庭の石の腰掛けに、三姫子と文絵が腰を下ろした。庭には花木が植えられているものの、どれも元気がない。冬の寒さに萎れ、一層寂しげな景色を作り出していた。「どうして天方将軍のことを弁護したの?」三姫子は手巾で娘の頬の傷周りを優しく拭った。軽く押してみても血は滲まない。幸い傷は深くなく、醜い傷跡になる心配はなさそうだった。ただ、その平手打ちの跡があまりにくっきりと残っているのを見ると、母としての胸が締め付けられた。娘が十一郎の味方をするとは不思議だった。あの一件については、子供たちには一切話していないはずなのに。これまで、こういった厄介な事柄は徹底して子供たちから隠してきたつもりだった。最近の噂が子供たちの耳にも入っているのだろうか。彼らがどこまで知っているのか、確かめておく必要があった。文絵が腫れた頬を上げた。その瞳は純真そのものでありながら、年齢不相応な落ち着きを湛えていた。「お母様、覚えていらっしゃいますか?十一郎様が叔母様を連れて里帰りした時、私に何をくださったか」三姫子は記憶を辿った。「そうね、側仕えのばあやが、あなたと賢一くんにそれぞれ金の瓜の種と金の鍵をくれたわ。随分と気前の良い贈り物だったわね」文絵は首を横に振り、瞳に強い意志を宿して言った。「国太夫人の『山河志』でした。十一郎様は私にこうおっしゃいました。この世では、女性は嫁ぐ以外に生まれた土地を離れる機会は少ない。けれど、外の世界は広大で美しい。たとえ自分の目では見られなくても、我が大和国の素晴らしい景色を知っておくべきだと。空がどれほど広く、どれほど高いかを知れば、目先のつまらないことにとらわれず、他人の機嫌を取るために自分を卑下することもなくなるはずだと」三姫子は息を呑んだ。そうだったのか。あの時の自分は、金銀の装飾品にばかり目が行っていた。何と庸俗な自分だったのだろう。里帰りの際も、贈り物の品々から夕美の天方家での立場を推し量ることばかり気にしていた。「あれから今まで、十一郎様は私たちや叔母様を責めることは一度もありませんでした。でも、お母様」文絵の声が震えた。「十一郎様は本当は悔しくないのでしょうか?怒りを感じないのでしょうか?あんなことがあっても、本当に何事もなかったかのように過ごせるのでしょうか?きっと傷ついて、苦しんでいるはず。だから縁談の話にも積
さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作
文月館の廊下に据えられた風灯が、障子紙の切り絵に照らされ、その影が大きな獣のように室内の壁に映し出されていた。上原さくらは唐木の丸椅子に腰かけ、両手を膝の上で組んでいた。地味な色の服が彼女の華奢な体を包み込み、彼女は目の前の人物を見つめていた。一年間待ち続けた新婚の夫を。北條守は半ば古びた鎧をまだ身につけたまま、威風堂々とした姿で立っていた。端正な顔には謝罪の色が僅かに混じりつつも、その表情は毅然としていた。「さくら、天子様からの勅命だ。琴音は必ず入籍することになる」さくらは手を組んだまま、瞳の奥に複雑な思いを宿しながら、ただ不思議そうに尋ねた。「上皇后様は琴音将軍を天下の女性の鑑とおっしゃっていましたが、彼女は妾になることを望んでいるのですか?」守の深い瞳に怒りの色が浮かんだ。「違う。妾じゃない。お前と同等の正妻だ」さくらは姿勢を崩さずに言った。「将軍、正妻というのは聞こえがいいだけで、実際は妾のことだとご存じでしょう」守は眉をひそめた。「妾だの何だのと、そんなことを言うな。俺と琴音は戦場で惹かれ合い、心が通じ合った仲だ。それに、俺たちは軍功を立てて天子様に婚姻を願い出たんだ。この縁談は俺たちが血と汗で勝ち取ったものだぞ。本当なら、お前の意見なんて聞く必要もないんだ」さくらの唇の端に、押さえきれない嘲りの色が浮かんだ。「心が通じ合った? 出陣前、私に何と言ったか覚えていますか?」一年前、二人の結婚式の夜。守は援軍を率いて出陣する直前、さくらの花嫁の蓋頭を上げ、こう誓ったのだ。「俺、北條守は、生涯さくら一筋だ。決して側室なんか持たねえ!」守は少し気まずそうに顔を背けた。「あんな言葉は忘れてくれ。お前と結婚した時、俺は恋なんて分かっちゃいなかった。ただ、お前が俺の妻にふさわしいと思っただけだ。琴音に出会うまではな」彼は恋人のことを話し始めると、優しい眼差しになり、深い愛情が瞳の奥に宿った。そして再びさくらの方を向いて言った。「彼女は今まで会った女とは全然違う。俺は彼女を深く愛している。さくら、俺たちのことを認めてくれないか」さくらは喉に何かが詰まったような気分だった。吐き気を覚えながらも、まだ諦めきれずに尋ねた。「では、お父様とお母様は同意なさったのですか?」「ああ、二人とも同意してくれた。これは天子様からの勅命でもある
