証言した。そこから西原邸までは、車で三十分ほどの距離。「今すぐ、このルート上の監視カメラをすべて解析しろ!」西原家の精鋭たちの動きは迅速だった。二十分も経たぬうちに、すべての映像が智之の手元に揃った。早奈恵が何者かに薬を嗅がされて意識を失い、車に拉致される瞬間を目の当たりにし、智之の恐怖は沸点に達した。犯人は全身を黒い装備で固めており、顔を伺い知ることはできない。金目当ての誘拐犯であれば、これほど長い時間、身代金の要求がないのは不自然だ。だとすれば、目的は金ではない。智之の瞳に、鋭い殺気が宿った。奴の狙いは、早奈恵自身だ。凪ヶ崎出身の早奈恵は汐南に来てまだ日が浅い。西原邸から出ることも稀で、この街に恨みを買うような相手などいるはずがない。……ならば、犯人は。凪ヶ崎から来たあの男以外に考えられない。智之の瞳が深く暗い色に

  • 枯れ落ちた愛の跡に   第25話

    その後、志樹は悪運強くも生き延びたという知らせが早奈恵の元に届いた。脳へのダメージは免れたものの、粉砕された右手の骨折は、完治までにかなりの時間を要するだろうとのことだった。身動きの取れない身となったおかげで、早奈恵はようやく彼という亡霊から解放され、平穏な日々を過ごすことができた。だが、笹井グループの取締役会は、一人の女のために職務を放り出した志樹の醜態を看過できず、療養中という名目も無視して、半ば強制的に彼を凪ヶ崎へと連れ戻した。彼と共に凪ヶ崎へ向かったのは、竹内家の三人だった。汐南市に残った早奈恵の元には、佐多子から頻繁に電話が入るようになった。その電話で、志樹が紗也子と結婚することを拒み、代わりに彼女を光紀の元へ嫁がせたのだと初めて知らされた。「……紗也子が光紀さんの世話をしている最中に、激しい口論になったらしいの。逆上した紗也子が果物ナイフで光紀さんの喉を突き刺して……即死だったそうよ。あの子はそのまま現行犯で逮捕されたわ。殺人罪で、懲役二十年の実刑判決ですって」電話越しの佐多子の声には、困惑と嘆きが混じっていた。だが、早奈恵の心に湧き上がる感情は何もなかった。もはやあの二人には、心を一ミリも揺さぶる力など残っていなかった。智之が隣で、小さく咳を漏らした。早奈恵は弾かれたように彼を振り返った。「智之さん、大丈夫?」彼は静かに首を横に振ってみせた。早奈恵は、サイドボードに置かれた薬の包みが残り少なくなっていることに気づいた。「また、お薬を頂いてこなくちゃね」智之の手にそっと触れた。「私が取ってくるわ」病院の薬局から出たその瞬間だった。背後から、不意に何者かの手が伸びて彼女の口と鼻を力任せに塞いだ。鼻腔を貫く、むせ返るようなエーテルの臭い。早奈恵の心臓が跳ね上がったが、抵抗する間もなく、意識は底知れぬ闇へと沈んでいった。次に目覚めた時、世界は漆黒に染まっていた。目隠しをされ、両手両足をベッドの両端に固く縛り付けられている。大の字の状態で、完全に身動きを封じられていた。意識が明晰になるにつれ、早奈恵は必死になって拘束を解こうと暴れた。誘拐犯は傷つけることを極度に恐れているのだろうか。手首を縛る布地は、肌を傷めないシルクだった。だが、どれほど抗おうと

  • 枯れ落ちた愛の跡に   第24話

    早奈恵はその姿を視界に捉えた瞬間、露骨に眉をひそめた。自分ではもう、きっぱりと決別を告げたつもりだった。それなのに志樹は、執拗に彷徨う亡霊のごとく、今も付きまとっている。「……少しは恥を知りなさいよ!」彼女は氷のような声で吐き捨てた。志樹は拳をきつく握りしめ、それでも反論はしなかった。「早奈恵が一番好きだった凪ヶ崎のクラッカーを持ってきたんだ。今朝、空輸で届いたばかりで……」彼は美しく包装された箱を差し出したが、早奈恵は容赦なくその手を払い除けた。箱が床に落ち、中のクラッカーが無惨に散乱する。志樹はそれを、ひどく胸を痛めるような目で見つめた。それはわざわざ名店の職人に教えを乞い、一晩中寝ずに作り上げた、彼なりの最高の完成品だった。「早奈恵がよく通っていたレストランのシェフもこちらに呼んである。汐南の味付けは凪ヶ崎とはだいぶ違うから、お前の口に合わないんじゃないかと心配で……」「いい加減にして!」早奈恵は苛立たしげに彼の言葉を遮った。「智之さんは私の好みをすべて分かってくれているわ。わざわざ凪ヶ崎のシェフを雇って、家で料理を作ってくれているの。だから、あなたの独りよがりな気遣いなんて一切必要ないわ」そう言い捨てると、智之の車椅子を押して病院の出口へと向かった。「早奈恵――」志樹は二人の背中を追いかけ、それでも諦めようとしなかった。「お気に入りだったオペラ歌手も呼び寄せたんだ。よければ、いつでも貸し切りで手配する……」歩きながら、志樹の必死な口車は止まらなかった。早奈恵の好きなものを、何もかもすべて自分の手で埋め合わせようとするかのように。病棟の建物の外に出たところで、早奈恵はぴたりと足を止めた。「ずいぶんと暇を持て余しているのね。やっとの思いで笹井グループのトップに這い上がったというのに、毎日やることもなく遊び呆けているわけ?」志樹は口をつぐんだ。現実には、笹井グループからは毎日何十件もの緊急の電話が彼のもとへ殺到しており、すべての重要案件が彼の最終決裁を待って滞っている。会社を空けているこの短い期間だけでも、グループはいくつもの優良プロジェクトを逃し、すでに数十億円規模の損失を出していた。だが、かつてあれほど執着していた人生の勝者という名誉も、手にした金銭も、すべてが

