事件以来、三姫子は初めて夕美の元を訪れた。夕美は薄い掛け布で顔を覆い、誰とも会いたくないという様子で横たわっていた。老女が黒檀の円椅子を運んできて、寝台の傍らに置いた。布団の下の人影が、かすかに震えている。「もう逃げても始まらないわ」三姫子は単刀直入に切り出した。「事態を収めなければならない。お義母様の意向では、村松家の奥方に謝罪して、誤解を解いていただくつもりよ。ただ、承知いただけるかどうか……それと守さんのことだけど、今日、将軍邸を訪ねたの。あなたのことは、ずっと前から知っていたそうよ。ただ、敢えて言い出さなかっただけ。もしあなたが離縁を望まないなら、今回の件は水に流して、これまで通り暮らしていけるとおっしゃっていた。ただし、一つ条件があるわ。彼、どうしても従軍するつもりみたい」薄い掛け布がめくれ、夕美の腫れぼったい哀れな顔が現れた。桃のように腫れた目は、さらに大きく見開かれ、瞳が震えている。「知っているはずないわ……どうして……離縁しないかわりに、何を求めているの?」「言ったでしょう。従軍すると」「ただの下級兵士として?」夕美の目に再び涙が溢れた。「それなら実家に戻った方がまし。母上は私のことを大切にしてくれると約束してくださった。どんなことがあっても、私は西平大名家の三女よ。持参金だけでも一生食べていける。どうして彼と貧乏暮らしを強いられなければならないの?」夕美は寝台に横たわったまま、首筋の赤い痕を見せている。両目から涙が零れ落ち、鼻声で訴えかけた。「私のことを軽蔑なさっているのは分かっています。でも、よくよく考えてみたの。私のどこが間違っていたのかしら?自分のことを第一に考えただけ。それがあなたたちの目には利己的に映るのね。でも、誰だって利己的じゃないの?自分を大切にして、不遇は嫌だと思うのは、そんなに悪いことなの?親房家に生まれた私は、多くの人より恵まれている。実家という後ろ盾もある。なのに、どうして自分を卑しめなければならないの?」息を継ぎ、さらに言葉を重ねた。「あなたたちは言わないけれど、私が上原さくらや木幡青女と比べることを笑っているでしょう?でも、人は誰でも比較するものよ。虚栄心のない人なんているの?私も上原さくらも再婚よ。比べて何が悪いの?」「それに、北條守との結婚だって……私が幸せな結婚生活を望まなかった
三姫子は相手にする気力も失せていた。「答えたくないのなら、結構よ。離縁を望むのなら、私から村松家の奥方に頭を下げる必要もないでしょう」「お義姉さん」夕美は涙ながらに懇願した。「でも、やはり村松家には行ってください。誤解を解いていただかないと……あの時、光世さんはまだ独身でしたし、私だけが悪いわけではありません。それに、姪たちの縁談もお心配でしょう?この騒動が収まらなければ、良い縁談など叶うはずもありません」三姫子は血を呑むような思いで、それでも冷静さを保って言った。「運命ね。あなたは恵まれた家に生まれたとおっしゃる。でも私の娘たちは不運だったのね。同じ親房家に生まれたばかりに、我慢を強いられる。自分のことを考えるのは悪くない。でも、他人を巻き込まないで」「そんな……私に北條家へ戻れとおっしゃるの?」三姫子は最早言葉を継ぐ気力もなく、背を向けて部屋を出た。もう関わるまい。夕美が離縁を望むなら、村松家の奥方に謝罪したところで意味がない。このような汚名は、まるで入れ墨のよう。肉ごと削ぎ落とさない限り、一生消えることはない。北冥親王邸では、紫乃がさくらの話に耳を傾けていた。話が終わると、紫乃は唖然として、しばらく言葉が見つからなかった。「どうして」しばらくして紫乃は呟いた。「大それた悪人でもないのに、あんなに反感を買う人がいるのかしら。実際、北條守とは相性が良さそうなものなのに」「私が薬王堂にいたことも、誰かに見られていたでしょうね」さくらは静かに言った。「あの二人が出て行ってから、私も店を出たけど、まだ大勢の人がいたから」「大丈夫よ」紫乃は慰めるように言った。「少し噂になるくらいで、たいしたことないわ」傍観者なら噂の種にはならないはずだが、さくらの立場は違う。かつての北條守の妻なのだから。夕美の不義密通、そして北條守との再婚。この一件で、前妻のさくらまでもが世間の好奇の目にさらされ、噂話の的となるのは避けられない。「大したことないけど」さくらは首を傾げた。「あの時は、二人が取っ組み合いを始めて、私も呆然としてしまって」「へえ、村松家の奥方って相当な戦闘力だったの?」「きっと長い間心に溜め込んでいたのね。一気に爆発して、体面も何もかも忘れて、ただひたすら怒鳴り散らしていたわ」「あー、見たかったなぁ」紫乃は残念そ