守は諦めたように言った。「無理をしなくてもいいんだ。これは陛下の勅命だ。それに琴音が入籍しても、お前たちは東西別棟に住むんだ。家事権を奪うつもりもない。さくら、お前が大切にしているものなんて、琴音は欲しがりもしないよ」「私が家事権に執着していると思うのですか?」さくらは問い返した。将軍家の家計を切り盛りするのは容易なことではなかった。老夫人が毎月丹治先生の漢方薬を飲むだけでも、数十両の金貨がかかっていた。他の者の衣食住に人付き合いと、何かと出費が絶えなかった。将軍家は見かけ倒れだった。この一年、自分の持参金をかなり注ぎ込んだのに、こんな結果になるとは。守はすっかり我慢の限界に達していた。「もういい。話すだけ無駄だ。本来なら一言伝えるだけで十分なんだ。お前が同意しようがしまいが、結果は変わらない」さくらは彼が冷たく袖を払って去っていく姿を見つめ、心の中でさらに皮肉な思いが募った。「お嬢様」女中のお珠が傍らで涙を拭いていた。「旦那様のやり方はひどすぎます」「そんな呼び方はやめなさい!」さくらは彼女を軽く見遣った。「私たちはまだ夫婦の実を結んでいない。あの人はあなたの旦那様じゃないわ。私の持参金リストを持ってきて」「なぜ持参金リストを?」お珠は尋ねた。さくらは彼女の額をこつんと叩いた。「馬鹿な子ね。こんな家にまだ居続けるつもりなの?」宝珠は額を押さえながら呻いた。「でも、この縁談は奥様が取り持たれたものです。侯爵様も生前、お嬢様に嫁いで子を産んでほしいとおっしゃっていました」母親の話が出て、さくらの目に初めて涙が浮かんだ。父は側室を持たず、母一人だけを妻とし、6男1女を設けた。兄たちは皆父について戦場に赴き、三年前の邪馬台の戦いで誰一人帰ってこなかった。武将の家に生まれた彼女は、女の子でありながら幼い頃から武芸を学んだ。七歳の時、父は彼女を梅月山に送り、師について武芸を学ばせ、兵書や戦略論を熟読させた。十五歳で山を下りた時、父と兄たちが一年前に邪馬台の戦場で命を落としていたことを知った。母は目が見えなくなるほど泣き続け、彼女を抱きしめてこう言った。「あなたはこれからは都の貴族の娘のように、良い夫を見つけて結婚し、子どもを産んで、安らかな人生を送りなさい。私にはもうあなた一人しか娘がいないのだから」さくらの心は抉ら
お珠が持参金リストを持ってきて言った。「この一年で、お嬢様が補填なさった現金は六千両以上になります。ですが、店舗や家屋、荘園には手をつけていません。奥様が生前に銀行に預けていた定期預金証書や、不動産の権利書などは全て箱に入れて鍵をかけてあります」「そう」さくらはリストを見つめた。母が用意してくれた持参金はあまりにも多かった。嫁ぎ先で苦労させまいとの思いが伝わってきて、胸が痛んだ。お珠は悲しそうに尋ねた。「お嬢様、私たちはどこへ行けばいいのでしょうか?まさか侯爵邸に戻るわけにもいきませんし...梅月山に戻りますか?」血に染まった屋敷と無残に殺された家族の姿が脳裏をよぎり、さくらの心に鋭い痛みが走った。「どこでもいいわ。ここにいるよりはましよ」「お嬢様が去れば、あの二人の思う壺です」さくらは淡々と言った。「そうさせてあげましょう。ここにいても、二人の愛を見せつけられて一生すり減るだけよ。宝珠、今や侯爵家には私一人しか残っていない。私がしっかり生きていかなければ、両親や兄たちの御霊も安らかではないわ」「お嬢様!」お珠は悲しみに暮れた。彼女は侯爵家で生まれ育った下女で、あの大虐殺で家族も含めて全員が命を落としたのだ。将軍家を出たら、侯爵邸に戻るのだろうか?でも、あそこであれほど多くの人が亡くなり、どこを見ても心が痛むばかりだ。「お嬢様、他に方法はないのでしょうか?」さくらの瞳は深く沈んでいた。「あるわ。父や兄たちの功績を盾に、陛下の御前で勅命の撤回を迫ることもできる。陛下がお許しにならなければ、その場で頭を打ち付けて死んでみせるわ」お珠は驚いて慌てて跪いた。「お嬢様、そんなことはなさらないでください!」さくらの目元に鋭い光が宿ったが、すぐに笑みを浮かべた。「私がそんなに馬鹿だと思う?たとえ御前に出たとしても、離縁の勅許を求めるだけよ」守が琴音を娶るのは勅命による。なら彼女の離縁も勅許で行う。去るにしても堂々と去りたい。こそこそと、まるで追い出されたかのように去るつもりはない。侯爵家の財産があれば、一生食いっぱぐれる心配はない。こんな仕打ちを受ける必要などないのだ。外から声が聞こえた。「奥様、老夫人がお呼びです」お珠が小声で言った。「老夫人の侍女のお緑さんです。老夫人がお説得なさるつもりでしょう」さくらは表情
