しかし、さくらが平陽侯爵老夫人を訪ねる前に、翌日には工房についての噂が街中に広まっていた。「北冥親王妃も清家夫人も偽善者だ」「困窮した離縁の女が助けを求めたというのに、門前払いどころか、散々な仕打ちをしたそうだ」もともと工房に対して敵意を抱いていた人々は少なくなかった。離縁された女性たちを受け入れるなど礼教に反すると非難の声を上げ、離縁された者には相応の理由があるはずだと言い張った。子を産めぬことすら、罪とされた。この噂は瞬く間に広がり、まるで崩れ落ちる壁に群がるように、民衆の批判の声は日に日に大きくなっていった。「偽善の極み」「何か裏があるに違いない」「金儲けが目的なのだろう」……様々な憶測が飛び交った。その夜、紫乃は机を激しく叩きながら怒りを爆発させた。「儀姫一人でこれほどの騒ぎを起こせるはずがない!」言い終わるや否や、紫乃は風のように部屋を飛び出した。「どこへ行くの?」さくらが後ろから声をかけた。「都景楼よ。誰かに調べてもらうわ」振り返りもせずに答えた。紫乃は怒りで全身を震わせていた。工房には心血を注いできた。その想いは純粋なものだった。同じ境遇の女性たちの運命に心を寄せ、工房が彼女たちの終生の支えとなることを願っていたのだ。このような中傷は、決して許せなかった。さくらも心中穏やかではなかったが、紫乃ほど取り乱してはいなかった。このような事業が順風満帆にいくはずがないと、彼女は理解していた。世の中には善意ある裕福な人々も多いはず。もし容易なことなら、とうの昔に誰かが始めていただろう。さくらはまず使いを出し、平陽侯爵老夫人に明日の訪問を告げる手紙を送った。しかし返事は意外なものだった。老夫人は病床に伏しており、体調が回復次第、自ら北冥親王邸を訪れるとのことだった。本当に病気なのか、それともこのような時期に関わりたくないだけなのか。さくらには判断がつかなかった。とにかく、老夫人が病を理由に面会を断った以上、紫乃の調査に期待するしかなかった。さくらにも今、やるべきことがあった。御城番からの一部の者たちを追い出す計画を進めていた。数日のうちに実行されるだろう。その時は、陛下の怒りも避けられまい。紫乃の調査は速やかに結果を出した。燕良親王妃の沢村氏が金を使って、伊織屋への攻撃を煽っていたのだ。沢村氏が都に来て以
都に来てから、燕良親王は沢村氏に沢村紫乃との接触を促していた。血のつながりがある以上、頻繁に往来すれば、おのずと血縁の情は上原さくらとの友情を超えるはずだと考えていたのだ。だが、無能で気まぐれな沢村氏は、一、二度の失敗で諦めてしまった。「あの紫乃ときたら、身分相応の態度もとれないのよ」と不平を漏らし、「今や私は親王妃なのだから、こんな屈辱は受けられません。それに、姉妹の付き合いをするなら、紫乃の方から私を訪ねてくるべきでしょう」と強情を張った。この態度に燕良親王は腹を立てると同時に困惑もした。特別に両者の関係を調査させたほどだ。姉妹の間に何か確執でもあったのかと思いきや、むしろ幼い頃は仲が良かったという。ただ、紫乃が梅月山の赤炎宗で武芸の修行を始めてから、自然と疎遠になっただけのことだった。親王からすれば、これは十分に修復可能な関係に思えた。今回の紫乃の来訪が何を目的としているにせよ、姉妹の絆を取り戻すには絶好の機会だった。すぐさま沈氏を呼び寄せる指示を出した。まもなく、沢村氏は侍女の春杏を従えて書斎に現れた。眉には喜色を湛えながら、粗雑な礼を行う。「親王様、お呼びとは何用でしょうか?」燕良親王は沢村氏の不作法な礼儀作法を目にして、内心で溜息をついた。皇族の妻となって久しいというのに、礼儀作法を学ぼうという意思すら見せず、日々側室との諍いに明け暮れている。不快感を押し殺しながら、親王は言った。「お前の従妹の沢村紫乃が来ている。すでに正庁に案内させた。これから私も同席するが、この機会に夕食でもてなすがよい。姉妹らしく腹を割って話をするのだ。大切な客人をないがしろにするなよ、分かったか?」書斎に呼ばれた時、沢村氏は最初、心を躍らせていた。普段は金森側妃以外、立ち入ることすら許されない場所なのだから。だが、それが紫乃の来訪のためと分かると、途端に表情が曇った。あの従妹のことを思い出すと、心中穏やかではいられなかった。傲慢この上ない態度で、自分が親王妃となった今でさえ、まるで眼中にないかのような振る舞い……「聞いているのか?」親王の声が少し強まった。「はい、かしこまりました」沢村氏は慌てて心を取り直した。親王は立ち上がると、思いがけず沢村氏の手を取った。「参ろう。私は挨拶だけして退くから、姉妹水入らずで昔話でもするがよい」