「おや、紫乃が弱気になるなんて、珍しいじゃないか」突然、背後から声が聞こえた。振り向くと、そこには音無楽章が颯爽と立っていた。「お前より辛い思いをしている人だって、前を向いて頑張っているというのに。財も力も美貌も、世の女性が望むものは全て持っているお前が、一度の失敗くらいで落ち込むなんて。お前にこんな恵まれた生まれを与えた閻魔様に申し訳が立つのか?」紫乃が振り返ると、楽章の背の高い姿が彼女を覆い隠すように立ちはだかっていた。整った顔立ちには、どこか束縛を嫌う自由な魂が宿っているような表情。廊下の行灯に照らされた小麦色の肌が柔らかな光を放っている。漆黒の瞳は、真面目な諭しなのか、からかいの色を含んでいるのか、読み取れなかった。「さあ、空を飛ぼう」楽章は紫乃の手首を掴むと、軽やかに跳躍した。まるで風を操るかのような身のこなしで空中を滑るように進む。紫乃は目を見開いた。まさか楽章の軽身功がここまで巧みだとは。これまで彼の技は、どれも中途半端なものだと思い込んでいた。さくらは首を傾げた。五郎師兄は、私がここにいることに気付かなかったの?一瞥すらくれず、挨拶もなしか。楽章は紫乃を都景楼の最上階へと連れて行った。足は宙に浮かび、都の灯りが一面に広がっている。上る前に、都景楼から酒を二壺持ち出していた。一つを紫乃に渡し、もう一つは自分のものとした。夜風が心地よく、昼間の蒸し暑さを払い除けていく。漆黒の闇の中では互いの顔も見えず、このまま酒を飲むのも味気ない。そこで楽章は袖から夜光珠を取り出した。その光は都景楼の屋上全体を、まるで月明かりで照らすかのように包み込んだ。「見てごらん、この灯りの海を。一つ一つの明かりが、一つの家族を表している。どの家にもそれぞれの悩みがある。皇族であろうと庶民であろうと、人生には様々な苦労が付きまとう。お前の悩みなど、たいしたことじゃない」「ふん」紫乃は口の端を歪めた。「ちょっとぼやいただけよ。わざわざここまで連れてきて慰める必要なんてないし、付き合って飲む必要もないわ」そんな慰めが必要なほど落ち込んでいるわけじゃない。元気なのに。楽章は深い眼差しで紫乃を見つめながら、静かな声で言った。「誰がお前を慰めに来たって?俺を慰めに来てもらったんだ、俺の酒の相手に」紫乃は命の恩人への感謝もあり、怒る代わりに尋
楽章は黙したまま、酒壺を傾け、大きく喉を鳴らして飲み干した。それから夜光珠を丁寧に箱に収めた。光が消えると、三日月と星々だけが残された。紫乃は楽章がこんな身の上だったとは思いもよらなかった。さくらからも聞いたことがない。遊郭に入り浸って、芸者の唄を聴いたり、自ら笛を吹いて聴かせたり。そんな放蕩な振る舞いをする男が、まさか大名家の息子だったとは。楽章の沈黙の中、紫乃の頭には後宮争いの物語が浮かんでいた。父親に利をもたらした誕生なら、きっと溺愛されただろう。側室の息子が寵愛を受ければ、それは当然、正室とその子への挑戦となる。母親がどんな人物だったかは分からないが、手腕のある女性ではなかったのだろう。でなければ、楽章がこうして家に帰れない身となることもなかったはず。「西平大名家の老夫人が、お戻りになるのを許さないの?家督を争うことを恐れて?」紫乃は慎重に探りを入れた。「誰も、俺が生きていることを知らないんだ」楽章は空虚な笑みを浮かべた。「それでいい。親房家は表面は華やかだが、内部は危機だらけだ。俺の存在を知らない方が都合がいい。あの混乱に巻き込まれずに済む。ただ、都に戻って三姫子さんの苦労を知ってしまった以上、黙ってはいられない。家の当主の妻とはいえ、所詮は他家の人間だ。背負わされている責任が重すぎる」「じゃあ……三姫子夫人を助けたいの?」紫乃は彼の取り留めのない話を整理しようとした。「助けられない。だからこそ、気が滅入るんだ」「でも、どうやって助けるの?それに、お義母様だって、あなたを認めないでしょう。手を差し伸べれば、何か企んでいると警戒されるだけじゃない?」「大名家なんて、どうでもいい」楽章は冷たく言い放った。「欲しいものは何もない。ただ、三姫子さんが賢明なら、今のうちに逃げ道を作るべきだ。都に執着する必要なんてない。子どもたちを連れて、どこか安全な場所へ……俺たち武家ならそうする。でも、そんな助言を聞く耳を持たないだろうから、黙っているさ」「でも気になるわ」紫乃は首を傾げた。「親房夕美は、あなたの妹?それとも姉?少なくとも血のつながりはあるはずなのに、どうして心配しないの?」楽章は冷笑を浮かべた。「彼女は年上だ。私は末っ子さ。なぜ彼女のことに首を突っ込む必要がある?すべて自分で選んだ道だ。三姫子さんとは違う。彼女は巻
