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第7話

Author: 桜庭蒼
家に戻った途端、美咲の体は痛みと疲労に耐えきれず、高熱でベッドに倒れ込んだ。

数日間うなされるように眠り続ける中、頭の中では同じ光景が何度も繰り返された。

道を普通に歩いていたはずなのに、恭介が血相を変えて駆け寄り、「美咲ちゃん、足が折れてる!」と支えようとする。

そして気づけば、自分の下半身がまるで風船の空気が抜けたように力を失い、そのまま地面に崩れ落ちていく。

強烈な恐怖に突き動かされて目を覚ますと、漂う魂が現実の体へと引き戻された。

身を起こした瞬間、全身から立ちのぼる腐ったような臭いに思わず吐き気を催した。

三日間も昏睡していたのだ。死なずに済んだのなら、これからは生きてみせるしかない。

体をすみずみまで洗い流し、汚れた服と合わない靴はすべて捨てた。

お腹がぐうぐうと鳴り、早く食べ物をよこせと訴えてくる。

戸棚に残っていた小麦粉を取り出し、恭介がしていたように自分の手で生地をこね始めた。

作ったラーメンは思った以上に美味しく、空腹もあって今まで食べたどれよりも旨く感じられる。

箸で食べながら、ふと自分は本当にそんなにラーメンが好きだっただろうかと疑問に思う。

でも、きっと違う。好きだったのは、恭介が粉をこねながら、ささやかな日常を語り合っていた、あの時間そのものだった。

彼はいつも「弱くて頼るしかない人間」として彼女を扱ってきた。でも忘れていたのだ。起業して二年間、彼が寝る間もないほど忙しかったとき、三度の食事を工夫して用意していたのは彼女だったことを。

美咲はずっと支えになりたかった。障害を抱えていても、何だってできる、そう思って生きてきた。

それでも、この思い出だらけの場所に閉じこもっていると、日を追うごとに温かい記憶が色あせていくのを感じる。

そして十日が経った。

恭介は言ったとおり、彼女が折れない限り一度も帰らなかった。電話ひとつ、気遣いの言葉すらなかった。

彼が優しいときは水のように柔らかく、人を溺れさせる。だが本性を見せれば氷のように冷たく、人を震え上がらせる。

約束の日、チャイムが鳴り、美和が迎えにやって来た。

彼女は目を見開く。たった十日で、美咲がまるで別人のようになっていたからだ。

いつも絶やさなかった微笑みは消え、冷ややかで近寄りがたい雰囲気をまとっていた。

美和は素早く彼女の後ろのキャリーケースを手に取り、探るように言った。

「ホテルに二日泊まるだけで、なんで荷物なんか持ってきたの?帰らないわけじゃないんでしょ?」

美咲は黙ったままだった。出て行く前に、もう一度だけこの場所を振り返る。かつては愛と幸せを与えてくれたはずの空間を。その表情は複雑だった。

家?

本来なら思い浮かべるだけで温かさと力をくれる場所。でもここはもう、そう呼べるところではなくなってしまった。

美和は胸がざわついた。彼女の変化から、すでにほとんど察していた。きっと傷つけられたのは美咲の方なのだ。

二人は7号ホテルへ向かった。

ホテルの支配人が直々に荷物を受け取り、にこやかに声をかける。

「藤原さん、お久しぶりです。すぐに最上階のスイートをご用意いたします。渡辺さんとご一緒に、上でご食事なさいますか?」

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