  • 枯れ落ちた愛の跡に   第23話

    早奈恵は警察沙汰にはしなかった。明克が戻ってきて志樹を発見した時、彼はすでに長時間気を失い、倒れ込んでいた。明克は慌てて二人を病院へと運び込んだ。汐南市病院。志樹は、病室の外から聞こえてくる騒々しい声で目を覚ました。「外の騒ぎはなんだ?」秘書が戻ってきて報告する。「社長。竹内様の血液の持病が再発したようです。ですが、現在この汐南市病院には、彼女の希少な血液型に適合する在庫がないそうで……」志樹が病衣のまま病室の外へ姿を現すと、そこにはボロボロと老涙を流しながら、医師の両手にすがりつく明克の姿があった。「先生!どうか、どうかうちの娘を助けてやってください!」「ご家族の方、何度もご説明した通りです。竹内さんは極めて希少な血液型で、当院にはもう在庫がなく……我々にも手の施しようがありません」志樹の姿を目にすると、明克はまるで地獄で仏に会ったかのように顔を輝かせたが、先ほどの惨劇を思い出して微かに怯む様子を見せた。「紗也子に、また輸血が必要だと?」志樹の唇からはすっかり血の気が失せていたが、その全身から放たれる威圧感は少しも衰えていなかった。「志樹君……!この通りだ、一生のお願いだ。どうか紗也子を助けてやってくれ」彼は睫毛を伏せ、背筋が凍るほど不気味で、ひどく穏やかな声で答えた。「……ええ。救いますとも、当然でしょう」志樹が指先を軽く動かすと、秘書が恭しく耳を寄せた。それからわずか十数分後、紗也子の命を繋ぐための血液が病院に届けられた。「メルガル国」という印字のある血液パックを手にした医師は、微かに顔色を変えた。志樹は二歩前に進み出ると、貼り付けたような冷たい笑みを浮かべて言った。「先生、患者は今まさに生死の境を彷徨っているんですよ。何事も、人命には代えられませんからね」医師は押し切られるように、手術室へと消えていった。社長に向かってひたすら頭を下げ、感謝の言葉を繰り返す明克を見つめながら、秘書の瞳には深い哀れみの色が浮かんでいた。明克は知る由もないのだ。あのメルガル国から取り寄せた血液が、刑務所の囚人や薬物中毒者、ホームレスなどから不法に採取された「毒血」であり、おびただしい数の感染症ウイルスや病原菌を含んでいるということを。たとえ紗也子が目を覚ましたとしても、一生消え

  • 枯れ落ちた愛の跡に   第22話

    早奈恵は冷ややかな目でその光景を見下ろしていたが、心には波風一つ立たなかった。紗也子の惨劇を目の当たりにしても胸がすくような快感はなく、かといって同情の念も欠片すら湧かない。志樹は激昂し、躊躇うことなくまるでボロ雑巾でも扱うかのように、再び紗也子を早奈恵の足元へと引きずり出した。「早奈恵に謝れ!」平手打ちで頭が真っ白になっていた紗也子は、無意識のうちに吐き捨てた。「ふざけないで!」再び、パァンという乾いた平手打ちの音が響く。「謝れと言っているんだ!」……紗也子は両頬から血を流し、血走った眼で自分を睨みつける志樹が、地獄から這い出てきた悪鬼そのものに見えた。這いずるように早奈恵の足元へすがりつき、呂律の回らない口で命乞いをした。「早奈恵……助けて……」早奈恵は身をかわしてその手を避け、冷淡に見下ろして言い放った。「自分が犯した悪事の報いは、自分で受けるものよ」「早奈恵……ッ!」凄まじい金切り声と共に、早奈恵の足首が強く掴まれた。鬼のような形相の紗也子が、いつの間にか手にしたカッターナイフを、真っ直ぐに早奈恵の頸動脈へ向けて突き出してきた。早奈恵は反応する間もなく、迫り来る鋭い刃先をただ見開いた目で見つめることしかできなかった。次の瞬間、横から伸びてきた手がその刃先を素手でガシッと掴み取り、おびただしい血が滴り落ちた。志樹が身を呈して早奈恵の盾となり、なりふり構わず紗也子の顔面を殴り飛ばし、そのまま気絶させた。「早奈恵、怪我はないか!?」血が滴る自分の左手など微塵も気に留めず、早奈恵の無事を確認しようと身を乗り出した。早奈恵は一歩後ずさってその手を避けた。「何ともないわ」背を向けて立ち去ろうとしたその時、背後で床が抜けるほどの凄まじい音が響いた。ドン――!志樹が、両膝を床に激しく打ちつけて跪いた音だった。紗也子の言う通りだ。早奈恵の心を最も深く切り裂き、傷つけてきたのは、他でもないこの自身だ。「早奈恵」彼の声は喉から絞り出すように掠れ、血を吐くような悔恨に満ちていた。「俺が……完全に間違っていた。お前に与えた傷は……」彼は言葉を詰まらせた。「これから、俺のすべてをかけて償う」早奈恵は振り返りもせず、淡々と答えた。「その必要はないわ」

更多章節
探索並免費閱讀 優質小說
GoodNovel APP 免費暢讀海量優秀小說,下載喜歡的書籍,隨時隨地閱讀。
在 APP 免費閱讀書籍
掃碼在 APP 閱讀
DMCA.com Protection Status