Share

第1243話

Penulis: 夏目八月
丹治先生という御大を、薬王堂から禁衛府まで恭しくお連れした。

診脈を済ませると、薬液を一瓶取り出して飲ませ、すぐさま鍼を打ち始めた。

お茶を一杯たしなむほどの時が過ぎると、帝師は目を覚まし、熱も幾分か下がり、全身から薄く汗が滲み出ていた。

丹治先生はさくらを廊下に呼び出し、小声で話し始めた。「容態は芳しくありませんな。もともと体が弱く、この二日ほど水も食事も取っていないとなれば。心肺も胃腸も良くない」

「それより厄介なのは心の病。ここにいる一刻一刻が苦痛なのでしょう。生きる意志さえ失われかけている。早々に御屋敷へお戻しにならねば、このまま禁衛府で息を引き取られかねません」

「ですが、どうやって?」さくらは眉を寄せた。「もう夜も明けました。それに、お体があれほど弱っているのに、外の風に当たっては……ご本人も怖がられるでしょう」

丹治先生は少し考え込んでから言った。「手焙りを幾つか用意し、分厚く着込ませて、私の駕籠で薬王堂まで。そこから斎藤家の者に、帝師様が倒れたと大声で私を呼びに来させる。そうすれば、ついでに駕籠で御屋敷まで送るという形になりましょう」

「それはよい考えです。すぐに式部卿にお伝えします」さくらは駆け出した。

式部卿はその案を聞いて、ようやく安堵の吐息を漏らした。これ以上の方法はない。丹治先生なら誰も疑うまい。

式部卿は丹治先生に深々と頭を下げ、繰り返し感謝の言葉を述べた。

丹治先生は自らの外套と帽子、そして襟の高い羽織を脱ぎ、帝師に着せた。

外では既に人の往来が始まっており、帝師は丹治先生に化けねばならない。本人と気づかれぬよう、護衛を付けて周囲の目を遮る必要があった。

式部卿が帝師に説明すると、帝師は何とか立ち上がったものの、足取りが覚束ない。誰かが支えたところで、駕籠までは到底辿り着けそうにない。

しかし、これが唯一の方法だった。帝師が「できぬ」と言うや否や、式部卿は足を踏み鳴らし、声を震わせた。「これもだめ、あれもだめと申されては……世間にすべてを知られるおつもりですか」

帝師の顔から化粧は拭い取られていたが、蝋のように黄ばんだ青白い肌が残っていた。頬は窪み、目尻の皺は三重に重なり、髪は真っ白になっていた。実年齢よりもずっと老けて見える。

人は打撃を受けると、こうも早く老いるものなのか。

帝師は目を伏せたまま、力な
Lanjutkan membaca buku ini secara gratis
Pindai kode untuk mengunduh Aplikasi
Bab Terkunci

Bab terbaru

  • 桜華、戦場に舞う   第1245話

    この爆弾的な告発は、帝師を崇拝する者たちの怒りを買った。帝師と相良左大臣は大和国を代表する大学士として並び称されていたが、相良左大臣は朝廷から退き、政治的影響力も手放していた。そのため、かつて孫娘の相良玉葉が噂の的になった際も、相良家のために声を上げる者は少なかった。一方、斎藤帝師は違った。息子は今なお式部を掌握している。真相も知らぬまま、斎藤家に取り入ろうとする官僚たちは、朝議で声高に広陵侯爵家の流言飛語を糾弾し、厳しい処罰を求めた。この騒動も大事には至らなかったかもしれない。だが南風楼で捕まった官僚や名家の子弟たちは、天皇陛下のご配慮で表立っての処罰は免れたものの、民衆の口は容赦なく、街のあちこちで噂の的となっていた。自分たちへの非難の矛先を逸らすため、彼らは必死になって新たな騒ぎの種を探していた。それから二日と経たぬうちに、南風楼の下働きたちが証言を始めた。斎藤帝師は確かに常連で、数日おきに姿を見せ、時には荒れ狂う嵐の夜すら足を運んでいたという。事態はもはや収拾がつかないところまで来ていた。当初は激怒していた清和天皇だったが、穂村宰相の進言を受け入れることとなった。事実を隠し通すことは得策ではない。それに、先帝にも本当の師がいたはずだ。その方を帝師として祀ることで、先帝の面目も保たれるというのだ。かくして、すでに白骨となっていた青龍雲徳が帝師の位を追贈され、その位牌は皇室の御霊屋に移された。雲徳には後継ぎがいなかった。文利天皇の治世七年に科挙第三位となった彼は、学識深く、才気溢れる人物だった。わずか二年の在官の後、辞職して四海を巡る旅に出た。都に戻った際、文利天皇は皇太子——今の先帝——の教育を託した。しかし、雲徳は落ち着きのない性分で、二年ほど教えた後、再び辞職して旅立っていった。奔放な性格の持ち主だった雲徳は、時弊を鋭く突いた文章を書き、その激烈な筆致ゆえに疎まれることも多かった。そのため後に詩作に転じ、数多くの詩集を残した。今なお千首以上の詩が世に伝えられている。詩人としての名声も高く、その死に際しては先帝自らが追悼の詩を詠んでいる。今となっては、帝師の位を追贈し、御霊屋に祀ることも道理に適っていた。清和天皇のこの決断には、もう一つの理由があった。太后の進言——「斎藤家の枝葉が繁りすぎた。剪定の時期だ」とい