「警告しておくわ、万紅」紫乃は人差し指を突きつけ、その目は炎のように燃えていた。「もし二度と儀姫の手先となって伊織屋の悪評を流すようなことがあれば……その舌を引き抜いてやる」言い終わるや、紫乃は袖を翻して大股で立ち去った。最後まで、燕良親王には一瞥もくれなかった。門外の護衛たちが駆け寄ろうとしたが、親王は振り返って手を上げ、下がるよう指示した。紫乃は冷ややかな嘲笑を一つ残し、颯爽と姿を消した。燕良親王は去りゆく紫乃の後ろ姿を見つめていた。鮮やかな紅衣が目を射るようで、その凛とした態度、恐れを知らぬ大胆さ、傲然とした姿勢……まさにこれこそが、自分が本当に求めていた沢村家の娘だったのだ。「親王様……」沢村氏が涙に濡れた顔を押さえながら嗚咽を漏らした。「私を打ったのに、なぜ見逃されたのです?」腫れ上がった頬から涙が雨のように零れ落ちる。親王は視線を戻すと、先程までの優しい眼差しは消え失せ、眉間に深い皺を寄せていた。同じ沢村家の血を引くというのに、なぜこれほどまでの違いが……「親王様!」冷ややかな目つきに不安を覚えた沢村氏は、さらに一歩近づき、先程の優しさにすがろうとした。「痛いのです。どうか、私の恨みを晴らしてください」親王は眉間の皺を解かないまま問いただした。「今の話だが、お前が儀姫と手を組んで伊織屋の噂を流しているというのは、どういうことだ?」高利貸しの件は親王に黙っていた。沢村氏では固く禁じられていることだし、親王の考えも分からない。厳しい表情に問い詰められ、沢村氏の動揺は増すばかり。「わ……私はただ……儀姫が離縁され、工房に助けを求めたのに、上原に断られたと聞いて……不憫に思っただけです」「ほう」親王は冷笑を浮かべた。「わが妃が、北冥親王妃に刃向かうほどの力を持っているとは知らなかったぞ」涙を拭いながら、沢村氏は無邪気な瞳を向けた。「ただ……儀姫は親王様の姪君。路頭に迷わせるのが忍びなく、少しばかり助力を……」「では何故」親王は容赦なく畳みかけた。「平陽侯爵家に直談判しなかったのだ?そこまで心配なら、親王家で引き取れば良かったのではないか?」「妾は……」沢村氏は言葉を濁らせた。「母上が謀反の罪で官庁に幽閉されておりますゆえ、お引き取りする勇気が……」親王は突如、沢村氏の顎を掴んだ。「母親が謀反人と知ってい
書斎に戻った燕良親王に、無相は手にしていた書物を置き、立ち上がって尋ねた。「親王様、沢村紫乃は何用で?王妃様とは話が……」「役立たずめ」親王は吐き捨てるように言った。「密かに儀姫と通じ、上原さくらに対抗するなど……」「親王様」無相は首を振った。「彼女を娶ったことが、そもそもの誤りでした。沢村家でも取るに足らぬ存在。家主でさえ、彼女のために親王様との関係を深めようとはしない。他に得られる利もございません」「同じ沢村家の娘とはいえ、沢村紫乃と比べれば、千倍も万倍も劣る」親王は座に着くと、目を細めた。その瞳の奥には毒蛇のような冷徹な光が宿っていた。「先ほどの一件を見よ。颯爽と現れ、一つの平手打ちと警告を残して立ち去る。無駄な動きは一つもない。あれほどの女を妃とできていれば……」親王は舌打ちした。「沢村家の全面支援を得られただけでなく、あのような有能な助力者も手に入れられた。紫乃一人で、わが配下の何十人分もの価値があろう」「親王様」無相は慎重に進言した。「今は四方に虎狼が潜む時。北冥親王家の人間に手を出すのは危険かと」だが親王は自らの計略に沈潜したままだった。「無能な妃なら、賢い者に席を譲らせればよい」「まさか……」無相は息を呑んだ。「それは危険すぎます。沢村紫乃は野馬のよう。今となっては、到底手なずけられません」「選択の余地はないのだ」親王の声は暗く沈んでいた。「影森茨子を失い、都での足場は揺らいでいる。沢村氏は無能、金森側妃では名家の婦人たちとの交際もままならん。一方、紫乃は都に確かな人脈を持ち、上原さくらとの親交も深い。彼女を娶れば、上原も多少は目こぼしをしてくれようというもの」「性格が違えば、同じ策も異なる結果を生みます」無相は首を振った。「親王様のお心が乱れております。焦りは禍根となる。まずは心を静め、より良い活路を見出すべき。さもなくば……」無相は深いため息をついた。「この野望は諦めるしかございますまい」「放棄などできぬ!」親王の声が突如高く響いた。「これまでの年月をかけた経営を、どうして諦められようか」数度の深い呼吸を経て、親王は落ち着きを取り戻した。「先生の仰る通り、私も焦りすぎていた。ただ……陛下の真意が掴めぬ。まるで私を疑ってなどいないかのように振る舞われる。目を合わせる時も、変わらぬ眼差しで……あの方の深さを、私