だが楽章は黙ったまま、ただ黙々と酒を飲み続けた。一壺を空けると、今度は紫乃の分まで奪おうとする。紫乃は彼が酔いすぎだと判断し、必死で守った。二人は都景楼の屋上で追いかけっこを始め、先ほどまでの重苦しい空気は、夜風と共に吹き散らされていった。紫乃は結局、この件をさくらに打ち明けなかった。約束はしていなかったものの、楽章が誰にも知られたくない胸の内を吐露したのだから、武家の誇りにかけても、軽々しく噂話にするわけにはいかなかった。しかし、ここ数日、楽章が西平大名邸の周辺を徘徊している姿が、御城番の目に留まっていた。村松碧がさくらに報告すると、さくらは不審に思った。五郎師兄は、あそこで何をしているのだろう?知り合いでもいるのだろうか。その夜の夕食時、さくらは尋ねてみた。「五郎師兄、最近何かお忙しいの?」楽章は顔を上げた。「別に。ぶらぶらしているだけだ」「西平大名邸の近くを?」楽章は紫乃を鋭く見つめた。紫乃は驚いて即座に弁明した。「私、何も言ってないわよ」さくらは二人の様子を窺った。一方は怒りを、もう一方は無実を主張する表情。まるで何か秘密を抱えているようだ。さらに問おうとした時、玄武が箸で料理を取り分けながら「さあ、食事にしよう」と促した。さくらは疑わしげに二人を見やった。二人は同時に俯いて食事を始め、箸を運ぶ動作まで同じように揃っていた。「ある夜のこと」深水青葉は悠然と言葉を紡いだ。「あの二人が都景楼で酒を酌み交わしていたのを見かけたよ。追いかけっこをしたかと思えば、悲鳴や笑い声が聞こえてきてね。実に賑やかなものだった」「あの日のこと?」さくらは驚いて二人を見た。「五郎師兄が『空を飛ぼう』って誘った日?」「騒いでなんかいないわ。悲鳴も上げてないし、はしゃぎもしてない。ただ私の酒を奪おうとしただけよ」紫乃は弁解した。「大師兄」楽章は青葉を睨みつけた。「どうしてそれを?私たちを尾行でもしたんですか?盗み聞きしてたんですか?」突然立ち上がり、声を荒げる。「なんてことを!人の後をつけるなんて!」「誰が尾行なんかするものか」青葉は怪訝な表情で楽章を見つめた。「そんな大きな騒ぎを立てておいて、下の者が気付かないとでも?それにしても随分と取り乱しているな。後ろめたいことでもあったのか?まさか二人は……」「やめろ!」楽章
夕食後、さくらと玄武は青葉を書斎へと連れ込んだ。二人は左右から挟むように立ち、青葉が逃げ出せないよう、そのまま部屋の中へ押し込んだ。「なんと無作法な」塾の教師となった青葉は、学者らしい口調で嘆いた。「そんな乱暴な真似は」それでも結局、肘掛け椅子に座らされた青葉は、好奇心に満ちた目で見つめる師弟たちに向かい、少々むっとした様子で言った。「聞きたいことがあるなら、はっきり言うがいい」玄武が最初に切り出した。「一つ目の質問だが、五郎師兄が最近、西平大名邸の周辺を頻繁に訪れているのは、師叔か師匠の指示なのか?親房甲虎に何か動きでもあったのか?」さくらはより深刻な表情で続けた。「二つ目。今夜の五郎師兄の様子が気になるの。紫乃を見る目つきが普段と違うし、いつもみたいに反発しなくなった。何か心当たりはある?」青葉には一つの取り柄があった。話すべきことと、そうでないことの線引きが明確だったのだ。楽章の出自について、他人には隠すべきだろうが、親しい師弟に対して秘密にする必要はないと考えていた。師匠は早くから楽章の身の上を青葉に明かし、時折諭すように言っていた。人生は長いようで短い。いつ何が起こるか分からない。執着しすぎるのは良くないと。青葉も楽章にそう伝えたことがあった。だが楽章は、万華宗の皆が自分の家族だ、他人のことは気にならないと答えるだけだった。「楽章は親房甲虎と親房鉄将の末弟だ。親房夕美が姉で、三姫子夫人は兄嫁にあたる。最近、西平大名邸を頻繁に訪れているのは、おそらく屋敷で起きた騒動と関係があるのだろう。老夫人が病で寝込み、雪心丸が必要なのだ。楽章は雪心丸を持っているから、どうやって渡すか考えているのだろう」青葉の言葉に、玄武とさくらは目を丸くして言葉を失った。二人はありとあらゆる可能性を考えていたが、まさかこんな事実があったとは。さくらは両手を口に当てたまま、しばらくして下ろすと「どうやって万華宗に?お父様が送られたの?西平大名老夫人が実のお母様?どうして一度も会いに来なかったの?」と矢継ぎ早に尋ねた。「長い話だが、かいつまんで話そう」青葉は姿勢を正した。「父親の先代西平大名・親房展は道術に執着していた。楽章が生まれた時、戦功を立てて帰朝し、爵位を継いだ。満月の祝いの時に道士を招いて占いをしてもらったところ、楽章は両親に大
