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桜散る階前の月影
桜散る階前の月影
Author: 一葉静秋

第1話

Author: 一葉静秋
「笠置さん、この離婚届に署名してください。そうでなければ、私も法岡社長に顔向けできません」

法岡康英(のりおか こうえい)の専属弁護士・京井達夫(きょうい たつお)は、焦燥をにじませた表情で笠置桜良(かさき さくら)の前に立ち、手には真新しい離婚届を抱えている。

これで康英から三十三回目の離婚要求となる。

最初の時、桜良は屋上に駆け上がり、そのまま飛び降りて足の骨を折った。

二度目は、ナイフで手首の大動脈を切り、浴室の半分を真っ赤に染めた。

三度目は、睡眠薬を丸ごと一本飲み干し、病院で三日間にわたり胃洗浄を受けた。

……毎回、彼女は死をもって康英に妥協を迫った。

だが今回――ふと、ただ疲れを感じた。

桜良が立ち上がって窓辺へ歩み寄ると、達夫は緊張しながら慌てて後を追った。

「笠置さん、どうか思い詰めないでください。社長からは、必ずあなたの安全を守るよう厳命されていますから……」

桜良の視線はガラス越しに、向かいの巨大な広告看板に注がれている。

仕立ての良いスーツに身を包み、堂々と立つ康英。その隣に寄り添うのは、真野グループのお嬢様、真野千絵子(まの ちえこ)。

世間は口をそろえて言う――二人は才子佳人、まさに生まれつきのカップルだと。

だが、桜良は康英の「隠された妻」であり、その存在を知る者は誰もいない。

達夫は落ち着かない様子で看板を一瞥し、おずおずと口を開いた。

「笠置さん、これはあくまでも偽装離婚に過ぎません。離婚しても生活はこれまでと変わりませんし、社長と真野さんの関係については……全て会社を無事に上場させるためのものです。社長もおっしゃっていました。あなたが署名してくだされば、株の五割を譲渡すると……」

その言い分は、彼女にとってもう聞き飽きたものだ。

「……署名します」桜良は彼の言葉を遮り、静かでありながらも揺るぎない声で言った。

達夫は思いもよらぬ即答に一瞬呆然とし、それから驚きと喜びの笑みを浮かべた。「笠置さん、ついにご決心なさったのですね!」

桜良はペンを手に取り、離婚届に署名した。指先はかすかに震え、手にしたペンは鉛のように重く、筆を走らせるたびに胸が鈍い刃でえぐられるようだった。わずか四文字――それなのに、それはまるで一世紀を費やすほど長い時間に感じられた。

最後の一筆を終えるや否や、達夫は待ちきれない様子で離婚届を抜き取った。

「笠置さん、それでは失礼いたします」

重々しく扉が閉まる音が響いた。桜良はまるで骨を抜かれたかのように、ソファへと崩れ落ちた。

テレビではちょうど最新のニュースが流れている。

「市内有数の実業家・法岡康英氏が創設した法岡グループがIPOに成功しました。会計監査に問題がなければ、正式な上場は一か月後の予定で、時価総額は百億ドルに達し、法岡氏の資産はY市でトップとなる見込みです」

画面が切り替わり、康英が映し出された。整った顔立ちと際立つ五官。カメラに向かう彼の姿からは、支配者の威圧感があふれている。

司会者が問いかけた。「法岡社長、今回の上場にあたり、一番感謝したい方はどなたでしょうか?」

その瞬間、彼の目には愛情が溢れ、視線は隣の千絵子へとまっすぐ注がれた。

「もちろん、僕の最も頼れる助手――真野千絵子です。彼女がいなければ、今の僕は存在しません」

千絵子は頬を染め、恥ずかしそうにまつ毛を伏せた。

司会者はさらに尋ねた。「外では、法岡社長と真野さんはまさに生まれつきのカップルだと評判ですが、ご結婚のご予定はございますか?」

康英は微笑みを浮かべ、カメラを真っ直ぐに見据えた。「その質問には、現時点でははっきりお答えできません。なぜなら――千絵子が、その機会を僕に与えてくれるかどうか、まだ分からないからです」