燕良親王の表情が落ち着きを失っていた。「椎名青舞は確かに親房甲虎の心を掴んだ。だが奴はまだ軍の心を掴めていない。それを焦ってはならん。平安京も同様だ。しかし、かといって手をこまねいているわけにもいかん。沢村が役立たずなら、紫乃を使えばよい。無相先生の懸念は杞憂だ。沢村万紅も上原さくらも共に王妃の位にある。この紫乃が親王妃の座に興味を示さぬはずがない。あれほどの気位の高い女が、並の男など眼中にないのだからな」「でも親王様……」無相は必死に諫めたが、燕良親王は自らの策略に酔いしれ、耳を貸す様子もない。どんな女でも、自らの操を粗末にはしまい。一度、身を任せてしまえば、後には引けなくなる。その時、王妃の座を約束すれば、誰よりも喜ぶに違いないと。さくらは既に親王邸に戻っていた。紅竹から紫乃が燕良親王邸を訪れたとの報告を受けた時、ちょうど村松碧との相談事を終えたところだった。一方、紫乃も親王邸に戻っていた。あの平手打ちの一件で、一瞬は溜飲が下がったものの、すぐに不安が込み上げてきた。自分のことではなく、玄武とさくらに迷惑がかかることを懸念していた。天皇陛下の密偵が燕良親王邸を監視していることは周知の事実だったからだ。さくらの姿を認めるや否や、紫乃は立ち上がって迎えに出た。「ごめんなさい、さくら。私、衝動的に燕良親王邸へ行ってしまって……きっと迷惑をかけてしまったわ」と、後悔の色を滲ませながら言った。さくらは紫乃を慰めるために急いで戻って来たのだが、むしろ紫乃の方が先に後悔の念を口にしていた。さくらは微笑みながら紫乃の腕に手を添えた。「燕良親王邸で大騒ぎでもしたの?」「沢村万紅を平手打ちしてしまったわ」紫乃は憂鬱そうに呟いた。「痛快だった?」さくらは目尻を下げて微笑んだ。「その時は良かったけど……玄武様とあなたに迷惑がかかりそうで」さくらは紫乃を椅子に座らせ、隣に腰を下ろした。そしてお珠を呼んで燕の巣のお椀を持ってこさせた。「好きにすれば良いのよ。たとえ面倒なことになったとしても、私たちで何とかできるわ」「そうは言っても……今回は本当に軽率だったわ」紫乃は顔を曇らせた。自分の感情をうまく制御できると思っていたのに、一瞬で理性が吹き飛んでしまった失態が悔やまれた。さくらは立ち上がって紫乃の背中を優しく撫でた。「土で作った人形だって
応接間で、紫乃は心からの謝罪を述べる燕良親王妃を冷ややかな目で見つめていた。万紅をよく知る紫乃でなければ、この演技に騙されていたかもしれない。「本当なのよ。信じて欲しいわ。儀姫が私のところへ泣きつい来て、助けを求めたの。一時の情に負けただけなの。あなたが帰った後、親王様に随分と叱られたわ。工房は女性たちの幸せのためにあるのに、私が泥を塗るなんて……もう分かったわ。許してくれないかしら?」紫乃は一言も信じなかった。儀姫を助けようとしたという言葉も、燕良親王が女性の幸せを気遣ったという話も、全てが嘘だと分かっていた。さくらの叔母、前燕良親王妃の死の真相を、紫乃は知っていた。他の者は知らなくとも、紫乃だけは知っていたのだ。紫乃は平然と相手の話に耳を傾けながら、その見事なまでに計算された二筋の涙を観察していた。姉が燕良親王妃になってから、他の才能は磨かれなかったものの、芝居の技術だけは見事に上達したようだ。さぞや普段から観劇に励んでいることだろう。「お言葉は綺麗ですこと。でも、謝罪がご用件なら、なぜ前もって知らせを?まさか、私がここにいると決め込んでいらしたの?」その言葉に、沢村氏の表情が一瞬硬くなった。感情的な演技に気を取られ、こんな些細な指摘を予想していなかったようだ。そこを春杏が素早く取り繕った。膝を折って、「申し上げます。王妃様は昨夜一晩中お泣きになられ、初めは参上する勇気もございませんでした。ですが親王様が、過ちを犯した以上、潔く認めて沢村お嬢様のお許しを請うべきだと。姉妹の絆を損ねてはならないと仰って。それで王妃様は直ちに贈り物を用意させ、もし沢村お嬢様がいらっしゃらなければ、お戻りになるまでお待ちするつもりでございました」この言葉なら紫乃の踵にも届かないだろう、と紫乃は内心で冷笑した。昨夜、自分の軽率さを反省した紫乃は、これからは慎重に事を運ぼうと決意していた。この謝罪の後に何が待ち受けているのか、見極めようではないか。春杏の言葉に乗じて、紫乃は穏やかに答えた。「確かに燕良親王様のおっしゃる通りですわ。私たち姉妹が、こんなことで仲たがいするなんて。噂を打ち消していただければ、私も水に流しましょう」「本当に?」沢村氏は目頭の涙を拭いながら、内心で首を傾げていた。昨日まであれほど激高していた紫乃が、なぜ今日はこうも話