深水青葉は残りの話を続けた。萌虎が追い出された後、妖術使いは彼が生きられまいと踏んでいた。死のうが生きようが、最後は狼の餌食となり、骨すら残らないだろうと。だが思いがけず菅原陽雲がその辺りを通りかかった。夜になって赤子のような弱々しい泣き声を耳にした陽雲は、何か妖怪に出会えるのではと興味を持ち、その声を頼りに進んでいった。しかし、萌虎を見つけた時の陽雲は落胆した。第一に、赤子ではなく五、六歳ほどの子供だった。第二に、妖怪でもなく、死にかけの病児だった。しかも、どれほどの間ここに放置されていたのか、片方の足の指はネズミに食いちぎられ、血を流していた。近くには毒蛇も出没していたが、萌虎があまりにも衰弱して動かなかったため、蛇も襲わなかったのだ。この子の福運の強さを疑う者があろうか。息も絶え絶えだったのに、陽雲に助けられ、数日間の重湯と二服の薬膳で、まるで奇跡のように命を取り戻した。都では名医たちが束手をこまねいていたというのに、たった二服の薬膳と数碗の重湯で回復したのだ。まさに不思議としか言いようがない。陽雲は眉をひそめた。痩せこけた猿のような男の子は、全身合わせても三両の肉もないだろう。しかも聞けば、もう六歳だという。三、四歳にしか見えない体つきの子供を育て上げるのは、並大抵の苦労ではないだろう。陽雲は最初、この子を元の場所に戻そうと考えた。だが、毒蛇に囲まれていた時でさえ叫び声一つ上げなかったことを思い出した。人として最も大切な胆力を持っているなら、引き取ってみるのも悪くはない。あとは運命次第だろう。五、六歳ともなれば、記憶は残る。師匠を信頼するようになった楽章は、自分の生い立ちを打ち明けた。陽雲が調査を命じ、真相が明らかになった。寺の火災で萌虎が死んだと西平大名家が思い込んだ後、陽雲は剣を携え、妖術使いを梅月山まで連れて行った。折しも秋晴れの良い季節で、陽雲は「干し肉作りには持って来いの天気だ」と言った。そして長い竿を立て、妖術使いを縛り付けた。舌は美味しくないからと、最初にそこだけ切り落とした。妖術使いがいつ息絶えたかは定かではない。ただ、三ヶ月後に下ろされた時、埋葬する価値もなく、むしろ筵を無駄にするのも、穴を掘って大地を穢すのも惜しいということで、狼の餌食にされた。しかし狼でさえ、冬を越
しかし青葉はその件について詳しくなかった。「親房展が爵位を継いでいないだって?師匠の調査が間違っていたということか?」「有田先生に聞けば分かるはずだ」玄武は即座に提案した。書斎に呼ばれた有田先生は、確かにその当時の事情を知っていた。諸侯の家系のことなら、三代前まではある程度把握しているのだ。まあ、ある程度だが。「親房展が爵位を継いだことは確かにございません」有田先生は丁寧に説明を始めた。「当時の大名様はご病気で、世子を定めていなかった。展様が戦功を立てて帰京された際、世子に推挙されましたが、その後、大名様の容態が回復に向かい、結局お元気になられた。そのため爵位継承は先送りになり……その後、何があったのかは存じませんが、大名様は突然、長孫の甲虎様を世孫に推挙なさった。そこには何か事情があったに違いありませんが、部外者には分かりません。私にも分かりません。恐らく西平大名家の長老方と、現在の老夫人様だけがご存じなのでしょう」この話は、突然謎めいたものとなった。親房展が爵位を継いでいないのなら、単に世子に封じられただけで楽章が家に福をもたらすと断言できたのだろうか。しかも楽章が生まれた年に世子となり、五歳で送り出されるまで爵位を継承していない。むしろ楽章は当時の大名様には利があったが、親房展にはさほど福をもたらしていないように聞こえる。確実に、この中に何か重要な謎が隠されている。そして恐らく、長老たちでさえ真相は知らないだろう。本当のことを知っているのは、現在の西平大名老夫人だけなのだ。「もう調べるのはやめましょう」さくらは静かに言った。「五郎師兄の判断に任せましょう。私たちは知っているだけでいい。どんな決断をしても、支持するだけです」確かにこれは楽章自身の問題だ。どうするかを決めるのは彼の権利であり、彼が心地よいと感じる方法で進めればいい。さくらは胸が痛んだ。実は以前、五郎師兄とはそれほど親しくなかった。その理由の一つは、彼の放蕩な性格で、いつも遊郭に入り浸っていたからだ。もう一つは、彼が何事にも不真面目で、何も真剣に捉えなかったこと。みんなで遊んでいる時も、両手を後ろに組んで傍観し、「子供じみてるな」と言い残して立ち去ってしまうのだ。さくらは今でも覚えている。梅月山に来て二年目の冬、後山で雪だるまを三つ作った。父と