老夫人は無理に笑みを浮かべた。「好き嫌いなんて、初対面でわかるものじゃないわ。でも、陛下のご命令なのよ。これからは琴音と守が一緒に軍功を立て、あなたは屋敷を切り盛りする。二人が戦場で勝ち取った恩賞を享受できるのよ。素晴らしいじゃない」「確かにそうですね」さくらは皮肉っぽく笑った。「琴音将軍が側室になるのは気の毒ですが」老夫人は笑いながら言った。「何を言うの、お馬鹿さん。陛下のお命令よ。側室になるわけがないでしょう。彼女は朝廷の武将で、官位もある。官位のある人が側室になれるわけないわ。正妻よ、身分に差はないの」さくらは問いかけた。「身分に差がない?そんな慣習がありましたか?」老夫人の表情が冷たくなった。「さくら、あなたはいつも分別があったわ。北條家に嫁いだからには、北條家を第一に考えるべきよ。兵部の審査によれば、琴音の今回の功績は守を上回るわ。これから二人が力を合わせ、あなたが内政を支えれば、いつかは守の祖父のような名将になれるわ」さくらは冷ややかに答えた。「二人が仲睦まじくやっていくなら、私の出る幕はありませんね」老夫人は不機嫌そうに言った。「何を言うの?あなたは将軍家の家政を任されているでしょう」さくらは言い返した。「以前は美奈子姉様の体調が優れなかったので、私が一時的に家政を引き受けておりました。今は姉様も回復なさいましたので、これからはは姉様にお任せします。明日に帳簿を確認し、引き継ぎを済ませましょう」美奈子は慌てて言った。「私にはまだ無理よ。体調も完全には戻っていないし、この一年のあなたの采配は皆満足しているわ。このまま続けてちょうだい」さくらは唇の端に皮肉な笑みを浮かべた。皆が満足しているのは、自分がお金を出して補填しているからだろう。補填したのは主に老夫人の薬代だった。丹治先生の薬は高価で、普通の人では頼めない。月に金百両以上もかかり、この一年で老夫人の薬代だけで千両近くになっていた。他の家の出費も時々補填していた。例えば、絹織物などは、さくらの実家の商売だったので、四季折々に皆に送って新しい服を作らせていた。それほど痛手ではなかった。しかし、今は状況が変わった。以前は本気で守と一緒に暮らしたいと思っていたが、今はもう損をするわけにはいかない。さくらは立ち上がって言った。「では、そのように決めましょう。
北條家の人々は顔を見合わせた。いつも穏やかだったさくらがこれほど強硬な態度を取るとは、誰も予想していなかった。しかも、母の言葉さえ聞き入れない。老夫人は冷たく言った。「あの子はそのうち分かるわ。他に選択肢なんてないのだから」そうだ。今や彼女には頼るべき実家もない。北條家に留まる以外に道はなかった。しかも、北條家は彼女を正妻の座から降ろしてはいない。翌朝早く、さくらはお珠を連れて北平侯爵邸に戻った。庭園は寂しげで、落ち葉が積もっていた。わずか半年の間に人の手が入らず、庭には人の背丈ほどの雑草が生い茂っていた。侯爵邸に足を踏み入れると、さくらの心は刃物で切られるように痛んだ。半年前、家族が虐殺されたと聞いて、崩れ落ちるように祖母と母の遺体の前にひれ伏した時のことを思い出した。冷たく硬直した遺体、屋敷中に染み付いた血の跡。侯爵邸には御霊屋があり、上原家の先祖代々と母の位牌が祀られていた。さくらとお珠は供物を用意しながら、涙が止まらなかった。香を立て、さくらは床に跪いて両親の位牌に向かって額づいた。涙で曇った瞳に決意の色が浮かんだ。「お父様、お母様。天国でご覧になっているなら、娘のこれからの決断をどうかお許しください。安らかな生活を送れと言われた通りに嫁ぐことができないのは、北條守が良い人ではなく、一生を託すには値しないからです。でも安心してください。お珠と私は必ず幸せに生きていきます」お珠も隣で跪き、声を上げて泣いていた。拝礼を終えると、二人は馬車に乗り込み、宮城へと向かった。真昼の秋の日差しが照りつける中、さくらとお珠は宮門の前に立ち尽くしていた。まるで木の人形のように動かない。二時間が経っても、誰も彼女たちを呼び入れようとしなかった。お珠が悲しげに言った。「お嬢様、陛下はきっとお会いになりたくないのでしょう。賜婚を妨げに来たと思われているのかも。昨夜も今朝も何も召し上がっていないのに、大丈夫ですか?私が何か食べ物を買ってきましょうか?」「お腹は空いていないわ!」さくらには空腹感など全くなかった。離縁して家に帰るという一つの信念だけが彼女を支えていた。「自分を追い詰めないでください。体を壊したら元も子もありません」「もう諦めませんか?正妻の座は守られているんです。北條家の奥方なんですよ。琴音さん