翌朝の朝議が終わると、玄武は最近の再審理案件を持って御書院へ参内した。例によって謀反事件の捜査進捗も報告するためである。未だ結審していない謀反事件について、刑部は捜査を継続していた。定期的な報告は形式上のものに過ぎず、疑いの目は既に燕良親王に向けられていたものの、天皇陛下からは捜査の勅命も下らず、表立って言及することすらなかった。玄武が暗に示唆を試みても、陛下は何も仰らなかった。清和天皇は案件簿に目を通し、謀反事件の経過報告を聞き終えると、「実質的な進展はないようだな」進展させられるのは、陛下のお言葉一つなのに——玄武は心中で呟いた。天皇は案件簿を脇に置き、「引き続き捜査を続けよ」と言い放った。「承知いたしました」まだその場に立ち尽くす玄武を見て、天皇が尋ねた。「他に何か?」「さほど重要な案件ではございませんが」玄武は微笑んで答えた。「本日、燕良親王殿下が私どもを夕餉にお招きくださいました」天皇は顔を上げ、一瞬驚きの色を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。「そう言えば、叔父上は病の養生のため都に戻って来て、しばらく経つな。本来なら後輩である貴殿が招くべきところだが、先方からの誘いならば、行くがよい」玄武は白い歯を覗かせる明るい笑顔を見せた。「私もそう考えておりました」珍しく柔和な表情を浮かべた天皇が頷いた。「うむ。燕良親王邸では珍しい花々を植えていると聞く。よく見て来るがよい」玄武は再び輝くような笑顔を見せた。「まさにその通りに」天皇は笑みを漏らし、「もう行ってよい。宰相が待っておる」「では、これにて退出させていただきます」玄武は深々と一礼し、後ずさりながら御書院を後にした。天皇は玄武の後ろ姿を見つめながら、唇の端の笑みを隠しきれずにいた。胸の内がなぜか不思議と軽くなっていた。謀反事件以来、巨大な岩のような重圧が絶えず心を押し付けていた。誰を見ても疑わしく思え、その疑惑の影が徐々に燕良親王へと収束していくにつれ、その重圧は増すばかりで、時として息苦しさを覚えるほどだった。燕良州の長年の経営で、燕良親王がどれほどの勢力を持つに至ったか、未だ把握できていない。派遣した密偵たちは、一人として戻っては来なかった。ここ数日、眠れぬ夜が続いていた。弟の玄武に捜査を命じることも考えたが、踏み切れずにいた。
無相は小さく溜息をつき、「通常の女性なら、親王様のお薬で事足りますが……相手は沢村紫乃。並の薬では対処できませぬ」「ほう?」燕良親王は不思議そうに問うた。「薬の効果は情を動かすことではないのか?お前の薬には何か特別な効能でもあるのか?」「親王様のお薬は、厳密には情を動かすものではなく、ただ欲を掻き立てるだけ。これは蠱毒の一種でして、脳を麻痺させ、交わった相手に情が芽生えるよう仕向けるのです」燕良親王の目が輝いた。「そのような神薬があったとは!なぜ早く出さなかった?もし彼女がわしに心を寄せるようになれば、わしの望みは彼女の望みともなる」「しかし親王様」無相は苦笑を浮かべた。「この情というのは本心に反するもの。長くは持ちませぬ」「では、どれほどの期間だ?」「せいぜい十日か半月ほどでしょう」燕良親王は陶器の小瓶を受け取り、その瞳に危険な光が宿った。「効果が切れたら、また使えばよいではないか。そうすれば、永遠に彼女を縛り付けておける」「それは……」無相の眉間に深い皺が刻まれた。「これは毒薬です。体に相応の害がございます。過去に三度使用した例がありますが、その後、被害者は痴呆の症状を呈しました。回数が増えれば、脳を完全に破壊し、白痴同然に。最悪の場合、命を落とすことも」「それも悪くはない」燕良親王の声には血に飢えたような響きがあった。「痴呆となれば扱いやすい。そうなれば沢村家も、わしに彼女の面倒を見てくれと懇願してくるだろう」無相は親王の暴走を目の当たりにし、諫言せずにはいられなかった。「親王様、人は計画を立て、天がその成否を決めると申します。しかし……たった一人を操って全体を掌握しようというのは、余りにも危険な賭けでございます。むしろ、私どもの首を絞めることにもなりかねません」無相は心中で思案を巡らせていた。確かに紫乃には相応の影響力がある。だが、沢村家も上原さくらも、彼女一人のために譲歩するほどの重みはない。そして何より、この計画は余りにも危険すぎる。失敗すれば、必ず反撃を受けることになるだろう。薬を差し出したのは、せめて紫乃の心を一時的にでも掴むため。たとえ束の間でも、彼女が親王様の側に立ってくれれば、北冥親王家からの圧力も幾分は和らぐはずだ。今は燕良州への撤退を考えるべき時期。紫乃を連れ帰った後で、ゆっくりと次の一手
さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作
庭の石の腰掛けに、三姫子と文絵が腰を下ろした。庭には花木が植えられているものの、どれも元気がない。冬の寒さに萎れ、一層寂しげな景色を作り出していた。「どうして天方将軍のことを弁護したの?」三姫子は手巾で娘の頬の傷周りを優しく拭った。軽く押してみても血は滲まない。幸い傷は深くなく、醜い傷跡になる心配はなさそうだった。ただ、その平手打ちの跡があまりにくっきりと残っているのを見ると、母としての胸が締め付けられた。娘が十一郎の味方をするとは不思議だった。あの一件については、子供たちには一切話していないはずなのに。これまで、こういった厄介な事柄は徹底して子供たちから隠してきたつもりだった。最近の噂が子供たちの耳にも入っているのだろうか。彼らがどこまで知っているのか、確かめておく必要があった。文絵が腫れた頬を上げた。その瞳は純真そのものでありながら、年齢不相応な落ち着きを湛えていた。「お母様、覚えていらっしゃいますか?十一郎様が叔母様を連れて里帰りした時、私に何をくださったか」三姫子は記憶を辿った。「そうね、側仕えのばあやが、あなたと賢一くんにそれぞれ金の瓜の種と金の鍵をくれたわ。随分と気前の良い贈り物だったわね」文絵は首を横に振り、瞳に強い意志を宿して言った。「国太夫人の『山河志』でした。十一郎様は私にこうおっしゃいました。この世では、女性は嫁ぐ以外に生まれた土地を離れる機会は少ない。けれど、外の世界は広大で美しい。たとえ自分の目では見られなくても、我が大和国の素晴らしい景色を知っておくべきだと。空がどれほど広く、どれほど高いかを知れば、目先のつまらないことにとらわれず、他人の機嫌を取るために自分を卑下することもなくなるはずだと」三姫子は息を呑んだ。そうだったのか。あの時の自分は、金銀の装飾品にばかり目が行っていた。何と庸俗な自分だったのだろう。里帰りの際も、贈り物の品々から夕美の天方家での立場を推し量ることばかり気にしていた。「あれから今まで、十一郎様は私たちや叔母様を責めることは一度もありませんでした。でも、お母様」文絵の声が震えた。「十一郎様は本当は悔しくないのでしょうか?怒りを感じないのでしょうか?あんなことがあっても、本当に何事もなかったかのように過ごせるのでしょうか?きっと傷ついて、苦しんでいるはず。だから縁談の話にも積
礼子は母の手を振り払い、三姫子に向かって怒鳴った。「謝りません!私をどうにかできるとでも?殴り返せるものなら殴ってみなさい!」礼子は涙を浮かべた赤い顔を、三姫子の目の前に突き出した。その表情には、言いようのない屈辱が滲んでいた。そうですか」三姫子は冷笑を浮かべた。「では斎藤帝師様に、斎藤家のしつけについてお尋ねするとしましょう」そう言うと、さくらの方を向いて続けた。「塾長、その折には証人としてお力添えいただけませんでしょうか」「帝師様にお会いする際は、事の次第を余すところなくお伝えいたします」さくらは答えた。景子は帝師の耳に入れば大変なことになると悟った。自分たちは間違いなく厳しい叱責を受けることになる。歯を食いしばりながら、景子は礼子に命じた。「謝りなさい」「嫌です!」礼子は涙を流しながら足を踏み鳴らした。「私が悪いんじゃありません。いじめられて、書院も追い出されそうなのに、なぜ私が謝らなければならないの?」三姫子とさくらの冷ややかな視線を感じ、四夫人は厳しい表情で言い放った。「過ちを犯したのだから、謝罪は当然のことです」この数日間の屈辱に耐えかねていた礼子は、母までもが自分を助けず謝罪を強要することに、激しい憤りを覚えた。「絶対に謝りません!好きにすればいいです。死んでも謝らない!」そう叫ぶと、礼子は外へ駆け出した。だがさくらがいる以上、逃げ切れるはずもない。数歩で追いつかれ、三姫子の前に連れ戻された。さくらは三姫子に向かって言った。「この事態は雅君書院の管轄内で起きたこと。書院にも責任があります。こうしましょう。文絵様の顔に傷を負わせた以上、役所に届け出て、しかるべき処置を仰ぎましょう。書院として負うべき責任は、私どもも当然引き受けます」「では王妃様のおっしゃる通り、役所へ参りましょう」三姫子は毅然とした態度で娘の手を握った。「いやっ!役所なんて行きません!」礼子は悲鳴のような声を上げた。良家の娘が役所に引き立てられるなど、これからの人生はどうなってしまうのか。「早く謝りなさい!」景子は焦りと怒りの混じった声で叱責した。「さっさと謝って、この呪われた場所から出て行くのです」しばらくの沈黙の後、礼子は不承不承と文絵と三姫子の前に進み出た。口を尖らせながら、「申し訳ございません。私が悪うございました」