紫乃は今、師範の務めの傍ら、石鎖姉さんたちと小さな捜査班を組んで、女性を狙う悪漢たちの取り締まりに当たっていた。最初は簡単だと思っていた。犯人を見つけ出し、痛めつけて自白を取り、役所に突き出せばよい……だが、役所では「拷問による自白」と一蹴されるだけだった。石鎖姉さんが密かに被害者たちを訪ねても、誰もが被害を否認した。よくて否認、酷い時は門前払いだった。結局、証拠不十分で釈放される。その度に紫乃の胸の内で殺意が湧き上がった。武芸界の掟なら、さっさと始末をつけて逐電すればよかったのに。だが、今の彼女は武芸界の人間ではない。親王様は刑部の長、さくらは玄甲軍を率いている。人殺しなど許されるはずもない。これが精一杯考えついた方法だったが、まるで効果がない。徒労に終わり、一人も投獄できていない。だから紫乃の瞳の奥には、常に憤りと憂いが渦巻いていた。二人はしばらく言葉を交わし、さくらは慰めるように言った。「気を落とすことないわ。少なくとも痛い目に遭わせて溜飲は下がったでしょう。あなたの監視の目があると分かれば、そう簡単には悪事は働けないはず」「殴っただけじゃ足りないの」紫乃はこめかみに拳を当て、頭を傾げて苦々しげに言った。「法の裁きを受けさせたいのよ」「被害に遭った娘たちが声を上げられないのよ。むしろ、できるだけ深く隠しておきたいんでしょう」「じゃあ、このまま野放しにするしかないの?本当に手立てはないの?」紫乃の声には焦りが滲んでいた。さくらは静かに提案した。「次も証拠が集まらないなら、役所に突き出す必要はないわ。思い切り痛めつけて、手か足を折るか……もしくは二度と女性に手出しできないようにしてしまえば」紫乃の表情が明るくなった。「それ、いい考えね」「でも、よく調べてるの?」「もちろん」紫乃は即座に答えた。「安心して。慎重に調査してるわ。冤罪は絶対に避けてる。ただ、被害者が証言を拒むし、私たちの調査方法も正式なものじゃないから、役所では取り上げてもらえないのよ」最初は自白さえ取れば役所が処罰してくれると思っていたのに。証拠や被害者の証言が必要だとは知らなかった。この件に関して、さくらにも手の施しようがなかった。法の厳格さは守られねばならない。姉妹のように親しい二人は顔を見合わせ、互いの瞳に励ましの色
十二月十五日、清和天皇は春長殿を訪れられた。皇后は目を真っ赤に腫らし、斎藤礼子の退学の件を申し上げた。この一件で既に斎藤家を諭されていた陛下は、皇后までもがこの話を持ち出すとは思いもよらず、心中穏やかならざるものがあった。されど、それを表には出されなかった。天皇の不快な様子を察した皇后は、すかさず話題を変え、「この頃、都の名だたる貴婦人方が、こぞって上原さくらを持ち上げ、女性の鑑だの手本だのと申しておりますわ」と申し上げた。「なるほど、面白い話だな」清和天皇は意味深な笑みを浮かべながら言った。「皇后への賛辞はどこへ消えたというのか。朕の皇后となる前から、都一番の才媛と謳われていたはずだ。むしろ手本とすべきは皇后、そう思わんか」皇后は一瞬たじろいだ。陛下の言葉が褒め言葉なのか、それとも皮肉なのか。真に自分のために憤っておられるのか、皆目見当もつかなかった。最近では、陛下のお心が益々掴めなくなっていた。觴を差し出しながら、しばし躊躇った後、おそるおそる申し上げた。「北冥親王妃の勢いが、いささか目に余るように存じます。女学校に伊織屋に……以前は非難していた者までもが、今では賛辞を惜しまず。それに北冥親王様も、陛下の深い信頼を得ておられ……これはいかがなものかと」清和天皇は眉を寄せられたが、何もお答えにはならなかった。皇后は天皇の表情を窺い、わずかに安堵の息を漏らした。やはり陛下も北冥親王夫妻の台頭を警戒なさっているのだ。あの夫婦への称賛があまりにも大きすぎる。朝廷の重臣たちは心服し、民も賛辞を惜しまない。陛下がお気に召さないのも当然だろう。勢力を広げすぎた二人は、いずれ禍根を残すことになるはず。まずは上原さくらに痛い目を見せてやろう。上原さくらは紅羽や粉蝶たちに女学校の見張りを命じた。斎藤家が以前のままなら心配はいらなかったのだが、今は各分家がそれぞれの思惑を持ち、礼子の退学騒動で皇后様の怒りは頂点に達しているはず。あの日の四夫人の振る舞いは、まるで無頼の徒のよう。警戒するに越したことはない。最近、紫乃は二人の師姉と共に多忙を極めており、さくらと言葉を交わす機会も減っていた。この日は珍しく早めの屋敷帰りで、皇太妃様への挨拶に誘うことができた。皇太妃の居室は心地よい暖かさに包まれていた。嫁と紫乃の姿を認めると、