  • 桜華、戦場に舞う   第1244話

    さくらにもそれは分かっていた。今でさえ、事前に報告しなかったことで陛下の不興を買っている。帝師がここで息を引き取れば、部下たちも処罰は免れまい。だが、どうやって事前に知らせろというのか。まさか斎藤家に使いを立て、南風楼の摘発があると伝えろというのか。斎藤家が黙っているはずがない。帝師が南風楼に足を運ぶなど、誰が信じようか。そのときに帝師が否定すれば、さくらの方が故意に事を起こしたことになる。「南風楼へ行くという選択をした以上」さくらは眉を寄せて言った。「発覚する覚悟もあったはず。向き合えないのなら、最初から行くべきではなかった」さくらの言葉を受けて、式部卿は再び説得を試みた。半時間が過ぎても、帝師は口を開くことも、目を開けることもなかった。式部卿が薬と水を飲ませようとしても、帝師は唇を固く閉ざしたまま。薬も水も口元を伝って流れるばかりで、一滴も喉を通らない。意識が朦朧としていた時の方が、まだ飲み込めていたほどだ。さくらはその様子を見つめながら、帝師の死にたいという思いの奥に、深い怨みが潜んでいることを感じ取った。なぜ禁衛府でなければならないのか。これほど多くの者を巻き込んで。式部卿が天皇陛下のお咎めはないと伝えても、一切の反応を示さない。もうこれ以上の優柔不断は我慢ならなかった。さくらは式部卿たちを部屋の外へ出し、脇座敷に残された唯一の椅子を引き寄せ、帝師の前に腰を下ろした。「私を恨んでいらっしゃるのですね?」帝師は目を閉じたまま。表情一つ変えない。「私を恨むか、それとも世の中を恨むか。でも、誰を恨むことができるというのです?」さくらは静かに、しかし力強く語り始めた。「我が国には禁じる律さえない。若い頃、結婚も子作りも望まないのなら、誰も強制できなかったはず。あなたが世間の風潮に従い、屈したのです。今になって他人を、この世を恨むなんて、滑稽とは思いませんか?」「女性たちを見てごらんなさい。不平等な世の中を嘆くことはできる。何をしようとしても、帝師様のような方々から指図される。でも、彼女たちは諦めなかった。非難の声を浴びながらも、前を向いて歩き続けている」「でも、あなたは違う。自分の信念を持とうともせず、望む生き方のために少しの努力もなさらなかった。名誉も、高い地位も手放したくない。それなのに、世間の常識に背くようなこと