景子の顔色が一層険しくなった。自分の言外の意味が通じなかったはずはない。「大げさに騒ぎ立てる必要などございません」景子は強い口調で言った。「謝罪なら構いませんが、退学というのは行き過ぎでしょう。所詮は子供同士の些細な揉め事。こんなことで退学させれば、雅君女学が融通の利かない学び舎だと噂されかねません。ご令嬢のためだけでなく、学院の評判もお考えください。私の娘が退学した後、もし変な噂でも立てば、傷つくのは書院の名声ですよ」先ほどまでは三姫子への脅しだったが、今度は書院までも脅そうというわけだ。「暴力を振るった生徒を退学させないほうが、よほど書院の評判を損なうでしょう」さくらは冷ややかに微笑んだ。「景子様にお越しいただいたのは、双方の体面を保ちながら、謝罪なり賠償なりを済ませ、子供たちの諍いで両家に確執が生まれることを避けたかったからです。ですが、退学は避けられません。自主退学を拒むのでしたら、私の権限で退学処分とさせていただきます」景子ははさくらには逆らえず、他の教師たちに向かって言った。「先生方、教育者として生徒の些細な過ちくらい、お許しになれないのですか?」「本来なら即刻の退学処分でした」相良玉葉も強い態度で返した。「国太夫人と塾長が礼子様の体面を考慮して、自主退学という形を提案なさったのです」「もう十分でしょう」国太夫人が手を上げて制した。「自主退学を選びなさい。これ以上言い募っても、皆の気を損ねるだけですよ」景子は玉葉を鋭く睨みつけた。生徒たちの証言によれば、退学処分を最初に提案したのは玉葉だった。他の教師はただ同調しただけ。相良家と天方家の過去の因縁など、誰もが知っているというのに。まだ隠せると思っているのだろうか。十一郎が相良家を見向きもしないのは当然のこと。今や相良家を支える者など誰もいない。名声だけが残った没落貴族に過ぎない。式部を掌握する斎藤家なのだ。もし太后様が一言発せられ、上原さくらが宮中に駆け込んで阻止していなければ、十一郎はとっくに斎藤家に縁談を持ちかけていたはずだ。景子は確信していた。以前の婉曲な断りは、村松裕子という女の政治的慧眼の欠如によるものだ。十一郎なら分かっているはず。武将が権勢を振るうには、朝廷の後ろ盾が不可欠なのだから。婚姻による同盟こそが、最も確実な結びつきなのだ。「相良先
三姫子も侍女の織世を連れて姿を見せた。娘が平手打ちを食らったと聞き、まず娘の様子を見に行った。頬は腫れ上がり、細い傷まで付いていたが、国太夫人が既に薬を塗ってくださったと知る。娘を二言三言なだめた後、急いで書雅館へ戻り、国太夫人にお礼を述べた両夫人が席に着くと、さくらが仲介役として事の経緯を詳しく説明した。説明を終えると、斎藤礼子と親房文絵、そして証人となる数名の学生たちを呼び寄せ、両夫人からの問いただしに備えた。景子夫人の表情は明らかに険しかった。一つには、分別のない娘が書院でこのような話を持ち出したことへの憤り。もう一つには、天方十一郎が礼子など眼中にないなどと、親房文絵が放った言葉への腹立ちだった。そんな噂が広まれば、娘の評判に関わる。とはいえ、娘の斎藤礼子が手を上げた以上、口論とは訳が違う。景子は仕方なく頭を下げ、そっけない謝罪の言葉を三姫子に向けた。「確かに、若い娘たちの言い争いとはいえ、不覚にも娘が手を出してしまい申し訳ございません。どうか寛大なお心で」三姫子は礼子を一瞥した。まるで自分が被害者であるかのように、礼子の顔には今なお不満げな表情と、理不尽な扱いを受けたような悔しさが浮かんでいた。「もう元服も済ませた娘です。子どもではないのですから、自分の行動には責任を持つべきでしょう。手を上げたのは礼子様なのですから、謝罪するのもまた礼子様自身であるべき。その後、許すか許さないかは私の判断にお任せください」景子は内心、西平大名家が斎藤家の立場を考慮するはずだと踏んでいた。上原さくらがこうして両家を呼び寄せたのも、穏便に解決を図りたいという配慮からに違いない。しかし、自分が譲歩したにもかかわらず、三姫子がこれほど頑なとは。他の生徒たちの前で面目を潰されたも同然だ。生徒たちは必ずや家に帰って今日の出来事を話すだろう。景子は背筋を伸ばした。事を荒立てたいというのなら、とことんまで話し合おうではないか。事情は承知していたものの、威厳ある態度で生徒たちに尋ねた。発端は何だったのか、なぜ口論になり、どうして暴力に発展したのか。生徒たちは塾長の前で、たとえ斎藤礼子の味方であっても贔屓はできず、事の次第を最初から順を追って説明するしかなかった。「まあ」景子は文絵の発言に食いつき、冷笑を浮かべた。「文絵お嬢様、天方十一郎様の弁護と
