私はひとりで、大好きな歌手のコンサートに来ている。 リクエストコーナーが始まり、胸が高鳴る。どうか選ばれるのは私でありますように――そう祈る。 だが、次の瞬間、大スクリーンに映し出されるのは、地方へ出張中のはずの夫・久遠誠一(くおん せいいち)。 そして、その隣には彼の初恋の人――柳沢紫苑(やなぎさわ しおん)がいる。 「リクエストします。『あの頃へ』。三年前に戻れるなら、俺は絶対に紫苑と別れない」 会場は大きな歓声に包まれ、二人の愛を讃える声が響く。 ただ一人、私は涙で顔を濡らしている。 次のリクエストのとき、今度は泣き腫らした私の顔がスクリーンに映し出される。 「私も『あの頃へ』をリクエストします。あの時に戻れるなら、私は絶対に誠一のプロポーズを受け入れない」
View More包帯を巻いて退院すると、すぐに記者たちに囲まれる。「久遠夫人、第三者に家まで押しかけられたお気持ちは?さらに、弟さんが臨床試験でワクチンを打ったというのは本当ですか?」私はカメラを見据え、微笑みを崩さない。「なぜ第三者が押しかけてきたのかは分かりません。ただ……昨日、誠一も来ていました」含みを持たせて答える。「ワクチンの件は事実です。弟は被験者になりました」その言葉に、記者たちはさらに畳みかける。「久遠社長とご結婚なさっているのに、なぜあえてそんな危険を?」私は笑みを浮かべたまま答える。「その頃、誠一から離婚を切り出されていました。弟の健康のためには、それしかなかったんです」一瞬で場がざわめきに包まれる。――記者がどう書き立てるかなんて、知ったことじゃないし、気にも留めない。その夜。警察署から電話がかかってくる。紫苑が逮捕された、示談書を出すかどうか――そう尋ねられる。私は即答する。「私は示談なんて出しません」だがまさか、その後に直接説得に来たのが誠一だとは思わない。「朝子……紫苑に示談を出してやってくれ」疲れ切った声でそう言う。「彼女は秘書をしていた頃、会社の機密を盗んだ。示談がなければ、それをライバル会社に渡すと脅している」会社なんて、私にはどうでもいい――問題は、誠一が何を差し出すつもりなのか。誠一は商人だ。それくらいは分かっている。「署名済みの離婚協議書を持ってきた。示談に応じるなら、すぐに離婚届を出しに行こう」「いいわ」私は即答する。――けれど予想外だ。誠一は会社の株式の半分を私に譲渡する。私は驚いて誠一を見つめる。けれど彼は気にした様子もなく、かすかに笑う。「当然のことだ」そこまで言われて、私ももう迷わない。ためらわずに署名する。示談書を書き終えて彼に渡すと、誠一はようやく肩の力を抜く。「明日の朝九時、市役所の前で。今度こそ遅れるなよ」その場に立ち尽くす誠一の姿は、深い悲しみに包まれているように見える。やがて、彼は小さく頷く。――離婚の手続きは驚くほど順調に進んだ。協議書に署名し、市役所に離婚届を提出すれば、その場で正式に受理される。だが意外だったのは、紫苑が誠一と一緒に現れたこと。無理やり連れてこられたかのよう
私は知っている。誠一がずっと私を探していたことを。けれど医療チームの徹底した秘匿で、私と弟の行方は閉ざされていた。出国の時だって、彼らが手配したプライベートジェットで国外へ渡ったのだ。「……朝子、お願いだ、許してくれないか」その一言を耳にした瞬間、胸の奥が強く引き裂かれるように痛む。一緒にいた頃の誠一は、常に冷たく、決して弱みを見せることのない人だった。いつも高みから見下ろすようで、私に何かを頼むことなど一度もなかった。彼の素っ気ない態度にどうしても耐えられず、抗議したときも、誠一は仕方なさそうに渋々応じただけだった。まるでそれが当然だったかのように、率直に私に頼んでいる。――つまり、昔から私にもっと優しくできたのに、彼がそうしようとしなかっただけなんだ。けれど、遅すぎた優しさに、どんな価値があるっていうの。「コンサートのことなら説明できる。誤解なんだ。あの時は言葉が足りなかっただけで……俺は君と一緒にいたことを後悔してない。ただ……」「ただ、飾らないで本音を言っただけでしょう?」私は彼の言葉を遮り、続ける。誠一は強く否定する。「違う。あの場の雰囲気に流されて、無意識に出てしまったんだ」その言い訳に、私は思わず笑ってしまう。――雰囲気ひとつで、あの冷たい男が性格まで変えるなんて。私はこれ以上聞きたくもない。「あなたの気持ちは、私が一番分かってる……そして、あなたも分かってるはず。誠一、もう終わりにしましょう。いい形で別れたい」再び離婚を口にすると、誠一は執拗に食い下がる。私の両手を強く掴み、苦しげな表情で見つめてくる。「違うんだ。本当に、あんなつもりじゃなかった……」声は震え、喉が詰まっている。私は力いっぱい手を振り解こうとする。だが誠一の力は強く、抜け出せない。その時。ずっとリビングの様子を窺っていた弟が飛び出してきて、私たちの手を力任せに引き剥がした。「久遠、姉さんから離れろ!」「僕を本気で怒らせるなよ。これ以上姉さんを傷つけるなら、容赦しない!」弟は誠一に向かって鋭く言い放つ。私は弟の袖を掴み、落ち着くように合図を送る。――この一か月で誠一の会社の株は多少下がったとはいえ、もし弟が彼を殴れば、とても賠償などできない。けれど弟は怖いもの