  • 桜華、戦場に舞う   第1243話

    丹治先生という御大を、薬王堂から禁衛府まで恭しくお連れした。診脈を済ませると、薬液を一瓶取り出して飲ませ、すぐさま鍼を打ち始めた。お茶を一杯たしなむほどの時が過ぎると、帝師は目を覚まし、熱も幾分か下がり、全身から薄く汗が滲み出ていた。丹治先生はさくらを廊下に呼び出し、小声で話し始めた。「容態は芳しくありませんな。もともと体が弱く、この二日ほど水も食事も取っていないとなれば。心肺も胃腸も良くない」「それより厄介なのは心の病。ここにいる一刻一刻が苦痛なのでしょう。生きる意志さえ失われかけている。早々に御屋敷へお戻しにならねば、このまま禁衛府で息を引き取られかねません」「ですが、どうやって?」さくらは眉を寄せた。「もう夜も明けました。それに、お体があれほど弱っているのに、外の風に当たっては……ご本人も怖がられるでしょう」丹治先生は少し考え込んでから言った。「手焙りを幾つか用意し、分厚く着込ませて、私の駕籠で薬王堂まで。そこから斎藤家の者に、帝師様が倒れたと大声で私を呼びに来させる。そうすれば、ついでに駕籠で御屋敷まで送るという形になりましょう」「それはよい考えです。すぐに式部卿にお伝えします」さくらは駆け出した。式部卿はその案を聞いて、ようやく安堵の吐息を漏らした。これ以上の方法はない。丹治先生なら誰も疑うまい。式部卿は丹治先生に深々と頭を下げ、繰り返し感謝の言葉を述べた。丹治先生は自らの外套と帽子、そして襟の高い羽織を脱ぎ、帝師に着せた。外では既に人の往来が始まっており、帝師は丹治先生に化けねばならない。本人と気づかれぬよう、護衛を付けて周囲の目を遮る必要があった。式部卿が帝師に説明すると、帝師は何とか立ち上がったものの、足取りが覚束ない。誰かが支えたところで、駕籠までは到底辿り着けそうにない。しかし、これが唯一の方法だった。帝師が「できぬ」と言うや否や、式部卿は足を踏み鳴らし、声を震わせた。「これもだめ、あれもだめと申されては……世間にすべてを知られるおつもりですか」帝師の顔から化粧は拭い取られていたが、蝋のように黄ばんだ青白い肌が残っていた。頬は窪み、目尻の皺は三重に重なり、髪は真っ白になっていた。実年齢よりもずっと老けて見える。人は打撃を受けると、こうも早く老いるものなのか。帝師は目を伏せたまま、力な

  • 桜華、戦場に舞う   第1242話

    三人は茶屋で、さくらへの民衆の評判にも耳を傾けていた。「女学校を建てて、手工業の仕事場も作って、今度はこんな汚れた場所も一掃なさるなんて……上原様は本当に女性の鑑ですね」だが、褒め言葉の中にも皮肉な声が混じっていた。「女は家を守り、夫に仕え、子を育てるのが務めというもの。北冥親王妃は嫁いでこの方、子種一つ宿しもせず、女の務めは疎かにして、男のすることばかり……」紫乃はそんな声にも慣れていたが、あかりと饅頭は黙っていられない様子で、すぐにでも反論しようと立ち上がりかけた。紫乃は二人の袖を引いて制した。「そっとしておきなさい」紫乃は穏やかな笑みを浮かべた。「悪口なんて水に流せばいいの。反論したところで、かえってさくらの評判を下げかねないわ。それに——」案の定、さくらを擁護する声が上がり始めた。「さくら、随分と立派になったわね」あかりは嬉しそうにつぶやいた。その頃、禁衛府では——斎藤帝師の容態が急変していた。一日中、水も食事も口にせず、夜になって高熱を出し始めたのだ。炭火を二つ据え、綿入れの掻巻を二枚重ねても、帝師の身体は震えが止まらなかった。さくらからの知らせを受けた式部卿は、額から汗を滴らせながら、屋敷付きの医師を連れて急いだ。外部の医師を呼ぶことなど、今の状況では考えられなかった。先ほどまで清和天皇からの厳しい叱責を受け、すでに科された減俸に加え、さらに一年分の俸禄を没収されたばかり。宮城を出るや否や事態の収拾に奔走していた矢先の出来事だった。今の状況は、まるで一枚の薄絹で燃え盛る炎を押さえ込むようなもの。その絹が焼け落ちようと、引き裂かれようと、斎藤家にとっては致命的な打撃となるに違いなかった。唯一の救いは、清和天皇もまた斎藤家の没落を望んでいないということだった。式部卿は、さくらへの複雑な思いを抱えていた。家の面目を保ってくれていることへの感謝と、早くから気づいていながら知らせてくれなかったことへの恨み。しかし、その恨みさえ口にできない。つい先日まで斎藤皇后が女学校と対立していたのだ。そんな状況で、さくらが知らせに来る道理などない。それに、さくらも言っていた。帝師の出入りを知ったのはつい最近で、まさかこんなに早く再び足を運ぶとは思わなかったのだと。これもまた避けられぬ試練なのだろう。斎藤家の成長