「厳罰」の二文字に、向井玉穂たちは慄いた。こぞって後ずさりし、礼子との距離を取ろうとする。礼子は涙を流しながら、さらに怒りを爆発させた。「私だって故意じゃない。あの子が余計なことを……伯母様があんな恥ずべきことをしたのに、まだ天方十一郎の味方をするなんて。恥知らずも甚だしいわ」文絵は平手打ちを受けた時も泣かなかったのに、この言葉を聞いた途端、大粒の涙をポロポロと零した。他の生徒の肩に顔を埋めて、声を上げて泣き始めた。教師たちが次々と呼ばれ、さくらまでもが事態の収拾に駆けつけた。先ほどまで激しく対立していた両陣営の生徒たちは、今や罰を恐れて声もなく佇んでいた。先刻の剣を交えんばかりの怒気は、すっかり消え失せていた。事の顛末を聞いた相良玉葉の、普段は冷静な表情に冷たい色が浮かんだ。「度重なる騒動に、今度は暴力行為まで。学ぶ意志が見られません。書院の風紀を守るため、退学処分が相応しいかと」礼子は確かに学びたくはなかったが、自ら辞めることと追放されることは意味が違った。それに皇后様から託された役目もまだ果たしていない。どうして追い出されなければならないのか。追い詰められた礼子は、玉葉に向かって毒づいた。「分かってますよ、なぜ私を追い出そうとするのか。だって先生は天方十一郎と縁談があったのに、断られて。今度は私が選ばれたから、嫉妬してるんでしょう。私情を挟んでいるのは先生の方です」国太夫人は眉を寄せた。「斎藤家の教養とは、このようなものなのですか。人を誹謗し、手を上げ、でたらめを並び立てる。是非をわきまえぬ。私も退学処分に賛成いたします」一呼吸置いて、国太夫人は少し和らいだ口調で付け加えた。「自ら退学なさることをお勧めします。噂が広まれば、あなたの縁談にも差し障りがございましょう」「私も賛成です」武内京子は厳しく言い放った。規律を司る立場として、彼女たちの本質を見抜いていた。学問への意志など微塵もない。ただ騒動を起こすためだけに来ているのだ。以前は噂話を散布した時も見逃し、その後の騒ぎも手の平打ちで済ませた。まさか今度は暴力行為にまで及ぶとは。このまま放置すれば、雅君女学は規律も品位もない、ただの混沌とした場所と見なされかねない。深水青葉と国太夫人も同意を示し、斎藤礼子の退学処分は全会一致で決定された。さくらは静かに頷き、礼
「黙きなさい!」景子は慌てて娘の口を押さえた。「そんな下品な物言いを。伯父上のお耳に入ったら、どんな叱責を受けることか」斎藤家は厳格な家柄。一族の子女には、一言一行に至るまで上品な振る舞いが求められていた。礼子は首を振って母の手を払いのけた。「伯父様など、自分のことも正せないくせに、私たちにどんな説教ができるというの?もう怖くなんてありませんわ」「黙きなさい!」景子は厳しく叱った。「まったく子供じみた考え。外の人々が伯父様のことを噂するのを、私たちは必死で隠しているというのに。それでも式部を取り仕切り、娘婿は今上の陛下。どれだけの役人の運命が伯父様の手の中にあると思うの」礼子は鼻を啜り、口を尖らせた。式部卿の件についてはもう口を噤んだものの、「とにかく、あの天方十一郎なんて大嫌い。無能で意気地なし。自分の妻が浮気して大恥を晒したのに、一言も言い返せないような男」「これは皇后様のご意向なのよ。従っておけば間違いないわ」景子は娘の手に薬を塗りながら、向井三郎と天方十一郎に嫁ぐ場合の違いを丁寧に説明した。礼子は普段から皇后を崇拝していたが、この件だけは納得がいかなかった。あの日、皇后が突然この話を持ち出したことにも違和感があった。「もしかして、天方十一郎が陛下に何か言ったの?あの天方家が、私たち斎藤家と縁組みを?身の程知らず。あの武家の人たちって大嫌い。汗臭くて野暮ったくて」景子は強情な娘の性格を知っていたため、これ以上の説得を諦めた。どのみち、まだ何も決まっていない。太后様の承認も必要だ。その時になってからでも遅くはない。しかし、礼子の怒りは収まらなかった。雅君女学に戻ると、向井玉穂たちに十一郎が自分を娶ろうとしていることを告げ、侮蔑的な言葉を重ねた。玉穂はこの話を面白おかしく他の生徒たちに語り広めた。嘲笑って盛り上がる者もいれば、十一郎は朝廷に大功を立てた英雄であり、そのような侮辱は許されないと反論する者もいた。両者の言い争いは次第に激しさを増していった。もちろん、ただの見物人として無関心を装う生徒もいた。しかし、議論は激しい口論へと発展し、やがて本や筆を投げ合う騒ぎとなり、教室は混乱の渦に巻き込まれた。武内京子が戒尺を手に慌てて駆けつけた時、礼子は既に親房文絵の頬を平手打ちしていた。平手打ちを受けた文絵は、三姫