御書院に跪いた上原さくらは、うつむいて瞳を伏せていた。清和天皇は、北平侯爵家の一族が今や彼女一人になってしまったことを思い出し、憐れみの情を抱いた。「立って話すがよい!」さくらは両手を組んで頭を下げ、「陛下、妾が今日お目通りを願い出たのは大変僭越ではございますが、陛下のご恩典を賜りたく存じます」清和天皇は言った。「上原さくら、朕はすでに勅命を下した。撤回することはできぬ」さくらは小さく首を振った。「陛下に勅命を下し、妾と北條将軍との離縁をお許しいただきたく存じます」若き帝は驚いた。「離縁だと?お前が離縁を望むのか?」彼は、さくらが賜婚の勅命撤回を求めに来たのだと思っていたが、まさか離縁の勅命を求めるとは予想もしていなかった。さくらは涙をこらえながら言った。「陛下、北條将軍と琴音将軍は戦功により賜婚の勅命をお願いいたしました。今日は妾の父と兄の命日でございます。妾も彼らの軍功により、離縁の勅命をお願いしたいのです。どうか陛下のお許しを!」清和天皇は複雑な表情で尋ねた。「さくら、離縁の後、お前が何に直面するか分かっているのか?」「さくら」というこの呼び方を、彼女は陛下の口から長らく聞いていなかった。昔、陛下がまだ皇太子だった頃、時々侯爵邸に父を訪ねて来られた。そのたびに、面白い小さな贈り物を持って来てくれたものだった。後に彼女が梅月山で師匠について武芸を学ぶようになってからは、もう会うことはなかった。「承知しております」さくらの美しい顔に笑みが浮かんだが、その笑顔にはどこか皮肉な味わいがあった。「ですが、君子は人の美を成すものです。さくらは君子ではありませんが、北條将軍と琴音将軍の邪魔をして、恩愛の夫婦の間に棘となるようなことはしたくありません」「さくら、北平侯爵邸にはもう誰もいないぞ。お前はまた侯爵邸に戻るつもりか?将来のことを考えたのか?」さくらは答えた。「妾は今日、侯爵邸に戻り父と兄に拝礼いたしました。邸はすっかり荒れ果てておりました。妾は侯爵邸に戻って住み、父のために養子を迎えようと思います。そうすれば、父たちの香火が絶えることもありませんから」清和天皇は彼女が一時の感情で動いているのだと思っていたが、こんなにも周到に考えているとは予想外だった。「実際のところ、お前は正妻なのだ。葉月琴音がお前の地位
さくらは自分の馬を従者に任せ、三姫子の馬車に同乗した。伝えるべき事柄が二つあった。「五郎師兄が、あまり良くない不動産や田地をいくつか売却しました。代金は藩札に換えず、全て都景楼の地下倉庫に保管してあるそうです」「西平大名家が彼に申し訳が立たないのですから」三姫子は小声で答えた。「好きなように使えばよろしい。私も別に幾らか蓄えてありますから」「使いはしないでしょう。五郎師兄は銀子に困っていませんから」さくらは次の話題に移った。「椎名青舞の身元について、陛下の調査で確認が取れました。飛騨のある夫人を義母として認めているとのこと。沢村の姓については、関西の沢村家の分家で、飛騨で商いを営んでいる家からとったものだそうです。以前、夫人がお調べになった密会の相手も、恐らくはその沢村家の者でしょう。今なら陛下も穏便に処理してくださるでしょうが、もし陛下が動かれないとなると、甲虎様は深みにはまることになりかねません」さくらは飛騨での私兵調査など、重要な情報は意図的に伏せた。それらは決して口外できない。今の情報だけでも、三姫子への警告としては十分なはずだった。今なら親房甲虎が翻意すれば、西平大名家にもまだ逃げ道はある。爵位は失うかもしれないが、最悪の事態は避けられる。後は三姫子が甲虎を説得できるかどうかだった。しかし三姫子は黙って頷くだけで、何も語らなかった。その様子を見て、さくらは悟った。三姫子は既に全力を尽くしたのだ。しかし、甲虎は耳を貸さなかったのだろう。さくらは三姫子の手を軽く握り、慰めの言葉は何も口にせずに、途中で馬車を降り、自分の馬で屋敷へと戻った。世の中には、知らず知らずのうちに人々が受け入れていくことがある。以前は、さくらが官服姿で馬を走らせていると、様々な視線を向けられた。だが今では誰もが慣れた様子で、中には笑顔で会釈を送る者さえいる。人々は異端とも言える親王妃を受け入れたのだ。しかし、異端な女性そのものを受け入れたわけではなかった。斎藤礼子の退学は、その日の夕刻には式部卿の耳に入った。しかし景子と礼子は事の真相を語らなかった。ただの少女同士の諍いで、上原さくらが裁定を下した結果、礼子だけが退学になったと説明した。式部卿は普段なら緻密な思考の持ち主だが、近年は増長していた。斎藤家の教育に自信があり、一族から無作
