ログイン学生時代から社会人になるまで、鶴田早奈恵(つるだ さなえ)は笹井志樹(ささい もとき)に寄り添い、八年という歳月を共にしてきた。 日陰者だった彼を献身的に支え続け、絶対的な権力を握る笹井グループの社長へと押し上げた。 彼が成功を収めた暁には、二人は当然結ばれるものだと信じていた。 だが、早奈恵からの九十九回にも及ぶプロポーズは、すべて冷酷に突き放されてしまう。 あろうことか、自分の用意した指輪は、彼が執着し続ける女、竹内紗也子(たけうち さやこ)の指にはめられていた。 ついに未練を断ち切った早奈恵は、父親が決めた縁談を静かに受け入れる。 嫁ぐ相手は、余命わずかと噂される、病弱な車椅子の青年・西原智之(にしはら ともゆき)だった――
もっと見るその時、静寂に包まれていた窓の外から、突如として騒々しい音が響き渡った。パトカーのサイレンと、何台もの車が激しく急ブレーキをかける音。志樹が立ち上がり、窓の外へ視線を投げると、そこには夜の闇を切り裂く、真っ赤なパトランプの光が眩しく点滅していた。「笹井志樹。今すぐ、妻を返してもらおう」拡声器を通した智之の声が、重苦しい空気の中に響き渡る。早奈恵の瞳に、パッと喜びの光が灯った。智之が来てくれた!志樹はその表情を逃さず視界に収め、唇を苦い後悔に歪ませた。「繰り返す。今すぐ早奈恵を解放し、無事を確認させろ。そうすれば、汐南からの無事な撤退を保障しよう。だが、もし拒むのであれば――」智之の声には、普段の温和さからは想像もつかないほどの冷徹な殺気が混じっていた。「猶予は五分だ。五分後、警察が強行突入を開始する。賢明な判断を期待しているぞ」志樹は表情を変えることなく、ただ静かに早奈恵を見つめた。「……あいつが来たのが、そんなに嬉しいか?」早奈恵は一瞬戸惑ったが、すぐに迷うことなく頷いた。「当然よ。あの人は、私を心から愛してくれているもの」「早奈恵。俺がお前を想う気持ちは、奴になど引けは取らない……!」彼は真剣に告げた。「智之さんの愛し方は、私を静かに見守り、私の幸福を一番に願ってくれるものだわ。でも、あなたは?」早奈恵は、澄んだ瞳で志樹を真っ直ぐに射抜いた。「あなたは何度も私を蔑み、傷つけ、踏みにじってきた。もしそれを『愛』だと言うのなら……そんな愛、私はいらないわ」志樹は、力なく目を伏せた。彼女の心に刻みつけた深い傷跡は、もう二度と消えることはないのだ。カウントダウンは残り三分。九百九十九本の真紅のバラの花束を早奈恵の前に運び込み、部屋の明かりをすべて消した。ただ、揺らめく蝋燭の火だけを暗闇に残して。残り二分。志樹は静かに片膝をつき、ポケットから輝く指輪を取り出して彼女の前に掲げた。「早奈恵……俺と結婚して、俺の妻になってくれないか」残り一分。静寂を切り裂くように、早奈恵の冷徹な声が響いた。「お断りよ。今この瞬間も、そして未来永劫、絶対に」タイムリミットが過ぎ、警察の突入班が重機を使ってドアを打ち破り、一斉に流れ込んできた。智之は真っ先に早奈恵の
箱の中に収められた「それ」を視認した瞬間、早奈恵は骨の髄から冷気が這い上がるのを感じた。……こいつは、紛れもない異常者だ。胃の腑は空であるにもかかわらず、こみ上げてくる激しい嫌悪感に、彼女は眩暈を覚えた。「志樹……」早奈恵は言葉を失った。もはや何を言えばいいのかすら分からなかった。八年間の想いは確かに真実だった。けれど、もはや愛してなどいないからこそ決別したことも、また真実。自分は智之という光を得て新しい人生へと歩み出したが、志樹だけは今もなお、腐りかけた過去の記憶に囚われ続けている。なんと、哀れな男だろう。「……もう私を自由にして。あなた自身も、その執着から自分を解き放ったらどうなの?」早奈恵がこれほどまでに柔らかな声で語りかけたのは、いつ以来だろうか。だが、志樹は喜びに浸る間もなく、その言葉の拒絶を鋭く感じ取り、瞳にどす黒い偏執の炎を宿した。「嫌だね……俺は、絶対に手放さない!」智之が早奈恵の失踪に気づいたのは、その三時間後のことだった。薬局への往復と処方の待ち時間を考慮しても、遅くとも一時間半で戻るはずだ。早奈恵の端末は電源が切られたままで、いっさいの連絡がつかない。智之の胸に、底知れぬ不安がよぎった。即座に部下を引き連れ、早奈恵が辿ったはずの路上の追跡を開始した。薬局に辿り着くと、店主は彼女が確かに薬を受け取って店を後にしたと証言した。そこから西原邸までは、車で三十分ほどの距離。「今すぐ、このルート上の監視カメラをすべて解析しろ!」西原家の精鋭たちの動きは迅速だった。二十分も経たぬうちに、すべての映像が智之の手元に揃った。早奈恵が何者かに薬を嗅がされて意識を失い、車に拉致される瞬間を目の当たりにし、智之の恐怖は沸点に達した。犯人は全身を黒い装備で固めており、顔を伺い知ることはできない。金目当ての誘拐犯であれば、これほど長い時間、身代金の要求がないのは不自然だ。だとすれば、目的は金ではない。智之の瞳に、鋭い殺気が宿った。奴の狙いは、早奈恵自身だ。凪ヶ崎出身の早奈恵は汐南に来てまだ日が浅い。西原邸から出ることも稀で、この街に恨みを買うような相手などいるはずがない。……ならば、犯人は。凪ヶ崎から来たあの男以外に考えられない。智之の瞳が深く暗い色に