  • 桜華、戦場に舞う   第1241話

    久しぶりの再会に、思い思いの近況を語り合う賑やかな声が部屋に満ちていた。そして、突然の衝撃的な報告が飛び出した。あかりと饅頭が婚約したという。「えぇっ!?」その知らせに、さくらと紫乃は思わず立ち上がり、二人を食い入るように見つめた。さくらは顎に指を当てて、にやりと笑う。「言われてみれば、二人とも丸々した顔立ちで、夫婦の相がにじみ出てるわね」「そう言えば」紫乃が目を細める。「目も耳も口も鼻も、数えてみたら同じ数……まさか兄妹じゃ?」「もう!冗談言わないでよ!」頬を染めたあかりが抗議の声を上げる。「でも、いつから……?」紫乃が首を傾げる。頭の中では既に、結納金を出すべきか、嫁入り道具を揃えるべきか、計算が始まっていた。どちらも親しい間柄なら、両方贈らないといけないかも。久しぶりに大盤振る舞いできる喜びに、紫乃の目が輝く。「あかり、話してやれよ」饅頭が穏やかな声で促す。確かに、以前の饅頭からは想像もできないほど落ち着いた雰囲気を纏っていた。引き締まった顔立ちには、どこか凛々しさすら感じられる。「別に……」あかりが艶のある声で言う。「年頃だから、師匠が『身内で固めろ』って。それで、この人を選べって」「へぇ」紫乃が意地悪く笑いながら二人を見比べる。「まぁ、饅頭は随分痩せたけど、こんな可愛いあかりをもらえるなんて、運のいい奴じゃない」門派では同門の弟子同士が結ばれるのは珍しくなかった。外の世界との関わりが少なく、若い男女が日々顔を合わせているのだから、自然と心が通じ合うのも当然だった。あかりと饅頭は戦場を共にした仲間。互いの背中を預け合った戦友同士で、物の見方も価値観も似通っている。幼い頃から一緒に過ごしてきた二人は、いつしか「この人となら」と思うようになっていた。完璧な相手ではないかもしれないが、一生を共にすれば幸せになれる——そんな確信があった。祝福の言葉を交わした後、皆で一息つき、話題は南風楼の一斉摘発へと移った。「徹夜までして……お役人って大変なのね」あかりはさくらの顔を心配そうに覗き込んだ。「さっき入ってきた時から眉間に皺が寄ってたけど、何かあったの?辛い思いをして、嫌な思いをして、そんな役人なんてやめちゃえば?梅月山に戻ってきたら?のんびり暮らせるのに」「梅月山か……」さくらは懐かしそうに微笑んだ。「そりゃ

  • 桜華、戦場に舞う   第1240話

    馬を親王家へと駆り、門前で下馬すると、厩役に馬を任せ、鞭を手に玄関へと駆け込んだ。「王妃様がお戻りです!」誰かが声を上げる。きっと紫乃が門で待機するよう言いつけていたのだろう。白い大理石の影壁を回った瞬間、真紅の影が疾風のように駆けてきた。三歩ほどの距離で跳び上がり、さくらは咄嗟にその体を受け止める。二人はその勢いのまま幾度も回転した。「やっと帰ってきたのね、我らが上原様!」あかりの弾むような声が耳元で響く。さくらは彼女を下ろすと、両手でぷっくりした頬を挟んだ。目を輝かせながら「あかり、丸くなったじゃない」「もう!」あかりは軽く肩を押しながら、艶のある唇を尖らせた。「会って早々、意地悪言わないでよ」「違うわ」さくらは笑みを浮かべる。「ふっくらした感じが素敵よ。相変わらず綺麗」「本当に太った人は、まだ姿を見せてないでしょ?」あかりはさくらの腕に自分の腕を絡ませながら前に進む。二、三歩行くと、紫乃と饅頭がゆっくりと歩いてくるのが見えた。饅頭は以前より痩せてはいたが、全身が引き締まって逞しくなっていた。落ち着きも出てきている。さくらを見るなり、顔いっぱいに笑みを浮かべた。「さくら、やっと戻ってきたか?公務がそんなに忙しいのか?」「この饅頭め」さくらはあかりの手を引きながら近づき、饅頭の胸板を軽く叩く。弾力のある筋肉の感触。「やるじゃない。一流の武道家の域に達したんじゃないの?」「一流か二流かは分からねえが」饅頭は誇らしげに胸を張る。「前より随分強くなったぞ。今なら、さくらと戦っても負けはしないかもしれない」「へぇ?」さくらの目が楽しげに輝く。「それは試してみないとね」「まぁまぁ、さくらに勝てるわけないでしょ」あかりが遠慮なく茶化す。「たった二百合で地面に転がされて歯を探すことになるわよ。ちょっと修行したくらいで天下無敵になれると思ってるの?恥ずかしい奴ね」さくらは二人の師兄妹が昔から口喧嘩が絶えないこと、特にあかりが饅頭をからかうのを楽しんでいることを知っていた。「ふん」紫乃が鼻を鳴らす。「昨夜も手合わせしたけど、まだまだ私の敵じゃないわよ」「手加減してただけだって」饅頭が恨めしそうな目を向ける。「本気なら、負けるわけないさ」笑い声を交わしながら屋敷の中へ。有田先生が既に食事を用意させ、梅田ばあやが直々に養生粥を

