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第1244話

Author: 夏目八月
さくらにもそれは分かっていた。今でさえ、事前に報告しなかったことで陛下の不興を買っている。帝師がここで息を引き取れば、部下たちも処罰は免れまい。

だが、どうやって事前に知らせろというのか。まさか斎藤家に使いを立て、南風楼の摘発があると伝えろというのか。

斎藤家が黙っているはずがない。帝師が南風楼に足を運ぶなど、誰が信じようか。そのときに帝師が否定すれば、さくらの方が故意に事を起こしたことになる。

「南風楼へ行くという選択をした以上」さくらは眉を寄せて言った。「発覚する覚悟もあったはず。向き合えないのなら、最初から行くべきではなかった」

さくらの言葉を受けて、式部卿は再び説得を試みた。半時間が過ぎても、帝師は口を開くことも、目を開けることもなかった。

式部卿が薬と水を飲ませようとしても、帝師は唇を固く閉ざしたまま。薬も水も口元を伝って流れるばかりで、一滴も喉を通らない。意識が朦朧としていた時の方が、まだ飲み込めていたほどだ。

さくらはその様子を見つめながら、帝師の死にたいという思いの奥に、深い怨みが潜んでいることを感じ取った。

なぜ禁衛府でなければならないのか。これほど多くの者を巻き込んで。式部卿が天皇陛下のお咎めはないと伝えても、一切の反応を示さない。

もうこれ以上の優柔不断は我慢ならなかった。さくらは式部卿たちを部屋の外へ出し、脇座敷に残された唯一の椅子を引き寄せ、帝師の前に腰を下ろした。

「私を恨んでいらっしゃるのですね?」

帝師は目を閉じたまま。表情一つ変えない。

「私を恨むか、それとも世の中を恨むか。でも、誰を恨むことができるというのです?」さくらは静かに、しかし力強く語り始めた。「我が国には禁じる律さえない。若い頃、結婚も子作りも望まないのなら、誰も強制できなかったはず。あなたが世間の風潮に従い、屈したのです。今になって他人を、この世を恨むなんて、滑稽とは思いませんか?」

「女性たちを見てごらんなさい。不平等な世の中を嘆くことはできる。何をしようとしても、帝師様のような方々から指図される。でも、彼女たちは諦めなかった。非難の声を浴びながらも、前を向いて歩き続けている」「でも、あなたは違う。自分の信念を持とうともせず、望む生き方のために少しの努力もなさらなかった。名誉も、高い地位も手放したくない。それなのに、世間の常識に背くようなこと
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