さくらが部屋に足を踏み入れると、その鋭い眼差しに三人は一斉に俯いた。さくらの目を直視する勇気などなかった。玉葉は救世主でも現れたかのように、安堵の息を漏らした。「まだここにいるの?」さくらの声が鋭く響いた。「さらに回数を増やすか、退学するか、どちらが良いのかしら?学ぶ気がないなら席を空けなさい。あなたたちの代わりに、真摯に学びたい人はいくらでもいるわ」玉穂と羽菜は震え上がり、慌てて礼子の袖を引っ張った。目配せで「早く行きましょう」と促す。二十回が三十回になり、このまま居座れば四十回、五十回と増えかねない。しかし、斎藤家の箱入り娘として甘やかされて育った礼子は、若気の至りもあって、このような屈辱を受け入れられなかった。不満と挑戦的な眼差しを隠すのに時間がかかったが、さくらが「四十回」と言い出す前に、二人を連れて踵を返した。廊下に出ると、礼子の頬は怒りで真っ赤に染まっていた。皇后姉様の命令がなければ、こんな場所にいる必要などない、と。文字を読めれば十分。余計な学問など意味がない。嫁入り後の家事や使用人の扱い方を学んだ方が、よほど役に立つというものだ。玉葉は立ち上がり、礼を取った。「王妃様」「こんな生徒を持つと、頭が痛いでしょう?」さくらは穏やかな笑みを浮かべた。「数人だけですから、何とかなっております」玉葉も微笑み返しながら、さくらを席に案内し、机の上の教案を整理した。「ただ、彼女たちの騒ぎだけなら良いのですが……女学校の本格的な運営を快く思わない方々がいらっしゃるのではと」玉葉の瞳には疑問の色が浮かんでいた。「王妃様は、誰がそのような……」「女学校の発展を望まない人は大勢いるものです」さくらは確信めいたものを感じながらも、慎重に言葉を選んだ。「詮索するより、私たちがなすべきことをしっかりとこなすことの方が大切ではないでしょうか」「おっしゃる通りです」玉葉は頷いて微笑んだ。「本来は彼女たちの件でお呼びしたのに、謝罪もありましたし、お手数をおかけしただけになってしまいました」「時々様子を見に来るのも私の役目ですから」さくらは穏やかに答えた。実のところ、今日来なくても良かったのだが。些細な騒動とはいえ、退学させるほどの過ちではない。かといって、全く罰せずに済ますわけにもいかない。「他は順調に進んでおります」玉葉
さくらと紫乃は宮を後にすると、紫乃は工房へ、さくらは女学校へと向かった。以前、斎藤礼子に警告を与えたばかりだった。これ以上問題を起こせば退学処分にすると。しかし、束の間の平穏はすぐに崩れ去ったようだ。国太夫人はさくらを見るなり、礼子の件で来たことを察した。「あの子には学ぶ意志がないようです。自ら退学するよう促してはいかがでしょう。縁談の話も出ている娘のことです。穏便に済ませた方が……」斎藤家など恐れるはずもない国太夫人だが、礼子のことを真摯に案じているのは確かだった。雅君書院から追い出されれば、その評判は取り返しがつかないだろう。国太夫人は若い娘たちへの情が深かった。良縁に恵まれなければ、一生を棒に振ることになりかねない。それを誰よりも知っていた。「そう焦らずとも」さくらは穏やかに答えた。「まずは事の次第を確認してから、本人と話をさせていただきます」「大きな問題というわけではないのですが……」国太夫人は溜息交じりに説明を始めた。「あの子と仲間の娘が授業の邪魔をして。特に玉葉先生の講義中はひどい。下で騒いで、皆の顰蹙を買っているんです。玉葉先生も困っておられます。まだお若いので、こういった事態の対処に慣れていないものですから」さくらは思った。相良玉葉は対処法を心得ているはずだ。ただ、この妨害行為が単なる個人的な問題ではなく、女学校の存続そのものを望まない者の仕業かもしれないと察していたのだろう。そうなると、一教師の判断で軽々しく動けるものではない。さくらが玉葉を訪ねようとした時、偶然、斎藤礼子が親友の向井玉穂と赤野間羽菜を連れて中にいるのを目にした。意外なことに、彼女たちは謝罪に来ていたのだ。礼子を先頭に、三人は玉葉に向かって深々と頭を下げた。悔恨の表情を浮かべ、言葉には誠意が溢れていた。「これまでの私の不埒な振る舞い、先生にご迷惑をおかけして申し訳ございません。どうかお叱りください。今後二度とこのような行為は致しません。どのような罰でも、写経でも手の平打ちでも、甘んじて受けさせていただきます」さくらは部屋には入らず、入口から様子を窺っていた。この突然の改心を、さくらは信じなかった。騒ぎを起こしていた生徒たちが、何の前触れもなく悔い改めるなど、不自然すぎる。裏で何かを企んでいるか、誰かに指示されているかのどちらか