  • 桜華、戦場に舞う   第1239話

    三人が呼び入れられ、順番に叱責を受ける中、他の二人が平伏して罪を認める中、さくらだけが沈黙を守り通した。「よくもそのような言い訳を!」天皇の声が烈しく響く。「帝師の南風楼通いを知っていながら、事前に報告しなかった罪は重い」徹夜の疲れが滲む中、さらなる叱責に付き合わされるさくらの胸中にも、僅かな反発が募る。「では、もし私が事前に申し上げていたとして」さくらは静かに切り返した。「陛下は南風楼の摘発を取り止められたというのでしょうか」「摘発は断行していた」天皇の顔が朱に染まる。「だが……」言葉が途切れる。続きようがないことは天皇自身が一番分かっていた。事前に知らせてくれれば、と言いたいのだろうが、まさか密かに知らせを回すとは言えまい。そもそも、昨夜の出入りさえ確実でない状況で、帝師の南風楼通いを報告されても、誰が信じただろう。天下で最もあり得ない話ではないか。帝師という高位高官、万民の尊敬を集め、文人墨客の鑑とされる人物が、そのような場所へ?告げ口として一蹴されただけだろう。「それに」さくらの声が響く。「斎藤家ほどの大家で、これほどの従者を抱えながら、誰一人として帝師様の南風楼通いを知らなかったとでも?私は調査を任されただけです。誰が、いつ行くかまでは分かりません。そして、現場で見つかったのは帝師様だけではありません。貴族の子弟も、官僚たちも……」陛下が最も気にかけていた、かの重臣たちのことまでは、あえて口にしなかった。怒りに震える天皇に非を認めさせることなど不可能だ。「要するにお前の仕事が杜撰だったということだ。言い訳は無用」「承知いたしました。ただちに帝師様を」さくらは一旦言葉を区切った。「釈放いたしましょう」清和天皇の表情が一層冷たくなる。釈放?できるはずがない。全員二日間の拘留——自らが下した命だ。帝の威信は朝令暮改で保てるものではない。天皇はさくらを見つめ直した。先程の反論で冷静さを取り戻していた。確かに、彼女を責めるのは筋違いかもしれない。式部卿は広陵侯爵の告発を耳にしていた。真偽は定かではない。昨夜、父は何も語らなかったのだから。だが、今は釈放など許されない。「釈放するなら、昨夜のうちに裏門から密かに出すべきでした」式部卿は青ざめた顔で言った。「今となっては……」言葉が途切れる。禁衛府の