庭の石の腰掛けに、三姫子と文絵が腰を下ろした。庭には花木が植えられているものの、どれも元気がない。冬の寒さに萎れ、一層寂しげな景色を作り出していた。「どうして天方将軍のことを弁護したの?」三姫子は手巾で娘の頬の傷周りを優しく拭った。軽く押してみても血は滲まない。幸い傷は深くなく、醜い傷跡になる心配はなさそうだった。ただ、その平手打ちの跡があまりにくっきりと残っているのを見ると、母としての胸が締め付けられた。娘が十一郎の味方をするとは不思議だった。あの一件については、子供たちには一切話していないはずなのに。これまで、こういった厄介な事柄は徹底して子供たちから隠してきたつもりだった。最近の噂が子供たちの耳にも入っているのだろうか。彼らがどこまで知っているのか、確かめておく必要があった。文絵が腫れた頬を上げた。その瞳は純真そのものでありながら、年齢不相応な落ち着きを湛えていた。「お母様、覚えていらっしゃいますか?十一郎様が叔母様を連れて里帰りした時、私に何をくださったか」三姫子は記憶を辿った。「そうね、側仕えのばあやが、あなたと賢一くんにそれぞれ金の瓜の種と金の鍵をくれたわ。随分と気前の良い贈り物だったわね」文絵は首を横に振り、瞳に強い意志を宿して言った。「国太夫人の『山河志』でした。十一郎様は私にこうおっしゃいました。この世では、女性は嫁ぐ以外に生まれた土地を離れる機会は少ない。けれど、外の世界は広大で美しい。たとえ自分の目では見られなくても、我が大和国の素晴らしい景色を知っておくべきだと。空がどれほど広く、どれほど高いかを知れば、目先のつまらないことにとらわれず、他人の機嫌を取るために自分を卑下することもなくなるはずだと」三姫子は息を呑んだ。そうだったのか。あの時の自分は、金銀の装飾品にばかり目が行っていた。何と庸俗な自分だったのだろう。里帰りの際も、贈り物の品々から夕美の天方家での立場を推し量ることばかり気にしていた。「あれから今まで、十一郎様は私たちや叔母様を責めることは一度もありませんでした。でも、お母様」文絵の声が震えた。「十一郎様は本当は悔しくないのでしょうか?怒りを感じないのでしょうか?あんなことがあっても、本当に何事もなかったかのように過ごせるのでしょうか?きっと傷ついて、苦しんでいるはず。だから縁談の話にも積
礼子は母の手を振り払い、三姫子に向かって怒鳴った。「謝りません!私をどうにかできるとでも?殴り返せるものなら殴ってみなさい!」礼子は涙を浮かべた赤い顔を、三姫子の目の前に突き出した。その表情には、言いようのない屈辱が滲んでいた。そうですか」三姫子は冷笑を浮かべた。「では斎藤帝師様に、斎藤家のしつけについてお尋ねするとしましょう」そう言うと、さくらの方を向いて続けた。「塾長、その折には証人としてお力添えいただけませんでしょうか」「帝師様にお会いする際は、事の次第を余すところなくお伝えいたします」さくらは答えた。景子は帝師の耳に入れば大変なことになると悟った。自分たちは間違いなく厳しい叱責を受けることになる。歯を食いしばりながら、景子は礼子に命じた。「謝りなさい」「嫌です!」礼子は涙を流しながら足を踏み鳴らした。「私が悪いんじゃありません。いじめられて、書院も追い出されそうなのに、なぜ私が謝らなければならないの?」三姫子とさくらの冷ややかな視線を感じ、四夫人は厳しい表情で言い放った。「過ちを犯したのだから、謝罪は当然のことです」この数日間の屈辱に耐えかねていた礼子は、母までもが自分を助けず謝罪を強要することに、激しい憤りを覚えた。「絶対に謝りません!好きにすればいいです。死んでも謝らない!」そう叫ぶと、礼子は外へ駆け出した。だがさくらがいる以上、逃げ切れるはずもない。数歩で追いつかれ、三姫子の前に連れ戻された。さくらは三姫子に向かって言った。「この事態は雅君書院の管轄内で起きたこと。書院にも責任があります。こうしましょう。文絵様の顔に傷を負わせた以上、役所に届け出て、しかるべき処置を仰ぎましょう。書院として負うべき責任は、私どもも当然引き受けます」「では王妃様のおっしゃる通り、役所へ参りましょう」三姫子は毅然とした態度で娘の手を握った。「いやっ!役所なんて行きません!」礼子は悲鳴のような声を上げた。良家の娘が役所に引き立てられるなど、これからの人生はどうなってしまうのか。「早く謝りなさい!」景子は焦りと怒りの混じった声で叱責した。「さっさと謝って、この呪われた場所から出て行くのです」しばらくの沈黙の後、礼子は不承不承と文絵と三姫子の前に進み出た。口を尖らせながら、「申し訳ございません。私が悪うございました」