弟は臨床試験の被験者として、公にされることになる。その時、誠一はきっと記事を目にして、私たちの行方も知るだろう。けれど、それはもうどうでもいい。大事なのは弟が元気でいることだ。私は主任医師からの報酬で、弟と二人暮らしできる二部屋のアパートを借りた。荷物なんて何もない。海外へ行くときも手ぶらだったし、帰国した今も変わらない。強いて言うなら――私が持ち帰ったのは、健康を取り戻した弟だ。国際時間で十二時、ワクチンの成果が公表される。そしてメディアは弟が被験者だったことを突き止め、狂ったように彼の情報を漁り始める。だが、最初に私たちの前に現れたのは、意外にも誠一だ。その夜。弟と一緒に買い物をして帰ってくると、玄関の前に立つ誠一の姿が目に入る。私は思わず足を止める。異変に気づいた弟がすぐに駆け寄ってきて、視線の先にいる男を見た瞬間、私の前に立ちふさがる。誠一は弟を気にも留めず、ただじっと私を見つめている。「ここはあんたの来る場所じゃない。帰れ!」弟は声を荒げて誠一を睨みつける。その言葉を受けて、ようやく誠一は弟に目を向けた。「顔色は悪くないな。やはりワクチンは効いたようだな」弟は鼻で笑い、短く吐き捨てる。「余計なお世話だ!」誠一は小さく舌打ちする。「お前がそこまで持ちこたえられたのは、誰のおかげだと思っている」弟は悔しそうに肩を震わせるが、それでも私の前から退こうとはしない。私は弟の肩に手を置き、静かに告げる。「大丈夫。先に入ってて」弟は迷いながらも私を見つめる。私が強く頷くと、しぶしぶ部屋へ入っていく。私は誠一を正面から見据え、淡々と口を開く。「明日、時間を取れる。市役所に離婚届を出しに行きましょう」だがその言葉に、誠一の眉が深く寄る。「誰が……離婚すると言った?」私は嘲るように口元を歪める。彼のその言葉は、まるで冗談のように響く。誠一はふと過去を思い出したのか、気まずそうに鼻に手をやる。「朝子、中に入れてくれないのか?」「必要ないわ」私は首を振る。「それに、私は他人を家に入れるのに慣れてないの」「離婚届にはまだサインしていない」誠一が不意にそう告げる。私は思わず目を見開き、意味を測りかねる。「朝子、少なくとも、君の弟を救っ
紫苑はその光景を目にすると、泣きながら部屋を飛び出していく。だが誠一は気に留めない。今の彼の頭にあるのは――妻がどこにいるのか、それだけだ。その頃、私はすでに海外の医療チームに伴われ、病院へ到着していた。「朝子さん、本当に弟さんを臨床試験に参加させるおつもりですか?」主任医師が改めて確認してくる。「すぐに答えなくても大丈夫です。もう一度、このワクチンの利害を説明しますね。これは五年かけて開発した新しいワクチンです。成功率は八十パーセント――白血病患者が寛解する可能性があります。ですが二十パーセントの確率で失敗する。その場合は症状が悪化し、最悪の場合は命を落とす危険があります」その言葉を聞いて、私の胸は再び揺れる。――ずっと弟と二人で生きてきた。こんなに拙速に彼を海外へ連れてきて、本当に正しいのだろうか。私のわがままなのではないか。その時、外で待っている弟が病室へ入ってくる。痩せた顔に大きすぎるマスク。普通サイズのものなのに、彼の顔ではぶかぶかに見える。「姉さん、僕はこのワクチンを受けたい」弟の目はまっすぐで、揺るぎない光を宿していた。思いもよらない言葉に、私は戸惑いの声を洩らす。「本当に覚悟できているの?副作用のこと、分かってる?」私は必死に問いかける。彼が何も知らずに言っているのでは、と怖くて仕方ない。弟は小さく、けれど確かに頷く。そして弱々しい声で言う。「さっきの話、全部聞いてたよ」「僕の病気は普通の薬じゃ治らないんだろ。なら……遅かれ早かれ死ぬだけだ。だったら賭けてみたい」彼の口元に苦笑が浮かぶ。私は絶望の底で彼を見つめ、「ごめんね、姉さんが不甲斐ないせいだ」と囁く。弟は首を横に振る。「姉さんは世界で一番僕に優しい人だよ。それに、このワクチンは無料なんだろ?」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に痛みが込み上げる。――彼は知っているのだ。入院費を払っていたのが、誠一だったことを。「姉さんは、もうあの男にお金のために頭を下げる必要なんてないんだ」弟の言葉が、私に誠一と初めて出会った頃を思い出させる。あの時、私は病院への寄付をする企業家の一人として誠一と顔を合わせた。ちょうど弟が白血病と診断された直後で、身一つの私にはどうすることもできなかっ