観客席からは熱狂的な歓声が湧き上がった。

「さすが社長だな。告白までもこんなに堂々として情熱的だ!」

「まるでドラマみたい!大手企業の社長と名門令嬢の恋――まさに最高のカップルね!」

「これまでの噂が本当だったなんて!今日はまさに愛の公開宣言じゃない!」

……その一言一言が氷の刃となって桜良の心臓を真正面から突き刺し、その痛みは瞬く間に全身へと広がっていった。

記憶が潮のように押し寄せてくる。

十年前――康英と桜良は互いに支え合いながら生きていた。

最も貧しかった頃、一杯のチャーハンを二人で四回に分けて食べた。

康英に学業を続けさせるため、桜良は大学進学を諦め、一人で三つのアルバイトを掛け持ちした。

それでも学費を早く工面しようと、彼女は病院で血液を売った。

もともと虚弱な体は過度の失血に耐えられず、血液センターを出た途端に意識を失い、倒れた。

駆けつけた康英は彼女を抱きしめ、熱い涙を彼女の頬にこぼした。

彼女はその涙を拭い、手にしたお金を掲げて無邪気に笑った。「康英、これで学費が払えるよ」

まだ青臭い少年は誓った――「必ず成功して、君に全ての女が羨むような日々を送らせてみせる」と。

大学を卒業し、初めて職を得たその日に、二人は役所へ行き、婚姻届を提出した。

「桜良、ようやく僕たちの幸せな日々が始まる。これからは君に苦労をかけない。金持ちになったら、必ず盛大な結婚式を挙げてみせる」

その夜、二人は闇夜に咲く花のように燃え上がり、限界まで愛し合い、互いを自分の体に閉じ込めるかのように抱きしめ合った。

その後、康英の事業は順調に成長し、桜良は金銭的に困ることがなくなった。大きな家に住み、高級車に乗り、家には使用人がいた。

だが、唯一の心残りは――康英が決して彼女の存在を公にしなかったこと。

彼女はずっと待っていた。康英が約束を果たすその日を。

だが、夢に見た結婚式は訪れず、届いたのは彼自身が用意した離婚届だった。

どれだけ死をちらつかせられても、彼は諦めなかった。

「桜良、これはただの偽装離婚だ。安心してくれ、君を見捨てたりはしない。会社の上場には真野家を後ろ盾にする必要があるから、僕が既婚者であることを千絵子に知られてはいけないし、君の存在も絶対に知られてはならない」

――彼が繰り返すのは、いつもその言葉ばかりだった。

彼女のもがきも、反抗も、絶望も、彼の目には大成を妨げる無意味なわがままにしか映らなかった。

今、テレビの画面の中で千絵子はカメラに向かい、目に愛情を込めながら自然に指で髪をかき上げている。その薬指には大粒のダイヤの指輪が輝いている。

「皆さまの温かいお心遣いに感謝いたします。良い知らせがあれば、必ずお伝えいたします」

観客席は再び歓声に包まれた。

桜良は自分の指にはめられた、ただの細い銀の指輪を見下ろした。胸の奥に限りない苦味が広がっていく。

――その時、彼女ははっきりと悟った。自分が欲したものは、康英がすでに他の誰かに与えてしまったのだ。

そして、彼が求めるものは、もはや自分は差し出せない。

二人はすでに同じ道を歩む存在ではなくなっている。

偽装離婚?そんなものは存在しない。

離婚するなら――潔く、そして完全に。

桜良はスマホを取り出し、国際電話をかけた。

「おばさん、決めた。海外に行って、一緒に暮らす」

電話口の向こうから驚きの声が返ってきた。

「桜良、本当にいいの?前はあの出世した夫と一緒に暮らすって言ってたじゃない」

長い沈黙の後、桜良はぽつりと告げた。

「……私、彼と離婚したの」

「そんな夫、いらないわ。いつまでもあなたとの関係を公にしないなんて、浮気心があるに決まってる。離婚して正解よ。おばさんが養ってあげる。ちょうど来月、上場を控えた国内企業の監査で帰国する予定だから、用事が済んだら一緒に連れて行くわ」

「……うん、お願い、おばさん」

桜良の叔母・笠置晴奈(かさき せいな)は、世界規模の監査法人の責任者で、上場企業の会計監査を専門としている。多忙を極め、桜良を見つけた後も、康英と顔を合わせる機会を持てずにいる。

――もっとも、これからはもう、その必要もないだろう。

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