その後、志樹は悪運強くも生き延びたという知らせが早奈恵の元に届いた。脳へのダメージは免れたものの、粉砕された右手の骨折は、完治までにかなりの時間を要するだろうとのことだった。身動きの取れない身となったおかげで、早奈恵はようやく彼という亡霊から解放され、平穏な日々を過ごすことができた。だが、笹井グループの取締役会は、一人の女のために職務を放り出した志樹の醜態を看過できず、療養中という名目も無視して、半ば強制的に彼を凪ヶ崎へと連れ戻した。彼と共に凪ヶ崎へ向かったのは、竹内家の三人だった。汐南市に残った早奈恵の元には、佐多子から頻繁に電話が入るようになった。その電話で、志樹が紗也子と結婚することを拒み、代わりに彼女を光紀の元へ嫁がせたのだと初めて知らされた。「……紗也子が光紀さんの世話をしている最中に、激しい口論になったらしいの。逆上した紗也子が果物ナイフで光紀さんの喉を突き刺して……即死だったそうよ。あの子はそのまま現行犯で逮捕されたわ。殺人罪で、懲役二十年の実刑判決ですって」電話越しの佐多子の声には、困惑と嘆きが混じっていた。だが、早奈恵の心に湧き上がる感情は何もなかった。もはやあの二人には、心を一ミリも揺さぶる力など残っていなかった。智之が隣で、小さく咳を漏らした。早奈恵は弾かれたように彼を振り返った。「智之さん、大丈夫?」彼は静かに首を横に振ってみせた。早奈恵は、サイドボードに置かれた薬の包みが残り少なくなっていることに気づいた。「また、お薬を頂いてこなくちゃね」智之の手にそっと触れた。「私が取ってくるわ」病院の薬局から出たその瞬間だった。背後から、不意に何者かの手が伸びて彼女の口と鼻を力任せに塞いだ。鼻腔を貫く、むせ返るようなエーテルの臭い。早奈恵の心臓が跳ね上がったが、抵抗する間もなく、意識は底知れぬ闇へと沈んでいった。次に目覚めた時、世界は漆黒に染まっていた。目隠しをされ、両手両足をベッドの両端に固く縛り付けられている。大の字の状態で、完全に身動きを封じられていた。意識が明晰になるにつれ、早奈恵は必死になって拘束を解こうと暴れた。誘拐犯は傷つけることを極度に恐れているのだろうか。手首を縛る布地は、肌を傷めないシルクだった。だが、どれほど抗おうと
早奈恵はその姿を視界に捉えた瞬間、露骨に眉をひそめた。自分ではもう、きっぱりと決別を告げたつもりだった。それなのに志樹は、執拗に彷徨う亡霊のごとく、今も付きまとっている。「……少しは恥を知りなさいよ!」彼女は氷のような声で吐き捨てた。志樹は拳をきつく握りしめ、それでも反論はしなかった。「早奈恵が一番好きだった凪ヶ崎のクラッカーを持ってきたんだ。今朝、空輸で届いたばかりで……」彼は美しく包装された箱を差し出したが、早奈恵は容赦なくその手を払い除けた。箱が床に落ち、中のクラッカーが無惨に散乱する。志樹はそれを、ひどく胸を痛めるような目で見つめた。それはわざわざ名店の職人に教えを乞い、一晩中寝ずに作り上げた、彼なりの最高の完成品だった。「早奈恵がよく通っていたレストランのシェフもこちらに呼んである。汐南の味付けは凪ヶ崎とはだいぶ違うから、お前の口に合わないんじゃないかと心配で……」「いい加減にして!」早奈恵は苛立たしげに彼の言葉を遮った。「智之さんは私の好みをすべて分かってくれているわ。わざわざ凪ヶ崎のシェフを雇って、家で料理を作ってくれているの。だから、あなたの独りよがりな気遣いなんて一切必要ないわ」そう言い捨てると、智之の車椅子を押して病院の出口へと向かった。「早奈恵――」志樹は二人の背中を追いかけ、それでも諦めようとしなかった。「お気に入りだったオペラ歌手も呼び寄せたんだ。よければ、いつでも貸し切りで手配する……」歩きながら、志樹の必死な口車は止まらなかった。早奈恵の好きなものを、何もかもすべて自分の手で埋め合わせようとするかのように。病棟の建物の外に出たところで、早奈恵はぴたりと足を止めた。「ずいぶんと暇を持て余しているのね。やっとの思いで笹井グループのトップに這い上がったというのに、毎日やることもなく遊び呆けているわけ?」志樹は口をつぐんだ。現実には、笹井グループからは毎日何十件もの緊急の電話が彼のもとへ殺到しており、すべての重要案件が彼の最終決裁を待って滞っている。会社を空けているこの短い期間だけでも、グループはいくつもの優良プロジェクトを逃し、すでに数十億円規模の損失を出していた。だが、かつてあれほど執着していた人生の勝者という名誉も、手にした金銭も、すべてが