景子の顔色が一層険しくなった。自分の言外の意味が通じなかったはずはない。「大げさに騒ぎ立てる必要などございません」景子は強い口調で言った。「謝罪なら構いませんが、退学というのは行き過ぎでしょう。所詮は子供同士の些細な揉め事。こんなことで退学させれば、雅君女学が融通の利かない学び舎だと噂されかねません。ご令嬢のためだけでなく、学院の評判もお考えください。私の娘が退学した後、もし変な噂でも立てば、傷つくのは書院の名声ですよ」先ほどまでは三姫子への脅しだったが、今度は書院までも脅そうというわけだ。「暴力を振るった生徒を退学させないほうが、よほど書院の評判を損なうでしょう」さくらは冷ややかに微笑んだ。「景子様にお越しいただいたのは、双方の体面を保ちながら、謝罪なり賠償なりを済ませ、子供たちの諍いで両家に確執が生まれることを避けたかったからです。ですが、退学は避けられません。自主退学を拒むのでしたら、私の権限で退学処分とさせていただきます」景子ははさくらには逆らえず、他の教師たちに向かって言った。「先生方、教育者として生徒の些細な過ちくらい、お許しになれないのですか?」「本来なら即刻の退学処分でした」相良玉葉も強い態度で返した。「国太夫人と塾長が礼子様の体面を考慮して、自主退学という形を提案なさったのです」「もう十分でしょう」国太夫人が手を上げて制した。「自主退学を選びなさい。これ以上言い募っても、皆の気を損ねるだけですよ」景子は玉葉を鋭く睨みつけた。生徒たちの証言によれば、退学処分を最初に提案したのは玉葉だった。他の教師はただ同調しただけ。相良家と天方家の過去の因縁など、誰もが知っているというのに。まだ隠せると思っているのだろうか。十一郎が相良家を見向きもしないのは当然のこと。今や相良家を支える者など誰もいない。名声だけが残った没落貴族に過ぎない。式部を掌握する斎藤家なのだ。もし太后様が一言発せられ、上原さくらが宮中に駆け込んで阻止していなければ、十一郎はとっくに斎藤家に縁談を持ちかけていたはずだ。景子は確信していた。以前の婉曲な断りは、村松裕子という女の政治的慧眼の欠如によるものだ。十一郎なら分かっているはず。武将が権勢を振るうには、朝廷の後ろ盾が不可欠なのだから。婚姻による同盟こそが、最も確実な結びつきなのだ。「相良先
三姫子も侍女の織世を連れて姿を見せた。娘が平手打ちを食らったと聞き、まず娘の様子を見に行った。頬は腫れ上がり、細い傷まで付いていたが、国太夫人が既に薬を塗ってくださったと知る。娘を二言三言なだめた後、急いで書雅館へ戻り、国太夫人にお礼を述べた両夫人が席に着くと、さくらが仲介役として事の経緯を詳しく説明した。説明を終えると、斎藤礼子と親房文絵、そして証人となる数名の学生たちを呼び寄せ、両夫人からの問いただしに備えた。景子夫人の表情は明らかに険しかった。一つには、分別のない娘が書院でこのような話を持ち出したことへの憤り。もう一つには、天方十一郎が礼子など眼中にないなどと、親房文絵が放った言葉への腹立ちだった。そんな噂が広まれば、娘の評判に関わる。とはいえ、娘の斎藤礼子が手を上げた以上、口論とは訳が違う。景子は仕方なく頭を下げ、そっけない謝罪の言葉を三姫子に向けた。「確かに、若い娘たちの言い争いとはいえ、不覚にも娘が手を出してしまい申し訳ございません。どうか寛大なお心で」三姫子は礼子を一瞥した。まるで自分が被害者であるかのように、礼子の顔には今なお不満げな表情と、理不尽な扱いを受けたような悔しさが浮かんでいた。「もう元服も済ませた娘です。子どもではないのですから、自分の行動には責任を持つべきでしょう。手を上げたのは礼子様なのですから、謝罪するのもまた礼子様自身であるべき。その後、許すか許さないかは私の判断にお任せください」景子は内心、西平大名家が斎藤家の立場を考慮するはずだと踏んでいた。上原さくらがこうして両家を呼び寄せたのも、穏便に解決を図りたいという配慮からに違いない。しかし、自分が譲歩したにもかかわらず、三姫子がこれほど頑なとは。他の生徒たちの前で面目を潰されたも同然だ。生徒たちは必ずや家に帰って今日の出来事を話すだろう。景子は背筋を伸ばした。事を荒立てたいというのなら、とことんまで話し合おうではないか。事情は承知していたものの、威厳ある態度で生徒たちに尋ねた。発端は何だったのか、なぜ口論になり、どうして暴力に発展したのか。生徒たちは塾長の前で、たとえ斎藤礼子の味方であっても贔屓はできず、事の次第を最初から順を追って説明するしかなかった。「まあ」景子は文絵の発言に食いつき、冷笑を浮かべた。「文絵お嬢様、天方十一郎様の弁護と