日記帳には、二人が共に過ごした日々が記されている。――【今日は誠一がステーキを食べに連れて行ってくれた。とても美味しかった。でも私はナイフとフォークが使えなくて、誠一に笑われるかと思った。けれど彼は嫌な顔ひとつせず、丁寧に教えてくれた。そのおかげで、もう使えるようになったよ】その文字を目にした誠一の脳裏に、当時の情景が蘇る。あれは二人の初めてのデート。彼が勝手にレストランを予約したのだった。まさか朝子がステーキを食べたことがないとは思わず、向かいに座る彼女のぎこちない様子に気づいて、初めて異変を知った。ナイフとフォークの使い方を教え、自分が切った肉を彼女のお皿と取り替える。その時の朝子は顔を赤らめ、恥ずかしそうに彼を見つめていた。「ありがとう」小さな声でそう言った彼女。――その夜、誠一は「付き合おう」と口にした。朝子は考える間もなく「はい」と答えた。言ってしまった後で、彼女は慌てて付け加えた。「お金が目当てじゃないよ。好きなのは誠一という人だから」誠一は口元を上げた。「分かってる」そこまで思い返すと、誠一の口から小さな笑いが漏れる。彼は何気なくページをめくる。そこにも記録が残っている。――【昨日、誠一が寝言で『梅干し煮豚が食べたい』って言ってたから、今日は練習して夜ご飯に作ったのに、なぜか全然嬉しそうじゃなかった】誠一は一瞬、意識が遠のく。思い出したのは、少し前に朝子が突然梅干し煮豚を作ってくれた夜。だが、それを好きなのは彼ではなく――紫苑だった。だからこそ、その料理を目にした瞬間、後ろめたさに駆られ、思わず朝子を叱りつけてしまった。その時の朝子は、部屋の隅で怯えたように立ち尽くし、ひとことも反論しなかった。――夢で言った自分の言葉を聞いて、彼女は梅干し煮豚を作ってくれたのか。誠一はそう思う。そんなにも自分に尽くしてくれた彼女を、結局は自分の手で失ってしまった。その時、携帯の着信音が鳴り響く。誠一は慌てて手を伸ばし、画面を見る。スタッフからの電話だ。……やっと朝子の消息か?期待を込めて、急いで通話を繋げる。「……朝子の消息があったのか!」誠一の声は焦りに震えている。「違います、社長。今、会社の前にたくさんの記者が詰めかけています!」その
「朝子からの電話?」紫苑が不機嫌そうに問いかける。「もう彼女と話はついたんじゃないの?どうしてまだしつこくするの?」紫苑は不満げに呟く。だが誠一は答えず、そのまま通話ボタンを押す。「……何だ」「社長、大変です!すぐネットをご覧ください!」電話口の声を聞いた瞬間、紫苑はすぐに分かった。誠一のスタッフだ。彼女は気まずそうに笑みを浮かべる――まさか朝子じゃなく、スタッフの連絡だったなんて。誠一は慌ててネットを開く。そこには私が投稿した婚姻届の受理証明書が映し出され、その横には【急上昇】の文字。なぜか――誠一は怒りを覚えるどころか、安堵の息を吐いていた。その小さな仕草を、紫苑は見逃さない。唇を強く噛みしめ、悔しそうに誠一を睨む。「朝子は?すぐに連絡して削除させろ」誠一の声は、いつもの冷たい調子に戻っている。「それが……奥様と連絡が取れないんです。だからやむなく社長に直接お電話を」その瞬間、誠一の顔色が変わる。声も思わず大きくなる。「どういう意味だ。連絡が取れないとは?」「お電話が繋がらないんです」誠一は一瞬、また妻の小細工だと疑う。だが同時に、上着を手に取り立ち上がっている。「分かった」通話を切ると、紫苑に視線を向ける。「急用ができた。君はゆっくり食べていてくれ」それだけ告げると、誠一は未練なく店を後にする。――彼の背を見送りながら、紫苑の瞳には悔しさと嫉妬の炎が宿っていた。一方、帰路についた誠一の胸はなぜか晴れやかだった。理由は分からない。ただ、朝子があの証明書を公表したからなのか。軽やかな気持ちで別荘に戻った誠一を待っていたのは――いつもの明かりではなく、闇に沈んだ静けさだった。彼は思わず目を見張る。怒って電気を消しているのだろうか、と一瞬考える。だが習慣どおり主寝室に向かい、灯りを点ける。そこに誰の姿もないことを知った瞬間、誠一の心臓が大きく揺れる。俯いたとき、誠一の目に離婚協議書が映る。何か分からず、慌てて手に取って確認する。表紙に「離婚協議書」とあるのを見た瞬間、もう平静ではいられない。誠一は取り乱し、すぐにスタッフへ電話をかける。「朝子の居場所を至急調べろ!」そう口走ったあと、すぐ言い直す。「……まず弟が病室にい
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