  • 桜華、戦場に舞う   第1238話

    ついに式部卿は立ち去った。その後ろ姿を見送りながら、さくらは思った。かつての颯爽とした式部卿が、今や首を引っ込めた亀のようだ。側室問題の時でさえ、これほどの落胆は見せなかったというのに。まるで雷に打たれたかのような様子だった。さくらは再度の見回りを終えると、睡魔も去り、山田鉄男を呼び寄せた。「上原殿はお戻りになられても。私どもで十分お守りできます」「丑の刻を過ぎているわ。大丈夫よ」さくらは首を振った。「外には名家の者たちが潜んでいる。彼らが騒ぎを起こせば収拾がつかなくなるでしょう。あなたには荷が重すぎる。それに」言葉を継ぐ。「陛下は彼らの面目を潰すつもりなどなかった。もし大騒ぎになって一人一人の正体が暴かれでもしたら、陛下への言い訳も立たなくなる」「確かに」鉄男は頷いた。翌朝、誰よりも早く現れたのは広陵侯爵だった。背中に荊を負い、涙ながらに告白する。南風楼は元々影森茨子の経営で、その失脚後は店を畳むつもりだった。だが斎藤帝師の意向で営業を続けた、と。つまり、広陵侯爵は手のひらを返すように、帝師を売り渡したのだ。彼が斎藤家を敵に回す道を選んだのは、羅刹国の密偵の件を知ったからだ。誰かが罪を被らねばならず、間違いなく自分が標的になる。帝師を巻き込むことでしか、一家の命は救えなかった。斎藤家の怨みを買う代償は大きいが、この供述により帝師は単なる客から、南風楼存続の黒幕へと変わる。そうなれば話は別だ。清和天皇は先帝の面目を考え、事態を収束させるだろう。斎藤式部卿が参内すると、清和天皇の怒りが渦巻く御前に迎え入れられた。硯が飛んできて、厚い衣服に当たった。痛みこそなかったが、その威圧に脚が震え、式部卿は崩れるように跪いた。「陛下、どうかお慈悲を!」広陵侯爵が外で荊を負い跪いているのは目にしたが、何を申し立てたのかは知らない。父の南風楼通いを白状したのだろうか。「父は一時の過ちを……どうか、お許しを」「愚かも甚だしい!」天皇の怒声が御前を震わせた。「斎藤家の所業は単なる愚行ではない。これほどの狂気とは!朕は幾度となく寛容を示した。見て見ぬふりをしてきた。それなのに影森茨子の商いを引き継ぐとは!南風楼に潜む羅刹国の密偵を、これほどの年月、匿っていたというのか」震え上がった式部卿は、天皇の言葉の真意を理解す

  • 桜華、戦場に舞う   第1237話

    斎藤式部卿は結局、部屋を後にした。正庁を通り過ぎようとした時、炉辺で暖を取るさくらの姿が目に入った。式部卿は彼女との対面を避けたかったが、足が勝手に中へ向かってしまう。ふと思った——もし彼女がここを見張っていなければ、たとえ陛下の逆鱗に触れようとも、父を連れ出していただろう。これ以上の恥辱は見たくなかった。「こんな遅くまで、お帰りにならないのですか」さくらの声が静かに響く。式部卿は霜に打たれた茄子のように萎れていた。生気のかけらもない。これほどの恐怖を感じたことはない。この扉を出た後に待ち受けているものへの恐れ。最初に来た時は交渉の腹積もりをしていたのに、彼女は何の見返りも求めようとしない。式部の要職にあって、権力のために策を弄する者たちの醜態を散々見てきた。だが彼女は、この機に乗じて自分の息のかかった者を送り込もうともしない。愚かなはずはない。清和天皇が北冥親王を警戒していることも、もし何かあった時、朝廷に味方がいれば助けになることも、分かっているはずなのに。思考が乱れる中、白粉を塗った父の蒼白い顔と、きちんと畳まれた派手な衣装が幾度も脳裏に浮かび、狂気すら覚えた。「上原殿は、ここで夜を明かされる?」取り繕うように尋ねる。「ええ、動きませんよ」「王妃様はお帰りになっても……」視線を逸らしながら言葉を絞り出した。彼女の目を直視する勇気さえなかった。さくらは式部卿を一瞥した。「私が離れれば、権力を笠に着て誰かを連れ出そうとする者が現れても、禁衛府には止める力などありませんから」位が一つ上というだけで人を圧せるのに、まして数段も上ければなおさらだ。式部卿の肩が落ちた。確かにそのつもりでいた。「式部卿だけではありませんよ。外にも虎視眈々と狙う者がいる」さくらは冷笑を浮かべた。「誰もが恥を避けたがり、禁衛府から連れ出そうとしている。ですが、私は陛下の勅命を受けています。陛下の命がない限り、誰も解放はしません。帝師様の件も、ただご高齢で体が弱く、牢獄が寒すぎるから、側室を貸し出しただけです」思惑を見透かされ、式部卿は一瞬たじろいだ。「上原殿のご厚意に感謝いたします」しばらくして低い声で言った。「もし汚れが気になるようでしたら、出獄後に椅子や机を全て取り替えさせていただきます」「汚れ?」さくらの

Jelajahi dan baca novel bagus secara gratis
Akses gratis ke berbagai novel bagus di aplikasi GoodNovel. Unduh buku yang kamu suka dan baca di mana saja & kapan saja.
Baca buku gratis di Aplikasi
Pindai kode untuk membaca di Aplikasi
DMCA.com Protection Status