「厳罰」の二文字に、向井玉穂たちは慄いた。こぞって後ずさりし、礼子との距離を取ろうとする。礼子は涙を流しながら、さらに怒りを爆発させた。「私だって故意じゃない。あの子が余計なことを……伯母様があんな恥ずべきことをしたのに、まだ天方十一郎の味方をするなんて。恥知らずも甚だしいわ」文絵は平手打ちを受けた時も泣かなかったのに、この言葉を聞いた途端、大粒の涙をポロポロと零した。他の生徒の肩に顔を埋めて、声を上げて泣き始めた。教師たちが次々と呼ばれ、さくらまでもが事態の収拾に駆けつけた。先ほどまで激しく対立していた両陣営の生徒たちは、今や罰を恐れて声もなく佇んでいた。先刻の剣を交えんばかりの怒気は、すっかり消え失せていた。事の顛末を聞いた相良玉葉の、普段は冷静な表情に冷たい色が浮かんだ。「度重なる騒動に、今度は暴力行為まで。学ぶ意志が見られません。書院の風紀を守るため、退学処分が相応しいかと」礼子は確かに学びたくはなかったが、自ら辞めることと追放されることは意味が違った。それに皇后様から託された役目もまだ果たしていない。どうして追い出されなければならないのか。追い詰められた礼子は、玉葉に向かって毒づいた。「分かってますよ、なぜ私を追い出そうとするのか。だって先生は天方十一郎と縁談があったのに、断られて。今度は私が選ばれたから、嫉妬してるんでしょう。私情を挟んでいるのは先生の方です」国太夫人は眉を寄せた。「斎藤家の教養とは、このようなものなのですか。人を誹謗し、手を上げ、でたらめを並び立てる。是非をわきまえぬ。私も退学処分に賛成いたします」一呼吸置いて、国太夫人は少し和らいだ口調で付け加えた。「自ら退学なさることをお勧めします。噂が広まれば、あなたの縁談にも差し障りがございましょう」「私も賛成です」武内京子は厳しく言い放った。規律を司る立場として、彼女たちの本質を見抜いていた。学問への意志など微塵もない。ただ騒動を起こすためだけに来ているのだ。以前は噂話を散布した時も見逃し、その後の騒ぎも手の平打ちで済ませた。まさか今度は暴力行為にまで及ぶとは。このまま放置すれば、雅君女学は規律も品位もない、ただの混沌とした場所と見なされかねない。深水青葉と国太夫人も同意を示し、斎藤礼子の退学処分は全会一致で決定された。さくらは静かに頷き、礼
「黙きなさい!」景子は慌てて娘の口を押さえた。「そんな下品な物言いを。伯父上のお耳に入ったら、どんな叱責を受けることか」斎藤家は厳格な家柄。一族の子女には、一言一行に至るまで上品な振る舞いが求められていた。礼子は首を振って母の手を払いのけた。「伯父様など、自分のことも正せないくせに、私たちにどんな説教ができるというの?もう怖くなんてありませんわ」「黙きなさい!」景子は厳しく叱った。「まったく子供じみた考え。外の人々が伯父様のことを噂するのを、私たちは必死で隠しているというのに。それでも式部を取り仕切り、娘婿は今上の陛下。どれだけの役人の運命が伯父様の手の中にあると思うの」礼子は鼻を啜り、口を尖らせた。式部卿の件についてはもう口を噤んだものの、「とにかく、あの天方十一郎なんて大嫌い。無能で意気地なし。自分の妻が浮気して大恥を晒したのに、一言も言い返せないような男」「これは皇后様のご意向なのよ。従っておけば間違いないわ」景子は娘の手に薬を塗りながら、向井三郎と天方十一郎に嫁ぐ場合の違いを丁寧に説明した。礼子は普段から皇后を崇拝していたが、この件だけは納得がいかなかった。あの日、皇后が突然この話を持ち出したことにも違和感があった。「もしかして、天方十一郎が陛下に何か言ったの?あの天方家が、私たち斎藤家と縁組みを?身の程知らず。あの武家の人たちって大嫌い。汗臭くて野暮ったくて」景子は強情な娘の性格を知っていたため、これ以上の説得を諦めた。どのみち、まだ何も決まっていない。太后様の承認も必要だ。その時になってからでも遅くはない。しかし、礼子の怒りは収まらなかった。雅君女学に戻ると、向井玉穂たちに十一郎が自分を娶ろうとしていることを告げ、侮蔑的な言葉を重ねた。玉穂はこの話を面白おかしく他の生徒たちに語り広めた。嘲笑って盛り上がる者もいれば、十一郎は朝廷に大功を立てた英雄であり、そのような侮辱は許されないと反論する者もいた。両者の言い争いは次第に激しさを増していった。もちろん、ただの見物人として無関心を装う生徒もいた。しかし、議論は激しい口論へと発展し、やがて本や筆を投げ合う騒ぎとなり、教室は混乱の渦に巻き込まれた。武内京子が戒尺を手に慌てて駆けつけた時、礼子は既に親房文絵の頬を平手打ちしていた。平手打ちを受けた文絵は、三姫