式部卿は屋敷に戻るなり、景子を呼びつけ、激しい怒りをぶちまけた。「お義兄様」景子も憤然として言い返した。「私どもは皇后様のご意向に従っただけです。本来なら礼子を広陵侯爵の三郎様に薦めようと考えておりましたが、皇后様が武将方の支持がないとおっしゃって」皇后が縁談を持ちかけようとしたものの、太后様に阻止されたことを語り、憤りを隠さない。「天方家は傲慢すぎます。私ども斎藤家の娘が釣り合わないとでも?義兄様、彼らは斎藤家を眼中にも入れていないのです」「なぜ天方家が我々を重んじる必要があろう?我々が天方家を重んじたことがあったか?」式部卿は鋭く問い返した。問題はまさにそこにある。いつからか、一族の者たちは誰もが斎藤家に敬意を払うべきだと思い込むようになっていた。恐怖が背筋を這い上がった。知らぬ間に、斎藤家は朝廷の権力を掌握していると世間に見られ、一族もそう思い込んでいる。なぜそう思うようになったのか。周囲が持ち上げすぎたからに他ならない。「でも、私たちは斎藤家なのに……」景子は言葉を濁らせた。この一件を機に、式部卿は一族を集めた。言動を慎み、軽々しい振る舞いを控え、謙虚に、控えめに。無用な交際は避け、党派を結ぶなどという嫌疑を招かぬよう、厳しく諭した。側室の件は、一族内の女たちの間で噂になっただけだった。男たちは表向き非難しながらも、内心では理解を示していた。そう、男は常に同じ男の過ちを許す。それは過ちとは呼べないものだからだ。今日の訓戒は、族人たちも守るだろう。式部卿の胸中には不安が渦巻いていた。大皇子の粗暴さと愚かさが露呈する前まで、特別な策を講じる必要はないと考えていた。天の寵児として、皇位は自然と彼のものになるはずだった。だが、大皇子の凡庸さが次第に明らかになってきた。それも単なる平凡さではない。性格も徳も欠けていた。陛下もそれを見抜いているに違いない。こんな時期に何か画策すれば、必ず疑念を招くことになる。せめてもの救いは、大皇子がまだ幼いことだ。まだ教育の余地がある。今は目立たぬよう、大皇子の教育に専念する。それこそが正しい道筋だった。しかし、この考えを耳にした皇后は、父の臆病さを責めた。今こそ人脈を広げるべき時だと。特に武将たちと、なかでも兵部大臣の清家本宗との親交を深めるべきだと。使いを通じて父に伝言を送り
式部卿は茫然と立ち尽くしていた。平手打ちを食らったわけでもないのに、頬が火照ったように痛んだ。そしてようやく、自分の軽率さに気付いた。たかが書院の生徒同士の諍いごときで、朝廷を巻き込むことになってしまった。朝議終了まで、彼はただそこに立っていた。清和天皇は彼を御書院に残すよう命じた。しかし、御書院の外で立って待つように、との仰せだった。寒風が刃物のように肌を切り裂く厳寒の中、丸二時間、陛下は彼を中へ招くことはなかった。胸の内は複雑な思いが渦巻き、怒りの炎が胸腔の中を暴れ回った。自分は陛下の義父ではないか。たとえ今回の件で非があったにせよ、こんな寒さの中に放置されるいわれはない。二時間も経つと、体は凍えて硬直しかけていた。吉田内侍は耐え難そうな様子を見かねて、手焙りを持ってきてくれた。極寒の中、わずかな温もりですら救いだった。樋口信也が慌ただしく御書院に入り、しばらくして戻ってくると、式部卿の前に立った。「斎藤様、なぜここに?」「陛下のお召しを待っております」歯の根が寒さで震えながら答えた。「陛下は先ほど、どこへ行かれたのかと探すようにと仰せでした。お待ちかねですぞ、早くお入りください」式部卿は無表情のまま礼を言い、こわばった足を引きずるように中へ入った。拝礼、着座の許可、すべては普段通りだった。だが式部卿にはわかっていた。陛下の心中には怒りがある。先ほどの二時間は明らかな懲らしめだ。しかし、たかが女学校のことで、と腹の中で反発を覚えずにはいられなかった。御書院の暖かさが身に染みわたり、ようやく体の震えが収まってきた頃、吉田内侍が熱い茶と共に一枚の調書を差し出した。式部卿は不審そうに手に取り、目を通した途端、血の気が引いた。そして次の瞬間、怒りが込み上げてきた。景子母娘に欺かれていたのだ。発端は礼子が、天方十一郎が自分に求婚したと吹聴し、「年寄りが若い娘に手を出す」と嘲り、周りの生徒たちを煽り立てたことだった。「斎藤家は天方家との縁組みをお望みなのですか」清和天皇は淡い笑みを浮かべた。「義父上よ、都の権貴や文官たちは皆、婚姻で繋がりを持とうとしている。今や天方十一郎までも目を付けられるとは。朕が彼を重用したのは間違いではなかったようですな。義父上までがそれほど評価されているのですから」「陛下」式部
さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作
