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第1276話

Author: 夏目八月
約束を得た青舞はようやく泣き止んだが、まだ指先は彼の衣を掴んだまま、その胸に身を寄せていた。

頬には涙の跡が残るものの、瞳の奥には冷たい嫌悪の色が浮かんでいた。先ほどの可憐な様子は微塵も残っていない。

この老いぼれが憎らしい。自分の美貌と身体を利用する者たちが、すべて憎い。

もう駒として扱われるのは疲れ果てた。誰一人として、真心など向けてはくれなかったのだから。

だが、他に選べる道などない。商人や職人に嫁いで辛い暮らしを送るなど、耐えられはしない。たとえ利用されようとも、これまでの贅沢な暮らしは確かに心地よかったのだから。

都を離れ、数日放浪ううちに悟った。自分は贅沢な暮らしから永遠に逃れられないのだと。

だからこそ、あの方が声をかけてきた時、一も二もなく承諾した。あの時点で、それが唯一の活路だった。

生まれのせいで、高門に正妻として嫁ぐことなど叶わない身。梁田孝浩は生涯愛すると口にしながら、結局何一つ道は開いてくれず、側室のままだった。

今思い返しても腹の立つ軟骨な男。

甲虎も所詮は孝浩と同類。賢い妻がいながら大切にせず、色恋に溺れて、なすべきことから目を逸らす。

三姫子に申し訳ないなどとは微塵も思わない。むしろ感謝されるべきだ。夫の本性を曝け出してやったのだから。

そう心では思いながら、口から零れる言葉は繊細で脆い。「義父の言葉が真実とは限りませんけれど、もしも本当なら……私たち三人で戦火を避けたいの。暮らしが貧しくても、甲虎様と坊やさえそばにいれば、何も怖くありません」

「ああ、何でも聞いてやろう」甲虎は更に心を痛めた。「本当に戦が始まれば、ここを離れよう。元帅の位など捨ててでも。だが心配するな。お前に辛い思いはさせぬ。手元には十分な金がある。どこへ行っても、贅沢な暮らしができるさ」

青舞は甲虎の胸に身を寄せながら、心の中で苦々しい思いを募らせていた。

あの方から言い付かった任務は、こんなはずではなかった。これは次善の策に過ぎない。

本来なら、兵の一部を率いて味方につけさせるはずだったのに。

だが、甲虎という男は全くの役立たず。かつての戦場での負傷が、すっかり度胸を奪ってしまったのか。謀反などもってのほか、羅刹国との実戦になったところで、戦場へ赴く勇気すらないだろう。

武将なら、影森玄武には及ばずとも、さすがにここまでの意気地
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