さくらが部屋に足を踏み入れると、その鋭い眼差しに三人は一斉に俯いた。さくらの目を直視する勇気などなかった。玉葉は救世主でも現れたかのように、安堵の息を漏らした。「まだここにいるの?」さくらの声が鋭く響いた。「さらに回数を増やすか、退学するか、どちらが良いのかしら?学ぶ気がないなら席を空けなさい。あなたたちの代わりに、真摯に学びたい人はいくらでもいるわ」玉穂と羽菜は震え上がり、慌てて礼子の袖を引っ張った。目配せで「早く行きましょう」と促す。二十回が三十回になり、このまま居座れば四十回、五十回と増えかねない。しかし、斎藤家の箱入り娘として甘やかされて育った礼子は、若気の至りもあって、このような屈辱を受け入れられなかった。不満と挑戦的な眼差しを隠すのに時間がかかったが、さくらが「四十回」と言い出す前に、二人を連れて踵を返した。廊下に出ると、礼子の頬は怒りで真っ赤に染まっていた。皇后姉様の命令がなければ、こんな場所にいる必要などない、と。文字を読めれば十分。余計な学問など意味がない。嫁入り後の家事や使用人の扱い方を学んだ方が、よほど役に立つというものだ。玉葉は立ち上がり、礼を取った。「王妃様」「こんな生徒を持つと、頭が痛いでしょう?」さくらは穏やかな笑みを浮かべた。「数人だけですから、何とかなっております」玉葉も微笑み返しながら、さくらを席に案内し、机の上の教案を整理した。「ただ、彼女たちの騒ぎだけなら良いのですが……女学校の本格的な運営を快く思わない方々がいらっしゃるのではと」玉葉の瞳には疑問の色が浮かんでいた。「王妃様は、誰がそのような……」「女学校の発展を望まない人は大勢いるものです」さくらは確信めいたものを感じながらも、慎重に言葉を選んだ。「詮索するより、私たちがなすべきことをしっかりとこなすことの方が大切ではないでしょうか」「おっしゃる通りです」玉葉は頷いて微笑んだ。「本来は彼女たちの件でお呼びしたのに、謝罪もありましたし、お手数をおかけしただけになってしまいました」「時々様子を見に来るのも私の役目ですから」さくらは穏やかに答えた。実のところ、今日来なくても良かったのだが。些細な騒動とはいえ、退学させるほどの過ちではない。かといって、全く罰せずに済ますわけにもいかない。「他は順調に進んでおります」玉葉
さくらと紫乃は宮を後にすると、紫乃は工房へ、さくらは女学校へと向かった。以前、斎藤礼子に警告を与えたばかりだった。これ以上問題を起こせば退学処分にすると。しかし、束の間の平穏はすぐに崩れ去ったようだ。国太夫人はさくらを見るなり、礼子の件で来たことを察した。「あの子には学ぶ意志がないようです。自ら退学するよう促してはいかがでしょう。縁談の話も出ている娘のことです。穏便に済ませた方が……」斎藤家など恐れるはずもない国太夫人だが、礼子のことを真摯に案じているのは確かだった。雅君書院から追い出されれば、その評判は取り返しがつかないだろう。国太夫人は若い娘たちへの情が深かった。良縁に恵まれなければ、一生を棒に振ることになりかねない。それを誰よりも知っていた。「そう焦らずとも」さくらは穏やかに答えた。「まずは事の次第を確認してから、本人と話をさせていただきます」「大きな問題というわけではないのですが……」国太夫人は溜息交じりに説明を始めた。「あの子と仲間の娘が授業の邪魔をして。特に玉葉先生の講義中はひどい。下で騒いで、皆の顰蹙を買っているんです。玉葉先生も困っておられます。まだお若いので、こういった事態の対処に慣れていないものですから」さくらは思った。相良玉葉は対処法を心得ているはずだ。ただ、この妨害行為が単なる個人的な問題ではなく、女学校の存続そのものを望まない者の仕業かもしれないと察していたのだろう。そうなると、一教師の判断で軽々しく動けるものではない。さくらが玉葉を訪ねようとした時、偶然、斎藤礼子が親友の向井玉穂と赤野間羽菜を連れて中にいるのを目にした。意外なことに、彼女たちは謝罪に来ていたのだ。礼子を先頭に、三人は玉葉に向かって深々と頭を下げた。悔恨の表情を浮かべ、言葉には誠意が溢れていた。「これまでの私の不埒な振る舞い、先生にご迷惑をおかけして申し訳ございません。どうかお叱りください。今後二度とこのような行為は致しません。どのような罰でも、写経でも手の平打ちでも、甘んじて受けさせていただきます」さくらは部屋には入らず、入口から様子を窺っていた。この突然の改心を、さくらは信じなかった。騒ぎを起こしていた生徒たちが、何の前触れもなく悔い改めるなど、不自然すぎる。裏で何かを企んでいるか、誰かに指示されているかのどちらか