庭の石の腰掛けに、三姫子と文絵が腰を下ろした。庭には花木が植えられているものの、どれも元気がない。冬の寒さに萎れ、一層寂しげな景色を作り出していた。「どうして天方将軍のことを弁護したの?」三姫子は手巾で娘の頬の傷周りを優しく拭った。軽く押してみても血は滲まない。幸い傷は深くなく、醜い傷跡になる心配はなさそうだった。ただ、その平手打ちの跡があまりにくっきりと残っているのを見ると、母としての胸が締め付けられた。娘が十一郎の味方をするとは不思議だった。あの一件については、子供たちには一切話していないはずなのに。これまで、こういった厄介な事柄は徹底して子供たちから隠してきたつもりだった。最近の噂が子供たちの耳にも入っているのだろうか。彼らがどこまで知っているのか、確かめておく必要があった。文絵が腫れた頬を上げた。その瞳は純真そのものでありながら、年齢不相応な落ち着きを湛えていた。「お母様、覚えていらっしゃいますか?十一郎様が叔母様を連れて里帰りした時、私に何をくださったか」三姫子は記憶を辿った。「そうね、側仕えのばあやが、あなたと賢一くんにそれぞれ金の瓜の種と金の鍵をくれたわ。随分と気前の良い贈り物だったわね」文絵は首を横に振り、瞳に強い意志を宿して言った。「国太夫人の『山河志』でした。十一郎様は私にこうおっしゃいました。この世では、女性は嫁ぐ以外に生まれた土地を離れる機会は少ない。けれど、外の世界は広大で美しい。たとえ自分の目では見られなくても、我が大和国の素晴らしい景色を知っておくべきだと。空がどれほど広く、どれほど高いかを知れば、目先のつまらないことにとらわれず、他人の機嫌を取るために自分を卑下することもなくなるはずだと」三姫子は息を呑んだ。そうだったのか。あの時の自分は、金銀の装飾品にばかり目が行っていた。何と庸俗な自分だったのだろう。里帰りの際も、贈り物の品々から夕美の天方家での立場を推し量ることばかり気にしていた。「あれから今まで、十一郎様は私たちや叔母様を責めることは一度もありませんでした。でも、お母様」文絵の声が震えた。「十一郎様は本当は悔しくないのでしょうか?怒りを感じないのでしょうか?あんなことがあっても、本当に何事もなかったかのように過ごせるのでしょうか?きっと傷ついて、苦しんでいるはず。だから縁談の話にも積
礼子は母の手を振り払い、三姫子に向かって怒鳴った。「謝りません!私をどうにかできるとでも?殴り返せるものなら殴ってみなさい!」礼子は涙を浮かべた赤い顔を、三姫子の目の前に突き出した。その表情には、言いようのない屈辱が滲んでいた。そうですか」三姫子は冷笑を浮かべた。「では斎藤帝師様に、斎藤家のしつけについてお尋ねするとしましょう」そう言うと、さくらの方を向いて続けた。「塾長、その折には証人としてお力添えいただけませんでしょうか」「帝師様にお会いする際は、事の次第を余すところなくお伝えいたします」さくらは答えた。景子は帝師の耳に入れば大変なことになると悟った。自分たちは間違いなく厳しい叱責を受けることになる。歯を食いしばりながら、景子は礼子に命じた。「謝りなさい」「嫌です!」礼子は涙を流しながら足を踏み鳴らした。「私が悪いんじゃありません。いじめられて、書院も追い出されそうなのに、なぜ私が謝らなければならないの?」三姫子とさくらの冷ややかな視線を感じ、四夫人は厳しい表情で言い放った。「過ちを犯したのだから、謝罪は当然のことです」この数日間の屈辱に耐えかねていた礼子は、母までもが自分を助けず謝罪を強要することに、激しい憤りを覚えた。「絶対に謝りません!好きにすればいいです。死んでも謝らない!」そう叫ぶと、礼子は外へ駆け出した。だがさくらがいる以上、逃げ切れるはずもない。数歩で追いつかれ、三姫子の前に連れ戻された。さくらは三姫子に向かって言った。「この事態は雅君書院の管轄内で起きたこと。書院にも責任があります。こうしましょう。文絵様の顔に傷を負わせた以上、役所に届け出て、しかるべき処置を仰ぎましょう。書院として負うべき責任は、私どもも当然引き受けます」「では王妃様のおっしゃる通り、役所へ参りましょう」三姫子は毅然とした態度で娘の手を握った。「いやっ!役所なんて行きません!」礼子は悲鳴のような声を上げた。良家の娘が役所に引き立てられるなど、これからの人生はどうなってしまうのか。「早く謝りなさい!」景子は焦りと怒りの混じった声で叱責した。「さっさと謝って、この呪われた場所から出て行くのです」しばらくの沈黙の後、礼子は不承不承と文絵と三姫子の前に進み出た。口を尖らせながら、「申し訳ございません。私が悪うございました」
景子の顔色が一層険しくなった。自分の言外の意味が通じなかったはずはない。「大げさに騒ぎ立てる必要などございません」景子は強い口調で言った。「謝罪なら構いませんが、退学というのは行き過ぎでしょう。所詮は子供同士の些細な揉め事。こんなことで退学させれば、雅君女学が融通の利かない学び舎だと噂されかねません。ご令嬢のためだけでなく、学院の評判もお考えください。私の娘が退学した後、もし変な噂でも立てば、傷つくのは書院の名声ですよ」先ほどまでは三姫子への脅しだったが、今度は書院までも脅そうというわけだ。「暴力を振るった生徒を退学させないほうが、よほど書院の評判を損なうでしょう」さくらは冷ややかに微笑んだ。「景子様にお越しいただいたのは、双方の体面を保ちながら、謝罪なり賠償なりを済ませ、子供たちの諍いで両家に確執が生まれることを避けたかったからです。ですが、退学は避けられません。自主退学を拒むのでしたら、私の権限で退学処分とさせていただきます」景子ははさくらには逆らえず、他の教師たちに向かって言った。「先生方、教育者として生徒の些細な過ちくらい、お許しになれないのですか?」「本来なら即刻の退学処分でした」相良玉葉も強い態度で返した。「国太夫人と塾長が礼子様の体面を考慮して、自主退学という形を提案なさったのです」「もう十分でしょう」国太夫人が手を上げて制した。「自主退学を選びなさい。これ以上言い募っても、皆の気を損ねるだけですよ」景子は玉葉を鋭く睨みつけた。生徒たちの証言によれば、退学処分を最初に提案したのは玉葉だった。他の教師はただ同調しただけ。相良家と天方家の過去の因縁など、誰もが知っているというのに。まだ隠せると思っているのだろうか。十一郎が相良家を見向きもしないのは当然のこと。今や相良家を支える者など誰もいない。名声だけが残った没落貴族に過ぎない。式部を掌握する斎藤家なのだ。もし太后様が一言発せられ、上原さくらが宮中に駆け込んで阻止していなければ、十一郎はとっくに斎藤家に縁談を持ちかけていたはずだ。景子は確信していた。以前の婉曲な断りは、村松裕子という女の政治的慧眼の欠如によるものだ。十一郎なら分かっているはず。武将が権勢を振るうには、朝廷の後ろ盾が不可欠なのだから。婚姻による同盟こそが、最も確実な結びつきなのだ。「相良先
三姫子も侍女の織世を連れて姿を見せた。娘が平手打ちを食らったと聞き、まず娘の様子を見に行った。頬は腫れ上がり、細い傷まで付いていたが、国太夫人が既に薬を塗ってくださったと知る。娘を二言三言なだめた後、急いで書雅館へ戻り、国太夫人にお礼を述べた両夫人が席に着くと、さくらが仲介役として事の経緯を詳しく説明した。説明を終えると、斎藤礼子と親房文絵、そして証人となる数名の学生たちを呼び寄せ、両夫人からの問いただしに備えた。景子夫人の表情は明らかに険しかった。一つには、分別のない娘が書院でこのような話を持ち出したことへの憤り。もう一つには、天方十一郎が礼子など眼中にないなどと、親房文絵が放った言葉への腹立ちだった。そんな噂が広まれば、娘の評判に関わる。とはいえ、娘の斎藤礼子が手を上げた以上、口論とは訳が違う。景子は仕方なく頭を下げ、そっけない謝罪の言葉を三姫子に向けた。「確かに、若い娘たちの言い争いとはいえ、不覚にも娘が手を出してしまい申し訳ございません。どうか寛大なお心で」三姫子は礼子を一瞥した。まるで自分が被害者であるかのように、礼子の顔には今なお不満げな表情と、理不尽な扱いを受けたような悔しさが浮かんでいた。「もう元服も済ませた娘です。子どもではないのですから、自分の行動には責任を持つべきでしょう。手を上げたのは礼子様なのですから、謝罪するのもまた礼子様自身であるべき。その後、許すか許さないかは私の判断にお任せください」景子は内心、西平大名家が斎藤家の立場を考慮するはずだと踏んでいた。上原さくらがこうして両家を呼び寄せたのも、穏便に解決を図りたいという配慮からに違いない。しかし、自分が譲歩したにもかかわらず、三姫子がこれほど頑なとは。他の生徒たちの前で面目を潰されたも同然だ。生徒たちは必ずや家に帰って今日の出来事を話すだろう。景子は背筋を伸ばした。事を荒立てたいというのなら、とことんまで話し合おうではないか。事情は承知していたものの、威厳ある態度で生徒たちに尋ねた。発端は何だったのか、なぜ口論になり、どうして暴力に発展したのか。生徒たちは塾長の前で、たとえ斎藤礼子の味方であっても贔屓はできず、事の次第を最初から順を追って説明するしかなかった。「まあ」景子は文絵の発言に食いつき、冷笑を浮かべた。「文絵お嬢様、天方十一郎様の弁護と